勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

有閑マダムの生態が知りたい

土曜や日曜に家や会社などの近くの喫茶店に入ると、かなりの割合で有閑マダムとおぼしき40~50代の女性数人が集団をなしている。
 
俺のこれまでの人生において接点のなかった人たちであるので、彼女たちが普段どのような生活をしているのか、どこから来てどこへ行くのかについて、俺は知りたいと思っている。
 
あまり趣味がいいことではないが、俺はまず彼女たちの会話に聞き耳を立てる。
しかし、まずその内容を聞き取ることはできない。
なぜなら、有閑マダムの集団は、新たな有閑マダムの集団を呼ぶからである。
もちろん実際に連絡を取って呼んでいるわけではなく、不思議なことになぜか集まるのだ。
そしていつのまにか、彼女らによって店は占拠される。
加えて彼女たちが話す声はもれなく大きい。
したがってそれぞれの集団の話し声が邪魔をして、どのテーブルの話し声も聞き取れない。
 
喫茶店では会話が聞き取れないとなると、店を出て集団がどこへ向かうかを知りたくなる。
しかしこれもままならない。
なぜなら彼女たちは店を出ないからだ。
 
もちろん、いつかは出る。
しかし、「いったいいつ出るんだ?」と思わせられるくらい、長く会話を続ける。
なぜなら有閑だから。
それが彼女たちを有閑マダムたらしめる精神性だから。
そんな彼女たちに俺が敵うわけがない。
俺が「待っていようと思ったが、次の予定があるからもうさすがに待ちきれない」と焦るのを知ってか知らずか、その有閑さを見せつけてくる。
そして俺は根負けして先に店を出るのだ。
 
こうして、彼女たちがどこから現れどこへ向かうのかは、永遠の謎となる。
 
うーん、マンダム。

「◯◯っぽいですよね~」からどのように逃れるか

人と話していると、最近よくこう言われる。
(そもそもあまり人とそんなに話していないので、その数少ない機会のなかでは「よく」という意味で)

 

「A型っぽいと思ったけど、B型だったとは」
「大人っぽいと思ったら、案外子供っぽいんですね」
「タバコ吸う人っぽく見えたけど、意外ですね」
「長男っぽい感じがしたけど、一人っ子なんですね」
「もっと楽しい人っぽく思ってたのに、実はネクラなんだね」

 

当初持っていた第一印象がしばらく話しているうちに塗り替えられ、相手の頭の中で俺は、1つ目の「っぽい」(A型っぽい)から2つ目の「っぽい」(実はB型っぽい)に移動させれられるわけだが、すぐ変わるというのはいかに人の第一印象がいい加減であり、ころころと変わるものであるかを表している。

しかも初対面の人と5分話して下した「っぽい」と、2時間話して下した「っぽい」では、2時間後の方が実態に近いという保証もない。そもそも「実態」なんていう客観的事実が明確に存在するわけでもない。

「世の中で自分のことを一番知らないのは自分だ」ともよく言われる。

 

にもかかわらず、なぜ人は他人のことを「っぽい」と分類するのだろうか。

 

理由をいろいろ考えてみたのだが、行き着いた結論は「分類する行為が楽しいから」でしかないのでは、というものだった。

思い返してみれば、分類することで生活が便利になるわけではない。話しているうちに思い出す程度なら、よくあることだ。

しかし「あの人はネクラだからこういう話し方をしよう」など、分類によってそれぞれの人への対応を使い分けるというような器用なことをする人がいても、それを目的とした分類は少数派であろうというのが俺の実感だ。

少なくとも俺はそんなことができるほど器用ではない。

もっともそれ以上に、人は分類する行為自体を楽しんでいるように見える。

 

反対に、分類されることについてはどうか。

 

これも私見だが、「○○さんって□□っぽいですよね」と言われていい気持ちのする人は少ないであろう。

それには「相手が分類行為を楽しむ材料にされていることに対する不快感」や、「個性重視教育がもたらした価値観の影響」など、様々な感情が入り混じっていそうだが、俺にとっての最大の理由は、以前に血液型と兄弟構成を尋ねられ、B型で一人っ子だと答えたところ、相手の目がクズ、人間界の闇を見るような目つきに変わったことだ。

 

しかしそんなことよりもここで重要なのは、分類行為は「すると楽しいけど、されると嫌なものである」ということだ。

 

俺は上記に挙げた理由などによって、世の中に流通する「『っぽい』を用いた分類行為」の数を、ゼロにしたいと思っている。それこそが、「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」が表した世界ではないだろうか。

 

もしくは、世の中の人が「■■っぽいですよね」(■■には俺の名前が入る)と言われるような存在になりたいと思う。

しかしそれはスーパースターの領域。

だからムリ。

感情の起伏がなくなってきたことについて

すでに多くの人が指摘していることではあるが、人生は苦行である。これは、まちがいなくそうだと言える。
 
実際、二日酔いの気持ち悪さを我慢したり 、買いたいものがあっても金がなくて我慢したり、仕事がうまく進められず怒られて言い返すこともできず我慢したり、同じ職場の人が楽しそうな仕事をしているのを見ながら、「どうして自分はこんな境遇を味わわなくてはいけないんだ」と思いつつもそんなこと言ったって状況が変わるわけじゃないから我慢したり、「どうして俺はモテないんだ」と憤っても少し冷静になって考えればモテない要素なんていくらでても出てくるから憤ってもしょうがねぇなと我慢したり、パンケーキ食べたくても休日目が覚めたら夕方前だし今から出かけるのもめんどくせぇからと我慢したり、同窓の会に出ては「何の仕事してるの?」って聞かれてバカみたいな仕事をしているためバカな話しかできずに「バカなやつだ」と心の奥底で思われているに違いないという惨めな気持ちを我慢したり、どうして俺の人生はキムタクのそれじゃないんだと思ってもキムタクになれるわけがないから我慢したり。挙げればきりがない。
 
こんな風に常に我慢して生活していると、自分の身にある変化が起こってくる。それは「感情の起伏が小さくなる」こと。
 
たまにものすごくいいことがあっても、どこか自分のこととは思えないような違和感を持ってしまったり、何か帳尻合わせのえげつないことがこれから待っているんじゃないかと思ってしまったりする。
反対にものすごくイヤなことがあっても、「いつものことだし…」と、意外とあっさり我慢できるようになるのだ。
 
感情の起伏が小さくなると、人生はどうなるのか。実体験によってわかったのは、プラスの面とマイナスの面の両方があることだ。
 
マイナスの面では
  • 何をやっていても「めっちゃ楽しい」と思うことがない
  • 笑えなくなる
  • 人を好きになるきっかけがわからなくなる
  • 休日に外出することが減る
 
などたくさんあるが、感情が表に出ないのは麻雀をやっている時にはプラスになるから、プラマイゼロである。
 
明日もがんばろう。

モテる方のバカになりたい。

以前、仕事で「ハゲ、チビ、デブ、一番付き合いたくないのは?」というネットアンケートをしようとしたことがあった。
こう言うと、「なんだそのフザケた仕事は! 喝だ!」と憤る人もいるかもしれないが、これも立派な仕事である。職業に貴賎なし。
 
で、アンケート調査をとる前に、参考までに周りにいる何人かの女性にも直接聞いてみた。
 
するとある女性がこう答えた。
 
一番嫌なのはバカ。それ以外は別に気にならない。
 
質問に答えていないことを差し引いても、すばらしい回答である。
 
これほどまでに鋭い意見を、いっさいオブラートに包まずに投げつけてくるサービス精神。サービスが行き過ぎてエンターテインメントの領域にまで達している。そして「容姿は一切気にしない」という懐の深さは、白鵬並みだ。
 
しかし、ずば抜けたクルクルパーを除き、「バカ」を定義するのは案外難しい。
 
例えば、何かに異常なほどハマっている人のことを「◯◯バカ」と呼ぶことがあるが、これは先の女性にとっては恋愛対象外なのだろうか。
 
また、いま俺は新宿のマクドナルドでこのブログを書いているが、となりに座っている男は流体力学という極めて難解高度な勉強をしながらずっとチンコをいじっている。かれこれ20分はいじっている。これはバカなのかバカじゃないのか。
 
全身バカはイヤだが、完璧すぎるのも人間味がないというものだ。「◯◯バカ」と呼ばれるほど何かにハマることができる人を、俺はうらやましく感じることがある。
 
ただ、マクドナルドでチンコをいじっているお前はダメだ。

トーク界のひねり王子こそ最強説

どうすれば女にモテるか。いつの時代にも、男にとって最大のテーマである。

夜に出回っている「◯◯な男が女にモテる」の◯◯に当てはまる言葉には、数多のパターンがあり、それはその言葉を発信する人の性別、年代、恋愛遍歴、人生において何を大切にしているかの価値観などによって変化する。
 
それらの中で一大勢力となっているもののひとつに、「話が面白い男が女にモテる」というものがある。モテたい男性がモテる男性を目指すために読む雑誌に書いてあるのを見たことがある。
 
俺はこれは罪作りな命題だと思っていて、というのも、

「イケメンがモテる」…ブサメンがイケメンになることは(メスでも入れない限り)ムリ
「背が高い男がモテる」…頭にシリコンを入れないとムリ。入れて頭の位置が高くなったとしてもモテるようになるとは思えないからムリ
「運動神経がいい男がモテる」…イケメン同様、持って生まれたものが大きいから、いい年になって挽回するのはムリ
「お金を持っている男がモテる」…仕事をがんばったところで給料が上がるわけでもないからムリ。仕事をがんばるほど収入があがるのは経営レベルの人であり、そんな仕事ができる人たちはそうなった時点でモテているに違いないから関係ない
「おいしいお店に詳しい男がモテる」…舌がバカなのは生まれつきだから詳しくなろうはずもなくムリ
「マメな男がモテる」…マメに連絡しようにも、連絡するようなネタがないからムリ。そもそも毎日人に伝えることがあるような行動力があって楽しい生活を送っている人はその時点でモテているに違いないからこれも関係ない
 
であるため、これらの◯◯は、自分が生まれる前の受精の瞬間からやり直さなければならず当然そんなことはムリだから諦めてそこそこの人生を歩んでいこうという結論にしか到達しない。一方で「話が面白い男が女にモテる」はそうではない。「俺もがんばったら面白い話ができるようになるかも? トーク力を鍛えていっちょモテたろ」と思わせる余地を残しているのだ。
 
しかし、これには大きな問題が横たわる。「話が面白い」は「足が速い」や「背が高い」などと異なり絶対的な尺度ではないということだ。
 
言い換えると、「自分が面白いと思う話を、聞いている相手が同じようにそれを面白いと思うとは限らない」という問題がある。

これに気がつかないまま話しているどういうことになるか。
 
ほら俺の話面白いやろ、だってそら当たり前や。宇宙人に出会った話を面白いと思わんやつがこの世にいるわけがない。ほら、ほら。え? なんでこの子笑わへんの? ほん? うん? …うわーこの人の話マジつまんない、ってか意味わかんない。ほんとムリ。早く帰って○美とLINEしたいんだけど。いっそダッシュで逃げようかしら。
 
といった悲劇が訪れる。
 
「じゃあどうしたら面白い話ができるようになるの?」という問いが出るのが自然な流れだけど、明石家さんまレベルのトーク力の持ち主ならいざしらず、凡人が誰しもにウケる話をできるようになるなんて、到底無理。
 
そこで最近俺が可能性を見出しているのが、「あえて全く関係ないテーマの話題に無理矢理移行するトーク術」というもの。これはどういうものかというと、
 
(腕時計の話をしていて)「腕時計といえば最近よく腹筋してるんだけれども…」
(腹筋の話をしていて)「腹筋もそうだけど、やっぱ人生ってさ…」
(人生の話をしていて)「人生ってリポビタンDに似てるよね…」

 

と、何でもいいから無理矢理に別の話題につなげる会話術だ。
 
「術」といっても何か索があるわけではなく、「リポビタンDに似てるよね」と言った後に、人生とリポビタンDの似ているところを探すだけなのだ。しかし、人間追い込まれると思いもよらぬ能力が発揮されるようで、案外共通点がぱっと出てくるものである。
 
ただこれには瞬発力と同時に、それを裏打ちする相当の知識量が求められる。しかし人はスタートラインに立たない限り、学ぼうとしないのだ。
 
その半面、これがキレイに決まった時のインパクトは絶大だ。それぞれの中身は面白くなくても、「そのテーマとそのテーマを結びつけましたか!」という感動は、あなたへの「話が面白い人」という評価に結びつけるには十分であろう。きっとあなたと話し相手は、古舘伊知郎氏の流れるような実況を思い出すことだろう。そう、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラのことを「リオの関節カーニバル」と呼び、ボブサップを「筋肉の二世帯住宅」と表現した能力に通ずるものを感じないだろうか。その瞬間、話し相手の女性があなたを見る目が変わることはまちがいない。
 
俺自身はまだ一度もこれに成功していない。早く成功させC難度、D難度、E難度とレベルアップしていき、「ひねり王子」「トーク界のシライ」の称号を得たいものだ。だれかコーチお願いします。
 
でもこれって古舘伊知郎はモテるって話にしかなってないな。

「うらやましい」という感情が面白い

「隣の芝生は青く見える」ということわざがある。最近この言葉を思い出させられる体験が多い。
 
というのも、僕は11年いた会社を辞めて今の会社に転職し、3ヶ月が経ったところなんです。で、「前はどこにいたの?」と会う人会う人から尋ねられる。答えると、「えーえー絶対そっちのほうがよかったじゃん何で辞めたの?」と、希望あふれる新天地の出鼻をくじく言葉を投げかけられることが多いのだ。
 
また、前の会社の人からもありがたいことに食事に誘ってもらえる。すると「華やかな仕事でうらやましい。」と多くの人が口をそろえる。
 
お互いがうらやましいと思い合う不思議な間柄。
 
実際、前職の人は俺の今の仕事を「タレントにたくさん会えて華やか」と思っているようだし、今の同僚の人たちは俺の前職のような業種を「お金の流れを握っており、また現場仕事ではなく指図する側だからスマートで華やか」と見ているようなのだ。
 
いかに「羨望」という感情が相対的であり、また、自分に見える世界の外に対する想像力なんて大したものではないことを表している。
 
当の俺は前職でも、そして今でもうらやましいと思われて当然どころか、不本意に思うことの方が多い。それは職種の話というよりかは俺が仕事がうまくないからだが、それはまた別の話。
 
では俺がうらやましいと思う人はどういう人か。だれも興味ないよね? でも続きます。
 
それは「独特の言語感覚を持っている人」だ。「うまいこと言う」とか「トンチがきく」といったことではない。独特の言い回し、見ただけで誰から発せられたかがわかる、文字が発する匂い。そういうものを持っている人のことだ。
 
三島由紀夫井上陽水古舘伊知郎町田康向井秀徳糸井重里島田紳助福本伸行小沢一敬、竹原ピストル、壇蜜…ほかにもたくさんいる。
 
広告業界ではよく”What to say(何を言うか)”や”How to say(どう言うか)”という表現を使うが、”How to say”で特許を持っているような人たちだ。
 
なぜなのだろうか、考えてみた。
 
まず一点は、仕事にするかは置いておいて何らかの形で、俺は文章を書くことをライフワークにしたいと思っている、のだろう。これは「それ一本で食っていく」ことを必ずしも意味しない。世の中いろいろ面白そうなこと多いしね。
 
そしてもうひとつの理由が「"What to say"は書いているうちに枯渇するが、”How to say”はずっと同じでも低減するどころか定着して魅力が増す」そして「”What to say”はパクれるが、”How to say”はパクれない」ということだ。
 
でもやっぱり、大金持って南国で隠居しながらずっとおっぱい揉んでる生活のほうがいい。
 
みんながうらやましいと思う人は誰ですか?

今日の一文字

いま私は、スターバックスにいる。
 
「サードプレイス」のコンセプトを標榜しているこの場所。来客はさまざまなことをしてすごしている。
 
例えば、向かいに座っている20代なかばと思しき女性は、何かわからないが国家試験の勉強をしている。ステップアップを目指しているのだろうか。実にすばらしいことと思う。こんなクソブログ、インターネットの広大な海に放たれる廃棄物のような文章をしこしこ書いている俺とはえらい違いだ。
 
また、左側では30代中盤だろうか、女性二人組が会話をしている。どうやらひとりは職場での、もうひとりは知人との人間関係に不満があり、それぞれにグチを言い合っているようだ。日頃の生活で蓄積したストレスを、快適なスターバックスで発散している。これも明日への活力になるのであれば実によいことだ。
 
そして右側にいる20歳ぐらいの大学生に見える男性。大学ノートを開き何かを書いている。内容はわからないが、文字はまばらだ。勉強? アイデアのメモ? いずれにしてもこれもいい行いだよね。うん。
 
「そんな努力を怠らない彼の未来に栄光あれ!」と見守っていると、しばらくして彼はペンを置き、コーヒーを飲み干した。彼の今日のスターバックスタイムは終了したようだ。大学ノートを閉じて店を出る準備をしている。そうか、今日はもう終わりだね。ずいぶん長い時間、がんばったからね。まあ俺の方が後から来たから、彼がいつからここにいたかわからんが。
 
ここまでは実にありふれた風景だが、俺は彼のノートの表紙に書かれている文字を見て、思わず声を上げてしまった。
 

 
表紙には一文字、「生」と書かれていたのだ。
 
いったいこれほど人の興味をひく、漢字一文字で構成されるノートのタイトルがあるだろうか。少なくともお俺は知らない。「秘」でも「裏」でも、「陰」でも「恥」でも、「生」ほどに字面から醸しだされる演出力、説得力はない。「妻」にも「金」にも「毛」にも、ない。「やっぱり生が好き!」なのである。
 

 

彼はいったいなんのために、ノートのタイトルに「生」という一文字を書いたのだろうか。ノートを1冊購入し、「よし、これを『生』についてまとめるノートにしよう」と、彼に思わせた動機とは、一体何なのか。
 
私は自分の持つすべての推理能力を動員して、その時の彼の置かれた状況を考えてみた。
 
ところが。
 
松本清張を何度かチャレンジしても結局最後まで1冊も読み通せたことがない俺の推理能力では、陳腐な発想しか得られなかったのは言うまでもない。
 
彼は大層な酒豪で、生ビールのうまい店を探し求めて飲み歩いた遍歴をまとめているのだろうか。
 
もしくは、彼は一度死の淵をさまよったところから奇跡の生還を果たしたことで、かえって生存への実感を強め、その気持ちを持ち続けるために、「生」というタイトルで日記をつけているのかもしれない。
 
しかし、真相はわからない。俺は彼のノートが読みたい。700円くらいまでなら買いたいとさえ思う。