勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

ワークライフバランスの両立とか働き方改革なんて存在しない

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最近は働き方改革という言葉がよく出回っている。
実際、長時間かつ理不尽な労働を従業員に強いるブラック企業なるものが跋扈し、一度そんなところに入社してしまったものなら、肉体、精神は蝕まれ不幸のスパイラルに陥ってしまうケースも多いらしい。
加えて、インターネットを使ったコミュニケーションツールも進化し、「リモートワーク」といって会社に出社せずともバンバンしゅんしゅん仕事をこなしていくことも可能になった。
出社時間やムダな会議を省き、勤務時間の短縮にも繋がっているとかいないとかいう話を聞いたこともある。
つまり、世の中が総出で
「会社になんか行くのやめてネットで仕事すればいいじゃん」
「労働時間なんてどんどん短くしていけばいいやん」
という歓迎すべき機運、ムードになっているのである。
そもそも仕事なんてしないで済むに越したことはないんだし。
 
しかし先日、俺にとってこの機運をぶち壊す出来事があった。
 
 
何を隠そう、私は「LINEツムツム」というスマホで遊ぶゲームをやることがある。
一時期は隙きあらばすぐツムツム、といったくらいにツムツムをやることが常態化していたのだが、ある日を契機に全くやらなくなった。
ツムツムに真剣に向き合っている時間を、空虚なものに感じてしまったのだ、それも突然。
「断ツムツム」としたのである。
 
先日、ふと1年ぶりくらいにツムツムアプリを開いた。
いや、1年ぶりか何年ぶりかもうわからない、それくらい「断ツムツム」中、俺はツムツムのことを忘れていた。
悪魔との再開だとも気づかずに。
 
久しぶりのツムツムプレイに、俺はいくばくかの練習期間を必要としたが、すぐさま感覚を取り戻し、1000万点以上のスコアを叩き出した。
ツムツムをやる人には理解してもらえると思うが、これはかなりのハイスコアである。
実際俺にとっても、これまでの自己最高を塗り替えるスコアだった。
 
ハイスコアを出して得意気な俺は、スコアランキングを見て愕然とした。
1000万点を超えている俺は、ランキング1位になったのだが、2位には600万点くらいで、某番組でいっしょにやっているディレクターがランクインしていた。
他にも、仕事で関わっている人が何人かがランクイン。
ツムツムのランキングは週1回更新されるのだが、この週、このディレクターはVTRの出来が悪くかなり追い込まれていたはずで、そのロケの仕込みやVTRの修正などでとてもツムツムどころではなかったはずである。
そんな合間に600万点、何やってるんだこいつは。
 
そう思った直後、俺は反省、自戒した。
「俺自身が最もそう思われる場所にいる」ことに気がついたのだ。
本来、ツムツムのスコアとその人の閑暇には何の関係もないのだが、実際にランキングを見ていると、どうしても「高スコアを出しているやつ=暇人」のイメージが拭いきれない。
職場でツムツムのハイスコアなんて出している場合ではないのだ。
 
 
それにしても、おそろしいのはLINEである。
 
コミュニケーションツールとしてあまりに普及してしまったため、個人的な範囲にとどまらず職場や仕事関係の人とつながったり、実際にそれを使って業務連絡をやりとりすることになるケースも多いかと想像する。
それだけであればまだよかったのだが、ゲームにまで関連してしまっている現状では、リモートワーク、ひいては働き方改革など、まだまだ夢物語ではないだろうか。

仮想通貨と「労働意欲とは何か?」という話

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最近よく、仕事関係の人から
「お前ビットコイン(仮想通過全般の意で使われている)持ってるの?」
と尋ねられる。

聞いてくる人に共通する思惑、魂胆は
「仮想通貨でボロ儲けしている人を周囲で発見、その要領、秘訣を聞き出し、応用、自分も今後働く必要もないくらいの金員を儲け、実際に働くのをやめる」
のが理想らしい。

そのことは、俺が
「(仮想通貨は)持っていません」
と返答したら、後にだいたい
「なんだよーやってねーのかよ。誰か知りあいで億とか儲けた人いないの?」
と続くことから推し量れる。

 

実際、仮想通貨に代表されるビットコインは、直近1年間に限っても10倍以上の価値になっており、億単位の儲けを出した「億り人」なんて言葉も誕生、「俺も億儲けてさっさと引退したい」という思いも、単なる妄想の域を超えた現実味を帯びているように思える。

 

金融資本主義が発達してから、労働の意義は相対的に低下していたが、それでもまだ価格は労働(が将来的に生み出す価値)と結びついていた。

しかし、仮想通貨はもはや、労働との関連性はない。

俺には経済的な知識がほぼないので適切な表現かどうかわからないが、印象としてはより単なる数字あわせ、ゲームに近い。

そんな仮想通貨によって「1万円が数億円に」なんて一発逆転、リアル「カイジ」のような社会が現実となりつつある中、我々は労働の意味を再定義せざるを得ない。

 

俺が考えるこれからの労働に対するイメージを先に言うと、「一攫千金即リタイアを仮想通貨で実現するための種銭稼ぎ」である。

 

今までの社会では、死ぬまでに必要な金を稼ぐためには、一部の資本家や経営者などを除いて、定年まで働かなくてはならなかった。

労働市場では、一度ドロップアウトしてしまうとなかなか復帰が難しいため、相当の厳しい環境であっても逃れることができず、また、歳を重ねるにつれてより高いスキルが要求されるため、労働者はスキルの研鑽という苦行に耐える必要があった。

 

しかしこれからは、仮想通貨という名の賭場に行き一発当てれば人生ゴールも夢ではなく、労働はその種銭稼ぎでしかないわけだから、何も我慢することはない。

「キャリア」の呪縛から逃れ、嫌な仕事など直ちに離れ、コツコツと黙々と淡々と貯金、ゴールチャンスが来るのをじっと待っていればいいのだ。

 

当然、ゴールは決まらないことの方が多い。

外してしまえば、また一から種銭の充填をやり直せばいいだけの話だ。

当たった者から労働の呪縛から一抜け、先立つ者がうらやましくても「次は自分の番だ」と思えれば仕事の辛さにも耐えられる。

どれだけ頑張っても定年まで続く気が遠くなるような会社員人生に比べれば、どれだけ夢がある話だろうか。

 

今後、ますます労働に対する信仰は失われていくだろう。

 

俺のフラット化と現実離れ

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『フラット化する社会』という著作が昔ベストセラーになった。
10年以上前に発表されたこの本は、インターネットによって情報が物理的な距離の障壁を越え、あらゆる産業がグローバル化、フラット化する、と、まさに今の世界の状況を予見した名著だと思うが、俺は読んでいないので、おそらくそんな内容だったんだろうと推測する。
 
発売当時俺は本のタイトルと帯だけを見て、「あーなるほどねー先見の明とはこういうことを言うんだなあ。俺にもそれがあれば、時代に先回りして銭儲けができるのに」と思ったものの、本の物理的な厚みと、労働がどうした経済がどうしただの、表紙から漂う内容の意識の高さを敬遠して、手に取ることはなかった。
しかし最近になって、10年遅れでやっと俺にも、「あーたしかにフラット化やね世界は」と肚の底から思えるような感覚が何度もあり、フラット化前線の到来を身をもって体感している。
これぞ先見性のなさ。
 
 
最近頻繁に「若者の○○離れ」が話題に取り上げられている。
○○には、テレビや酒、車、旅行、恋愛、ガム、ギャンブル、お茶など様々なものが当てはまり、この手の話題があがるたびに「近頃の若者はどうなっとるんだ!?」と嘆く人が現れる。
俺はそういった言説に対してどう思っているかと言うと、基本的には「そらそやろ。当然そうなるやろ」と思っている。
「若者」というには俺は歳を取りすぎてはいるが、自分の体験としてそう思うのだ。
 
つまり、実際に俺もいろんな○○から離れまくっており、その原因がインターネットやバーチャルリアリティの発達による自分の欲望の低下にあることを、実感しているからである。
 
いろんなものの発達によって、我々はいつでも、
遠い国の美しい風景を目の当たりにすることができるし
10年に1人レベルの高校球児を育成することができるし
レアルマドリードと対戦することもできれば、レアルマドリードになることもできるし
金メダリストにもなれるし
悪い奴から宇宙を救うヒーローになることもできるし
超いい女とセックスできるし
富士山の頂上まで行くことができるし
美少女な戦国武将を育てて野球で天下統一することができるし
家にいながらなんだってできるのである。
 
そんなものだから、趣味がなんだとか夢がなんだとか、あの人がうらやましいとか、翻って俺の今置かれたこの悲惨な状況は何だ、とも思わなくなる。
だって俺は万能だから、非現実の中でだけは。
そして陰にも陽にも感情の振れ幅が小さくなり、「フラット」になってくるのだ。
先進国と発展途上国の経済とか技術がフラットになってくるとかそういう難しいことはよくわからないが、俺の「フラット化」はここにある。
 
こういう状況に対して、「それは現実から逃亡だ」と非難する人もいるが、逃亡できているうちは逃亡していていいと思うし、むしろ今後の技術発展は、さらに逃亡の幅を広げ、より現実に近い非現実を提供する方向に進むだろうから、みんなばんばんフラットになっていって、何も思わぬ人で世界は埋め尽くされるようになるのであろう。

ものの寿命についての考察

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先日街頭を歩いていると、いきなり右足首から我が家の鍵が出てきた。

なぜ鍵が足から出てくるのか。

こんな感じで足首からじゃんじゃん家の鍵を出すことができるのならば、俺の足は黄金の右足であるに違いなく、もっと鍛錬を積んで好きなものを好きなときに出すことができる右足首にしたいものだ。

そう思って歩行を泊め佇んでいると、なんてことはない、ジーンズの右ポケットに穴が開いており、そこから鍵がこぼれてジーンズの内部右足をつたって落下、裾から出てきたのを、「俺の右足が鍵を産んだ」と独り騒いでいただけのことだったのだ。

 

それに気がついた時、俺はひどく落胆した。

落胆しました。

理由は、俺の右足が黄金でないことが判明したこともあるが、そんなことよりも重要なのは、その時履いていたジーンズが愛用していたものだったからである。

黄金の右足を気がついたら俺が持っていた、なんていう奇跡はそうそうない。

そんなことに浮かれることなどないくらいには、俺は現実的である。

 

そう、重要なのは愛用のジーンズ。

みかけに大きな損傷もなく、履き心地も依然としてよく申し分なかったのだが、右ポケットに穴が開いていると、家の鍵を紛失してしまうかもしれないのだ。

今回は運良く右足から出てくるところを発見できたが、次回もそううまくいくとは限らない。

歩いているうちに鍵が右足から出ていき、気がついたときにはどこで落としたかわからない、なんて事態になったら超困る。

 

じゃあ左ポケットに鍵を入れることにしたらええやん? はい解散、解散。

そのように指摘する御方もいらっしゃるかもしれないが、これまで20年以上、家の鍵を右ポケットに入れ続けてきた俺が、急に鍵を入れるポケットを左に変更することは、困難を極める。

そんなこと簡単なことだろう、と思うかもしれないが、これが継続、習慣の恐ろしいところで、今までの方法に慣れていればいるほど、転換は難しいのだ。

大企業が自社のビジネスモデル崩壊を認識していながらも、これまでの成功の幻想に囚われそれを放棄できないこと、蛙が水温を徐々に上げていくといつのまにか茹で上がってしまうことと同様である。

ジーンズの茹で蛙

ポケットの死。

 

ならば、右ポケットを裁縫、開いた穴を塞げばよろしい、そう指摘する人が次に現れるだろう。

現れないかもしれないが、現れるんじゃないかと俺は思う。

しかし、すべての人には得手不得手があり、俺でいうと裁縫が一切できない。

他にもトマトが食べられない、字が汚い、料理が一切できない、記憶力が乏しい、短気、人の心が理解できない、などなど、いろいろあるが、欠点があるからこそ人は魅力がある。

ともかく、裁縫ができないから右ポケットの穴を塞ぐことができない。

 

以上から何が言えるかというと、あくまで俺にとって、ではあるが、このジーンズの寿命は終わっている。

鍵を入れるポケットを変更する柔軟性または裁縫能力があれば、ジーンズの寿命は数倍にも延びるはずで、もったいないことこの上ないが、仕方がない。

 

 

ある日、新調した眼鏡をかけて出社したところ、上司や同僚からそろって「変な眼鏡だ」「変な眼鏡をかけていることで、顔全体が変だ」と一笑に付された。

当然、俺は落胆した。

眼鏡なんてそうそう破壊されることのない、ものの寿命としては5年、それ以上の間使用できるはずだが、この日を持って、俺にとってこの眼鏡の寿命が終わってしまった。

俺にとってはそこそこ高級な眼鏡で、清水の舞台から飛び降りる気持ちで奮発、購入したものにも関わらず、である。

 

先のジーンズ理論で考えれば、顔の組成を変形すなわち整形することで眼鏡にジャストフィットした顔になる、もしくは、「変な顔をしている」と言われても一切気にせず「変ですが何か?」と堂々としていられる強靭な精神を持ち合わせていれば、眼鏡の寿命は数百倍に延びるのだが、これも両方とも俺が不得手とするところであり、もったいないが仕方ない。

 

 

ジーンズや眼鏡のようなとても物質的なものですら、それを使う側の人間の受容性によってここまで寿命の長い短いが左右されてしまうのだから、ものの寿命とは不思議なものだ。

 

とここまで考えた後、俺の寿命はどれくらいなんだろうか、とふと考えてしまったが、それを本気で考え始めると暗澹たる気持ちになるに違いないので辞めた。

世界の捉え方は四者四様である

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喫茶店の席に座っている。
対面には60歳前後のおっさんが座っているのだが、このおっさんがいわゆる「あっちの世界の方」である。
 
「あっちの世界の方」というのは俺が勝手にそう呼んでいるだけなのだが、皆さんも一度は見かけたことがあるのではないか。
往来で誰に対してでもなく宙に向かって延々と話しかける、いきなり演説を始める、駅で駅員さんの真似事をする、など、一見奇異に思える行動をとる人のことである。
尋ねてみたことがないので定かではないが、おそらく彼らには彼らなりの世界の捉え方があって、その範囲内で自分自身のことを正常と思っているが、その世界が周囲とズレまくっているために、周囲からは奇人と見られてしまうのだろう。
 
いま俺の対面に座っているおっさんは、相当レベルの高い「あっちの世界」の人で、右手には聖書を持ち、左手で何かを呼ぶかのように手招きのごとく上下左右に動かしながら、ブツブツ何か言っている状態がかれこれ30分以上続いている。
 
隣に座っていた28歳くらいの女性は、おっさんの奇行に気がつくと顔色を急変させ、店で購入しまだ大半が残っているコーヒーのカップをうち捨て、店を出てしまった。
 
その後空いた席には、何も知らない22歳くらいの男性が座った。
「あぁ、彼もすぐおっさんの非常識的な言動に恐怖を感じ、すぐに店を出ていってしまうのだろうなぁ」と俺は当初高をくくっていた。
しかし、一人目の女性と彼の違いは、彼は耳にイヤホンを装着しおそらく何らかの音楽を聴いていたことで、その音楽であろうものが、彼がおっさんの奇怪な言動に気がつかないように妨げている。
 
つけあがったおっさんは、かばんからギャッツビーのボディーシートを取り出し、まずは聖書をピカピカにした後、自らの顔、脇、腹、足と、次々とまるで入浴かのように拭いた。
その間ももちろんブツブツ何かを言い続けるのは止めずに。
しかしこれでもまだ、推定22歳の男性はおっさんの異常に気がつかない。
それほどまで彼が聴いている音楽が爆音なのか。
それとも、彼もまた「あっちの世界」の人なのだろうか。
わからないが、俺はおっさんが気になって店を出られない。
そして俺の隣に座っている30歳くらいの男性は、おっさんとの距離的におっさんの狂逸に気がついていない訳がないのだが、ひたすら無視を決め込んでいる。
この男性も「あっちの世界」の人なのだろうか、それともここ新宿という土地では、このようなおっさんとの遭遇は日常茶飯事、取るに足らないことなのだろうか。
 
おっさんに対する反応は、四者四様である。

洗濯物に修造イズムを学ぶ

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前回に続き、服の話。

それも洗濯の話。

 

先日、洗濯をした。

おそらく多くの人と同様のやり方、スタイルで、汚れた服を全自動洗濯機に放り込み、定められた量の洗剤を投入、全自動で洗浄から脱水まで行う設定でボタンを押下し、あとは終了するまでほったらかし、という手法である。

この日も慣れた手つきで上記の手順を行った。

いつもと同じである。

ただいつもと違ったのが、中の3着に、限りなく黒に近い青色の着色が広範囲についていたことである。

毎回服の汚れを着実に落としてくれていたはずの洗濯機なのに、こんなふざけたことがあるものか。

いったい何があったというのか、さてはこれまで従順だったはずの洗濯機が所有主である俺に謀反、反逆を起こしたというのか。

と思って洗濯機のメーカーに文句を言ってやろうと思っていたところ、洗濯物の山の中からボールペンを発見した。

どうやら、これを胸ポケットに差したまま洗濯機に投入してしまったらしい。

そう言われてみればたしかに、いや部屋には俺独りで誰も何も言っていないが、被害が最も甚大だった服は胸ポケットのところが中心にどど黒くなっているし、1週間ほど前に俺はこの服の胸ポケットにこのボールペンを指し、当然抜き取っていたものだと思っていたが、そのボールペン自体を紛失していた。

あちゃあ俺のミスじゃん失態じゃん、それをなに洗濯機のメーカーにクレーム入れようとしてんだよ俺は、まったくとんだ赤っ恥をかくところだった、そう思って一安心したのも束の間、大変な事態に俺は気がついた。

 

それは、この服に沈着した限りなく黒に近い青のインク跡が、いくら石鹸や洗剤を大量に使用しても、熱心に擦っても、一切落ちる気配がないことである。

これはまずい。

被害を受けたのがたった3着だったことは不幸中の幸いではあるが、最小限の数の服で日々のローテーションを組んでいる俺にとっては、それでも貴重な戦力だった。

その上前に書いた記事のように、俺は洋服を購入するのが極めて不得意であり、この3着を放棄して新たに同数を購入するのは至難、また百貨店に行って多すぎる選択肢に圧倒され途方にくれて気絶するしかないのだ。

suzuki1001.hatenablog.com

 

ところが、「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉があるように、世の中には漂白剤という便利なものがある。

それを思い出した俺は、直ちに薬局がドラッグストアに業態を拡張したような感じの店舗に行ってこれを購入。

さっそく商品裏面の注意書きに従い、衣類が痛まない上限であるところの2時間ほど、3着を洗剤と漂白剤の混合液につけ込んだところ、完全にはほど通いが、インクが衣服から溶け出しているではないか。

さすが拾う神だ、と一度は希望に胸を躍らせたが、すでに俺は「これ以上つけ込んだら衣類が痛むからたいがいにしとけよ」と注意書きが警告する2時間を使い切ってしまっていたことを思い出し、すぐさま絶望の縁。

いや、しかしこのまま終えてもこんなインクで汚れまくった服など着て外に出られるわけもなく、であれば、服が傷んでしまっても同じこと、俺は注意書きの警告を無視して、その後も衣類を洗剤と漂白剤の混合液につけ込み続けた。

 

 

そして、はや1週間が経過。

衣類は痛むことなくピンピンしているのは喜ばしいことだが、残念なのは、インク汚れもピンピンしていること。

意味ないじゃん、と俺は呟いてしまったが、「これ以上や服が死ぬぞやめておけ」という忠告を振り切ってつけ込みの荒行を受け続けている3着から、己の限界に挑戦し続ける姿勢のすばらしさ、周りが限界だと勝手に決めつけたものは本当は限界とは限らないこと、それを知ることができるのは挑戦をした時だけであること、など、一種の修造イズムを教えられた土曜の夜。

洗濯から選択

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週に1回、着る、洗う、干すのルーティンをくり返したことで、ある服の繊維質が薄くなって穴が開いていた。
これはもうそろそろ新しいものを買わなければならない、そう思って街へ出たものの、俺の足取りは重い。
なぜならば、洋服を買うのは困難を極めるからである。
 
買う物が例えば米であればこれほど難しいことはなく、なぜならこしひかりなのかささにしきなのかひとめぼれなのか、3キロなのか5キロなのか10キロなのか、くらいしか選択肢がないから迷うことがないし、たとえ間違えたとしても、ブランドが違ってもまあどれもうまいし、量を間違えてもなくなったらまた買えばいい。
 
しかし洋服ときたらふざけたもので、まずそこそこ大きなターミナル駅周辺にはデパートメントストアーがたくさんあって、どれに入るかで一迷いするし、入ったら入ったで数十もの店舗があるし、それぞれの店舗に何十種類の服が並べられている。
この中から自分が買うべきひとつの服を選ぶなぞ、もはや天文学的な確率であり、そのため俺は店に入った途端に途方にくれてしまうのだ。
つらたん。
いや、今は、つらみ、といった方が新しいらしい。
つらみ。
 
 
実は世の中には俺のように考える人は少なくないようで、そういう人のために世の中には「セレクトショップ」と呼ばれる店舗がある。
これは極めて便利なもので、世の中数多あるファッションブランド、そのひとつひとつが展開するあらゆる商品の中から、これはいけている、と考えるものだけを厳選して陳列していて、しかもその選別をしている人がファッションの道のプロ、これが俺やそこら辺のおっさんであれば、だれがそんな奴がチョイスする商品を信用して買うことができようか、と思うが、専門家が選ぶのだから安心。
 
新宿の近くに住む俺は、たしか三丁目のあたりにBEAMSっていう著名なセレクトショップがあったな。ラッキー。と、大船に乗ったつもりで店に向かった。
以前一度だけ訪れたことがあった新宿のBEAMSは、場所こそ同じところにあれど、店舗の中は俺の記憶とは全く異なる雰囲気になっていた。
それは、なんかちょっと違うなぁ。とかいうレベルではなく、もはや全く別のコンセプトに基づいた全く別の店舗である。
そうは言ってもセレクトのプロ、任せておけば大丈夫、そう思って店に入ると、中には法被や浮世絵が書かれたTシャーツ、日出づる処!って感じのイラストを施した湯呑み、キューピーマヨネーズの人形の置物、達磨などが並び、フロアマップを見ると、「日本のセンス」「日本のポップカルチャー」「日本の猫」などと書かれており、まあオブラートに包んだ一言で表現すれば「誰が買うというのか」と思ってしまうような品揃えであった。
 
 
どうしてこのようなことに成り果ててしまったのだろうか。
かつて訪れたときには、ああこれを買おうか、しかしあっちも悪くない、どっちも買うわけにはいかないがどうしよう。あ、でもあっちもなかなか。そう思っていたと記憶しているが、今回は欲しいと思うものが皆無ではないか。
 
しかし、これでいいのである。
セレクトショップとは本来、セレクターが、これはいけている、と判断したものを陳列する店であって、その選別のセンスを信頼して人々は店に訪れるのであるから、「わかりやすい品揃えにしておけばたくさんの人が買ってくれてもうかるからいいんと違うか」「この商品はものすごくいいバイブスを出しているが、たぶんそれは俺以外の他の人には理解できないだろうから、これを店に並べるのは止めておこう」なんて考えている店は、セレクトショップとしての存在意義を持ち得ない。
雑誌などのメディアが、自分たちが正しい、すばらしいと信じるメッセージを発信していればいいのと同様、セレクトショップは信念に基づいた品揃えをするからこそ、そこに人が集まるのである。
 
俺は行かないけど。
服に開いた穴は、袖を折り返せばなんとでも隠せるし。