勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

大坂なおみの会見で出た「日本人がどうのこうの」っていう質問について

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大坂なおみが日本人選手初となる全米オープンテニス制覇の偉業を成し遂げ、凱旋記者会見を行った。
その会見の中で、ある記者が大坂選手に
「『日本人同士の間に生まれた人が日本人だ』という古い日本人観に対して、大坂選手の出現、活躍で、従来の日本人観が変わろうとしているのではないか。本人的にはどう思う?」
といった内容を質問をし、これが不適切であるとして炎上している。
 
「どうしてこんな質問をしてしまったのだろう?」
「テニスの凱旋会見ではないか」
「テニスのことを聞いてあげようよ」
と思う人も多いようで、俺自身もどうしてこんな質問が飛び出したのか不思議で仕方がないが、少し考えれば、これはそんなに不思議なことでもない。
要はこの記者もしくは記者が所属する媒体が、テニスの結果やプレーの内容そのものよりも、国籍の方に関心が高かったのだ。
彼の自尊心の拠り所が「日本人であること」であったか、または反対に、「国籍、ナショナリズムを否定して新しい価値観を広めること」に人生の喜びを感じていたか。
それだけのことである。
ただ、彼もただの一記者であって、質問する内容は自分の意志よりも所属するメディアの編集長の意向によるところが大きいだろうから、彼の上司がそういう価値観を持っていたのかもしれない。
 
今回に限らず、記者からの質問内容に対して、「くだらない質問をするな」とか「不適切だ」とかいって炎上することが多いが、質問者からすれば、くだらないどころかそれこそが最重要質問項目であり、完全に適切なのだ。
人が発する質問には、質問者のこれまで数十年の人生が反映されるのだから。
 
 
私が好きなことを質問していいと言われたら、こう尋ねていただろう。
そして、「くだらない質問をするな」と、叩かれていただろう。
「今回の優勝賞金が4億円とのことですが、それだけ稼いだら十分だと思いますが、まだ続けますか?」
「大坂さんのような逆玉の輿を捕まえようと思ったら、どうしたらいいですか?」
 

透明なものが流行っているようで、実にいいことだなーと思った直後に反省した話

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ちょっと前に、テレビや雑誌で立て続けに見て、割と強く印象に残っていたのだが、最近透明なものが流行っているらしい。
身近なところでは、飲料がそう。
お茶や有色のジュースにかわって、フレーバーウォーターと呼ばれる、一見すると水だが味や香りがついた飲料が売上を伸ばしているのだとか。
限りなく透明に近いヨーグルト飲料なんて商品も出ているらしい。
清涼飲料水が透明なのはまだわかるが、ヨーグルトやコーヒーやビールまで透明なものが作られ始めていると聞くと、やや不気味な感じもする。
 
また、少し離れたところでは、若者、特に女性の衣装や持ち物が透明化してきているらしい。
「少し離れた」とは、俺が若者ではなく、ましてや女性ではない、いわゆるおっさんであり、その点で若者や女性から「離れている」という意味で言ったのだが、そうはいっても同じ社会人、会ったり話したりする機会も今後あるかもしれないから、「少し」をつける見栄をはってしまった。
現実には、俺の周りに若い女性はもうほぼゼロだから、実際に透明化が進んでいるかどうかを確認する方法はない。
あくまでメディアの情報による限りでは、カバンや靴、アクセサリや服でも、透明なものがよく売れるようになっているようなのだ。
 
いったいなぜ透明なものがもてはやされるようになってきたのか。
といったことを、主に経済誌などで執筆している人たちが分析していた。
見てみると、主な論旨は「飲料は健康志向、透明な方がなんだか健康に良さそうだから。身につけるものは、透明な方がインスタ映えするから」ということらしい。
 
俺は率直に言って、「なるほどなーさすがこういう一流誌やインターネットサイトで執筆しているような人は、分析力、洞察力が一流で、凡人には提示できない視座を提示できるもんなのだな」と思った。
翻って自分を省みると、自分の阿呆さ、愚鈍さを思い知ることとなり、暗澹たる気持ちになった。
なぜなら、俺は「ほほーん。なんでやろ。まあええわ。そんなことよりこの傾向がバンバン進んで、みな裸同然の格好で出歩くようになれば、24時間フリーラッキーエロタイムやんけ。ナイスですね」くらいのことしか考えていなかったからだ。
こういう日々のひとつひとつの考察、思慮が積み重なり、長い年月の後には、超人と赤子、人とミジンコくらいの圧倒的な差がついてしまうのであろう。
 
俺は、Newspicksでも始めようかと思う。
 

今、ピンクグレープフルーツジュースに怒っている

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最近、俺はあることに気がつき、かなり憤っている。
 
何に対してかと言うと、ピンクグレープフルーツジュースに、である。
と書くと、「お前はピンクグレープフルーツジュースが嫌いなのか。では見なければよいしそんなことでいちいち激怒していてはこのストレス社会では即憤死だよ」と忠告してくれる親切な方も何人かいらっしゃるが、そうではない。
俺はピンクグレープフルーツジュースが好きなのだ。
まあ必ずしもピンクである必要はないのだが、ピンクであることが好ましい。
ただ、100%のものでなければならない、という条件があるし、美味しいものでなければならないのは言うまでもない。
ピンクイズベター、100%イズマスト。
 
話は変わるが、「何か買い物せんとなあ」と思った時に、いまの俺の家の周囲には、セブンイレブンが2店、ファミリーマートが1店、イトーヨーカドーが1店あり、さらにちょっと離れたところにマルエツがある。
利便性を追求しすぎたことによる過剰なまでの密集具合だが、21世紀ももうすぐ5分の1を過ぎるところで、効率化も行き届いた結果の飽和状態が今のコンビニ・スーパー密度なのだろう、これは素直に享受したい。
 
だが、それにも関わらず、である。
 
ある日、俺は「あ、冷蔵庫のピンクグレープフルーツジュースが切れとる。買わな」と思い、最寄りのセブンイレブンに行ったところ、先日まで置いてあった500mlのピンクグレープフルーツジュースのパッケージがなく、その場所にさもオレンジジュースのパックが「ここにはずっと前から僕が置かれていましたけれども何か」とでも言わんとばかりに置かれていた。
つい先日俺が同じ売り場を見たときには、左からりんごジュース、オレンジジュース、ピンクグレープフルーツジュースとそれぞれ1列ずつ陳列されていたのに、今見たらりんごジュース、オレンジジュース、オレンジジュースとなっている。
はて、「オレンジジュースは売り場が2倍になるほど人気があっただろうか」と思ったが、いや、そんなことはなく、先日からずっと、最初に売り切れそうになるのはピンクグレープフルーツジュースで、この3種類のうち一番人気なのである。
 
俺も「困ったな」と一言つぶやいたものの、そこは大人、店員をぶん殴ったりすることなく、もう1店舗のセブンイレブンに向かったのだが、ここにもない。
「どうなっているんだ」とつぶやいてもやはり大人、店員を蹴り倒したりすることなく、ファミリーマートに行くとここにもない。
さすがに次の店になかったら、店員を火炙りにしよう、そう思ってイトーヨーカドーに向かう。
コンビニと違って店舗面積が広いイトーヨーカドーならきっとあるだろう、と思って売り場に行くと、いつもはあるはずの1000mlで152円のパックはなく、「ぴゅあぷれみあむ」とかなんとか書いてあるもので、750mlで352円のものがあった。
「なぜいつものがないのだ、こんな高いの誰が買うんだ」と、コレジャナイ感は残りつつも、一応あることにはあったわけだから、店員を火炙りにするわけにもいかない。
結局俺はピンクグレープフルーツジュースのない時期をしばらく過ごすこととなってしまった。
 
しばらくして、最寄りのセブンイレブンでピンクグレープフルーツジュースが復活、「ああよかったよかったこれでもうピンクグレープフルーツジュースがない生活を過ごすことなくやっていける」と思っていたが、しばらくしてまた急に取り扱いがなくなり、そしてまた復活。
これを何度か繰り返して、気がついたことがある。
 
グレープフルーツジュースセブンイレブンにない時には、もう1店のセブンイレブンにもないし、ファミリーマートにもないし、イトーヨーカドーにもなく、マルエツにもない。
ただヨーカドーとマルエツには、ぴゅあぷれみあむ」とか「果実しぼり」とかいい加減な理由をつけて高価なもののみ取り扱われてはいたが、普段取り扱っているお手軽価格のグレープフルーツは、時期を揃えて商品棚から消えていたのである。
 
これこそ、不当に高価なものを買わせようとするカルテルでないとして、果たして何であろうか。
許す訳にはいかない、グレープフルーツジュースに罪はないのだから。
まだグレープフルーツジュースを引退する訳にはいかない。

新潟の米山元県知事の会見は、稀に見るすさまじい内容だった

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ここしばらく性的スキャンダルによる謝罪会見が立て続けに行われているが、そんな中でも圧倒的に新潟の米山元県知事の会見は、人の心をうつ、すさまじい内容だったのではないか、と個人的には感じている。

 

通常の記者会見で要求されるのは、「事実の説明」と「謝罪」、このふたつで十分である。

だから本来であれば

「出会い系サイトで知り合った女性と援助交際をしていました。不適切な行為で謝罪するとともに、責任を取って知事職を辞任します」

とだけ言えば他には何も必要なかったはずだ。

 

援助交際はもちろん褒められたことではないが、男性がマネーの力を活用して女性にちやほやされたいとか性欲を発散したいという欲求は極めてよくありふれたものであるため、込み入った表現は不要であろう。

最低限の釈明さえあれば、「あーそういうことね、やりたかったのね」とわかりやすく解釈され、この件は終わっていたに違いない。

 

しかし、この会見はそれでは終わらなかった。

米山元県知事からは

「私としては、交際だったと思っている」

「女性の歓心を買うためのことだった」

「好きになってほしかった」

「もらう側からは、そんなことで好きになることは全くない、もらうことだけが目的だったということだったのだろう」

と続き、さらには友人の紹介で交際した女性がいたと明かした上で

「無理をしなくても愛されるって、こんなにいいのか、こんなに楽なのかと思った」

と、記者会見の持つ無機質なイメージからはかけ離れた生々しさの、あたかも心の奥底をえぐり出してぐいぐいと見せつけるかのような発言が飛び出した。

 

これには「そこまでぶっちゃけるか」と思ったとともに、言う必要のないことをつい漏らしてしまう元知事の不器用さ、その過度な素直さ、青臭さを感じずにはいられない。

だが、ただ「不器用な人だ」では納得できないほどの異様さを放っている。

まるで男子中学生の初めての告白ではないか。

いや、中学・高校と男子校だったからよく知らないが。

 

おそらく、元知事は会見に訪れた記者たちではなく、援助交際をしていた相手に話していたのではないか。

もうその女性には会うことはできない。

しかし、せめて本当の気持ちだけでも伝えたい。

そこでメディアを通じてそれを実現した、元知事なりの苦渋の決断ではなかったか。

「お前はどう思うか知らないが、いや、わかっているつもりだが、それでも俺は本気だったんだぞ」と、伝えたかったに違いない。

映画の別れのセリフさながらの。

いや、映画以上に映画的で、ロマンチックだ。

 

中継動画を見てみると、1時間20分もの長い会見だったようで、しかも、後半から元知事は汗だくになっている。

いやはや、すごい会見だった。

ワークライフバランスの両立とか働き方改革なんて存在しない

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最近は働き方改革という言葉がよく出回っている。
実際、長時間かつ理不尽な労働を従業員に強いるブラック企業なるものが跋扈し、一度そんなところに入社してしまったものなら、肉体、精神は蝕まれ不幸のスパイラルに陥ってしまうケースも多いらしい。
加えて、インターネットを使ったコミュニケーションツールも進化し、「リモートワーク」といって会社に出社せずともバンバンしゅんしゅん仕事をこなしていくことも可能になった。
出社時間やムダな会議を省き、勤務時間の短縮にも繋がっているとかいないとかいう話を聞いたこともある。
つまり、世の中が総出で
「会社になんか行くのやめてネットで仕事すればいいじゃん」
「労働時間なんてどんどん短くしていけばいいやん」
という歓迎すべき機運、ムードになっているのである。
そもそも仕事なんてしないで済むに越したことはないんだし。
 
しかし先日、俺にとってこの機運をぶち壊す出来事があった。
 
 
何を隠そう、私は「LINEツムツム」というスマホで遊ぶゲームをやることがある。
一時期は隙きあらばすぐツムツム、といったくらいにツムツムをやることが常態化していたのだが、ある日を契機に全くやらなくなった。
ツムツムに真剣に向き合っている時間を、空虚なものに感じてしまったのだ、それも突然。
「断ツムツム」としたのである。
 
先日、ふと1年ぶりくらいにツムツムアプリを開いた。
いや、1年ぶりか何年ぶりかもうわからない、それくらい「断ツムツム」中、俺はツムツムのことを忘れていた。
悪魔との再開だとも気づかずに。
 
久しぶりのツムツムプレイに、俺はいくばくかの練習期間を必要としたが、すぐさま感覚を取り戻し、1000万点以上のスコアを叩き出した。
ツムツムをやる人には理解してもらえると思うが、これはかなりのハイスコアである。
実際俺にとっても、これまでの自己最高を塗り替えるスコアだった。
 
ハイスコアを出して得意気な俺は、スコアランキングを見て愕然とした。
1000万点を超えている俺は、ランキング1位になったのだが、2位には600万点くらいで、某番組でいっしょにやっているディレクターがランクインしていた。
他にも、仕事で関わっている人が何人かがランクイン。
ツムツムのランキングは週1回更新されるのだが、この週、このディレクターはVTRの出来が悪くかなり追い込まれていたはずで、そのロケの仕込みやVTRの修正などでとてもツムツムどころではなかったはずである。
そんな合間に600万点、何やってるんだこいつは。
 
そう思った直後、俺は反省、自戒した。
「俺自身が最もそう思われる場所にいる」ことに気がついたのだ。
本来、ツムツムのスコアとその人の閑暇には何の関係もないのだが、実際にランキングを見ていると、どうしても「高スコアを出しているやつ=暇人」のイメージが拭いきれない。
職場でツムツムのハイスコアなんて出している場合ではないのだ。
 
 
それにしても、おそろしいのはLINEである。
 
コミュニケーションツールとしてあまりに普及してしまったため、個人的な範囲にとどまらず職場や仕事関係の人とつながったり、実際にそれを使って業務連絡をやりとりすることになるケースも多いかと想像する。
それだけであればまだよかったのだが、ゲームにまで関連してしまっている現状では、リモートワーク、ひいては働き方改革など、まだまだ夢物語ではないだろうか。

仮想通貨と「労働意欲とは何か?」という話

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最近よく、仕事関係の人から
「お前ビットコイン(仮想通過全般の意で使われている)持ってるの?」
と尋ねられる。

聞いてくる人に共通する思惑、魂胆は
「仮想通貨でボロ儲けしている人を周囲で発見、その要領、秘訣を聞き出し、応用、自分も今後働く必要もないくらいの金員を儲け、実際に働くのをやめる」
のが理想らしい。

そのことは、俺が
「(仮想通貨は)持っていません」
と返答したら、後にだいたい
「なんだよーやってねーのかよ。誰か知りあいで億とか儲けた人いないの?」
と続くことから推し量れる。

 

実際、仮想通貨に代表されるビットコインは、直近1年間に限っても10倍以上の価値になっており、億単位の儲けを出した「億り人」なんて言葉も誕生、「俺も億儲けてさっさと引退したい」という思いも、単なる妄想の域を超えた現実味を帯びているように思える。

 

金融資本主義が発達してから、労働の意義は相対的に低下していたが、それでもまだ価格は労働(が将来的に生み出す価値)と結びついていた。

しかし、仮想通貨はもはや、労働との関連性はない。

俺には経済的な知識がほぼないので適切な表現かどうかわからないが、印象としてはより単なる数字あわせ、ゲームに近い。

そんな仮想通貨によって「1万円が数億円に」なんて一発逆転、リアル「カイジ」のような社会が現実となりつつある中、我々は労働の意味を再定義せざるを得ない。

 

俺が考えるこれからの労働に対するイメージを先に言うと、「一攫千金即リタイアを仮想通貨で実現するための種銭稼ぎ」である。

 

今までの社会では、死ぬまでに必要な金を稼ぐためには、一部の資本家や経営者などを除いて、定年まで働かなくてはならなかった。

労働市場では、一度ドロップアウトしてしまうとなかなか復帰が難しいため、相当の厳しい環境であっても逃れることができず、また、歳を重ねるにつれてより高いスキルが要求されるため、労働者はスキルの研鑽という苦行に耐える必要があった。

 

しかしこれからは、仮想通貨という名の賭場に行き一発当てれば人生ゴールも夢ではなく、労働はその種銭稼ぎでしかないわけだから、何も我慢することはない。

「キャリア」の呪縛から逃れ、嫌な仕事など直ちに離れ、コツコツと黙々と淡々と貯金、ゴールチャンスが来るのをじっと待っていればいいのだ。

 

当然、ゴールは決まらないことの方が多い。

外してしまえば、また一から種銭の充填をやり直せばいいだけの話だ。

当たった者から労働の呪縛から一抜け、先立つ者がうらやましくても「次は自分の番だ」と思えれば仕事の辛さにも耐えられる。

どれだけ頑張っても定年まで続く気が遠くなるような会社員人生に比べれば、どれだけ夢がある話だろうか。

 

今後、ますます労働に対する信仰は失われていくだろう。

 

俺のフラット化と現実離れ

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『フラット化する社会』という著作が昔ベストセラーになった。
10年以上前に発表されたこの本は、インターネットによって情報が物理的な距離の障壁を越え、あらゆる産業がグローバル化、フラット化する、と、まさに今の世界の状況を予見した名著だと思うが、俺は読んでいないので、おそらくそんな内容だったんだろうと推測する。
 
発売当時俺は本のタイトルと帯だけを見て、「あーなるほどねー先見の明とはこういうことを言うんだなあ。俺にもそれがあれば、時代に先回りして銭儲けができるのに」と思ったものの、本の物理的な厚みと、労働がどうした経済がどうしただの、表紙から漂う内容の意識の高さを敬遠して、手に取ることはなかった。
しかし最近になって、10年遅れでやっと俺にも、「あーたしかにフラット化やね世界は」と肚の底から思えるような感覚が何度もあり、フラット化前線の到来を身をもって体感している。
これぞ先見性のなさ。
 
 
最近頻繁に「若者の○○離れ」が話題に取り上げられている。
○○には、テレビや酒、車、旅行、恋愛、ガム、ギャンブル、お茶など様々なものが当てはまり、この手の話題があがるたびに「近頃の若者はどうなっとるんだ!?」と嘆く人が現れる。
俺はそういった言説に対してどう思っているかと言うと、基本的には「そらそやろ。当然そうなるやろ」と思っている。
「若者」というには俺は歳を取りすぎてはいるが、自分の体験としてそう思うのだ。
 
つまり、実際に俺もいろんな○○から離れまくっており、その原因がインターネットやバーチャルリアリティの発達による自分の欲望の低下にあることを、実感しているからである。
 
いろんなものの発達によって、我々はいつでも、
遠い国の美しい風景を目の当たりにすることができるし
10年に1人レベルの高校球児を育成することができるし
レアルマドリードと対戦することもできれば、レアルマドリードになることもできるし
金メダリストにもなれるし
悪い奴から宇宙を救うヒーローになることもできるし
超いい女とセックスできるし
富士山の頂上まで行くことができるし
美少女な戦国武将を育てて野球で天下統一することができるし
家にいながらなんだってできるのである。
 
そんなものだから、趣味がなんだとか夢がなんだとか、あの人がうらやましいとか、翻って俺の今置かれたこの悲惨な状況は何だ、とも思わなくなる。
だって俺は万能だから、非現実の中でだけは。
そして陰にも陽にも感情の振れ幅が小さくなり、「フラット」になってくるのだ。
先進国と発展途上国の経済とか技術がフラットになってくるとかそういう難しいことはよくわからないが、俺の「フラット化」はここにある。
 
こういう状況に対して、「それは現実から逃亡だ」と非難する人もいるが、逃亡できているうちは逃亡していていいと思うし、むしろ今後の技術発展は、さらに逃亡の幅を広げ、より現実に近い非現実を提供する方向に進むだろうから、みんなばんばんフラットになっていって、何も思わぬ人で世界は埋め尽くされるようになるのであろう。