勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

最近ブログさぼりがちだったので、がんばって書きます。

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この手の宣言があまり好きではない。
 
というのも、「週に1本書いてアップすること」などの契約でもない限り、ブログ執筆は義務ではなく、したがって「さぼる」という概念も当てはまらない。
では何のために「がんばって」書くのか。
ブログの公開を楽しみに待っている人に向けて?
そんな人などいるのか?
実存するかもしれないが、自分から”そんな人がいるものとして”「がんばって書きます」と宣言するのは、過剰な自意識の発露ではないのか?
 
 
地上に立っている人には、大気から2000kgほどの圧力を受けているという。
その力がなければ我々は内部からの圧力に皮膚が耐えきれず破裂してしまうそうであり、つまり人間に限らず生物が生きていくには、何らかの、それもかなり強い圧力が必要なのである。
 
何らかの力を「ブログを継続して書く理由」としてみずから解釈しなければ、ブログはすぐに止まってしまう。
幸いなことに今の日本は経済的に豊かなので、「生きる理由」を自分の中で開発することなく、初期設定として持つ最低限のエネルギーを保ち、エネルギー保存則に従って生き続けることはそれほど難しいことではないだろうが、それとは異なる生き方を目指そうとするならば、それに適した圧力が必要となってくる。
そしてそれは、だいたい自分で設定もしくは発見もしくは開発もしくはでっち上げなければならない。
他人のそれを面倒見てくれるような親切な人などいないのだ。
 
どういった圧力を自らに課すことが適切だろうか。

俺も昔はかわいい子供だったと判明した

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俺は物を覚える能力が低い。
名刺交換をした1分後にはその人の名前を忘れているし、今日の昼に何を食べたかなどは当然覚えていない。
それどころか、俺には10歳より前の記憶がほとんどない。
 
テレビでお笑い芸人が幼少期のエピソードを披露して笑いをとっていたり、何かの本で著者が「現在の価値観は幼少期のころに構築されて、それがあっていま大成功を収めています」といった話を書いているのを読んだりすると、小さい頃の記憶が失われていることを口惜しく感じていた。
 
昔の記憶を取り戻すにはどうすればいいのか。
写真や映像、文章など、当時の様子がわかるものを見返せばいいのではないか。
そう考えた俺は、前回の年に1度の帰の際、親に幼少期の写真をもらうようにリクエストした。
 
パソコンとか機会が苦手だったはずの両親は、最低限の知識を最大限活かして写真をデータ化しており、スムーズにデータを受け取ることができた。
写真は0歳のころから12歳くらいのころまでのもので、200枚ほどあった。
この歳まで自分の昔の写真を見たことがないのもおかしな話だが、それ以上にはるかにおかしな話だったのが、200枚の写真を見てもなお、一切の記憶がよみがえらないことである。
おそらくだが、すべての記憶が残っている人であれば、200枚の写真をすべて見るには相当の時間がかかるはずだが、俺は常に「これいつだろうわからん」「これ何の時?わからん」「この横にいる子だれだろう?知らんけど」といった感じなので、すぐに見終わってしまった。
 
ただ写真集からひとつわかったことが、どうやら俺は10歳を迎える前くらいまでは、明るく無邪気でかわいい子供だったようだ。
それはもう、今のような仕上がりが想定できないくらいに。
であれば、10歳くらいのころに人格形成に影響を与える何かしらの出来事があったのだろうと考えるのが自然だ。
しかしそれが何だったのかがわからない。
親に聞くのも気恥ずかしいし、たぶん親もそれが何かわからないだろうし、もはや迷宮入りである。
謎を解明しようとしてした行為が、逆に謎を深める結果となった。
俺に限らずどんな人でも、たとえどんなクズであっても人でなしであっても、子供のころは無垢だったはずで、今その人がクズであり人でなしなのは何らかの外部要因に起因するものだろうから、その人自体を恨んだり憎んだりしてはいけないのだ。

承認欲求および自己実現について

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こんな世の中にとって一切無意味かつ無価値なブログを読んで人生の時間を無駄にしている人たちは知らないかもしれないが、有名な心理学の理論で「マズロー欲求5段階説」というものがある。
 
カンタンにいうと
人間の欲求には、
「生理的欲求
「安全・安定の欲求
「社会的欲求
「承認欲求
の5段階があり、低次の欲求が満たされていくと、高次の欲求が湧いてくる
という内容である。
 
この理論が様々なところで言及、応用され、現代に至るまで通用していることに、さすが昔のえらい人は卓越した洞察と分析をしとるなぁ、と感嘆、その爪の垢を煎じて飲ませてほしいと思う一方で、偉人といえどやはり人の子、完璧であることなどあり得ないとも知るのである。
 
なぜか。
マズローは人間の大きな欲求を、ひとつ見落としているからにほかならない。
 
では、マズローが見落としている欲求とは何か。
それは、チンポジである。
 
女性の方にはわからないだろうし、わかる術もない、わかりたくもないだろうが、男性にとってチンポジは非常にセンシティブかつナイーブな問題である。
 
「ん、チンポジが悪いな今」と思ってもすぐに修正できる場面であれば問題ないが、そうでもない状況、例えば衆人環視のシチュエーションなどでは、悪いポジショニングのまま過ごさなければならず、これは相当に集中力を削がれることなのだ。
 
会議の内容などちっとも頭に入ってこないから、突如意見を求められたときに、これまでの話の経緯がわからず素っ頓狂な回答を連発、仕事ができないボンクラというレッテルを貼られて解雇、なんてことになったら一大事だし、デートの会話も全然覚えていられないから、彼女から「私の話、聞いてないでしょ!」と愛想を尽かされてしまっては大変だ。
 
チンポジが整っていないと、「社会的欲求」など満たされるはずもないのである。
 
 
と、ここまで書いて気がついてしまったのだが、マズローチンポジ問題を見落としていたわけではなかった。
それは「安定の欲求」で、きちんと考慮されていたに違いない。
チンポジを含めた安定、それが満たされて始めて「安全・安定の欲求」がコンプリートされるのだ。
さすがマズロー
 
しかし最近つくづく思うのが、チンポジの悩みがクリアされると、より高次の欲求が出現するわけだが、その高次の欲求というのが、とても重い。
「社会で必要とされたい」とか「あるべき自分になりたい」なんて欲求は、充足が非常に困難な欲求であるし、その欲求をバリバリに全面に押し出している人は正直けっこうめんどくさい。
むしろみんながチンポジで悩んでいるレベルでとどまっている方が平和なのではないかと思うが、これは文明の否定になってしまうのだろうか。
俺自身では、最近購入したパンツの性能が優れていることでチンポジの悩みはほとんど解消されたが、それによって表れたより高次の欲求によって悩まされ、むしろ人生の幸福度は低下してしまっているかもしれないと感じるのだ。

「座右の銘」が必要になる時

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小室圭さんが一般人から一躍時の人となり、メディア対応などいろいろ大変そうだなぁ、と思っていたところ、先日の記者会見でこんなやりとりがあったようだ。
 
記者:好きな言葉ですとか、座右の銘があればお聞かせください
小室さん:それについては、今は申し上げることはできませんので、控えさせていただきたいと思います

 

「今は言えない」という言葉には、
  • どうして“今は”言えないのか?
  • いつになったら言えるようになるのか?
  • 言えない座右の銘とは、いったいどのようなものなのか?
  • 「言えなかったものがあるタイミングから言えるようになる」とは、いったいどういうことなのか。座右の銘を発表するにもいろいろ各所との調整が必要になってくるのだろうか。
  • それとも、座右の銘まで与えられたものを使わなければならないような立場になってしまったのか。
など、様々な疑問や憶測の余地があり実に味わい深い言葉であるが、実際、俺が同じ立場に置かれたとして(これは「眞子さまと婚約したとして」という妄想と同義であり、そう思うと常軌を逸しているが…)、同じ質問をされたら即座に答えられるかというと、そうはいかないだろう。
なぜなら、普段俺が座右の銘を意識して生活をしていないからである。
 
しかし、小室さんがそうであったように、俺だって世の中での知名度が一夜にして0%から100%になることも全くない話ではない。
そんな場面に備えて、俺も座右の銘を考えておくべきだという考えに至った。
 
現代人の悪癖のひとつだが、座右の銘を考えようと思うと、条件反射的にインターネットで検索をしてしまう。
すると、出るわ出るわの「おすすめ座右の銘30選」の類のまとめ記事。
これまで数々の先人が発表しており、今から自分の座右の銘を考えようとする人にとっては、「カタログから選ぶだけ」感覚で手軽にマイ座右の銘を持つことができるようになるのだ。
 
ちなみに、「座右の銘」とは

いつも自分の座る場所のそばに書き記しておいて、戒めとする文句。(大辞泉

という意味である。

 
さて、俺もカタログから選ぶのでもよいのだが、折角の天から与えられた機会であるから、100%オリジナル、DIY精神あふれた自作座右の銘にしたい。
選ぶなんていつでもできる。
 
まず必要となるのは材料となる概念である。
俺は普段どういう思想信条で生きているか、それを抽象化、概念化、言語化し、一言でバシッと伝わる機能的かつクールな座右の銘を作り上げるのだ。
 
そこで、俺は普段何を考えていたか、思い返してみた。
 
・・・
 
麻雀したい
寝たい
本を読みたい
めんどくさい
酒飲みたい
ダム見たい
宝くじ当てたい
尊敬されたい
おっぱい揉みたい
不労所得がほしい
 
どれもこれも、座右の銘として明かすには恥ずかしい、カスみたいな概念というか、ただの欲求であって、このアプローチでは何年かかっても座右の銘には到達することはない。
 
ここから異なる手法を考えてみたが、すでにカラッカラになるまで全力で絞りきった雑巾を再度絞ったからといって何も出てこないのと同様に、俺の発想は先のカスみたいな概念の羅列ですでに枯渇、 いくら考えてもなかなか思いつかず、このままでは俺の座右の銘もなし、このブログも没になってしまうので、「今年の目標は、座右の銘をつくること」として、とりあえずは終わりにしたいと思う。

人生をムダにしないために、知っておくべきこと

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というタイトルの本やネットの記事がをとても頻繁に目にする。

これは当然、ムダにしたくないと思っている人がいかに多いかの裏返しである。

そして、この答えには多くのバリエーションがあるが、ムダにしまくってきた俺だからこそ最近気がついたことがある。

 

 

俺が前にいた会社に異業種から転職しようかどうか悩んでいるという女性を紹介され、話を聞いた。

いざ話を聞いてみると、「どういう点がしんどいのか?」「残業や休日出勤はどれくらいあるのか?」というのが主な”悩み”らしい。

俺は「そんなにイメージが悪いのか広告業界は」と、前にいた業界に対する世の中からの風当たりの強さを嘆いた。

しかし、「実際は残業なんてほとんどないし、休日出勤なんて年に1回あるかないかくらいですよ」なんて言えば嘘になる。

「ありのままの姿をみせてしまっては、いまこの瞬間に広告業界への志望者を1人減らして業界縮小につながりかねない、いま俺に求めらているのはオブラートに包む心」と考えた俺は、「最近は変わってきてるみたいですよー」と、ほぼ何も言っていないに等しい回答をした。

と言いながら「残業がないとか休日出勤とか、そんなに気になるか?」と本心では思ってしまった俺は随分ブラック企業に毒されてしまっているのだろう、と、その時は思っていた。

 

後日その人含め3人で、転職の相談関係なしに酒を飲んだ。

全員30代半ばで、結婚とかまったく興味がないという女性(相談に乗った女性)、結婚とかまったく興味がないという男性、バツイチの俺、という、世の中的にはダメ人間の集まりでしかなかったが、その3人で、「結婚観」についての話題になった。

 

「結婚にまったく興味がない」というその女性は、同時に、「どうしても結婚が嫌というわけでもない」と、一見矛盾した考えを露わにする。

どうして結婚にまったく興味がないのかと尋ねてみると、「今の独身生活に不満がない」のと、それ以上に、「失敗した時に失われるもの、特に時間、が大きすぎる」かららしい。

 

そうすると次に、「結婚しないことで失われることなく使うことができる時間を、いったい何に使うのか」という疑問が生まれるが、どうやら旅行とかおいしいものを食べたりとか、そういうことに使うようだ。

 

俺はそれを聞いて、つい、「しょうもな」と思ってしまった。

いや、たぶん口に出してしまっていた。

結婚に失敗し、協議や手続きなど婚姻関係の解消に多大なる時間を費やしてしまった未来と、そんなことに時間を費消することなく有意義に休暇を消化、海外旅行、日本では見ることのできない風景を目の当たりにしたり、外国人と交流をしたり、おいしいものを食べることができた未来、その2つの間にいったいどれほど大きな差があるのか、それなのに、残業したくないとか休日出勤したくないとか結婚でムダな時間を使いたくないとか、いったい何を言っているんだ愚か者が、そう思ったのだ。

どれだけうまいものを食べてもその味覚は数時間後には失われているし、どれだけ美しい風景を見ても1週間も経てば記憶から消えてしまうのに、これらを経験することが果たしてそんなに大切なことなのだろうか。

 

就職してからの人生を指して「懲役50年」と、さらにアグレッシブに言えば、生まれてからの人生を「終身刑」と冷笑を込めて表現することが世の中ではよく見られるが、死ぬまで刑務所にいるのならば、そこがどれだけ快適であっても、不快であっても、苦痛であっても、退屈であっても、あまり変わりはない。

なぜならそこは刑務所だから。

一時的にバリ島にいても、徹夜で残業をしていても、どうせ戻る先は独房なのだから。

 

人生を懲役のように解釈するのは、人生で起こるつらい出来事に対する抗体を自分の体内に作り出す、いわば防衛本能のようなものであり、アプローチこそ違えど、根本となるコンセプトは宗教と似ているのではないだろうか。

つらいこと耐性ができた結果、つらいことに身体が反応しなくなるのは当然の帰結である。

 

しかしみんな、「私の人生は私だけのもの、プライスレス」という考えを大切にしたいし、「私らしく輝きたい」と願っているし、そういってがんばっている人は輝いているから、「しょうもな」いのは彼女ではなく俺の方である。

「つらいことを剥き身のままつらいこととして受け止める」のが、「人生をムダにしない」コツだと思う。

俺はそんな強靭な心を持ち合わせてはいないので、それができる人はがんばってもらいたい。 

「二流」「三流」とかいう記事、多くないすか?

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最近、インターネットで
「一流の人が絶対にしないなんとか」
「二流の人と一流の人の、なんとかでわかる違い3つ」
「一流はこうして、二流はこう、で、こうするのは三流のおっさん」
などといったタイトルの記事を頻繁に目にする。
 
領域を問わず、「一流」と呼ばれて嫌な気がする人なんていないし、それは俺だって同様。
「一流」になれば人からの羨望も集まるだろうし、なんせ、仕事を依頼してくる相手から「一流」と認められれば、懐に入ってくる金員の額が跳ね上がるはずである。
「一流に近づくために何をすればいいのか書いてあるのん?」と期待して、俺はその手の記事をいつも開いてしまうのだ。
 
しかし残念なことに、「一流の人はこんなことしない」「こんなことをやっている奴は二流、三流」と書かれている項目の大半は、俺の現在進行系の習慣、行動様式にがっつり当てはまっており、「一流と二流の差を教えてくれる、親切な記事」は、いつの間にか「俺を二流三流と断定する、容赦ない人でなし、鬼畜」に、姿を変えているのである。
 
そんな親切なおじさんの皮を被った鬼畜に何度も期待を裏切られながらも、「これは一流になるための試練」と勝手に自分を奮い立たせ、「二流がしないなんとか」といったその手の記事タイトルを見つければこれを敬遠することなくアクセス。
しかし毎回、記事を読んだ後に思い知るのは、「俺は二流、三流である」という、紛うことない事実。
俺は、「一流」という言葉の希望に身を焼かれながら記事タイトルをクリック、そしてその先の記事内容で打ちひしがれてブラウザーをそっと閉じる、この一連を繰り返すパブロフの犬と成り果ててしまった。
 
ここで、俺が敬愛する漫画家・福本伸行先生作の『天』に出てくる名セリフを、この手の記事に毎回つられる俺自身に、「俺→インターネット(世界中)→俺」というえらく遠回りなルートで、おくりたいと思う。
いいじゃないか…! 三流で…!
熱い三流なら 上等よ…!

というわけで、あしたから熱くがんばろう。

60歳をすぎても平常心で研修を受けられるような人になりたい

 

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3年ぶりに運転免許を更新してきた。
4年前にまるで罠かのように存在した車線変更禁止で引っかかっていたため、ゴールド免許ではなく、一般の講習。
 
免許試験場で撮られる写真は、どうしてああも人相が悪くなるのか。
それはさておき、試験場での話。
 
東陽町の免許試験場に行ったら、日曜日だけあって人が多い、4列にわかれて行列ができている。
試験場に入ってくる人を次々と行列に案内し、「更新のお知らせはがきを用意しておいてください」とアナウンスする職員の男性。
見かけから判断して、おそらく年の頃は60を過ぎているのではないか。
 
「ほーん、まあもうすぐ定年など存在しないことが当然になり、俺らの時代には70すぎてもこういう風に働いてるんやろな…」と思いながら、誘導されるがままに列に並ぶと、あるものが目についた。
その人の左腕には、「研修中」と書かれた腕章がつけられていたのだ。
それを見て、このおっさんというかじじいというか男性といっておくべきか、について、ふと思う。
 
研修とは普通は新人が受けるものであって、それを現在受けているこの人は、年齢に関わらずおそらくこの職場では新人なのであろう。
本人が望んで新しい環境に身を投じたのか、それともそうせざるを得ない状況に陥ってしまったのかは知る由もないが、俺はこのおっさんを見て、「かっこいい」と思ってしまった。
というのも、人間は歳を重ねるにつれて自尊心も肥大化し、「この俺がどうして見習い扱いされなければならんのか。なめているのか」と思い、ひいてはそのとおりの発言をし、ひどいケースでは暴れたり帰宅したりしてしまうものだからだ。
ところが「研修中」の腕章をつけるという行為は、「私が至らぬのは、それはこの職場において新人、見習いの立場であり、それを予告しておきますから何卒ご容赦ください」と言っているのと相違なく、このおっさんは人間の摂理に真っ向から立ち向かっていると言える。
「研修中」という腕章をつける60歳すぎのおっさんや、つけさせる職場はなかなかパンクではないか。
 
もっとも、最近はAIだかなんだかの誕生で、これまで成立し得た職業がバンバン廃業に追い込まれる時代になるはずだから、パンクというか、こっちの方が求められる主流な考え方になってくるだろう。
 
新人として生き、新人として死ぬ。
そういう大人になりたい。
 
でも、金には困りたくない。