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勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

「ノーベル賞今年もとれなかった」と言われることに見る「生殺しの辛さ」

棲む世界が違いすぎて一夜を共にするなど考えられないくらいの女性、もしくは、腐れ縁であるからしてやりたいという発想も出てこない女性と食事をして、やることなく解散したとしても、つらい、悲しい、という心境には全くなることはないだろう。
しかし、「もしかしたらワンチャンあるかも」「今日は勝負だ」と思いながら挑んだ女性との食事では、話は異なり、大いなる失望感に襲われるものだ。
 
もしそれが、毎晩続くとしたら、どうだろうか。
 
 
ノーベル文学賞の受賞者が発表された。ボブ・ディランの受賞は驚きをもって世界に受け止められたそうだが、日本人にとっては村上春樹がまたしても受賞を逃したことのほうが、関心が高いようだ。
 
本人はいったいどんな想いだろうか、私には到底それを思い知る方法もないし、知りたいという欲求もない。
ただ、彼に少しでもノーベル文学賞がほしいという気持ちがあったとするならば、毎年有力候補として扱われることは、相当つらいことなのではなかろうか。
 
私の記憶では、この「村上春樹ノーベル文学賞とれるんんじゃね?」騒動は、10年前ほどからあったと思う。
つまり彼は10年の間、毎年この「期待→失望」のループを回らされているのだ。
 
これだけでも十分、想像を絶する境地だが、これ以上につらいと私が思う点は、別のところにある。
それは「ノーベル賞候補者たるもの、それにふさわしくないことをしてはならない」ということ。
この足かせは相当、対象者の日々の生活指針や精神状態に大きな影響を与える。
 
10年間候補であり続けるということは、10年間、いまの彼が持たれているイメージを変えることはできないということだ。
それは選考者に対する裏切り行為になってしまう。
 
例えば、極端な例で申し訳ないが、もし彼が今から「なんかAV男優でもやってみたいなぁ。よっしゃいっちょデビューしたろ」などと思い立ち、それを実現した場合、おそらく間違いなく次の選考から、彼の名前は候補から消え二度と復活することはないだろう。
 
これはあまりに突拍子もない話ではあるが、文春にゲス不倫が見つかったとしても、だめだろう。
福本豊が「立ちションベンもできなくなる」という理由で国民栄誉賞を断った話は、あまりにも有名である。
 
さらに言えば、文学賞という性質上、これまで接したことのない価値観に触発され、自らの精神性を大きく鞍替えすることは、もうできない。
「来年こそはノーベル賞」と思い続けている限り。
 
 
とここまで書いて、これは何もノーベル賞などに限らず、企業労働者の出世などについても当てはまる、実に世にありふれた話だということに気がついた。
 
ただ、会社での出世は、ある程度年齢制限がある。
ノーベル賞はそうではない、この事態は死ぬまで続く。
自らの意思で、それを捨てない限り。