勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

「完璧な人間」とは何なのか

この間美容室に行った時、雑誌「OCEANS」を手渡された。
美容室は普段手に取る機会がない雑誌を読めるのがいいと思う。
その号の「OCEANS」には、「夢あるオッサンのほしいモノカタログ」というサブタイトルがついていた。
持ってきてくれた10年来の顔なじみの美容師さんからは、「そろそろちょうどいいころじゃない?」と言われた。
だれがオッサンやねん。
 
 
それはさておき、ぱらぱらとめくって、「うわぁ、カイエンほしい」「時計に200万円って、1回時間を見るのにいくらなんよ?」「服高すぎやろ」などと、ひとりつぶやいていたのだが、しばらくして、ある箇所に目が留まった。
そこには、ポール・ニューマンという人物が紹介されており、
 
アカデミー俳優であり、さらには映画監督だけでなく、レーサーとしても一流。設立した企業は大成功を収め、しかもその利益は全額寄付。
つまり、男としてほぼ完璧。

 

みたいなことが書いてあった。
経歴の部分は内容しか覚えておらず、文面はこの限りではないが、最後の「つまり、男としてほぼ完璧」は、鮮明に覚えている。
 
俺レベルのゴミクズが「男として完璧」とは何なのかを語るのは、いささか心苦しいが、それでも考えることを避けられないくらい、「完璧」という言葉が持つ威力は強い。
 
この文章を読む限りでは、
  • 芸術(俳優・映画監督)すごい
  • スポーツすごい
  • 実業すごい
  • 超絶金持ち
  • しかも儲けを全額寄付する超絶人格者
  • さらに補足すると、記事には顔写真が載っており、誰が見てもカッコイイと思うであろう、渋いイケメンである
これら条件を兼ね備えていれば「完璧」である、というのが、このページを担当した編集者・ライターの方の価値観なのであろう。
 
しかし、少し待ってほしい。
そもそも、「完璧」とは、「欠点がまったくないこと(大辞泉)」という意味である。
上の記載には、ポール・ニューマンの欠点について、まったく触れられていない。
 
一般的に、ある特徴が「欠点」であるかどうかは、それを解釈する側の価値観に委ねられる。
つまり、仮にポール・ニューマンがスカトロ趣味を持っていた場合(あくまで仮定の話です)、相手の女性がそれを苦にしない、もしくは大歓迎であれば、彼女にとってスカトロは欠点にはならず、彼は引き続き「完璧」であるが、そうでない人からすると、大いなる「欠点」なのである。
 
そして、欠点になりやすいポイントは、表面的な要素ではなく、しばらく接してみて初めてわかるような内容であることが多い、と思う。
 
さらに、「本当に完璧」である人と深く関わるとどうなるか。
周りにそんな人はいないので、想像の域を越えないが、おそらく、とても息苦しく感じるだろうし、「生まれてきてすみません」と思ってしまうだろう。
なぜなら、人のことを妬んだり恨んだりすることがまったくない、完璧な性格を持っている人など、ほとんどいないから。
それはもはや、「悟り」の境地に近い。
受け取る側の態度次第では、「完璧」は「息苦しさ」に直結するものであり、逆説的に、「完璧な人などいない」という結論に至ってしまうのである。
 

不動産屋という、最高に精神を試される空間

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いままでの人生経験上、「心技体」のすべてを試されると思った場面が2つある。

ひとつは麻雀で、もうひとつは不動産屋だ。
 
俺はいままで東京に来てから7回くらい引っ越しを経験したのだが、不動産屋という場所は毎回そうだ。
訪れる者の精神を試験してくる。
多くの物件をまわるのに必要な「体力」や、引っ越しするときに気をつけておくべきことに対する「知識(技)」が求められるのはもちろんだが、最も重要なのは「強い心」だと痛感する。
 
 
今回、また引っ越すことを決め、不動産屋へ向かった。
 
ここの不動産屋は、内見に行くのに車を出してくれるそうだ。
いちいち歩いていかなくてもよいのは、俺ももうすぐ34だ、助かる、これで「体(体力)」が求められることはなさそうだ。
 
「技」についてはどうか。
おれは7回も引っ越しをしている、いわば引っ越し界ではベテランである。
過去には
  • 住んでみたら、家全体が携帯電話の圏外だったことに気がついた
  • 引っ越し前日まで全く準備を進めておらず、その日の夜に徹夜で麻雀して朝帰宅したら、引っ越し業者が来ていて怒られた
  • それであわてて全ての荷物を取りあえず段ボール箱に流し込みなんとか引っ越しを終え、「荷解きめんどくせー」と思って1ヶ月くらい放置していたところ、カビまみれのパンが出てきた
といった失敗もしたが、そういったアマチュア引っ越しマンはとうの昔に卒業している。
 
最後に「心」。
これも問題ない、と、最初は高をくくっていた。
上限予算と立地、譲れない条件をはっきりと自分の中に持った上で訪問したからだ。
 
しかし奴ら(不動産屋にいる人たち)は、そんな屈強に鍛え上げられたはずの俺の精神を、巧みに揺さぶってくる。
 
「ご予算はちょっとだけ超えてしまうのですが、こういった物件ならいま空いています」
 
「ちょっと」とは、金額に直すと月々7000円である。
俺は率直に「ちょっとじゃねーじゃん」と思ったが、しかし、部屋の条件は格段に良くなる。
歴然とした差に、事前に熟慮を重ね屈強に鍛え上げてきた俺の精神はもろくも崩壊し、俺はあろうことかその場で考え込んでしまった。
 
1日にジュースをひとつ控えれば5000円高いところに住める。
月に飲み屋に行く回数を1回減らせば、もう5000円高いところに住める。
社食でお昼のおかずを毎日1つ減らせば、もう5000円高いところに住める。
クラウドワークスで1文字0.1円の記事を月に50000文字分書けば、もう5000円高いところに住める。
携帯電話を格安SIMに変えて、新聞を取るのを止めれば、もう5000円高いところに住める。
月の家賃を25000円も上げられるではないか!
いや、でも万が一今の会社を辞めるときのことを考えると、生活水準を上げるのはよしておいたほうがいいだろう。
そもそも本棚の本を全部処分すれば、こんなに広い部屋はいらない。
駅から徒歩5分以内を希望してたけど、7分くらい歩けるか。
であれば、同じ金額でもっと新しい物件も選べるか…。
 
たかだかこれから住む物件を探す作業でしかないのに、生き方や人生に対する考え方まで問うてくるとは、なんということでしょう。
 
などということを、頭脳をフル回転させ考えていると、俺の担当者の右に座っている、店長然とした人が言う。
 
「出せるなら、出したほうがいいですよ。そのほうが後々満足度が高くなってきますから!」
 
あたりまえ~あたりまえ~あたりまえ体操~♪
 
思わず踊りそうになってしまうほど当たり前だが、それはそうだ。
高いものは、うまい。
そして、うまいものを食えば、うれしい。
うーん、どうしたものか…。
当たり前の事実にこれほど悩まされるとは…。
こういった「当たり前のことをさも貴重な知見のように言うことで、優位なポジションをとろうとしてくる」といった巧みな関節技をも、上級不動産屋になると駆使してくる。
 
散々悩んだ挙句、当初の予算内の物件で決めることができた俺の精神は、これまでとは違う強靭さ、しなやかさを持っているのではないかと思う。
今なら麻雀も負けない気がする。

2017年になり、コピペに人生を考えさせられてしまいました。

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2017年になりました。
あけましておめでとうございます。
 
年末年始といえば、みんな実家に帰り、旧友が集まって飲み近況報告などをして楽しむ数少ない機会である。
俺も友達が少ないにも関わらず、いや、少ないからこそ、これを重要視してそのような場はなるべく欠かさずに参加していた。
しかし、30代半ばに差しかかってくると、やれ「結婚して一家で過ごすので出られません」だの「子供ができてその世話をしないといけないので出られません」だの「禿げてきて出たくありません」だの、そんな理由で欠席をする奴が出てくるようになり、今回ついに高校卒業以来はじめて、会自体が催されなくなったのだ。
 
心待ちにしていた俺からしてみれば、「なんて日だ」と叫ばずにはいられない事態だ。
いろんな理由をつけて出てこなくなってしまった奴が増えたが、俺らからしてみれば、その理由であるところの環境変化こそ最も話を聞きたいところなわけじゃん? それが会合の主旨だろうが、そこのところをわかっているのか、と。
 
俺はこの会合を聖域にしてきたわけですよ。
結婚しても嫁の実家に行くことよりも優先して会に出席したし、当日東京で仕事になってしまってもそのまま新幹線に飛び乗って途中からでも参加したし、そういった俺の努力を一体なんだと思っているんだ、お前たちは。
 
と憤りかけたその時、気がついたのです。
そんなことをしていたから、家庭が維持できなかったのだと。
 
 
ちょうどその時、このコピペがちょっと話題になっていた。
 
俺はドラマも出ないし→出る
歌も出さない→出す
映画は撮らない→撮る
40歳で引退する→しない
浮気しまくる→しない
禁煙なんてするか→する
芸人は体を鍛えてはいけない→138キロのベンチプレスを持ち上げたい
コメディアンというのはどこか犯罪の匂いがした方がいい→バカまじめ
先輩の誘いを断ってバイト行く奴なんてありえへん→タウンワーーーーーク!!!!!!!!!
結婚なんてしない→嫁の誕生日に似顔絵入りケーキをサプライズで用意
子供なんていらない→娘に書いてもらった海のトリトンの絵を額縁に入れて飾る
子供なんてうるさいだけ→娘に好かれたくてバルーンアート教室に通う
自分と同じ顔したガキが家にいるなんて最悪→娘にぬいぐるみを買ってあげるために中野ブロードウェイを走り回る

 

松本人志さんがついた嘘一覧wwwwwwww - ニコニコ2ちゃんねる

これは至極簡単な話で、無粋を承知でマジレスすると、嘘をついているのでは当然なく、人間の考えは置かれた状況などによって変化し続けるということを表しているにすぎない。
彼のような若くして完成された才能を持った人物でも、それは例外ではない。
これも人間的成長なのであろう。
 
翻って俺はどうかというと、驚くほど変化していない。
まだトマトが食べられない。
こんなネタコピペに人生を省みてしまう、2017年の始まりは幸先があまりよくないからがんばろう。

楽しかった買い物の思い出

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前回は「買い物という行為が生む苦痛」について書いたが、これまでの自分の人生を思い返してみて、苦痛ではなかった、むしろとても楽しかった買い物がふたつあったことを思い出した。
 
 
ひとつは、ひとつはエレキベースである。
 
これらの買い物が楽しかった理由を語るには、購入時に俺が置かれていた状況を説明する必要がある。
 
 
車を買ったのは、俺が働きはじめて4年ほどが経ったころだった。
その4年程度の間、俺は四六時中仕事を辞めたいと思っていた。
とはいえ次の仕事のあてがあるわけでもなく、本腰を入れて転職活動に取り組むほどの気力もないため、「ああ行きたくねぇ」と呟きながらかろうじて会社に足を運ぶ毎日を繰り返していた。
 
蓄えはそこそこあった。
しかしこの蓄えそのものが、「やりたくもない仕事を惰性で続けて4年も続けてしまった」という取り返しのつかない事実の裏返しでしかなく、残高に比例して積み重なるのは、後悔や自責の念だけであった。
 
その時上司になった会社の先輩に、「車を買え」と言われた。
それまでは一度も車がほしいと思ったことはなく、車を買うことで自分の生活がどうなるかあまり想像できなかったが、残高をゼロにしたかったのと、ただカレンダーをめくるだけの毎日に変化をつけたいという思いがあった。
 
本屋へ向かいカーセンサーを読み30分でディーラーを決め、実車を見て30分でサインをした。
安物のコートを買うだけで2時間も3時間も悩んでしまうのに、である。
 
 
エレキベースを買ったのは、去年のことである。
楽経験豊富な2人と、音楽経験ゼロの俺の3人でなぜかバンドを組むことになり、その足で楽器屋に向かうことになった。
店には豊富な種類のベースがあったが、果たしてどれがいいのか俺には分別があるはずもなく、ただ選んでもらったものを買うだけだったが、楽しい買い物という観点では、これは功を奏したのだろう。
俺はベースの音の鳴らし方もまだわからないというのに、3人は「バンド名は何にしようか」「武道館ライブはいつごろにしようか」「ファンの女の子が来たときに取り合いでケンカをしないようにするためのルール決め」など、バカな話し合いをしていた。
もちろんベースの音を出せるようになれば直ちに女の子からモテまくるなんて考えはなかったが、楽器を覚えることには明るい未来しかなかった。
 
 
こうして振り返ると、
  • 生活に良好な変化をもたらす可能性を感じさせるもの
  • それまで全く買おうと思ったこともないもの
  • 悩む余裕や余地がないもの
が、俺が苦痛に感じない購買活動ができる条件なのだと思うが、前の記事で書いた、買い物を楽しむ人の気持ちを想像した箇所とそんなにずれていない。
  • 私は無尽蔵に預貯金があって莫大かつ永続的な収入があるから、たかが市井の買い物などにかかる金を失うことなど、苦痛でないどころか、ショップにお金を恵んであげる行為で社員店員がみんな喜ぶわけだから、それを見る私も快楽
  • もしくは、会社から給料をもらって働くのがこの上ない楽しみであり、買い物で金を使えばまた会社で勤務して稼ぐ必要があるがそのことを考えると今からもう幸せ
  • 商品Aと商品Bのどちらがよいかなんて、見た瞬間即決できるから、悩んで苦痛を感じることなど皆無
  • 話しかけてくるアパレル店員など無視
  • もしくはアパレル店員が話しかけてきて、私もそれに返しているうちに、フレンドリーどころかフレンドそのものになってみんなハッピー

 

ただ、今は金がなくそういう無鉄砲な買い物は過去の話である。

いま楽しいのは、CDや本を買うくらいだ。

「ごゆっくりお買い物をお楽しみください」と今日も言われて思ったこと

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「ごゆっくりお買い物をお楽しみください」とよく言われる。
読者の方々におかれましても、ほとんどの人が言われたことがあるのではないだろうか。
 
しかしこのセリフに対して毎回疑問に思うのは、「いや買い物なんて全然楽しくないんですけど」と言いたくて仕方がなくなるからだ。
それでも俺はそう反論することはしない。
なぜなら、そのように反論したところで自分の気持ちが晴れるわけでもないし、そもそも相手はだいたい生身の人間ではなく館内放送など音声のみであることが多いから。
スピーカーを求めて空中に向かって「買い物なんて全然楽しくねー」なんて声を発したところで、狂人扱いされるのがオチだ。
 
みんな本当に買い物が楽しいのだろうか。
なんであんなものが楽しいのか。
俺が買い物を楽しいどころか、どちらかと苦痛に感じる理由は
  • 血反吐を吐く思いをして会社からもぎ取った賃金を費消するのが、肉体精神を切り刻まれているかのように感じてしまうので苦痛
  • 商品Aは商品Bよりもこういうところはいいんだけど、こういうところがダメで、商品Bは商品Cよりもこういうところがいいんだけどちょっと値段が高くて…などと考えていると、いつまで経っても終わることがなく、せっかくの貴重な休日、早く買い物など終えてもっと楽しい他のことに時間を使いたいのにも関わらずなかなか決められないから苦痛
  • そんな俺の気持ちも露知らず、マヌケ面したアパレル店員は、俺が求めてもいないのにも関わらず、「サイズや色違いもありますのでおっしゃってください」などと気軽かつフレンドリーに話しかけてきて、こっちはそれ以前の問題で頭をフル回転して悩んでいるのに、それを邪魔して適当な商品を売りつけてこようとするから苦痛
などだが、みんな当たり前のように「ごゆっくりお買い物をお楽しみください」と言うってことは、「買い物は楽しい」と感じる人の方が多数派に相違なく、買い物を楽しむ人の気持ちを知るには上の逆を考えればよいわけであって、つまり
  • 私は無尽蔵に預貯金があって莫大かつ永続的な収入があるから、たかが市井の買い物などにかかる金を失うことなど、苦痛でないどころか、ショップにお金を恵んであげる行為で社員店員がみんな喜ぶわけだから、それを見る私も快楽
  • もしくは、会社から給料をもらって働くのがこの上ない楽しみであり、買い物で金を使えばまた会社で勤務して稼ぐ必要があるがそのことを考えると今からもう幸せ
  • 商品Aと商品Bのどちらがよいかなんて、見た瞬間即決できるから、悩んで苦痛を感じることなど皆無
  • 話しかけてくるアパレル店員など無視
  • もしくはアパレル店員が話しかけてきて、私もそれに返しているうちに、フレンドリーどころかフレンドそのものになってみんなハッピー
となる。
 
しかし、こんな人が世の中の多数派だと、俺は到底信じられない。
謎は深まるばかりだ。

「名乗ることすら許されない」という環境を脱出する方法を、数学の0点のテストから学んだ

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未成年のときに所属する社会では、地位の違う相手と接する機会といえば、親と子、先生と生徒くらいがせいぜいのところであるが、大人になれば、相手と身分の差が大きすぎて自分の名を名乗ることすら許されない状況が存在する。
そのように匿名を強いられる機会が長く続くと、自我の矮小化、アイデンティティの喪失につながってしまうケースがある。
 
名前で呼ばれる。
それだけで救われることもあるのではなかろうか。
 
 
中学や高校のテストで、「ネーム点」という制度が存在した。
ある数学の先生が勝手に作った制度で、テストで0点が確定したときに、名前を書いた箇所にマルをつけて、「3点」など点数を与えるものだ。
これによって、答案は白紙もしくは全問間違いであったとしても、自分の名前さえ書いてあれば0点を免れることになる。
 
初めてネーム点を獲得した生徒が、数学のテストなのに名前にマルをされていることを不思議に思い先生に質問したところ、先生は「それはネーム点や」と言ったことから、この担任の先生のみが採用するローカルルールとして認知され、一気にこの制度は生徒の間で市民権を得た。
 
ネーム点導入の目的は直接尋ねたわけではないからわからないが、おそらくは0点を取った生徒に対する救済措置だと推測される。
では、0点を取った生徒を救済するのはなぜか。
 
強いてその理由を挙げるとすれば
  • 「0点」のインパクトが強烈すぎて生徒や親がショックを受けないようにするため
  • 生徒が自信を失ってしまわないようにするため
  • 生徒が数学が嫌いにならないようにするため
などだろうが、これらは当然、その効果はまったく認められることはなかった。
 
少し考えればわかることだが、0点を取るような生徒は元々勉強などせずにテストに臨んでいるから、0点を取ったくらいでショックを受けることなどないし、失ってしまうような自信などそもそも持ち合わせていないし、もっと前の時点で数学など嫌いになってしまっているし、親に至っては、自分の子供の採点後答案を見て、名前にマルがついている事実の方がむしろショックだからである。
 
それどころか、「ネーム点」という言葉の甘美な響きから、「中途半端な点数を取るくらいならば、ネーム点を取ってしまった方がネタになって面白い」なんていう発想に取り憑かれ、取れる数十点を捨ててネーム点を拾う生徒が続出した。
「ネーム点」と名付けられたことも誤算となり、結果として先生の狙いは完全に裏目に出てしまったのだ。
 
 
しかし俺はこれを失敗とは思わない。
なぜ「ネーム点」のことなど20年近く経った今になって思い出したのか不思議だったが、それは「名乗ることすら許されない」状況からの脱却につながるのでは、と、神が与えてくれたきっかけなのではないかと捉えなおすに至った。

人間は何歳にピークを迎えるか問題と、そんなことで悩んでしまう問題

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電車の中で60代にも見える人が、「男が40代でやっておくべきこと」というタイトルの本を読んでいた。
 
宇多田ヒカルが今度やるネットライブのタイトルが、「30代はほどほど」だった。
 
業界で相当の実績がある会社の上司とフリーの方が会話をしていて、おふたりとも口をそろえて「自分の頭脳のピークは30歳ころだった」と言っていた。
 
 
転職する時に、「未経験の業種に転職していいのは20代まで」という記事を数多く目にして、うーん、やっぱそうだよねー思ったこともあったし、32歳にして未経験の異業種に転職した後に、「あの記事は正しかったかも知れない」と感じたことも何度もあった。
 
自分の人生のピークがいつだったかと思い返してみると、明らかに、中学入学と大学入学の瞬間だったといえる。
当時は今よりも格段に頭の回転スピードが早かったが、以降はただ転げ落ちるのみであった。
 
先に述べた上司やフリーの人、それから宇多田ヒカルのように、人生のピークの時期に金字塔ともいえる実績を残している人は別として、俺のように、錆びついた頭脳と失われた熱意でただ漫然と、ベルトコンベアーにでも乗っているかのように、その大切な時期をやりすごしてしまった人間は、どうすればよいのだろうか。
 
 
おれは「◯◯歳までにやっておくべきこと」といった本を読むのが嫌いだ。
なぜなら、書かれていることのほとんどをきっとやっていないから。
いま「20代のうちにやっておくべきこと」というタイトルの本を読んだとしたら、「うわーこれやってない、あれもやってない。ってかほとんど全部やってねーじゃんあちゃあ」となることは目に見えており、そんな暗澹たる気持ちに自らすすんで飛び込むようなことをするわけがない。
 
そういう点においては、「40代でやっておくべきこと」を読んでいた60代(推定)のおっさんは偉い。
20年遅れを取り戻そうとするその熱意には、頭が上がらない。
しかしそうも言っていられないのは、「数学Ⅰ・A」が終わらないと「数学Ⅱ・B」には進めないのと同様に、きっと、「20代でやっておくべきこと」を終了しないと「30代で~」「40代で~」には進むことはできないだろうから、いま遅れを取り戻し始めないと、傷はどんどん深まっていくばかりであって、「脳が錆びている」だの「自分を探したい」だの言っている場合ではないはずだ。
 
このペースでいけば、「五十にして立つ」「六十にして惑わず」。
どこまで遅れを取り戻せるだろうか。