先日街頭を歩いていると、いきなり右足首から我が家の鍵が出てきた。
なぜ鍵が足から出てくるのか。
こんな感じで足首からじゃんじゃん家の鍵を出すことができるのならば、俺の足は黄金の右足であるに違いなく、もっと鍛錬を積んで好きなものを好きなときに出すことができる右足首にしたいものだ。
例えばあがり牌とか出せれば、毎回リーチ一発ツモである。
これは僥倖、そう思って歩行を泊め佇んでいると、なんてことはない、ジーンズの右ポケットに穴が開いており、そこから鍵がこぼれてジーンズの内部右足をつたって落下、裾から出てきたのを、「俺の右足が鍵を産んだ」と独り騒いでいただけのことだったのだ。
それに気がついた時、俺はひどく落胆した。
落胆しました。
理由は、俺の右足が黄金でないことが判明したこともあるが、そんなことよりも重要なのは、その時履いていたジーンズが愛用していたものだったからである。
黄金の右足を気がついたら俺が持っていた、なんていう奇跡はそうそうない。
そんなことに浮かれることなどないくらいには、俺は現実的である。
そう、重要なのは愛用のジーンズ。
みかけに大きな損傷もなく、履き心地も依然としてよく申し分なかったのだが、右ポケットに穴が開いていると、家の鍵を紛失してしまうかもしれないのだ。
今回は運良く右足から出てくるところを発見できたが、次回もそううまくいくとは限らない。
歩いているうちに鍵が右足から出ていき、気がついたときにはどこで落としたかわからない、なんて事態になったら超困る。
じゃあ左ポケットに鍵を入れることにしたらええやん? はい解散、解散。
そのように指摘する御方もいらっしゃるかもしれないが、これまで20年以上、家の鍵を右ポケットに入れ続けてきた俺が、急に鍵を入れるポケットを左に変更することは、困難を極める。
そんなこと簡単なことだろう、と思うかもしれないが、これが継続、習慣の恐ろしいところで、今までの方法に慣れていればいるほど、転換は難しいのだ。
大企業が自社のビジネスモデル崩壊を認識していながらも、これまでの成功の幻想に囚われそれを放棄できないこと、蛙が水温を徐々に上げていくといつのまにか茹で上がってしまうことと同様である。
ポケットの死。
ならば、右ポケットを裁縫、開いた穴を塞げばよろしい、そう指摘する人が次に現れるだろう。
現れないかもしれないが、現れるんじゃないかと俺は思う。
しかし、すべての人には得手不得手があり、俺でいうと裁縫が一切できない。
他にもトマトが食べられない、字が汚い、料理が一切できない、記憶力が乏しい、短気、人の心が理解できない、などなど、いろいろあるが、欠点があるからこそ人は魅力がある。
ともかく、裁縫ができないから右ポケットの穴を塞ぐことができない。
以上から何が言えるかというと、あくまで俺にとって、ではあるが、このジーンズの寿命は終わっている。
鍵を入れるポケットを変更する柔軟性または裁縫能力があれば、ジーンズの寿命は数倍にも延びるはずで、もったいないことこの上ないが、仕方がない。
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ある日、新調した眼鏡をかけて出社したところ、上司や同僚からそろって「変な眼鏡だ」「変な眼鏡をかけていることで、顔全体が変だ」と一笑に付された。
俺は落胆した。
眼鏡なんてそうそう破壊されることのない、ものの寿命としては5年、それ以上の間使用できるはずだが、この日を持って、俺にとってこの眼鏡の寿命が終わってしまった。
俺にとってはそこそこ高額高級な眼鏡で、清水の舞台から飛び降りる気持ちで奮発、購入したものにも関わらず、である。
先のジーンズ理論で考えれば、顔の組成を変形すなわち整形することで眼鏡にジャストフィットした顔になる、もしくは、「変な顔をしている」と言われても一切気にせず「変ですが何か?」と堂々としていられる強靭な精神を持ち合わせていれば、眼鏡の寿命は数百倍に延びるのだが、これも両方とも俺が不得手とするところであり、もったいないが仕方ない。
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ジーンズや眼鏡のようなとても物質的なものですら、それを使う側の人間の受容性によってここまで寿命の長い短いが左右されてしまうのだから、ものの寿命とは不思議なものだ。
とここまで考えた後、俺の寿命はどれくらいなんだろうか、とふと考えてしまったが、それを本気で考え始めると暗澹たる気持ちになるに違いないので辞めた。