勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

上司が部下に「これはパワハラじゃないよね?」と尋ねるのはパワハラになるか

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パワハラをしてしまったら、された側はやる気を失ったり、もしかしたら会社を退職してしまうかもしれないし、した側は重大責任で懲戒、降格などといった目に合うから、くれぐれもパワハラをしないように。そのためにかくかくしかじかに気をつけるように」

とかいったことを説明する1時間程度の研修を、先日、会社で受けた。

 

俺は会場に着いた時にはもう研修が始まろうとしていたので、あわてて近場の空いている席に着いた。

吟味することなく席を選んだところ、隣に座っていたのは3カ月前に異動するまでは俺の直接の上司であった人だった。

 

これだけでも十分に席を移りたいくらいの居心地の悪さなのだが、それ以上に問題だったのは、その人が常に人を威圧する仕事のスタイルで、いわば「ミスターパワハラ、いいかえれば「歩くパワハラ」「パワハラの24時間営業」「パワハラ千本ノック」と言っても過言ではない人物だったことである。

 

研修講師が挙げる事例を聞きながら、ずっとその元上司は

「あーこれは俺やってたな」

「俺だったらこういう言葉遣いはしないな」

「これは俺やってた?どう?」

などと俺に話しかけ続けてた。

 

俺は自分の軽率な座席選択を強く後悔していた。

 

ただその中でもわずかながら救いだったのは、当人がパワハラをしていた」という認識を持っていることであった。

 

 

この研修の効果ではなくむしろ昨今の「パワハラ許すまじ」の機運の高まりによって、「パワハラはダメ」という認識が彼の中に植え付けられたのだろう。

彼は、例えば相手の未熟さを指摘したり、叱責する際に

「これはパワハラ(じゃないよね)?」

と確認するようになった。

 

しかし、ここがパワハラの要諦であり、一番の難しいところであり、なかなかパパパっとパワハラがなくならない理由でもあるのだが、ある行為がパワハラかそうでないかを決める権利は、行為をした側ではなくされた側が持つ

行為をした側にはその判断基準はわからず、したがって「赤信号を渡っちゃダメ」のように絶対的でわかりやすいルールではなくなる。

 

するとどういう問題が発生するか。

例を挙げれば

上司Aが部下Bに対して「C」という発言をして、それをBがパワハラと感じなかったとしても、Aが別の部下Dに「C」と言って、Bよりも耐性の低いDが「パワハラを受けた」と感じた。

といったケースが起こりうる、ということである。

Aは同じ部下に同じ発言をしただけなのに。

 

企業でマネジメントをする以上、部下の誤りや未熟さを指摘し改め、時には叱責することからは免れられない。

パワハラ加害者の責を万全に逃れるために、彼は全ての部下に「この行為、発言はパワハラにはあたらないか」を確認していくのだろうか。

 

 

厚生労働省によると、パワハラ

職場のパワーハラスメントとは、同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与えるまたは職場環境を悪化させる行為をいう。 

  と定義されている。

 

www.mhlw.go.jp

究極的には「相手がイヤだと思うことはしない」という、我々が小学校にあがる前から習ってきた行動規範にまとめることができよう。

 

相手がイヤと思っているか否か、正確に知ることは理論上不可能で、我々はせいぜい相手の気持ちを推知することしかできない。

これを一般には「思いやり精神」などと呼んだりするが、毎回毎回、相手に問うことで知ろうとするスタンスは、思いやり精神の放棄だと思う。

 

そして、特定の文言ひとつひとつがパワハラにあたるよりかは、思いやり精神の欠如自体がパワハラに繋がるのだというのが俺の意見である。

脳の活性化のためにあらゆるものを犠牲にしようと思う

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知ってる人は知っているのかもしれないが、毎日同じことばかり繰り返していると脳の機能が低下していくらしい。
 
実際、おれはここ数年で自らの脳機能低下をひしひしを感じており、具体的には、前日の晩に食べたものを覚えていないちょっとした会話の返答に詰まる会議が終わったとたんに会議で決まったことを忘れてしまい仕事で失体するGoogleマップをガン見しながらにもかかわらず道に迷う、など、およそ30代半ばとは思えないような問題点となって表れている。
 
確かに思い返してみれば、
毎日同じような時間に起床し
同じ服を同じようなローテーションで着用し
同じルートで同じ場所の職場に通い
同じ席に着き
同じパソコンとキーボードを操作して同じモニターを凝視し
同じコンビニで同じようなものを購入、飲食し
しかも気に入った店や食べ物があれば週4くらいでそれを食し
同じような話題の会議を行い
同じスマートフォンを操作し
同じルートで同じ場所にある自宅に帰宅し
ボトルで購入した同じ酒を飲み
気に入ったバンドの楽曲をひたすら聞き続け
同じテレビの同じリモコンを操作し
同じテレビ番組を見て
NetflixAmazon prime videoもシリーズが多いから同じ作品をずっと見続け
同じ歯ブラシを使い同じような方法で歯を磨き
同じベッドで同じ方向に足を向け就床し
休みの日も
起きたら毎日同じスポーツ紙を購入し
毎週馬券を購入し
だいたいゴーゴーカレーに行き毎回同じチキンカレーを食らい
やはりボトルで購入した同じ酒を飲み
やはり同じテレビ番組て
やはりNetflixAmazon prime videoもシリーズが多いから同じ作品をずっと見続け
やはり同じ歯ブラシを使い同じような方法で歯を磨き
やはり同じベッドで同じ方向に足を向け就床する
 
これでは活性化する脳も鎮静化してしまうに違いない。
 
このままでは出世も覚束ないので、俺は脳を活性化させたい。
そのために上記のような生活習慣を変える必要がある。
そうなると、どれから変更してゆくべきか、という問題が残る。
 
言うまでもないのは、通う会社を変えてしまっては、出世どころではないということである。
最も容易なのは、Netflixで同じ番組を見ないことである。
それでは、最後まで見ることができないが、出世には犠牲がつきものなのである。

 

「クチコミマーケティング」の次にあるのは「神マーケティング」

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クックパッドの利用者が減少し始めているらしい。
思い返してみると、半年ほど前だったか、若者のGoogle離れ」も話題になった。
筆者のような30代後半、アラフォーにさしかかった会社員には到底考えられないことだが、TwitterInstagramハッシュタグから情報を得るのが新しいの潮流なのだそうだ。
我々の世代にとっては、「わからないことがあったらとりあえずGoogle先生に聞けば全部答えてくれる」というのが常識として受け入れられてきたことであるし、今でもGoogleの力は衰えていないと思っていたが、どうやらそうとも言えないらしい。
 
ネット界の技術革新のスピードについては俺は素人だからよくわからないが、おそらく目を見張るほどの日進月歩だし、もうすぐAIが人間の知能を超えるなんて言われているほどだから、Googleの検索性能は10年前とくらべて恐ろしく向上しているはずである。
 
しかし、それにも関わらず若者にはびこる「Google離れ」。
彼らはGoogleの検索性能に満足していないのか。
 
その理由は何なのだろうか、と思ってGoogleで検索してみると、いくつかの記事を見つけた。
 
そこで書かれていたことを俺なりにざっくり述べると
「検索結果の上位に来るのは”公式”だったり企業のサイトばかり。そんなサイトは自分たちの商品・サービスを良く見せるために作られた情報でしかない。もっと生々しい情報がほしい」
「ゴミのような記事があまりにも大量になってしまい、ほしい情報にアクセスすることが難しくなった」
といったことらしいのだが、これらの問題を乗り越えるために、人々はGoogle検索からSNSでの情報取得へと舵を切り始めたようである。
というのは、企業や、どこの馬の骨かわからんようなブロガーが推奨する商品よりも、友達が「これいいよ」「めちゃよかったよ」と勧めてくる商品の方が、よさそうに思えてくるのは自然なことだからだ。
 
 
さて、話題を「Google離れ」から「クックパッド離れ」に戻そう。
クックパッドは「レシピ投稿サイト」であり、企業が自社の商品を推奨する品評会ではなく、どちらかといえばクチコミサイトである。
 
するとひとつ疑問が残るのが
「世の中は検索からクチコミに移ったんとちゃうの? クチコミの方が信用できるっていま言ったばかりなのにその舌の根の乾かぬ内から、どんな恥知らずなのかこの筆者は」
という点だが、クックパッドの利用者が減少し始めていることを見ると、どうやらクチコミの時代も終焉を迎え始めている、ということなのだろう。
 
では、その先には何が待っているのだろうか?
どの時代もどの分野も、的確に将来を捉えた者が成功する。
 
俺はずばり、「神のお言葉」の時代だと思う。
 
すでに友達のクチコミも飽和してしまっており、人々はそれらを上回る信用力を持つ情報を求めている。
友達のクチコミを上回る信用力を持つ者とは、それは尊敬の対象であり、究極的には崇拝の対象を指す。
つまり人々は「今日どこへ行こうか」「おいしいラーメン屋はどこだろう?」という問いに対し、友達からの推奨よりも、神の啓示を求めるようになるだろう、というのが俺の予想である。
 
とはいえ、「予想」と呼ぶには恥ずかしいほどには、この兆候はすでに表れている。
ネット上の一部にはすでに、「崇拝」に近いほど熱狂的なコミュニティは無数に存在しているし、「ネ申」という言葉はその最たる例だ。
 
これからは、分野、国家を超えた「神」となった者が、人々の行動、消費、思想を操ることになるだろう。
その時に流行するインターネットサービスは当然、SNSではなく、インターネット教会であり、インターネット寺院、インターネットお札である。
もしくは、そのころに宗教を象徴する物は、我々が宗教から連想するものとは異なっているのかもしれない。
そして必然的に、マーケティング活動は宗教代理戦争へと変化するし、儲けられるのはお布施を集められる者だけになる。

「不動産は私を裏切らない」のか、それとも「私は不動産を裏切らない」のか

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「不動産は私を裏切らない」

先日見かけたチラシにかかれていたセリフだ。

一見すると何を言っているのかわからないが、名言であるといえよう。

わけがわからないがしかし、ではなく、「わけがわからないこと」そのものが、この言葉を名言たらしめているように思う。

人はわけがわからないからこそ、ありがたがるのだ。

 

もうひとつは”湧き出る自信”であろう。

やはり名言は、思い切りよく断定してこそ、である。

 

 

さて、話題を「不動産は私を裏切らない」に戻そう。

なぜこの名言の作者はそう感じたのか。

 

不動産が人を裏切ったり、はたまた裏切らなかったり、と、その相手によって態度を変えるような人格性を持つと考えるのはいささかオカルトティックである。

したがってその理由は、不動産側にではなく作者側に求めるのが合理的だろう。

 

つまり、作者は完全に、根源的に、不動産を信じていた、ということである。

 

そのため、仮に不動産から一度や二度、裏切られたことがあったとしても、私(作者)は不動産を100%信じ切っているから

「うまくいかないのは不動産のせいじゃない、私が悪い。不動産は私を裏切るわけがない」

となるのである。

 

もちろん作者自身、相当不動産に長けていたのだろうと思われる。

なぜなら、10回中5回も6回も不動産に裏切られたにも関わらず、完全に不動産を信じ切っている人がいるとすれば、それは馬鹿だからである。

逆に100回中3回くらいうまくいかないことがあっても、「裏切られた」とは感じないであろう。

 

まとめると、

「不動産は私を裏切らない」

ではなく

「私は不動産を裏切らない」

なのであり、だからこそ

「不動産は私を裏切らない」

という境地にまで達することができるのである。

 

 

ひるがえって、自分のことを考えてみる。

なぜここで自分の話をするのかというと、これが私のブログだからである。

 

おれには、

「何かは俺を裏切らない」

と思い込むことができるくらい、信じ切っている”何か”はあるだろうか。

 

しばらく考えてみた。

 

仕事?

競馬?

麻雀?

仮想通貨?

いやいや、どれも裏切ったり裏切られたりばかりだ…。

 

思いつかないので業を煮やして用もなくコンビニにぷらっと立ち寄ってみたが、やはり何もない。

 

このままでは俺は名言を生み出せない人のままなので、これからの残りの人生をかけて、信じきれるような何かを見つけたいと思う。 

7payが終了した、そこに引き際の美学はあったか

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昔、あるビジネスマン向けの雑誌で読んだ。気がする。
「気がする」と書いたのは記憶が明瞭ではないからであって、内容もうろ覚えだが何の雑誌だったかすら覚えていないが、俺が熱心に読んでいた雑誌は「SPA!」くらいだったから、おそらく「SPA!」だったのだと思う。
 
その内容は
「八百屋を営んでいる家庭の食卓には野菜が並びやすいのと同様に、金融業界ではお金が配られやすい。つまり高給」
といったもので、極めて暴論なのかもしれないが、当時ビジネス感覚が著しく欠如していた俺は、妙に納得してしまった。
これを読んだのが就職前であれば、俺は銀行を目指して就職活動をしていたのだろう。
しかし残念ながらすでに広告代理店で働いて数年たったころで、俺は
「余ったスポット枠もらっても仕方ないやんけ」
などとつぶやくくらいしかできなかった。
 
 
セブン&アイグループが始めたスマホ決済アプリ「7pay」が終了するらしい。
決済サービスは金を扱うサービス、しかも成功すれば極めて多数の人が日常的に使う金銭の流通経路となるため、先ほどの「SPA!」の記事の理論に従えば、食卓にお金が並ぶどころかめちゃめちゃ儲かって笑いが止まらない事業になり得る。
営利を追求する企業として、しかも大手流通という、その覇権を狙えるポジションにある企業として、「7pay」を成功させるモチベーションは尋常ならざるものだったに違いない。
しかしそれにも関わらず、諦めてしまったのだ。
 
「7pay」の決済音は著名音楽クリエイターのヒャダイン氏が開発したらしい。
 
 
サービスを使う側からすれば単なる「決済を確認する音」だろうが、運営者側からすれば懐に入る金がチャリンチャリンと鳴る音にしか聞こえなかっただろうと想像する。
それくらい、決済サービスは儲かるのだ。
SPA!」にはそう書いてあった。
 
だがしかしそれでもなおそうは言っても、彼らは断念したのだ。
「セキュリティ対策がお粗末だったから仕方ないじゃん」
そう言ってしまえばそれまでなのだが、全国で鳴り響くチャリンチャリン音を目の前にしながら、「これ以上傷を広げるわけにはいかない」という思いからの英断には、尊敬の念を禁じえない。
 
 
スポーツ選手の引退会見は名言の宝庫だ。
それは、スポーツ選手が引退を決意する瞬間に、美学があるからである。
「引き際の美学」を感じずにはいられない有名な会見には、千代の富士の「体力の限界…」があるが、スポーツ選手が引退を決意するタイミングとしては
「自身が納得できるプレーができなくなったから辞める」
「プレーする場が得られるまでは限界まで続ける」
の2つの極端に集約されるように思える。
会社員のように「定年」がない彼らには、引き際を自ら決定する必要があり、そこに美学が姿を現す隙間があるのだ。
 
一方、会社員である俺の退職は当然ながら他動的かつ自動的に行われ、美学からは程遠いように思われる。
しかし、それは本当だろうか?
 
 
20代のある日の夏のことだった。
外を歩いていると、突然、視界に入るすべての人それぞれに波乱万丈の人生と、映画のような涙なしでは語れない経験があるんだろうな、という感情が巻き起こり、その情報量の多さに圧倒されてしまったことがあった。
しかし、それから10年ほど経って思ったのは、「あれはただの勘違いだった」ということ。
30年と6年ほど生きた自分の経験では、人生なんて
平日は仕事して終わったら飯食って風呂入ってテレビ見て寝る。
土日は仕事がない日はテレビ見て、部屋掃除して片付けてとかしているうちに夜になって寝る。
これをただひたすら繰り返し続ける、物語にするにはエピソードがあまりにも足りない平坦な人生なのである。
おそらく俺があの日に見た人もほとんどが同じだろう。
 
また、俺が勤める会社の社内報には毎年ある季節になると、定年退職を迎える方々が、「四十何年の会社員生活、いろいろなことがありましたが、会社の皆さんには感謝しかありません」といった140文字程度のメッセージを書かされ、載せられるというイベントがある。
もちろん詳しく書けば140文字では到底収まるものはないのだろうが、かといって特別取りあげるほどの逸話もない。
それは会社の同僚たちで飲みに行けば、話題は上司や取引先の愚痴しかないことからも明らかである。
 
働く部署、昇進や異動、勤務地、定年のタイミングまで、すべて会社が決定、我々はどう思っていようがそれに従う。
それが大半の人の生き様なんだと思う。
 
しかしこの平坦で他動的な人生の中にも、俺はスポーツ選手の引退とはまた違った類の美学を感じずにはいられない。
「子供を大学に入れるためには会社を辞めるわけにはいかない」
「妻から転職を反対された」
「家のローンを返却するためには定職は手放せない」
など、各人が置かれた条件の中で折り合いをつけ渋々下す決断の中には、十分なほど美学は溢れているのではないか。
そう思えば、家庭もなし、何も縛られる条件を持たない俺こそが、最も美学から遠い地点にいることになる。
 
さて、俺はこれからどうやって美学を取り戻せばいいのだろうか。
 

もうすぐ40歳だし趣味からは解放されたい

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「趣味はなんですか?」
 
という質問がある。
早くは就職活動、合コン、SNSに登録するプロフィールなど、いろんなところで何度も尋ねられることだが、いまだにこの問いに対する答えを見いだせないでいる。
 
そもそも
「趣味はありますか?」
ではなく
「趣味はなんですか?」
としている時点で、趣味は「あるはずのもの」と質問者は考えていることがわかり、このことが
「ないです」
と答えづらい理由のひとつとなっている。
 
それに対して空気を読まず
「趣味はないです」
などと返答すると、
「えーほんとですか? 休みの日どうしてるんですか?」
などと言われたりするが、趣味などなくても休みの日が来たからといって困り果てることなど当然なく、それはやってきて、何事もなかったかのように終わるので、これといって支障はない。
貯まってる録画したテレビ番組もあるし、YouTubeもあるし、AmazonNetflixがあるから、休日なんて気がついたら終わっている。
しかしどうやら世の中の多くの人が
「趣味がないと休日に困る」
と思っているようなのだ。
 
たしかに俺にも「趣味を作ってみたろか」と思っていた時期もあった。
必要もないのに車を購入し、ドライブと称してあてもない移動を楽しもうとしたが、売却するまでの7年間、ついに「乗らないともったいないから乗る」の境地を抜けだすことはできなかった。
楽器経験ゼロにもかかわらず30代半ばにしてエレキベースを購入したが、教本にあったRCサクセションの『雨上がりの夜空に』でもう脱落してしまった。
ダムを見るのは好きだが、行って年に数か所、趣味といえるほどのものではない。
最近キックボクシングジムに通うようになったが、中年太りの解消が目的であって、俺がいま腹筋バキバキ全身ムキムキ体形であれば、通うことはない。
「趣味は仕事です」と言えるほどの仕事人間ではない。
麻雀もあまりに負けが続きすぎて、断っていた時期があった。今は少し再開しているが。
趣味欄に書けるものが存在しないのである。
 
継続具合ややる頻度を考慮すれば、強いていえばツムツムが趣味ということになるのだろうが、これはこれで具合が悪い。
考えてみてもらいたい。
転職を志望する36のおっさんが、履歴書を出してきて「趣味:ツムツム」と書いてあった場合、このおっさんは選考を通過するだろうか。
婚活パーティーで女性から「趣味はなんですか?」と尋ねられ、「ツムツムです」と答えたおっさんに、女性は魅かれるだろうか。
だいたいどうして就職・転職の履歴書に「趣味・特技」なんて欄があるのか。
業務と関係ないではないか。
 
というわけで、「趣味はなんですか?」と聞かれるたびに、俺は途方に暮れてしまうのだ。
 
そういえば、新卒の時の就職活動の時、「趣味は人間観察です」などとぬかしていた奴らがいたが、あれは、これは俺と同様にあまりに書けることがなく、しかし選考だから「なし」と書くわけにもいかず、
「ああ困ったううやばいやばいやばいどうしようどうしようどないしょどないしょこのままでは就職できない露頭に迷うしかない」
「もうなんでもいいから適当に書いたろ。
 ああでも『バイク乗ります』って書いて、面接官が『僕もなんだよ、何乗ってるんだい?』なんて聞いてきたら、嘘がばれてしまうどうしよどうしよ」
「せや! つっこまれてもいいように、普段からやってることにしたらいいんや」
「でもなんやろ普段からやってることって。『趣味:生きる』なんて書くわけにもいかんし。ううむ」
「そっか! 『人間観察』って書いたら何聞かれても凌げる! 生き残った!」
という経緯で、恥を忍んで書かれたものである。
従って、「趣味:人間観察」と書いている人を見つければ、それは「趣味はありません」と言っているのと同じなので、優しい目でみてあげてほしい。

風鈴ときりたんぽ鍋のどっちがほしいかを4ヶ月以内に決めなければならない問題

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先日、お仕事でお世話になっている方の結婚式に行ってきた。

結婚式に出席するのは、およそ2年ぶりだ。

 

それはもうすばらしい式で、何がすばらしいかというと、出席者全員が新郎新婦に好感をもって祝福していることがびんびんに伝わってくる感じ。

 

そして、さらにすばらしいことに、出席者には新郎新婦から引き出物を送られた、俺を含めて。

実にありがたい。

とてもすばらしい。

 

そんなすばらしい式を終えて帰宅、引き出物を開封すると、カタログギフトが入っていた。

 

カタログギフト。

 

それはそれはもうすばらしいもので、何がすばらしいかというと、プレゼントは得てして、贈る側がよかれと思って選んだものが、もらう側からするといらないものであったりするケースが多く、せっかく贈ったのに全然喜ばれず残念、せっかくもらったのに全然うれしくなく残念、という結末になってしまうことが少なくない。

その点カタログギフトは秀逸で、もらう側が品物を自由にチョイスすることができ、もらう側は自分が欲しいものをもらうことができるからハッピー、贈る側は相手が何がほしいかわからないままに確実に欲しいものをプレゼントできて、相手にも喜ばれるからハッピー。

しかも結婚式に出席する全員が同一のものを欲しがるわけがない中で、全員に喜ばれるプレゼントとはカタログギフト以外に存在し得ない。

まさに究極の贈り物であり、結婚式の引き出物にカタログギフトを選択しない人は、ちょっとどうかしていると言わざるを得ない、とすら思う。

 

そんなものをもらって嬉々とした気持ちでカタログギフトを開封、すると、当然ではあるが、カタログが入っていた。

俺は社交性が低く、結婚式にバンバン呼ばれるタイプの人間ではないため出席回数が極端に少ない方ではあると思うが、それでも三十余年ほど生きてきてカタログギフトを見たことがない、なんてことはない。

しかし、今回ばかりはそのカタログを見て驚愕した。

何にかというと、そのカタログの分厚さにである。

目次を見ると親切にも、「総ページ 530ページ」と書かれていた。

1ページに3~4品ほど掲載されていることを考えると、概算でも2000品程度から選ぶことができるようだ。

しばらく結婚式に呼ばれないうちに、カタログギフトはここまで厚くなっていたのか。

 

と、ここまでカタログギフトを絶賛激賞してきておきながら告白するが、俺はこのカタログギフトが少々苦手である。

そう、決められないのである。

 

別に優柔不断なわけではない、と自分では思う。

「あー腹減った、飯食おか」などと思ってカレー屋に入り、カツカレーにするかチキンカレーにするかを決めるのは簡単である。

しかし、風鈴ときりたんぽ鍋セットのどっちがいいか、という選択は次元が違いすぎて選べないのだ。

しかも今回、2000品である。

2000品から1品決めるなんて、そこそこの規模の町のPR大使を選ぶくらいのオーディションである。

 

うーん、これは決められないなぁ、と添付された申し込み用はがきを見ると、「締切日 受取日より4ヶ月後」と書かれていたので、取りあえず決めるのを先送りにした。

4ヶ月後にまた俺は決断に苦しむだろう。

 

「自由とは、自由であるべく、不自由になることである」

フランスの哲学者サルトルはそう言ったらしい、と今知ったが、フランスにはそんなに前からカタログギフトが存在したようだ。