勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

「強制的50歳寿命論」について

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先日、ある先輩と酒を飲んだ。
40代半ば男性の先輩とは、会うのは1年ぶりだろうか。
久しぶりの再会に他愛のない話題で盛り上がったが、その人のむちゃくちゃな生活ぶりに対して俺が「相変わらずですねー」と言ったところ、ふと先輩がこんな言葉をこぼした。
 
「俺、たぶん50で死ぬからさ。まあ死なないかもしれないけど」
 
 
別の日、仕事で俺を含む3人で打合せ。
話は議題から脱線し、3人の共通の知り合いである30代中盤の女性の話題になった。
打合せに参加していた男は、その女性の後先を考えない行動を指摘したところ、こう言われたらしい。
 
「私、50で死ぬんで」
 
 
「長生きしたくない」という人は少なくないし、実を言うと俺もそのうちの一人ではあるが、二人が揃って人生のタイマーを「50歳」に合わせていることを、単なる偶然の一致とは思えない。
 
おそらく、現代社会で好き勝手やって生きていられる上限が50歳である、ということなのだろう。
50をすぎれば、体力や経済力、情熱の低下、「いい歳して何やってんの」的な評判、などが身にのしかかり、自分の思い描いたとおりの生活ができなくなってくる。
いわば消化試合であって、意味のない時間、そう上の二人は考えているのだろう、と推測する。
 
人それぞれの考え方なのこの内容に「正しい」も「正しくない」もないが、わかる気もする。
 
前にも書いたように、「人生」とは終わりが見えているからかろうじて耐えられるものなのである。
ここでは「定年」、つまり「人生」ではなく「仕事」について論じたが、「仕事」を「人生」に置き換えても全く問題ない。
 
 
 
いまや、平均寿命が80歳を超える時代。
つまり、普通にしていればその歳まで「生き長らえてしまう」のだ。
その「人間の生命の希釈化」過程において、「長生きしたくない」と思う人が増えているのは皮肉なことである。
いや、増えているかどうかは知らないが、俺の周りでは増えている感じがする。
 
「今日が人生最後の日でもいい」と、毎日思っている俺からすると、80歳はもちろん、50歳を迎えることすら現実感がない。
50歳なんて、あとたった15年後なのに。
それどころか下手したら、90くらいまで生きるかもしれないのだ。
どーすんの。
 
やはり、仕事と同じように、人生にも定年が必要なのだろう。
そしてその歳は、実は、いま多くの企業が定年として設定している60歳よりも前であるべきなのかもしれない。