英語を勉強することの先にあるもの、またはないもの
「コンテンツを作る個人」を越えた「コンテンツである個人」という存在
先日、ある本を求めて俺は本屋を訪れた。
目的の本を探して店内をうろうろうろうろしていたところ、それではなかったのだがそれ以上に俺の目を引く驚愕のムック本を発見した。
これである。
メディア企業にいる者の端くれ、末端として、これの存在を知らなかったことは恥ずべきことなのかもしれないが、知らない人のために説明すると、これはパリに住居をかまえる中村江里子のライフスタイルを多角的に紹介する雑誌である。
これが普通のファッション誌と大きく異なるのは、一般的な雑誌では、編集部や著名なキュレーターが選んだ飲食店・ブランド・店舗・サービス等に対して、飲食店Aをモデル甲が、ファッションブランドBをモデル乙が、美術館Cをモデル丙が、といったように、多くのモデル人物が体験しながら紹介するものであるが、この「Saison d'Eriko」が素晴らしいのは、モデル甲も乙も丙も丁も、すべて中村江里子本人なのである。
つまり、
中村江里子が使用している靴を紹介し、
中村江里子が使用しているネイルケアグッズ、スキンケアグッズを紹介し
中村江里子の着回しを紹介し、
中村江里子の家で行われるホームパーティーの様子を見せ、
中村江里子が普段訪問している食料品店や生活雑貨店の商品を紹介し
中村江里子が好きな美術館を訪問し
中村江里子が、45歳という年齢を考慮したボディーケアとして、ヨガやオーラルケアを体験し
中村江里子が飼っているペットを紹介する
などといったように、ほぼすべてのページが中村江里子なのだ。
これに留まらず、さらには
いつのまにか日本の美術館も紹介し、
ウエスティンホテル東京のシェフが提案する洋菓子作りの場を訪問し、
星野リゾートでのグランピングを、実際に体験してその魅力を語る
と、「後半パリ関係なくなってるじゃん!」という始末なのである。
明らかに雑誌の目的語は「パリ」ではなく「中村江里子」であり、もはやパリのライフスタイルを発信するのではなく、中村江里子そのものを発信するメディアといって過言ではない。
中村江里子のことを慕っている人たちが「よっしゃ!」と一念発起し、中村江里子の魅力を多角的に取り上げる、いわゆるトリビュート誌のようなものであれば理解できる。
しかしこの雑誌はそうではなく、中村江里子のライフスタイルを中村江里子が主体となって伝えるもので、この差は果てしなく大きい。
俺はこの度を越したメディアの私物化っぷりと自己顕示性に驚愕し、そして感心した。
同時に、中村江里子というコンテンツ力を(おれは興味がないからわからないが)凄まじいと思った。
さらに驚くべきことに、表紙に「Vol.5」と書かれている。
つまり、このような雑誌がこれまでに4冊発行されており、年2回の発行であるそうだから、もう3年目を迎えているというのである。
3年にもわたって何を紹介するものがあるというのだろうか。
どこまで引き出しが豊富なんだ中村江里子は。
次は2017年3月に発行予定らしいが、いったい何を紹介するというのだ。
履いてる靴も好きな美術館も飼ってるペットも、今とそんなに変わらないだろうに。
いや、それは凡人のような発想であり、彼女は俺のような平民とは異なる時間軸で生きているのかもしれない。
小学校の6年かけて大掛かりなどっきりをかけられているんじゃないかという妄想の存在
小学生のころ、学校の授業の内容について、こんなことを考えていたことがあった。
いま教わっている内容が実は全部嘘で、市の教育委員会や学校が結託して数年がかりの壮大なドッキリをしかけている最中だとしたら、どうしようか。
先生たちはいつネタばらしをしようかと、今もうずうずしているんじゃなかろうか。
もちろんこんなこと本気で考えているわけではない。
ただ、3%くらいは、あってもおかしくないとは思っていたのは事実だ。
3%というのは、当時の消費税率と同じである。
当時の俺がなぜこんな発想に至ったか、今となってはわからない。
ただ、このままドッキリのネタあかしをされることなく授業が進行していけば、いずれ大恥をかくことは明白で、というのは他校の生徒は当然正しい内容を学んでいるわけであり、彼らと勉強について会話をしたものならば、
え? 大化の改新? そんなの聞いたことないよ! ってか藤原家? 誰それ!?
塩より砂糖の方が水に溶けやすいって、お前の家どんな砂糖使ってんだよ!
九九を覚えるなんてマジキチじゃね?
などとなるに違いないのである。
いずれも公立小学校であり、3つの小学校は管轄となる自治体がすべて異なるのだが、俺の転校の際には、上記のドッキリについても転校元・転校先の両校で引き継ぎがなされているものだと考えていた。
ここまで来ると、これがもし自分の子供の話であれば些か不安になる。
かと言って、たまに頭の片隅にわいて出るこの思いに対して俺は大した対策を取るわけでもなく、ある日先生が「今日は授業を始める前に、皆さんにお話があります。実は、これまで皆さんに授業で教えてきた内容は、すべて嘘でした」と言い出した時のリアクションを練習するなどしてすごしていた。
練習とは当然、「実はドッキリを仕掛けられていることに薄々感づいてたが、それをネタばらし前に言ってしまうと興ざめしてしまうので、知らぬふりをしつつ、存外に驚く」ことを指す。
そうこうしているうちに、小学5年生になって中学受験をするための準備として塾に通うようになって、学校で習っていたことを否定せずに授業が進められているのを見て、「ああ、俺は騙されてなかったんだな」と思ったことを覚えている。
医者のセカンドオピニオンのようなものだ。
■
大人になった今、当時をふと思い出して湧き上がったのは、「むしろ大人になってからの方がこのような事態はありえるんじゃね?」という思いだ。
というのは即ち、大人、社会人になってから人から教えられる、例えば「いい感じの仕事の進め方」や「女からちやほやされやすい言動」などはは、「1+1=2」や「セミは昆虫」などという単純かつ絶対的な内容ではなく、より複雑であり、明白な解答が存在するわけではなく、人によって様々な解釈があってもおかしくないものが多いとかんがえられるからである。
実際、ある人がまったくもって正しいと考える内容でも、別の人から見たら真っ赤な嘘である、なんてことは案外珍しくない。
小学校で習う内容程度であれば、塾でも同様のことを教われば、学校の授業も嘘ではないと判断して問題なさそうであるが、大人問題に関して言えば、2人の大人が同じことを言っていたとしても、3人目が違うことを言うかもしれず、教わった内容が正しいと確証を得るためには多くの人に意見を尋ねなければならない。
では、100人が正しいと言った内容があったとして、それが自分にも当てはまるとは限らないから困ったものだ。
つまり、何が正しいかを知ろうとした時点で詰んでいるのである。
何が言いたいかというと、テレビで昔は多かったドッキリの番組をどしどし復活させて、社会全体に対してドッキリ耐性を身に着けておくよう啓蒙するべきである、ということです。
「ノーベル賞今年もとれなかった」と言われることに見る「生殺しの辛さ」
自分の一生を左右した出来事について思い返してみた
「あんた、『ガキの使い』よりおもろいんちゃうの?」
「君の名は。」を観たが面白いと思えなかったときに感じたこと
先日、話題になっているので「君の名は。」を観てきた。
「話題になっているので」などと書くと、「自分が観る映画すら周りに流されて決めるんかい、お前には主体性というものが皆無かわれ、ぼけ」と思う人もいるかもしれないが、全くその通りで、公開を待ちわびていた作品でもなければ、これから観るものの選択になどこだわりは持っていない。
感想としては、残念ながら、面白いと思えなかった。
実は上映終了後に、映画館内で友人夫婦と遭遇し「面白かった?」と聞かれ、「いいや、どこが面白いのかわからんかった」と返答したのだが、これは簡単なようで実は難しい。
(決して自慢してるわけではない)
なぜなら、それを聞いた相手は「え? 世の中のみんなが面白いと思っているのに、マジで言ってんの?」と思うことが予想されるから。
俺はこの、「え? お前マジで言ってんの?」の雰囲気がとても苦手なのだ。
伝わりますかね? あの雰囲気。
「ばっかじゃねーの」と口に出しては言わないけれど、目の奥にそう書いてあるのが見える目つき。
話し始める直前に鼻で笑う、あの話し方。
言葉の前に接頭語として入っているように感じてしまう、「意味わかんないんだけど…」の一言。
声に出しては言わないので旗から見ている人にはわからないが、見下す側と見下される側、当事者だけがわかる、見下される側からしたら逃げ出したくなるような空間。
例えばこの映画館でのやりとり、友人だったので正直に答えることができたが、それほど親しくはない知人だった場合、「え? お前マジで言ってんの?」リスクを考えて、「いや面白かったですねーやっぱ」などと言っていたかもしれない。
しかしその場合、相手が乗ってきて「ですよねー、どのシーンがよかったですか?」などと、より具体的な内容の話に入っていってしまったら目も当てられない。
嘘の取り返しがつかなくなる事態に陥る危険性もあり得る。
両方のリスクが瞬時に頭の中で天秤にかかり、しかしあまりにも瞬時すぎて判断を下すことができず、結果として「いやーなんていうか、あれでしたねー」などと、答えにもなっていない答えを放ってしまうのが関の山だったかもしれない。
もし俺が国政選挙に立候補するとしたら、「『え? お前マジで言ってんの?』感の発露を法律で禁止する」ことを公約のひとつに掲げるであろう。
立候補しないけど。
それくらい、「え? お前マジで言ってんの?」感にはこの世から消え去ってほしいと思っている。
しかし今のところ違法でもないので、悪気があってもなくても、それを放ってくる人はいる。
したがってそれまでは、自分が強くなってこれに対抗するしかない。
このブログは単なる気晴らしで始めたものだが、数人から感想を聞いて、そういった精神の鍛錬が目的のひとつとなってしまった。
だからこのブログを見た人は、次に俺に会ったら、「え? お前マジで言ってんの?」と直接言ってもらってかまわない。
ブログの内容が急に「どこどこのプリンがおいしかった」なんて内容に変わったら、心が折れたのだと思ってもらえばいい。