勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

感情の起伏がなくなってきたことについて

すでに多くの人が指摘していることではあるが、人生は苦行である。これは、まちがいなくそうだと言える。
 
実際、二日酔いの気持ち悪さを我慢したり 、買いたいものがあっても金がなくて我慢したり、仕事がうまく進められず怒られて言い返すこともできず我慢したり、同じ職場の人が楽しそうな仕事をしているのを見ながら、「どうして自分はこんな境遇を味わわなくてはいけないんだ」と思いつつもそんなこと言ったって状況が変わるわけじゃないから我慢したり、「どうして俺はモテないんだ」と憤っても少し冷静になって考えればモテない要素なんていくらでても出てくるから憤ってもしょうがねぇなと我慢したり、パンケーキ食べたくても休日目が覚めたら夕方前だし今から出かけるのもめんどくせぇからと我慢したり、同窓の会に出ては「何の仕事してるの?」って聞かれてバカみたいな仕事をしているためバカな話しかできずに「バカなやつだ」と心の奥底で思われているに違いないという惨めな気持ちを我慢したり、どうして俺の人生はキムタクのそれじゃないんだと思ってもキムタクになれるわけがないから我慢したり。挙げればきりがない。
 
こんな風に常に我慢して生活していると、自分の身にある変化が起こってくる。それは「感情の起伏が小さくなる」こと。
 
たまにものすごくいいことがあっても、どこか自分のこととは思えないような違和感を持ってしまったり、何か帳尻合わせのえげつないことがこれから待っているんじゃないかと思ってしまったりする。
反対にものすごくイヤなことがあっても、「いつものことだし…」と、意外とあっさり我慢できるようになるのだ。
 
感情の起伏が小さくなると、人生はどうなるのか。実体験によってわかったのは、プラスの面とマイナスの面の両方があることだ。
 
マイナスの面では
  • 何をやっていても「めっちゃ楽しい」と思うことがない
  • 笑えなくなる
  • 人を好きになるきっかけがわからなくなる
  • 休日に外出することが減る
 
などたくさんあるが、感情が表に出ないのは麻雀をやっている時にはプラスになるから、プラマイゼロである。
 
明日もがんばろう。

モテる方のバカになりたい。

以前、仕事で「ハゲ、チビ、デブ、一番付き合いたくないのは?」というネットアンケートをしようとしたことがあった。
こう言うと、「なんだそのフザケた仕事は! 喝だ!」と憤る人もいるかもしれないが、これも立派な仕事である。職業に貴賎なし。
 
で、アンケート調査をとる前に、参考までに周りにいる何人かの女性にも直接聞いてみた。
 
するとある女性がこう答えた。
 
一番嫌なのはバカ。それ以外は別に気にならない。
 
質問に答えていないことを差し引いても、すばらしい回答である。
 
これほどまでに鋭い意見を、いっさいオブラートに包まずに投げつけてくるサービス精神。サービスが行き過ぎてエンターテインメントの領域にまで達している。そして「容姿は一切気にしない」という懐の深さは、白鵬並みだ。
 
しかし、ずば抜けたクルクルパーを除き、「バカ」を定義するのは案外難しい。
 
例えば、何かに異常なほどハマっている人のことを「◯◯バカ」と呼ぶことがあるが、これは先の女性にとっては恋愛対象外なのだろうか。
 
また、いま俺は新宿のマクドナルドでこのブログを書いているが、となりに座っている男は流体力学という極めて難解高度な勉強をしながらずっとチンコをいじっている。かれこれ20分はいじっている。これはバカなのかバカじゃないのか。
 
全身バカはイヤだが、完璧すぎるのも人間味がないというものだ。「◯◯バカ」と呼ばれるほど何かにハマることができる人を、俺はうらやましく感じることがある。
 
ただ、マクドナルドでチンコをいじっているお前はダメだ。

トーク界のひねり王子こそ最強説

どうすれば女にモテるか。いつの時代にも、男にとって最大のテーマである。

夜に出回っている「◯◯な男が女にモテる」の◯◯に当てはまる言葉には、数多のパターンがあり、それはその言葉を発信する人の性別、年代、恋愛遍歴、人生において何を大切にしているかの価値観などによって変化する。
 
それらの中で一大勢力となっているもののひとつに、「話が面白い男が女にモテる」というものがある。モテたい男性がモテる男性を目指すために読む雑誌に書いてあるのを見たことがある。
 
俺はこれは罪作りな命題だと思っていて、というのも、

「イケメンがモテる」…ブサメンがイケメンになることは(メスでも入れない限り)ムリ
「背が高い男がモテる」…頭にシリコンを入れないとムリ。入れて頭の位置が高くなったとしてもモテるようになるとは思えないからムリ
「運動神経がいい男がモテる」…イケメン同様、持って生まれたものが大きいから、いい年になって挽回するのはムリ
「お金を持っている男がモテる」…仕事をがんばったところで給料が上がるわけでもないからムリ。仕事をがんばるほど収入があがるのは経営レベルの人であり、そんな仕事ができる人たちはそうなった時点でモテているに違いないから関係ない
「おいしいお店に詳しい男がモテる」…舌がバカなのは生まれつきだから詳しくなろうはずもなくムリ
「マメな男がモテる」…マメに連絡しようにも、連絡するようなネタがないからムリ。そもそも毎日人に伝えることがあるような行動力があって楽しい生活を送っている人はその時点でモテているに違いないからこれも関係ない
 
であるため、これらの◯◯は、自分が生まれる前の受精の瞬間からやり直さなければならず当然そんなことはムリだから諦めてそこそこの人生を歩んでいこうという結論にしか到達しない。一方で「話が面白い男が女にモテる」はそうではない。「俺もがんばったら面白い話ができるようになるかも? トーク力を鍛えていっちょモテたろ」と思わせる余地を残しているのだ。
 
しかし、これには大きな問題が横たわる。「話が面白い」は「足が速い」や「背が高い」などと異なり絶対的な尺度ではないということだ。
 
言い換えると、「自分が面白いと思う話を、聞いている相手が同じようにそれを面白いと思うとは限らない」という問題がある。

これに気がつかないまま話しているどういうことになるか。
 
ほら俺の話面白いやろ、だってそら当たり前や。宇宙人に出会った話を面白いと思わんやつがこの世にいるわけがない。ほら、ほら。え? なんでこの子笑わへんの? ほん? うん? …うわーこの人の話マジつまんない、ってか意味わかんない。ほんとムリ。早く帰って○美とLINEしたいんだけど。いっそダッシュで逃げようかしら。
 
といった悲劇が訪れる。
 
「じゃあどうしたら面白い話ができるようになるの?」という問いが出るのが自然な流れだけど、明石家さんまレベルのトーク力の持ち主ならいざしらず、凡人が誰しもにウケる話をできるようになるなんて、到底無理。
 
そこで最近俺が可能性を見出しているのが、「あえて全く関係ないテーマの話題に無理矢理移行するトーク術」というもの。これはどういうものかというと、
 
(腕時計の話をしていて)「腕時計といえば最近よく腹筋してるんだけれども…」
(腹筋の話をしていて)「腹筋もそうだけど、やっぱ人生ってさ…」
(人生の話をしていて)「人生ってリポビタンDに似てるよね…」

 

と、何でもいいから無理矢理に別の話題につなげる会話術だ。
 
「術」といっても何か索があるわけではなく、「リポビタンDに似てるよね」と言った後に、人生とリポビタンDの似ているところを探すだけなのだ。しかし、人間追い込まれると思いもよらぬ能力が発揮されるようで、案外共通点がぱっと出てくるものである。
 
ただこれには瞬発力と同時に、それを裏打ちする相当の知識量が求められる。しかし人はスタートラインに立たない限り、学ぼうとしないのだ。
 
その半面、これがキレイに決まった時のインパクトは絶大だ。それぞれの中身は面白くなくても、「そのテーマとそのテーマを結びつけましたか!」という感動は、あなたへの「話が面白い人」という評価に結びつけるには十分であろう。きっとあなたと話し相手は、古舘伊知郎氏の流れるような実況を思い出すことだろう。そう、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラのことを「リオの関節カーニバル」と呼び、ボブサップを「筋肉の二世帯住宅」と表現した能力に通ずるものを感じないだろうか。その瞬間、話し相手の女性があなたを見る目が変わることはまちがいない。
 
俺自身はまだ一度もこれに成功していない。早く成功させC難度、D難度、E難度とレベルアップしていき、「ひねり王子」「トーク界のシライ」の称号を得たいものだ。だれかコーチお願いします。
 
でもこれって古舘伊知郎はモテるって話にしかなってないな。

「うらやましい」という感情が面白い

「隣の芝生は青く見える」ということわざがある。最近この言葉を思い出させられる体験が多い。
 
というのも、僕は11年いた会社を辞めて今の会社に転職し、3ヶ月が経ったところなんです。で、「前はどこにいたの?」と会う人会う人から尋ねられる。答えると、「えーえー絶対そっちのほうがよかったじゃん何で辞めたの?」と、希望あふれる新天地の出鼻をくじく言葉を投げかけられることが多いのだ。
 
また、前の会社の人からもありがたいことに食事に誘ってもらえる。すると「華やかな仕事でうらやましい。」と多くの人が口をそろえる。
 
お互いがうらやましいと思い合う不思議な間柄。
 
実際、前職の人は俺の今の仕事を「タレントにたくさん会えて華やか」と思っているようだし、今の同僚の人たちは俺の前職のような業種を「お金の流れを握っており、また現場仕事ではなく指図する側だからスマートで華やか」と見ているようなのだ。
 
いかに「羨望」という感情が相対的であり、また、自分に見える世界の外に対する想像力なんて大したものではないことを表している。
 
当の俺は前職でも、そして今でもうらやましいと思われて当然どころか、不本意に思うことの方が多い。それは職種の話というよりかは俺が仕事がうまくないからだが、それはまた別の話。
 
では俺がうらやましいと思う人はどういう人か。だれも興味ないよね? でも続きます。
 
それは「独特の言語感覚を持っている人」だ。「うまいこと言う」とか「トンチがきく」といったことではない。独特の言い回し、見ただけで誰から発せられたかがわかる、文字が発する匂い。そういうものを持っている人のことだ。
 
三島由紀夫井上陽水古舘伊知郎町田康向井秀徳糸井重里島田紳助福本伸行小沢一敬、竹原ピストル、壇蜜…ほかにもたくさんいる。
 
広告業界ではよく”What to say(何を言うか)”や”How to say(どう言うか)”という表現を使うが、”How to say”で特許を持っているような人たちだ。
 
なぜなのだろうか、考えてみた。
 
まず一点は、仕事にするかは置いておいて何らかの形で、俺は文章を書くことをライフワークにしたいと思っている、のだろう。これは「それ一本で食っていく」ことを必ずしも意味しない。世の中いろいろ面白そうなこと多いしね。
 
そしてもうひとつの理由が「"What to say"は書いているうちに枯渇するが、”How to say”はずっと同じでも低減するどころか定着して魅力が増す」そして「”What to say”はパクれるが、”How to say”はパクれない」ということだ。
 
でもやっぱり、大金持って南国で隠居しながらずっとおっぱい揉んでる生活のほうがいい。
 
みんながうらやましいと思う人は誰ですか?

今日の一文字

いま私は、スターバックスにいる。
 
「サードプレイス」のコンセプトを標榜しているこの場所。来客はさまざまなことをしてすごしている。
 
例えば、向かいに座っている20代なかばと思しき女性は、何かわからないが国家試験の勉強をしている。ステップアップを目指しているのだろうか。実にすばらしいことと思う。こんなクソブログ、インターネットの広大な海に放たれる廃棄物のような文章をしこしこ書いている俺とはえらい違いだ。
 
また、左側では30代中盤だろうか、女性二人組が会話をしている。どうやらひとりは職場での、もうひとりは知人との人間関係に不満があり、それぞれにグチを言い合っているようだ。日頃の生活で蓄積したストレスを、快適なスターバックスで発散している。これも明日への活力になるのであれば実によいことだ。
 
そして右側にいる20歳ぐらいの大学生に見える男性。大学ノートを開き何かを書いている。内容はわからないが、文字はまばらだ。勉強? アイデアのメモ? いずれにしてもこれもいい行いだよね。うん。
 
「そんな努力を怠らない彼の未来に栄光あれ!」と見守っていると、しばらくして彼はペンを置き、コーヒーを飲み干した。彼の今日のスターバックスタイムは終了したようだ。大学ノートを閉じて店を出る準備をしている。そうか、今日はもう終わりだね。ずいぶん長い時間、がんばったからね。まあ俺の方が後から来たから、彼がいつからここにいたかわからんが。
 
ここまでは実にありふれた風景だが、俺は彼のノートの表紙に書かれている文字を見て、思わず声を上げてしまった。
 

 
表紙には一文字、「生」と書かれていたのだ。
 
いったいこれほど人の興味をひく、漢字一文字で構成されるノートのタイトルがあるだろうか。少なくともお俺は知らない。「秘」でも「裏」でも、「陰」でも「恥」でも、「生」ほどに字面から醸しだされる演出力、説得力はない。「妻」にも「金」にも「毛」にも、ない。「やっぱり生が好き!」なのである。
 

 

彼はいったいなんのために、ノートのタイトルに「生」という一文字を書いたのだろうか。ノートを1冊購入し、「よし、これを『生』についてまとめるノートにしよう」と、彼に思わせた動機とは、一体何なのか。
 
私は自分の持つすべての推理能力を動員して、その時の彼の置かれた状況を考えてみた。
 
ところが。
 
松本清張を何度かチャレンジしても結局最後まで1冊も読み通せたことがない俺の推理能力では、陳腐な発想しか得られなかったのは言うまでもない。
 
彼は大層な酒豪で、生ビールのうまい店を探し求めて飲み歩いた遍歴をまとめているのだろうか。
 
もしくは、彼は一度死の淵をさまよったところから奇跡の生還を果たしたことで、かえって生存への実感を強め、その気持ちを持ち続けるために、「生」というタイトルで日記をつけているのかもしれない。
 
しかし、真相はわからない。俺は彼のノートが読みたい。700円くらいまでなら買いたいとさえ思う。

あなたは奇跡を信じますか?

「あなたは奇跡を信じますか?」
 
というと、胡散臭い宗教団体の勧誘文句ランキングのダントツNo.1に輝くワードだ。
駅前でいきなりこういって話しかけてくる人の前で立ち止まってしまってはいけないし、家に訪れてきた見知らぬ人がこういう話をし始めてしまったら、すぐにもお引き取りいただきたいものである。
 
かくいう俺も、UFOや気功などは好きなのだが、それはそういうものを心の底から信じているのではなく、オカルト的なものに対して懐疑的というか、斜めからおちょくりながら見てしまう性質があってのことである。
 
しかし最近、その考えを改めさせられるできごとが立て続けに起こっている。
 
 
俺の部屋には、松岡修造の日めくりカレンダー2種「まいにち、修造!」と「ほめくり、修造!」が並んで壁にかけられている。
タイトルは違えど、毎日ひとつずつ、松岡修造の暑苦しいほどのメッセージを届けてくれるこの2つのカレンダー、まさに「熱血の二世帯住宅」である。
 
このふたつを全く知らない人にどういうものなのかを知ってもらうためにそのメッセージの一部を紹介しよう。
 
例えば「まいにち、修造!」の7日をめくると、
 
今日から
君は噴水だ!

  

と書かれている。
 
「自分らしく生きられていないのではないか?」と悩む人に対して、
 
噴水はすべての感情を一所懸命に出しきっているじゃないか。君も噴水になって出しきってみろよ!
 
と元気づけてくれるメッセージである。
 
また、「ほめくり修造!」の17日には
 
今日から僕は
松岡修ゾウ

 

とある。これは
 
ゾウは図体が大きい割に、器用に動かせるのは長い鼻だけ。でもゾウはできないことを嘆くのではなく、長い鼻だけでできることを考えて、徹底的に磨き上げた。
今はわからなくても、君にも必ずひとつ、君にしかできないことがあるから、それが見つかったら迷わずゾウになれ!

 

というメッセージである。
 
このように毎日を鼓舞してくれるヒジョーにありがたいカレンダーが「まいにち、修造!」と「ほめくり、修造!」なのである。
 
ところがそんなありがたいカレンダーも、根本的、構造的な問題点をかかえている。
 
それは
 
今日これからどんなことがあるかわからないから、今日のメッセージを読んでも、これが役立つかどうかわからない。
 
というもの。
 
いわば「答え合わせ占い」と同じ構造的問題だ。
しかし「答え合わせ占い」が故意に作られた無意味さ、パラドックスであるのに対し、「ほめくり、修造!」「まいにち、修造!」はそんなことを狙って笑いを取ろうとしているとは思えない。
 
このカレンダーがかかえる問題に早期に気がつきながら、松岡修造化が人生の目標のひとつである俺は、毎日修造のメッセージを浴びていた。
それだけで十分満足していた。
 
ところが最近になって、不思議なことに気がついた。
 
例えば「ほめくり、修造!」27日には、こう書かれている。
 
笑顔のない君なんて、
熱くない松岡修造の
ようなもの

 

「どんなときにも笑顔を絶やさないように」という、松岡修造にしてはわかりやすいメッセージだ。
 
朝にこれを見た俺は、「そうだねー」とただ思っていた。
 
しかし会社に行き仕事をしていると、あるめちゃくちゃ不愉快なできごとがあった。
それは俺がもう少し分別のない大人だったら会社で暴れまわって相手をどつきまわしてしまうのではないかというくらい。
 
そうなるともう、俺の脆弱なメンタルは、精神はダメなのである。
どんな爆笑王が、笑いの神が目の前にあらわれても笑えない。
どんな面白いテレビ番組でも、コントでも、マンガでも、表情を崩すことすらないだろう、終始鉄仮面のような表情になってしまった。
なんて日だ!
 
当然その日はまったく楽しくない、雰囲気の悪いまま終わってしまう1日だったのだが、家に帰って改めてカレンダーが目に飛び込んでくると、「ああ、修造には、今日の俺がこうなることなんてお見通しだったのか」と思わざるを得ないメッセージがそこには書かれているではないか。
 
先に紹介した「まいにち、修造!」の7日のメッセージは
 
今日から
君は噴水だ!

 

であるが、実際にある月の7日の朝にこれを見て、「まーそんなもんかねーよくわからんけどー」と思っていたところ、その日の午後には「周りの空気を読みすぎて自分の思ったことをはっきり言えなかったなーしまったなー」と後悔するできごとがあり、家に帰ると驚愕したのである。

 
このように松岡修造カレンダーは、人の未来を見通して予言する奇跡の能力を持ちあわせているのだ。
 
俺は今ならはっきりとこう言うだろう。
 
奇跡は、ありまぁす!
 

「どこに住みたいか」の変遷が表すもの

合コンなどでよく聞かれる、「どこに住んでるの?」という、遠回しに相手を値踏みする質問がある。
 
以前、御茶ノ水と神保町の間くらいのところに住んでいた時期のことだ。
「どこに住んでるの?」と聞かれて「御茶ノ水」と答えると「え? なんで?」という反応をされることがけっこうあった。
当時は住所に理由を尋ねられたのが初めてだったので、反射的に「え? なんでってなんで?」と返すと、「いや、なんでかな? と思って」などと言われたものだ。
 
この会話、必要?
 
ほかにも、回数は多くはない合コン経験の中で、「将来の夢は?」(答えは「皇族に入ること」)、「仕事の目標は?」(答えは「不労所得で暮らしていくこと」)などそういう場にはあまりふさわしくなさそうな質問を受けることがけっこうあった。
話しづらい、とっつきにくい雰囲気でも出していたのだろうか。
 
それはともかく、「どこに住んでるの?」という質問にはその人の生活、経済状況を知る目的もあるだろうが、人が「住みたい」と思う場所はその人自身の物の考え方を強く反映しているからこそ使われるのではないだろうか。
 
自分の場合でも、その時に応じて住みたいと思う場所はころころ変わっていた。
今回はそんな自分の住みたい場所遍歴を勝手に振り返ることにする。
 
 

住みたい場所遍歴その1:小学生のころ

私が最初に住みたいと思ったのは、「コンビニ」だった。
「コンビニに住む? は? 頭わいてるの?」とお思いになるかもしれないが、幼心に本気で「布団を引くなら雑誌コーナーの前かなー横になりながら雑誌が取れて便利だし」などと想像していたのがこの時期だ。
 
いまから25年以上前の話だ。コンビニには今ほど何でもかんでもそろっていたわけではない。それでも
 
  • まあまあな飯
  • 種類豊富なドリンク
  • 大量のチョコレート
  • 過剰に利いた空調
  • 普段読んでいる雑誌がすべて立ち読みできる
  • ゲームまで売ってる
 
と、コンビニは「おれはここで暮らしたい」と思わせるには十分すぎるほど快適な環境だった。
 
「物質に囲まれていたい、それがあれば十分」という俺の考えをわかりやすく表している。
 
 

住みたい場所遍歴その2:高校卒業~大学に入るころ

次に住みたいと思ったのは、「東京」だった。
 
当時は関西の実家に住んでいたが、ただ「東京に住みたい」というよりもこの時は、「とにかくひとり暮らしがしたい」という想いが強かった。
 
一人っ子でずっと親の干渉を受け続けたことに対する反発だったのだろう。
 
おれは決して誰にも邪魔されることのない空間に憧れていた。そして、コンビニのようにいろんなものがすぐ手に届くことよりもそれが貴重であることに、コンビニには別に住まなくても家から歩いていけば十分なことに気がついていた。
 
その想いかなって、大学進学と同時に東京に出ることができたが、何を血迷ったか学生寮に住むことになってしまい、「何のために東京に出てきたんだ」というオチがついてしまった。
 
 

住みたい場所遍歴その3:社会人2年目ころ

大学の時は、住みたい場所は特になかった。東京に来て間もなかったので、それぞれの場所のイメージがわからなかったのだ。
 
白金は「貴族の街」
自由が丘は「おしゃれでいけすかない」
高円寺は「アングラで個性的」
練馬は「庶民的」
23区外は「未開の地」
 
などのイメージは一切持ちあわせてなかった。
 
社会人になって、仕事を始めてからの住みたい場所は「会社から近すぎず、遠すぎず」。
 
結局、会社から電車で2駅、通勤時間が20分程度の住宅街に家を借りた。
 
会社から近いほうが通勤に便利だけど、あまりに近すぎて家にいるときも仕事から離れられないのはイヤだ。
そんな中途半端に飼いならされた社畜感が表れる選択だったと思う。
 
 

住みたい場所遍歴その4:社会人5年目ころ

このころの俺の住みたい場所は「デパ地下」だった。
 
コンビニって言っていたのが、経済的に少し余裕が出てきて、並ぶご飯のランクが上がっただけである。それにしても、あのちょっとぜいたくなご飯がずらっと並ぶ光景は壮観だ。物質的な豊かさに舞い戻ってしまった時期がこのころ。
 
デパートでは、地下以外の場所にはほとんど用がないこともポイントだ。洋服を買おうにも、選択肢が多すぎるとすぐ眠くなってしまうのは、俺だけではないだろう。
 
 

住みたい場所遍歴その5:社会人8年目ころ

前の「会社から遠すぎず近すぎず」の条件に加えて、「繁華街に住みたい」という希望が加わった。
 
中途半端な社畜感はそのまま維持しつつ、少し余裕が出てきて休日を充実したものにしたい気持ちが表れていたと思う。そして下北沢に住んだものの、結局、寝るだけの休日だった。
 
 

住みたい場所遍歴その6:社会人12年目ころ

会社との距離感はそのままで、「ひとりで入れる飲み屋がたくさんあるところ」という条件が追加される。
 
実際そういう場所に引っ越す少し前まで、独り飲みをする人の気持ちがわからなかった。
「え、なんでひとりで店に行くの? スーパーで酒買って家で飲めばいいじゃん」と思っていたのだが、気がついたらいま自分がそれをしている。
 
独り飲みの意味については別の機会にでも書いてみたいと思うが、次はどこに住むだろうか。