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勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

自分の一生を左右した出来事について思い返してみた

自己啓発本の類が相変わらず多い。
みんな自分の人生をよりよく変えたいのだろう。
そりゃそうだ、俺だってそうだ。
 
でも人の一生なんて、意外としょうもないことで左右されるものだとも思っている。
そこで今回、一生を左右する出来事について思い出してみた。
 
 
最近、またアゴの調子が悪い。
どう悪いかというと、あくびをするとバコッと外れそうになってしまい、口を元に戻すときにまたバキッと大きな音がする、といった感じだ。
 
ここ数年は鳴りを潜めていたが、昔からこういうことはよくあった。
しかし当然、最初からうまれつきずっとこの調子だったわけではない。
 
 
俺がアゴを悪くしてしまったのは、子供のころのある事件がきっかけである。
 
その時俺は中学校1年生で夏だった。
いや、もしかしたら2年生だったかもしれない。
思い出したくない過去の記憶はいつもあやふやである。
 
しかし確実に覚えているのは、俺は家でダウンタウンガキの使いやあらへんで」を見ていた。
当時俺が住んでいた関西圏では、ガキの使いはたしか火曜日の深夜にやっていて、その放送を毎週楽しみにしていたのだ。
父親は単身赴任で、家には奥の台所で作業をしている母親と俺の2人きりだった。
 
その日は夏真っ盛りで猛暑で、体感気温を少しでも下げるために俺はコンビニで売られているロックアイス、いわゆるかちわり氷を口に頬張っていた。
かちわり氷はひとつひとつその大きさがまちまちであるため、普段は口に入れるのにちょうどよいサイズのものを探すのだが、ちょうどいいサイズのものはすでになくなってしまっており、その時俺が選んだのは、口に入るかやや心配になるほどのサイズであった。
しかしなんとかそれを口に入れ、「ガキの使い」を見ていた。
 
番組が始まって早々、出演者の誰かがものすごく面白いことを言った。
そりゃそうですよね、なんてったってガキの使いですから。
思わず笑ってしまったことで、口に入れていたかちわり氷が口のさらに奥、喉に迫るところまで言ってしまい、限界まで開かれていた俺の口は限界を越えて氷によって押し広げられてしまい、その時…
 
ガコッ
 
というそれまで聞いたことのない大きな音とともに、アゴがしまらなくなってしまった俺がそこにいた。
 
アゴは閉じようとしてもびくともしない。 
これはやばい。
俺は背後の台所に立っているはずの母親の助けを呼びたいのだが、口は大きい「お」の状態から動かせない上に口いっぱいの大きな氷を加えているから、ほぼ声が出せない。
仕方なくそのまま台所まで行き、口から氷を吐き出して、母親に「はほははふへへふひは…」など、自分の危機的状況をアピールする。
母親は最初は笑っていたが、ようやく何が起こったかを理解して、病院に電話をかけ始めた。
 
しばらくして、深夜外来を受け付けている病院を発見、タクシーを呼びそこまで向かうことにした。
母親と、口を大きな「お」の状態から動かせず「ほへふは」などとしか話せない児童がタクシーに乗り込む。
 
病院に着いたら、先生がすぐにアゴをもとに戻してくれた。
自分ではもう永遠に口が閉まることはないのではないか、そう思ってしまうくらい絶望的にびくともしなかったアゴが、である。
「え、こんなにカンタンに戻るの? これまで10,000人ものアゴはずし患者を救ってきたゴッドハンドなの?」
とその時は思ったが、どうやらコツがあったらしい。
「1回外すとクセになるから気をつけて」とアドバイスをもらうも、「誰が2回もアゴをはずしてしまうほどの大きすぎるかちわり氷を食べるんだ」と、俺はそれを聞き流していた。
炎症を抑える薬を処方してもらい、病院の外で待っていてくれたタクシーに乗って帰宅の路へ。
 
病院を出たころには、深夜2時近くなっていた。
普段ならとっくに寝ている時間だ。
眠気から、ついついあくびをしてしまった、その時。
 
ガコッ
 
俺はゴッドハンド先生のアドバイスを軽視し、一生どころか30分経たないうちに「お」の口に戻った俺を見て笑い転げながらタクシーの運転手に「さっきのところに引き返してください」といった母親が、その後に発したのは
 

「あんた、『ガキの使い』よりおもろいんちゃうの?」

 
の一言。
 
「親バカ」ではなく完全な「バカ親」、いや「息子をバカにしている親」だったが、俺は言い返す能力を持っていなかった。
 
次の日、俺は学校を休んだ。
 
そしてこの日以来、先生の予言どおり、俺のアゴはカンタンに外れるようになってしまったのだ。
ゴッドハンドから2回目の手ほどきを受けた俺は、そのコツを盗み、だいたいの場合において自分の手ですぐに外れたアゴを戻すことができるが、たまになかなか戻せないこともある。
そういうときは、3分ほどアゴと格闘しなければならない。
 
その機会が偶然、交際を始める前の女性とのデートや就職活動の面接など、人生を左右する場面で表れたことがあった。
「お」の状態から動かないアゴを手で抱えながらうんうん唸っている男と、交際してもよいと考える女性がどこにいるだろうか。
「お」の状態から動かないアゴを手で抱えながらうんうん唸っている男を、採用してもよいと考える会社がどこにあるだろうか。
 
 
人の一生を左右する出来事なんて、そんなものである。
 

「君の名は。」を観たが面白いと思えなかったときに感じたこと

先日、話題になっているので「君の名は。」を観てきた。
「話題になっているので」などと書くと、「自分が観る映画すら周りに流されて決めるんかい、われ、ぼけ」と思う人もいるかもしれないが、全くその通りで、公開を待ちわびていた作品でもなければ、これから観るものの選択になどこだわりは持っていない。
 
感想としては、残念ながら、面白いと思えなかった。
 
実は上映終了後に、映画館内で友人夫婦と遭遇し「面白かった?」と聞かれ、「いいや、どこが面白いのかわからんかった」と返答したのだが、これは簡単なようで実は難しい。
なぜなら、それを聞いた相手は「え? 世の中のみんなが面白いと思っているのに、マジで言ってんの?」と思うことが予想されるから。
 
俺はこの、「え? お前マジで言ってんの?」の雰囲気がとても苦手なのだ。
 
伝わりますかね? あの雰囲気。
「ばっかじゃねーの」と口に出しては言わないけれど、目の奥にそう書いてあるのが見える目つき。
話し始める直前に鼻で笑う、あの話し方。
言葉の前に接頭語として入っているように感じてしまう、「意味わかんないんだけど…」の一言。
声に出しては言わないので旗から見ている人にはわからないが、見下す側と見下される側、当事者だけがわかる、見下される側からしたら逃げ出したくなるような空間。
小島聡のラリアットのように、人の自尊心を豪腕でなぎ倒す。
 
例えばこの映画館でのやりとり、友人だったので正直に答えることができたが、それほど親しくはない知人だった場合、「え? お前マジで言ってんの?」リスクを考えて、「いや面白かったですねーやっぱ」などと言っていたかもしれない。
しかしその場合、相手が乗ってきて「ですよねー、どのシーンがよかったですか?」などと、より具体的な内容の話に入っていってしまったら目も当てられない。
嘘の取り返しがつかなくなる事態に陥る危険性もあり得る。
両方のリスクが瞬時に頭の中で天秤にかかり、しかしあまりにも瞬時すぎて判断を下すことができず、結果として「いやーなんていうか、あれでしたねー」などと、答えにもなっていない答えを放ってしまうのが関の山だったかもしれない。
 
もし俺が国政選挙に立候補するとしたら、「『え? お前マジで言ってんの?』感の発露を法律で禁止する」ことを公約のひとつに掲げるであろう。
候補しないけど。
それくらい、「え? お前マジで言ってんの?」感にはこの世から消え去ってほしいと思っている。
しかし今のところ違法でもないので、悪気があってもなくても、それを放ってくる人はいる。
したがってそれまでは、自分が強くなってこれに対抗するしかない。
 
このブログは単なる気晴らしで始めたものだが、数人から感想を聞いて、そういった精神の鍛錬が目的のひとつとなってしまった。
だからこのブログを見た人は、次に俺に会ったら、「え? お前マジで言ってんの?」と直接言ってもらってかまわない。
ブログの内容が急に「どこどこのプリンがおいしかった」なんて内容に変わったら、心が折れたのだと思ってもらえばいい。

自分が発した言葉をその登場回数でランキングにしたらクズだった

人が発する言葉は、その人の精神状態を色濃く表していると思う。
今月の3分の2が終わろうとしているが、今月俺が発した言葉をその登場頻度でランキングにしてみた。
なお、当然ではあるが、全発言を記録にとっているわけではないので、登場回数もランキングも俺自身による憶測である。
 
1位 めんどくさい  453回
2位 酒  126回
3位 ありがとう 109回
4位 ブチ殺すぞ  88回
5位 仕事  68回
6位 金がない  45回
7位 オフライン  33回
8位 キューピーコーワゴールドアルファープラス   32回
9位 麻雀  18回
10位 おっぱい  14回  
 
1位は2位に3倍以上の差をつけて「めんどくさい」となった。
もうあまりにめんどくさすぎて、何がめんどくさいのか、どうしてめんどくさいのかを考えることすらめんどくさい。
 
2位は「酒」だった。以前も書いたが、酒が俺の人生にとってプラスになっている印象があまりないのだが、ついつい飲むことになる。
 
「『ありがとう』は魔法の合言葉」というように、人に感謝を表すことで自分にも幸せが回ってくるという話を鵜呑みにして、事あるごとに「ありがとう」と言っているのだが、振り返ってみるとそれとほぼ同じ回数「ブチ殺すぞ」と言っていたので、自分に回ってくる幸せ効果はプラスマイナスゼロになっている気がする。
 
5位は「仕事」だが、他にやることがないので、仕事のことを考えざるを得ない。9位の「麻雀」が今以上に存在感を増して「仕事」を追い抜いてくれることを願ってやまない。
 
転職してから生活水準を下げる必要に迫られているのだが、そんなに贅沢をしているつもりではなくても慣れた生活のスタイルを変えるのは難しく、6位に「金がない」が入ってしまった。
 
7位は仕事関連。オフラインチェック多すぎ問題。
 
最近深夜にテレビを見ているとついつい目に留まるのが、米倉涼子が出演しているキューピーコーワゴールドアルファープラスのCM。
CMの量がとても多いこと、米倉涼子があまりにスムーズに「キューピーコーワゴールドアルファープラス」とさらっと早口で言いのけていること、「ゴールド」も「アルファー」も「プラス」も役割としては「超」とか「すごい」とか「スーパー」などの“形容詞的”な言葉であり、それが3つも続いている「キューピーコーワゴールドアルファープラス」はどれだけ効き目がすごいのか、そんなことがCMが放送されるたびに気になってしまい、俺の心を離してくれない。
 
9位は趣味。
これくらいしかないので。
 
10位は揉みたくてランクイン。

俺の家の周辺で火事が集中しているという謎について

いまの家に引っ越して1年半が経つ。
 
俺は18歳の時に上京して、それから15年の間に7回の引っ越しをするくらいにはあっちこっちに居住した経験があったが、今の家に住み始めて1ヶ月ほどが経過した時、あることが気になった。
 
「このあたりの火事発生頻度は異常だ」
 
というのも、消防車の出動回数が尋常ではないのだ。 
家の近辺にいる時間だけでも、週に1回は消防車が出動を主張するサイレン音を聞いた。
これまで住んでいた場所ではこのようなことはなかったので、どうしてこのあたりだけこんなに火事が多いのだろうか。江戸時代かワレ。と、サイレン音にひとりツッコんでいた。
 
しばらくの間、この謎は解けることはなかったが、ある夜、いつも使っている駅の隣駅近くにある店で酒を飲んだ後に、「ひと駅くらい歩いて帰ったろか」と思い家まで歩いていると、家の近くのある建造物から消防車が今まさに出動しようとしているところを目撃し、俺は気がついた。
 
つまり、家から徒歩2分のところに消防署があり、求められればそこからありとあらゆる場所へ消防車は向かうから、俺は頻繁にサイレン音を聞いていたのであって、家の近くで火事が多発しているわけではなかったのだ。
そこに消防署があることは前から知っていて、それにも関わらず「うわ、この辺めっちゃ火事多いな」などとのたまわっていた俺はなんて愚鈍なのだろうかと己を嘆いたが、 「灯台下暗し」というように、こういうことは案外気がつきにくいものである。
自宅周辺が火事集中エリアでなくて、また、現代が江戸時代でなくてよかった。
 
六本木の蔦屋書店の入口すぐには、「自分らしく生きてキラキラした女性になって人生すべてうまくいくための方法」みたいな内容の本が500冊くらいある。
というか、平積みになっている本はほぼすべてがそんなテーマだ。
俺が普段よく行く本屋では、競馬で収益を上げるための方法を紹介している本や、マッキンゼーの超一流コンサルタントの仕事術を二流三流の人にも模倣できるように感じさせる本、全裸の女性の写真がたくさん載っている本、漫画本を中心に取り扱っているから、この偏りは明らかに異様である。
 
また一度だけ入ったことのある信濃町駅すぐの本屋では、池田大作という人物を称える本がやたら多く置かれていた。
俺はこの人物を知らないのでよくわからないが、この偏りもまた特異である。
 
2年ほど前、観光で北朝鮮を訪問したことがある。
平壌の本屋では、販売されている書籍の9割が金日成金正日親子の著作だった。
文才は遺伝するのだろうか。
 
世の中にはまだまだ謎なことが多く、興味深い。

「失敗を恐れるな」という風潮について思うこと

人は失敗を恐れる。
チャレンジすることに寛容ではないと言われる日本においては、特にそうである。
 
しかし、失敗は、恐ろしいものではない。
同じように、事故は、恐ろしいものではない。
ましてや、破産も、恐ろしいものではない。
 
病は、敵ではない。
台風も、敵ではない。
肌の乾燥も、敵ではない。
怪我も、敵ではない。
脂肪も、敵ではない。
不況も、敵ではない。
リストラも、敵ではない。
脱輪も、敵ではない。
リア充も、敵ではない。
 
非難されることは、問題ではない。
カツアゲにあうことも、問題ではない。
フラれるのも、問題ではない。
BANされるのも、問題ではない。
ぼったくりに遭うのも、問題ではない。
風俗店で化物が出てくるのも、問題ではない。
失脚するのも、問題ではない。
殴られるのも、問題ではない。
解雇されるのも、問題ではない。
逮捕されるのも、問題ではない。
 
五里霧中は、問題ではない。
紆余曲折も、問題ではない。
一発免停も、問題ではない。
孤立無援も、問題ではない。
木端微塵も、問題ではない。
死屍累々も、問題ではない。
一家離散も、問題ではない。
再起不能も、問題ではない。
白紙撤回も、問題ではない。
 
死は、終わりではない。
 
そんな境地に、なってみたい。

「酒を飲んでよかったことなんてあったっけ?」と思い返してみる

ここ数週間、めっきり酒に弱くなった。
 
歳のせいだろうか、とも思ったが、アルコール耐性の低下はここ数週間で急激に感じたものであり、年齢の影響とは考えにくい。
とすると原因は疲れだろうか。
「疲れているから」というのは、あまりにも便利な言葉である。
 
以前、友人らと3人で、「酒なんて飲んでも、いいことなんてひとつもないどころかよくないことばかりだから、世の中から消え去ればいい」なんて話をしていたことがある。
 
俺は酒癖の悪い方でもないし、酒での失敗は多くはない方だが、それでも、「めちゃめちゃ酒癖悪いっすよねw」などと言われて気分を害する、たとえすごくいい話を聞いたとしても次の日起きたら覚えていない、気持ち悪い、頭痛い、要らぬ喧嘩をしてしまう、気がついたら路上で寝ている、不細工な女に声をかけて次の日の朝に後悔する、気分が大きくなってとんでもない額の金銭を支払ってしまう、食いたくもないラーメンを食ってしまう、宿酔で仕事の効率が著しく低下してしまい労働時間が長くなってしまう、デートで酔いつぶれて以降その相手と連絡が取れなくなる、帰宅してベッドの上に嘔吐してしまい布団を駄目にしてしまう、接待の場で取引先に粗相をしてしまいその後の仕事に悪影響を及ぼす、店を出たら財布にあったはずの2万円がなくなっている、など、いくつかのアルコールからの悪影響を受けてきたことに間違いはない。
 
しかし、上に述べた「酒なんてなくなっちゃえばいいんだよマジで」と言い合った男3人がその後、なんのためらいもなく居酒屋に流れ込んでいったことを考えると、酒を止めることなど到底不可能なのだろう。
 
これほどまで人を離さない酒の魅力とはなんなのだろうか。
 
酒を飲めてよかったことを思い返そうとすると、「そういえばなんか楽しかった」くらいしか出てこない。
俺だけだろうか、読者の方もそんなものではなかろうか。
 
それでも人が酒を飲み続けるということは、よかったことが悪かったことを上回っている、つまり
なんか楽しかった > 「めちゃめちゃ酒癖悪いっすよねw」などと言われて気分を害する、たとえすごくいい話を聞いたとしても次の日起きたら覚えていない、気持ち悪い、頭痛い、要らぬ喧嘩をしてしまう、気がついたら路上で寝ている、不細工な女に声をかけて次の日の朝に後悔する、気分が大きくなってとんでもない額の金銭を支払ってしまう、食いたくもないラーメンを食ってしまう、宿酔で仕事の効率が著しく低下してしまい労働時間が長くなってしまう、デートで酔いつぶれて以降その相手と連絡が取れなくなる、帰宅してベッドの上に嘔吐してしまい布団を駄目にしてしまう、接待の場で取引先に粗相をしてしまいその後の仕事に悪影響を及ぼす、店を出たら財布にあったはずの2万円がなくなっている
という不等式が成立する、ということだ。
 
ここまで書いていて、「本当にこの不等式で正しいのか、逆ではないのか?」という思いが芽生えてきたことを隠し切れないのだが、取りあえず今日も俺は酒を飲むだろう。

読書感想:山田ルイ53世「ヒキコモリ漂流記」

山田ルイ53世の本「ヒキコモリ漂流記」を読んだ。めちゃめちゃ面白い本だった。
 
内容に触れるのは最小限にしたいが、一番印象的だったのは「人生が余ってしまった」という表現だ。
 
中学からひきこもってしまい、いわゆる「就職→結婚→定年」という一般的な人生を送ることができなくなった彼にとって、「これから先の人生が余ってしまった」というのは、当時の彼の心情を表現するにはこれ以上ない的確な言葉選びだと思う。
さすが芸人の言語感覚だ。
 
しかし、読んだ後にひとつ違和感が。
それは、「俺自身も『先の人生が余っている』感をビンビンに感じていたし、それは今になっても変わらない」という事実。
さすがに結婚していた期間はそれほどでもなかったが、その前後はビンビンである。
そして俺は当時からヒキコモリではなく会社員だった。
 
山田ルイの指摘する内容を逆にすると、 「就職→結婚→定年」という人生を送れば、「人生は余らない」ということになるはずだが、少なくとも俺にとってはそうではなかった。
まだ定年迎えてないけど。
そして、常識人である俺がそうだったということは、世の中の会社員のうち、どれだけ少なく見積もっても3~4割は「余ってる」感ビンビン派なはず。
 
山田ルイのが少年時代に持った「先の人生が余っている」感は、「自分が想像している人生のレールから外れてしまった」という思いから生まれたものであろう。
一方で会社に勤めていて感じる「先の人生が余っている」感は、「人生のレールがガッチリとはまっていて、先の人生が完全に予想がついてしまった」瞬間にもたらされるのではなかろうか。
読者の中で私と同じ会社員の方がいるならばよくわかると思うが、 会社なんて5年も在籍すれば、将来自分がどれくらいのポジションに収まり、どんな仕事をしているか、など、なんとなく予想がついてくる。
皮肉なことではあるが、先が全く見えなくても、はっきりと見えてしまっても、「人生が余ってしまった」感につながるというのは、興味深い。
 
ここで俺が考えるのは、またしても有閑マダムのことである。
「有閑」というくらいだから、「余っている」どころの話ではないはずだが、喫茶店で集まって会話をしているところを見る限りでは、引け目に感じている雰囲気など皆無で、実に楽しく毎日を過ごしているように思える。
余った人生を、10-0で負けている試合に途中から登板してきた敗戦処理投手が残りの5イニングをノーヒットノーランしてしまうくらいの完璧さで消化している。
さらに言えば、「有閑マダム」という呼び方(呼ばれ方)は、むしろ「余らせていること」自体をコンテンツ化するレベルにすら達している。
 
まあここまで書いて何の解決にもならなかったけど、本を読んだ後にこれを書いていたトータルで3時間程度の人生は余らずに済んだ。