勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

「◯◯っぽいですよね~」からどのように逃れるか

人と話していると、最近よくこう言われる。
(そもそもあまり人とそんなに話していないので、その数少ない機会のなかでは「よく」という意味で)

 

「A型っぽいと思ったけど、B型だったとは」
「大人っぽいと思ったら、案外子供っぽいんですね」
「タバコ吸う人っぽく見えたけど、意外ですね」
「長男っぽい感じがしたけど、一人っ子なんですね」
「もっと楽しい人っぽく思ってたのに、実はネクラなんだね」

 

当初持っていた第一印象がしばらく話しているうちに塗り替えられ、相手の頭の中で俺は、1つ目の「っぽい」(A型っぽい)から2つ目の「っぽい」(実はB型っぽい)に移動させれられるわけだが、すぐ変わるというのはいかに人の第一印象がいい加減であり、ころころと変わるものであるかを表している。

しかも初対面の人と5分話して下した「っぽい」と、2時間話して下した「っぽい」では、2時間後の方が実態に近いという保証もない。そもそも「実態」なんていう客観的事実が明確に存在するわけでもない。

「世の中で自分のことを一番知らないのは自分だ」ともよく言われる。

 

にもかかわらず、なぜ人は他人のことを「っぽい」と分類するのだろうか。

 

理由をいろいろ考えてみたのだが、行き着いた結論は「分類する行為が楽しいから」でしかないのでは、というものだった。

思い返してみれば、分類することで生活が便利になるわけではない。話しているうちに思い出す程度なら、よくあることだ。

しかし「あの人はネクラだからこういう話し方をしよう」など、分類によってそれぞれの人への対応を使い分けるというような器用なことをする人がいても、それを目的とした分類は少数派であろうというのが俺の実感だ。

少なくとも俺はそんなことができるほど器用ではない。

もっともそれ以上に、人は分類する行為自体を楽しんでいるように見える。

 

反対に、分類されることについてはどうか。

 

これも私見だが、「○○さんって□□っぽいですよね」と言われていい気持ちのする人は少ないであろう。

それには「相手が分類行為を楽しむ材料にされていることに対する不快感」や、「個性重視教育がもたらした価値観の影響」など、様々な感情が入り混じっていそうだが、俺にとっての最大の理由は、以前に血液型と兄弟構成を尋ねられ、B型で一人っ子だと答えたところ、相手の目がクズ、人間界の闇を見るような目つきに変わったことだ。

 

しかしそんなことよりもここで重要なのは、分類行為は「すると楽しいけど、されると嫌なものである」ということだ。

 

俺は上記に挙げた理由などによって、世の中に流通する「『っぽい』を用いた分類行為」の数を、ゼロにしたいと思っている。それこそが、「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」が表した世界ではないだろうか。

 

もしくは、世の中の人が「■■っぽいですよね」(■■には俺の名前が入る)と言われるような存在になりたいと思う。

しかしそれはスーパースターの領域。

だからムリ。