勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

令和になって「不適切にもほどがある」本を見つけた話

昭和初期~中期くらいに書かれたものを読むのが好きだ。

その魅力のひとつに、平和な話の合間に突然、女は馬鹿だとか、子供をぶん殴ったとか、黒人は嫌だとか、いまの時代にはコンプライアンス的にアウト、アウトもアウト、大アウトな言動が、前触れもなくポンポンと、カジュアルに飛び出してくることがある。

別にアウトローな書籍を選んで読んでいるわけでもなく、普通の随筆でもそんな様子だから、こっちはそんな心の準備もなく、不意を突かれてしまう。

「この人は日常生活でも面白い視点で物事を見ていて、優れた洞察力の持ち主だなあ」なんて思いながら読み進めていても、いきなり「同性愛は病気の一種であるから…」とかいった文言が飛び出してくるのだから、公園の児童向けアスレチックだと思って登ってみたら「実はこれ『風雲たけし城』です」と言われて放水車が出てくるようなものである。

こんなジェットコースターみたいな本が、昭和の作品には、たまに存在する。

 

筆者に対するそれまでの印象も、たった一文で180度変わってしまう。

もっとも、そういった内容を含む書籍でも、再刊行された書籍であれば

「現在では差別的で不適切と思われる語彙や表現がありますが、作品が書かれた時代背景、また、著者が故人であることを考慮し、原文のままとしています」

といった注釈が冒頭に入ることが多く、安心して読み進めることができる。

最近話題のドラマ『不適切にもほどがある!』に代表されるような、現代と乖離した昭和の常識を笑う企画はたまにあるが、あれも冒頭に「不適切な内容があるが、当時の時代背景を表現するために、あえて使用して放送します」といった注釈があり、不適切表現に対する心の準備を促している。

しかし、たまに注意をかいくぐり、注釈がないまま不適切表現がビーンボールのように不用意に飛び出してくる作品と出くわすケースもあり、これはこれでドキドキ感がひとつの魅力である。

先日、あるエッセイを読んでいた。

それは昭和に書かれたものではなく、作者は現役の作家であり、最近になって文庫化されたものである。

複数の作者のオムニバス形式になっており、私はそのうちの2人がよく読む作家だったので読んでみたが、一度も読んだことがない作家がほとんど、中には名前も知らない人も数人いた。

読み始めてしばらく、ある作家のページにて、「愛想が悪い女はだいたい顔もブスで、心もブスだ」みたいなことが書いてあって、ぶっ飛んでしまった。

なんせ、昭和ではない、現代もののエッセイを読んでいるのだ。

もちろん、「不適切な表現をあえて使用します」などの注釈はない。

 

え、だれこの作家?

何者?

現役?

何歳?

いいの?これ回収しなくて?

 

すぐさま発行年を見ると、2017年だった。

うーん、8年前か。

昭和どころか平成終期だが、それでもまだギリギリセーフだったのだろう。

それくらい、ここ数年の、世の中の空気が変わっていくペースは急である。

7年前の作品でもまだ、平和のネコをかぶった凶暴な本が残っているのだ。

これが昭和の本だったら「あははーびっくりした」で済んでいるのだが、相手は現役,

笑って済む話ではない。

時期が数年ズレていたり、書籍ではなくブログだったりしたら、作家生命が終了していた可能性もある、空恐ろしい話なのである。

 

これだから本を読むのは面白い。

他山の石にしないといけないけど。

そして、あの知らない作家さんは、まだこの世で、業界で、生き残れているのだろうか。

以降の作品を読んでみたい。

謎解き、広告、ダム、そして仮想通貨…これらの共通項と返してほしい金

1, 2, 4, □, 16, 32, 64, 128, …
この□に入る数字はなんでしょうか?


私は、この手のクイズが嫌いである。
謎解きが流行ってから、よく見かけるようになった。
実際には、良問とされるクイズはこれほど単純ではないが、今回の主旨は、問題の完成度が高いとか低いとかにはなない。
私がこの手のクイズを害悪だと感じるのは、「規則性」というものに対する人々の舐めきった態度を、この設問が代表していると考えるためである。

上の問題であれば、答えは「当然、8です」と言いたくなるだろう。
しかし、実はこれは「当然」ではない。
それどころか、場合によっては不正解かもしれない。
物事はそこまで単純とは限らないのだ。
にも関わらず、クイズクリエイター(なんだそれ)がドヤ顔で、「正解は…8です!」なんて言っているのを見ると、「そんな規則どおりになるわけねえだろ」という、ツッコミを超えて反骨心にも似た独り言が思わず飛び出る。

実際、上記の問題であれば、前からn番目の数字を
\[a_{n}=2^{n-1}\]

という数式で表現することができる。

しかし、数学界では常識らしいのだが
「数列の一部から、その続きを類推することは不可能」
だそうである。
私はこれを高校生のときに数学の参考書かなんかで読んで、驚きのあまり感動すらしたことを今でも覚えている。

実際、上記の数式も、ちょっと工夫して
\[a_{n}=2^{n-1}+(99999-2^{n-1})\frac{\left(n-1\right)\left(n-2\right)\left(n-3\right)\left(n-5\right)\left(n-6\right)\left(n-7\right)・・・}{\left(4-1\right)\left(4-2\right)\left(4-3\right)\left(4-5\right)\left(4-6\right)\left(4-7\right)・・・}\]
と変化させれば、□は8ではなく99999になるし
\[a_{n}=2^{n-1}+(\pi-2^{n-1})\frac{\left(n-1\right)\left(n-2\right)\left(n-3\right)\left(n-5\right)\left(n-6\right)\left(n-7\right)・・・}{\left(4-1\right)\left(4-2\right)\left(4-3\right)\left(4-5\right)\left(4-6\right)\left(4-7\right)・・・}\]
とすれば、□はπになる。

つまり、数列の規則性なぞ、問題作成者の意思でどうとでも取り繕うことができるし、見るものの目を欺くこともできるのである。

数列ですらそうなのだから、ましてや人間など言うまでもない。
「あいつはこういうやつだから、こういうときにはこうするに違いない」
などと予想することなど無意味であり、また、人格の奥深さを過小評価している点で失礼でもあり、あまりにも浅はかで、滑稽ですらある。

もう20年も前のことだが(これを書いていて、もうそんなに年月が経ったのかと、自分のことながら驚いたが)、私は、新卒で入社した広告会社での採用面接で
「いまの広告に必要なものは何だと思いますか?」
と問われ
シュールレアリスムです」
と回答した。

「いま言った『シュールレアリスム』とは、一種の『不連続性』のようなもので、いまの消費者はあまりに広告に触れる経験に慣れすぎているため、いかにも広告っぽい広告に接触すると『あーまた広告か』と、広告であると認識された瞬間に無視される運命にある。この状況を打開するために、もっと『シュールレアリスム』的な発想を広告表現の制作過程に取り入れるべきなのではないか」
みたいなことを言った。
この頃から、私は連続性や規則性といったものが苦手だったようだ。

ちなみに、ここでの「シュールレアリスム」は誤用らしく、正しくは「超現実主義」という意味だとあとになって知ることになるのだが、日本ではなぜか「シュール」という言葉に略され、意味的にも誤用のまま幅広く使われてしまっているようだ。
詳しくは難しいのでこちらで。
ja.wikipedia.org

これは余談だが、他にも
「最近見た、好きな広告はなんですか?」
という質問に対しては
江角マキコが出ている年金のCMです」
と答えた。

当時、社会保険庁が行った「年金をちゃんと払いましょう」という内容の広告キャンペーンがあり、CMで国民年金未納者を問い詰める江角マキコが、実は年金を払っていなかったことが明らかになり、大問題になっていた。

俺はこのCMを挙げた理由を
「あえて年金未納者をCMキャラクターに据えて、後になってから未納が明らかになって叩かれまくることで、CMがめちゃめちゃ話題になり、若者も『こんな恐ろしい目に遭うなら絶対に年金を払おう』と心変わりをすると思います。ここまで計算され尽くした広告キャンペーンは類を見ないと思います」
と説明した。

しかし、当たり前のことだが、年金未納のタレントをそれとわかっておきながらわざと起用するなんてことを広告制作者が行うわけがなく、当時の担当者はさぞかし大変な思いをしたであろう。
20年近くの社会人経験を経た私とっては明白だが、その程度のビジネスマインドは学生でも身につけていているべき最低限のものであり、そんな社会常識も持たず呑気に「類を見ないと思います」などとほざくのは、世の中を舐め腐っている証左であり、私が面接官であればこのような学生は真っ先に落とすであろう。

突然だが、私はダムを訪れるのが趣味である。
ある日、「ダムのどういうところが好きなんですか?」と尋ねられた。
私はダムの魅力など考えたこともなく、ただ漫然と「かっこええなあ」と口を開けて見上げていただけだったのだが、それをそのまま口に出すと「こいつ何も考えていないな。唯の阿呆か」と思われるに違いなくそれは恥ずかしいので、なんとかその場で答えをひねり出さなければならない。

「ダムって、ちょっとシュールレアリスム的なところがあるんですよね。つまり、ダムがある場所ってだいたい辺鄙なところで周りは全部大自然なんだけど、大自然の中にいきなり巨大人工物がドーンってあるわけです。その自然と人工の不連続性が、なんか面白いんですよね」

こう答えて、初めて気がついた。
やはり私は、不連続性に惹かれるのである。

私は、ある海外の取引所で仮想通貨を保有している。
基本的には放置しているのだが、ある日、ふと気になってアクセスしてみると、その取引所は消滅予定であると書かれていた。
「もうこれ以上取引はできません。完全に消滅する前に、なるべく早く出金してください」と大きく注意喚起されていた。
あわてて別の取引所に口座を開設し、資金を移動させようとするが、何度やってもうまくいかない。
Q&Aの記載に従って各通貨のステータスをまとめているページへ移動すると、私が保有する通貨の欄には「Currency Maintenance」と書かれている。
「Fromなんとか」の欄を見ると、かれこれ1ヶ月も前からメンテナンスしているらしい。

それ以上の説明が無いので何もわからないが、メンテナンスが終了して正常に資金移動が可能になる前に取引所が消滅する可能性だってある。
そんな馬鹿な話があるか。
塩漬けになっている額は、大金ではないが、簡単に諦められるほどの少額でもない。

仮想通貨を支えるのがブロックチェーンと呼ばれる技術だというのは、有名な話である。
この技術によって、仮想世界に現実世界と同様の「連続性」が与えられるらしい。
bizgate.nikkei.com

つまりメンテナンス中の今は、「不連続」ということである。
それが私の資金が返ってこない理由なのであれば、私は「不連続性好き」を返上したい。
早く金を返してくれ。

「情報爆発時代」を経てゴシップニュースはなぜ生き延びたか

我々は「情報大爆発時代」を生きている、らしい。

これは、マスメディアの発達やインターネットの普及・高速化・モバイル化によって、人々が入手できる情報の量が急増している現象を指している。

デジタルネイティブ世代より古い私には、実際の体験からこういう感覚はたしかに存在する。

 

この言葉を私がよく耳にするようになったのは、おそらく2008年くらいだったと記憶している。

当時、私は広告代理店で勤務していたのだが、広告業界においてこの言葉は、「消費者の目の前を流れる情報量は激増しているけれど、受け取って消費できる情報量はそれほど増えてないから、広告が情報の山に埋もれずに受け取ってもらえるように、これからもっとがんばらないとね」といった文脈で用いられることがほとんどだった。

さらにいえば、ただがんばるだけではダメで、広告手法のモデルチェンジが必須である、とも。

より具体的には、これまではマスメディア上で「こんな商品あるよ」って言っていれば、他に情報源を持たない消費者は商品のことを知って買ってくれていたが、これからは、マスメディア上で広告をしても、その提案が優れたものでなければ、他にも情報源を持つようになった消費者にそっぽを向かれ、商品のことが伝わらない。手を変え品を変え、様々なルートから、より有益な広告情報を伝播させていくことが必要になる、といった要旨である。

この時期、広告の企画者はこぞってこのグラフを提案書の冒頭に用い、自分が提案する広告プランがモデルチェンジ後の魅力的な企画であることをアピールしていた。

情報流通量等の推移

【出典】平成18年度情報流通センサス報告書
総務省情報通信政策局情報通信経済室(平成20 年3月)

https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/linkdata/ic_sensasu_h18.pdf

1996年から2006年の10年間で、選択可能情報量は530倍増なのに対し、消費情報量は6.5倍増にとどまっている。

6.5倍消費が増えているのもすごいことだけど。

 

それから15年ほどが経ち、情報量はますます増加の一途を辿っている、ように思える。

「思える」というのは、この調査、平成18年が最後で以降は形を変えてしまっており、単純な比較ができなくなっている。

しかし、2006年と2024年では、比較にならないくらい、選択可能情報量は増えているだろう。

Netflixで観たいドラマだけ取っても、観る時間がなくたまっていく一方なのだ。

 

この情報量の爆発が認識され始めた2006年あたりのタイミングは、広告業界にとって、既存のパラダイムが通用しなくなる点においてひとつの危機ではあったが、未来への適応の必要性を認識できた業界人にとってはチャンスでもあった。

そして、広告業界だけでなく、一般消費者にとっても、これまでのくだらない情報取捨選択方針を改めるチャンスだ、と、私はこっそり期待していた。

 

「くだらない情報取捨選択方針」というのは、主には芸能ゴシップのような三文記事がワイドショーなどで毎日のように長尺、多頁で取り扱われていることに対して、「なんでこんなしょうもないニュースばっかりなのか。こんなニュースを人々は求めているとでもいうのか。それともこんなニュースしかないほど日本は、世界は平和だというのか」という私の問題意識が滲み出た言い方である。

それまで芸能ゴシップが毎日のように取り扱われていたのは、別にそれらの需要が高かったわけではなく、情報の供給側が少ないため、それらで満足するしかない状況だったからではないか。

しかし、情報大爆発時代が到来すれば、質の低い情報も増えるが、高品質な情報も増えるだろうから、全体的な底上げによって受信側に選択の余地が生まれる。

ただし、人が摂取できる情報量はそれほど増えていないから、大量の情報の山から取捨選択する必要に迫られる。

つまり、人々がしょうもない情報を捨て、真に自分のため、社会のため、地球のためになる情報を選択するようになる、変化のチャンスなのだ。

さて、情報が爆発してからはや15年以上が経過した今、当時と比べて、情報の質はどう変化したか。

テレビのニュースは、特に昼~夕方は、相変わらずしょうもない芸能ゴシップニュースを大量に扱っている。

芸能人ですらないYouTuberなどの話題も扱っていたりするから、質的には低下しているといっても過言ではない。

そして「情報爆発時代」の申し子でありニュースアプリの雄、「スマートニュース」では、いまだに「まとめサイト」タブなんてものが人気である。

卓越した技術を集結して作られたアプリで集約する情報が、2ちゃんねるまとめなのである。

X(旧Twitter)でも、有益な情報はごくごく一部、99.99%以上が無価値な投稿である。

(無価値どころか有害が大半だと個人的には思っているが、これはまた別の機会に論じたい。)

 

このように、相変わらず、世の中はくだらないニュースで溢れかえっている。

情報流通量は激増しているのにも関わらず、選択される情報の質は変化していない。

 

一応フォローしておくと、私は、広告が有益、上質な情報だと言っているわけではない。
ただ、大半の芸能ゴシップがくだらない、とは思っている。

どこぞの誰々が不倫していたからといって、お前がそれを知ったところで、いったい何が変わる、何が生まれるというのだ。

 

話を戻そう。

情報大爆発時代に、選択される情報の質に変化が見られないのはなぜなのか。

私の推測はどこが誤っていたのだろうか。

考えられるのは3つである。

 

1つ目は、「選択できるほど情報が溢れかえっていれば、我々はより有益な情報を選択するようになる」という前提条件である。

いくら情報量が爆発、有益に思える情報が激増しようが、人々が選択するのは、どうでもいい芸能ゴシップなのだ。

思いのほか、人々は役に立つ情報をほしいとは考えていないようだ。

 

2つ目は、「ゴシップは無益な情報である」という決めつけである。

ここ最近で大きく取り上げられている芸能界における性被害の話題は、社会が変革していく上で必要な成長痛のようなものかもしれないが、「とあるママタレが弁当をインスタにアップして炎上」とか「女優が公開した近影が話題 『まじ衰え知らず』」とか、本当に1ミリも世の中の役に立たない、文字をタイプするエネルギーと送受信する通信インフラと電力の無駄遣い、と思っていたが、これでも数万ページビューを稼ぐのだからそれなりに需要があるに違いなく、このような記事の内容を日々の生活に役立てている人がそれなりに存在するということなのだろう。

 

そして3つ目。

最近になって、実はこれが本命ではないかと私は考えているのだが、「ゴシップニュースも質、量ともに爆発している」可能性である。

2023年を振り返ると、実に多くのゴシップニュースがあった。

その中には、本当にくだらないものが大半だったが、全然くだらなくない、大の大人が集まって何時間も記者会見をしてしまうほどの大ゴシップニュースがいくつもあった。

たしかに考えてみれば目から鱗が落ちることだが、「情報爆発」がゴシップには関係ないという方が不自然である。

「情報爆発」のきっかけのひとつはインターネットの発達、普及にあるが、LINEが流出して発覚したゴシップは枚挙にいとまがない。

とんだ副産物を生んだものだ。

 

というか、ここまで書いて思った。

こんな無益な情報ばかりのブログを書いているお前が何を言っているのか、と言われても、俺は一切の反論の言葉を持たない。

森香澄はトランスエイジなのか問題

「師匠が走る」と書いて「師走」。

「師匠が走り出すほど忙しい時期」が由来だが、今年の師走は、師匠クラスが走って逃げ出したくなるほどの超弩級のスキャンダルが、芸能界、政界、スポーツ界に経済界、様々な業界で飛び出した。

その質と量にすっかり圧倒されてしまったが、少し前に、ある炎上があったのを、皆さんは覚えているだろうか。

炎上の発生源は、元テレビ東京アナウンサーでタレントの森香澄である。

 

 

28歳という年齢に対して「大人のような。子どものような。」の表現が、「28歳なんて大人も大人、子ども要素なんて一切ないだろうが」といった批判を浴びたことで炎上した、とされている。

 

もっとも、ネット上における炎上なんて、「実際は大したことのないボヤのようなものが、記事という『燃料』を投下されることによって本物の火事になり、それをまたニュースサイトがネタにする」という、記事ネタがほしい一部のニュースサイトによって自作自演的に大量生産されているものであり、Xの投稿へのリプを見る限り、今回もその例に漏れないような気もするが、これについて論じ始めると長くなってしまうので、別の機会としたい。

 

さて、炎上のきっかけとなった「28歳という大人のような、子どものような」の表現だが、森個人がズレているとか、非難する側が言い過ぎとか、そういう問題ではなく、最近話題の「トランスエイジ」思想の発露と解釈するのが自然であろう。

「トランスエイジ」についてはかつてこのブログでも触れたことがあるが、自分の年齢に違和感を持ち、実年齢とは異なる年齢を自己認識する人のことである。

身体的性別と性自認が異なる「トランスジェンダー」も、最近話題となることが多いが、これと「トランスエイジ」が異なるのは、「トランスジェンダー」が「多様性」として尊重されるべきという考え方が一般的になっているのに対し、「トランスエイジ」は単なる「年齢に応じた責任から逃れようとする甘えた考え方でしかない」という批判が大勢となっている点だ。

 

しかし、私はそうは考えない。

それは、日本においては特に、「年齢相応」に重きを置きすぎているのではないか、という問題意識から由来している。

「40歳になって結婚していない男はやばい」とか「40歳になれば何も仕事をしてなくてもこれくらいの給料にはなる」とか「いい歳していつまでそんなこと続けてるのあんたは」とか、年齢による制約が、人々の幸福度を低減しているだけではなく、「超有能なのに年功序列だから出世できない」などといった形で社会のイノベーションを阻害しているように思う。

従って、私は「トランスエイジ」を、非難するべきものどころか、一種の発明ですらある、と述べた。

suzuki1001.hatenablog.com

 

しかしこれが「発明」として実際に機能するには、ひとつの必要条件がある。

その条件とは、実年齢と異なる自己認識年齢を主張して、それに応じた対応を周囲にも求める人は、「心の底からその年齢認識を持っている」もしくはそこまではいかなくても、少なくとも「実年齢に違和感を持っている」ことだ。

言い換えると、「何らかの利益にあずかるために、わざと」そういう主張をしていないことが求められる。

 

これはまあ言ってみれば至極当然のことであって、これをやった瞬間に、「トランスエイジ」的発想は、「世界を救うかもしれない斬新なアイデアから「単なる嘘」に転落する。

35歳の女が合コンで、「若く言っておいたほうがモテる」と狡猾な思惑で22歳です」と言って、それが後になってバレたら、激しく責められるに違いない。

 

 

さて、森の話題に戻る。

私が着目したのは、森は「あざとさ」を売りにしている点だ。

つまり、28歳という実年齢に違和感を抱いているわけではなく、「子どものような」と書くことで、「かわいらしい」と好感を持つ人が一定数存在する、もしくは、炎上して注目されれば写真集の宣伝になることを承知の上でやっている可能性が高い。

これは「トランスエイジ」が受容される前提条件である約束事を唾棄する行為だ。

この炎上によって、世界に「トランスエイジ」的考え方が当たり前になるまでの時間を示す「トランスエイジ時計」は、また少し巻き戻されてしまったように思う。

疲れを取るのに苦労して疲弊している

疲れというものは、あって良いことなど一切なく、少しでも溜まってしまえば直ちに一切を取り除くべきものである。

当たり前のことだが、疲れていては人のパフォーマンスは下がってしまうし、また普段には輝かしい業績をあげる人であっても、疲れによってそれを帳消しにしてあまりある負債を抱えることにもなりかねない。

 

輝かしい業績とは縁遠い私の例で恐縮だが、30歳半ばのある日、あまりにも長い労働時間に心身は疲弊のピークを迎えていた。

「これはいっちょ缶コーヒーでも飲んでリフレッシュしなければ仕事にならん」と、業務を中断して近くのコンビニエンスストアを訪れた私は、棚から取ってきた缶コーヒーをレジに出して財布を開けようとしたところ、疲弊しすぎた脳が身体へ出す指示が逆転し、財布をレジに出して缶コーヒーを開けてしまったことがある。

 

また別のある日に、頭が禿げあがった上司が廊下を歩いてきた時に、言って良いことと悪いことの判断がつかなくなるほど脳が疲弊していた私は、すれ違いざまに思わず「禿げてるなあ」と、心の声をそのまま口に出してしまったことがあった。

幸いにも小声での呟きだったため、当人にも(おそらく)聞かれることもなく大事に至ることはなかったが、もし聞こえていたら、私は上司の怒りを買い、一生官職、出世など覚束ない状態になってしまっていたであろう。

 

他にも、自動車を運転するにも、疲れていれば一時の判断が鈍くなってしまい、交通事故を起こしてしまえば、一生をかけて罪を償わねばならないのは自明のことである。

 

このように、疲れは見つかった時点で取り除かなければ、後々取り返しのつかないことになってしまうのだ。

周囲の先輩方からさんざん話を聞いていたため、特に驚きも失望もなく受け入れることができたが、40歳という大台を越えて、これまでとは比べ物にならないほど疲れやすく、そして、疲れが抜けにくくなった。

30代を迎えた時も、30代の後半に差し掛かった時にも、このような感覚はあったが、今回の体力低下の落差はそれらとは桁違いである。

 

まず、眠っている時間を除いて、常に眠いしだるい。

朝起きて「ああ、今日はすこぶる体調がいいなあ」と思うことはまず無く、だいたい、絶好調時を100%とすると、良くて50%、平均で30%程度である。

また、階段を登るのが厳しいのは当然として、下りもできれば避けたい。

下りのほうが膝に負担がかかるからである。

膝だけでなく、首、肩、腰、腕は、だいたいどこかもしくはすべての箇所が痛い。

こんな調子だから必然的に運動不足になり、運動不足なのだからますます健康から遠ざかっていくという負のスパイラルに陥っていくのである。

 

このままでは大変まずい。

一刻も早く疲れを取り除かなければ大変なことになってしまう。

私は健康によいとされる数々のことを試してみた。

 

まずは早寝早起き。

しかし、いくら早く眠ろうとしても寝付けず、従って朝早く起きることはできず、結果、布団の上で目をつぶっている時間だけが長くなり、朝の寝起きの悪さも変わらぬまま。

 

やっぱり運動をしなければ、と思ってランニングをするも10分くらい走ったところで脇腹と膝が痛くなり、「やっぱりいきなり走るのは無理だからまずは歩こう」とウォーキングに切り替えるも、膝の痛みが治まることはなく、ただ歩くだけで膝の痛い人間になってしまった。

 

最近サウナが流行っているということで、「ととのい方」なるものをヤフー検索で調べ、サウナと水風呂を交互に入ってみたところ、ととのうどころか意識が遠のいてしまい、転んで風呂の床で頭をかち割りそうになった。

 

かくなる上は、と、ビタミン剤やユンケル、キューピーコーワゴールドなどのサプリメントや薬品に頼ってみたが、体感できた効果といえば、小便が尋常でないくらい濃い黄色になったことくらいである。

 

40歳を過ぎた人たちはいったいどうやって日常を維持しているのだろうか。

今もうとうとしながらこれを書いている。

頭蓋から脳髄を取り出して水洗いしたいと思いながら。

人間はギャップに弱い生き物であることをバンバン活用しようと思う

昨今、クラフトビールのブームが到来している。

これによって、国内、海外のもの含めて、これまで見たこともないような数多の種類のビールを手に入れられるようになった。

これまで日本の4大メーカーのものしか口にしたことがなかった俺も、興味本位で様々なビールに手を出しているのだが、中でも最近はHAZY IPAという種類のビールを好んで飲用している。

その魅力は何か、と問われれば、俺は

「ビールといえばその苦さから敬遠している人も多いのではないでしょうか。しかしこのHAZY IPAは、やや控えめな苦さの中にもフルーティーな芳ばしさが漂い、苦さがアクセントとなってそれを際立たせるのです。このギャップは、これまでのビールには存在しなかったと思います」

と答えるだろう。

 

と、ここまで書いて、思い出した。

人間とはとかくギャップが好きな生き物らしい。

例を挙げるのは、枚挙に暇がないから簡単である。

同等水準の善良さであっても、以前からずっと同じ善良レベルだった人よりも、元々は不良だったところから更生した人のほうが評価される傾向がある、みたいな話はよく聞くし、見るからに真面目そうな雰囲気で実際にも真面目な男性よりも、見た目は少し悪そう、やんちゃそうだけど根は優しい男性のほうが、女性からは好意的に見られることが多いらしい。

同じくらいの賢さでも、普段から賢い感じを出している人よりも、普段は見るからに馬鹿でもここぞという時に賢さを発揮する人の方が、「なんかあの人って賢いよね」という印象をもたれやすい、なんていう話もどこかで聞いたことがある、気がする。

 

実に不可解なことである。

なぜ若い頃から道を外さずにずっと品行方正、謹厳実直にやってきた者よりも、かつて品性下劣、悪逆無道だった者の方が評価されるのか。

子供の頃の俺が受けた「悪事を働かず清廉潔白に生きなさい」という親および教師の指導は、いまとなって考えると誤りであって、望むべくは、「成人したらちゃんとすればいいから、それまではなるべく悪いことをたくさんやっておいたほうがいいよ。更生してからむしろ評価があがるから。もちろん、法に触れない範囲でね」くらいの助言をするべきだったのではないだろうか。

社会でこれほどまでギャップが持て囃されているとは、子供はもちろん知る由もない。

そういった本当に役立つ知識や技術を教えることこそが、血の通った教育と言えるのではないだろうか。

やはり、兎に角ギャップである。俺もこれを身に着けなければ、うだつは上がらぬまま、出世は覚束ない。しかし雀の魂百まで、今更、人間の本質を変容させることなど不可能である。ということは、ギャップを獲得するには、表層的なガワの部分を変えるしかない。

つまりそれは、「演じる」に他ならない。

 

「クズそうに見えて、実は優しい」

これは優しくない俺には不可能だから

「優しそうに見えて、実はクズ」

と表裏を逆にするのがよさそうだ。

クズを演じる方が比較的容易である。

 

「ちょっと悪そうに見えて、実は誠実」

これは「ちょっと悪そう」とギャップがあるほど俺は誠実でもないから、ギャップを大きくするためには

「いかにも詐欺師っぽい、5分もしゃべったら何の効力もない壺とかを買わされそうになるが、実はそれほどでもない」

くらい大げさにしなければならない。

 

「インドア派に見えて、実はアウトドア派」

これも、俺は全くアウトドア活動など興味が無く、アウトドア派を演じるのは非常に煩わしいので、逆にする戦法がよさそうだ。

「キャンプじフットサルにサバゲーにゴルフにサーフィン、何でもやりそう。休日は必ずアウトドア派に見えて、実はどれも一切しない。休日は起きるのは夕方」

 

よし、これでかなり出世が近づいたはずである。

万年筆の購入は「死ぬまでセックス」願望の現れか

3万円もする高級な万年筆を、衝動的に買ってしまった。

 

この時に、なぜか俺は

「ペンはペニスのメタファーである」

という説があったのを思い出した。

 

かつてこれを聞いた時には、

「じゃあ“書く”という行為はセックスのメタファーなのか?」

「男性にとっても女性にとっても同じとは考えにくくない?」

「“絶頂”に該当するものは何か?」

など、疑問の残る点が多く、形が似てるだけやんけ、とか、何でもメタファーって言ってればいいってものじゃないだろ、とか、そういえば昔よくそんなことをテレビで言っているいい加減な心理学者とかいたなあ、などと考え、真に受けることもなく「アホちゃうか」で片付けていた。

 

今回、万年筆を買った時にこれを思い出したのは、なぜだろうか。

その理由はよくわからない。

 

買った万年筆の特徴と、買うに至るまでの俺の心境を思い返すと、だいたい以下のようなものだった。

  • 本体は真っ黒で、やや太く、かなり重い
  • 重厚感が気に入った
  • 重いのが手に馴染んで、書きやすい
  • すでに4000円くらいの万年筆を所有していたが、「万年筆は一生もの」という割に、ガラス製の本体には僅かにヒビが入っているし、そもそも安っぽくて、残りの人生終わるまでの使用に耐えられそうな気がしない
  • いま持っているものは日本製で、今回入手したのはドイツ製

 

これをちんぽに置き換えてみると、俺は深層心理でこんなことを感じていたことになる。

  • 俺は黒光りするやや太ちんぽが欲しい
  • やっぱりちんぽはずっしり重いのが良い
  • 今のちんぽは安物
  • 40歳を迎えたからか、わからないが、今のちんぽは生涯の使用に耐えられる気がしない
  • 一生セックスがしたい
  • ドイツ人は性豪でうらやましい

 

身も蓋もない結論になってしまった。

文房具売場でこんな事を考えている奴は正真正銘のアホであるから、やはり「ペンはペニスのメタファー」なんて、そんなことはありえないのである。

ただ万が一、俺が、考えていなかったとしても、心の底では上記のような思いを抱いていたとすれば、大変ショッキングなことである。

 

もしくは、加齢によりセックスができなくなってゆくことに対する口惜しさを、書くことでなんとか発散もしくは誤魔化そうという試みこそが「ペンはペニスのメタファー」説の実態なのだろうか。

たしかに週刊現代とか週刊ポストの、毎週のように見出しに「死ぬまでセックス」という文字が踊っているのを見かけると、編集長の並々ならぬ熱い想いが伝わってくる。

さぞかし、頑丈で長大、かつ高級な万年筆で、原稿を書いていらっしゃるに違いない。