勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

初めてのスマートフォン、初めての電子レンジ

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先日、「はじめてスマートフォンを使ってみてはいかがでしょう?ていうか使えよ」という趣旨のテレビCMを見た。
 
それを見て俺は驚愕した。
理由は、今が2020年だからである。
 
今や電車に乗れば、乗客の100%がスマートフォンを眺めている。
100%といえば「いやそんな訳がないだろう嘘をつくな」と仰る、苦言する人もいるだろうが、そんな人には一度電車に乗ってみてもらいたい。
俺の主張が間違いではなく、ましてや誇張でもないことがわかるはずだ。
 
俺の記憶が正しければ、多くの人が初めてスマートフォンを手にしたのは2008年ころからである。
インターネットも快適に閲覧できる、アプリケーションも豊富にあって様々な機能が活用できる、など、それまで広く使用されていたいわゆるガラパゴス携帯」と比較して圧倒的に便利だし楽しいじゃん、ということで、いまやガラパゴス携帯」を使っている人など見かけることは全くない。
 
なのに、にもかかわらず。
「はじめてのスマートフォン」を訴求するテレビCMを見て、俺はこう思った。
 
「いや、もうスマートフォン使ってない人なんていないだろ」
 
だがしかし、本当に一人もいなければ、大企業が多額の予算を投下してテレビCMを行うわけがないのだから、まだスマートフォンを使ったことがない人は一人どころかめちゃめちゃたくさんいる、ということになる。
もちろんどのような製品を使いどんな暮らしをするかはそれぞれの人の自由、現代はみんなの自由が最も尊重されるべき社会ではあるが、2006年にウィルコムW-ZERO3を手にしてからスマートフォン歴14年、バリバリに使いこなしていると自負する俺は、まだスマートフォンを使ったことがない人にたいして、「科学技術に取り残された前時代的な人」「最新の生活様式を取り入れようとしない怠け者」と思い込んでいた。
 
調べてみたら、まだ端末サイトがあることに驚いた。
 
 
この4月に電子レンジを購入した。
コロナウイルスの感染拡大で食品買い占めや飲食店の営業停止が続くのではないか、と言われていた時期だ。
料理が一切できない俺は、6年前に離婚して一人暮らしを再開してからは毎日欠かさず外食をしていたが、「もし冷凍食品やチルド食品しか手に入らないような事態になったら、何も食べられないのってやばくね?」と恐ろしくなり、あわてて家電量販店に向かったのだった。
 
それから4ヶ月。
コロナ禍によって、世の中全体と同じように、俺の生活も大きく変わった。
自宅勤務と飲食店の時短営業が続く日々に、これまで全く足を運んだことのなかったスーパーマーケットにも頻繁に訪れるようになった。
これまでは出来合いの弁当とパンくらい、そして酒くらいしか買うことがなかったが、今の俺には強い味方がいる。
それはもちろん電子レンジ。
スーパーマーケットの陳列棚で圧倒的最大勢力を有する冷凍食品およびチルド食品を、俺は調理する能力を獲得したのだ。
そしてそれらが驚くほど美味い。
主菜を調理、続いて副菜を調理、最後に主食を調理、といった風に、俺の家の電子レンジは毎食フル回転させられるようになった。
最早、電子レンジ無しの食生活は考えられないくらいだ。
 
今日も回転する内部を見ながら「電子レンジって便利だなあ、もっと早く買っていたらよかったなあ」とつぶやいたその時、俺は気がついた。
まだスマートフォンを使ったことがない人ではなく、俺こそが科学技術に取り残されていたのだと。

アジフライ3枚による俺たちへの提案

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敬愛する漫画家・福本伸行先生の作品の中でも一番の名作だと個人的には思っている最強伝説黒沢の中に、こんな一節がある。
 
(主人公・黒沢が職場の若者たちに連れて行かれてファミリーレストランを訪れるときの心の声)
 
オレは…
もうずいぶん長く…
このファミレスってやつが苦手だった…!
 
だいたいネーミングが傲慢だ…!
 
あっさり言い切るが、
世の中にはな、
ファミリーに縁のない奴だって、
いっぱいいるんだぞ…!
 
拒絶する気かよ…!
このレストラン群どもは…!
 
オレたち…
シンガー(独り者)を…!

 

ファミリーレストラン

主なターゲット層(ファミリー)を規定した時、サービスの呼称そのものに入れてしまうというのは、ターゲット取り込み策としては最もシンプルかつ強力のように思える。
が、その副作用として事業者側が意図するしないに関わらず生まれる、ターゲット層から外れた人が受ける疎外感を、見事な洞察力で切り取った名シーンである。
少なくとも同じシンガーである俺は、こんなことは考えたこともなかった。
 
ただ最近、これに近いことが身の回りにあった。
 
 
俺の家の近くには「ヨークフーズ」というスーパーマーケットがある。
 
6年前に一人暮らしを再開して以降ほぼすべての食事を外食で済ませてきた俺にとっては、ここは週に1回、酒とグレープフルーツジュースを買うためだけに訪れる場所だったが、コロナ感染が広まってからは家にいる時間が長くなり、家で食事をする機会も増えたたことで、スーパーで酒以外の物も目に留まるようになった。
 
何を隠そう、俺の一番好きな食べ物は、アジフライである。
「知らんがな」「興味ないわ」と思う人も多いだろうが、ブログなんてそんなものだろうから容赦してほしい。
 
ある夜、夕食をする食材を買おうと店に入った。
当然、アジフライを買って食べようと思い、揚げ物売り場に直行する。
アジフライが入ったプラスチックのパックは大量に並んでいる。
うんうん、やはり俺に限らずアジフライを好んで食す人が非常に多いことの証左に違いない、そりゃそうだ、こんなに美味いものはそうそう無いからね。
とうなずきながら、俺もみんなに負けじとアジフライウェーブに乗っかるべくどれを買うか物色していた。
すると、なんということだろうか、すべてのパックがアジフライ3枚入りであることに気がついた。
生憎俺は夕食でアジフライを3枚も食べるほどの大食漢ではないし、しかもアジフライなんてものは揚げてからすぐ食べるのが美味いのであって、実際、提供元のヨークフーズが推奨する賞味期限も当日中であったから、明日以降に残したくもない。
もちろん、捨てるわけにもいかない。
したがって、俺はアジフライを諦めるしかないのである。
 
 
アジフライには目がないこの俺にアジフライを目の前にして諦めさせる「ヨークフーズ」とはいったい何者なのか。
株式会社ヨークのホームページには、このように記載されている。
 
高齢化や女性の社会進出の増加、世帯人口の減少等を背景とした社会構造の変化の中で、お客様の生活スタイルや価値観が日々大きく変化しています。そのような流れの中、私たちは、それぞれが培ってきた企業文化を融合し、互いのノウハウを活かしあいながら首都圏における「新しい食提案型のスーパーマーケット」を創造すべく事業に取り組んでまいります。
 

 www.york-inc.com

つまり、アジフライを3枚入りで提供するのはヨークフーズによる「新しい食提案」であり、それはすなわち、すべての家庭は3人以上であるべき、もしくは単身者は1日に3枚のアジフライを食べるべき、という新しい提案である。
1日に3枚のアジフライを食べる大食漢以外は3人以上の家族を結成するべき、単身で暮らすことなど許されない、ということだ。
 
とここまで書いて、さっき1週間ぶりにヨークフーズに行ってみたら、アジフライ1枚入りのパックが売られていた。
俺が行った時は、売り切れていただけだったのだ。
ただ思うのは、毎回売り切れていたということは、1枚パッケージの「食提案」の方が支持されていることの表れであろう。

「withコロナ」時代を予想してみた

東日本大震災と同様、いやそれ以上に、コロナウイルスは現代人の生き方、人生観、哲学といったものを変容させるのではないかと言われている。
 
それを「afterコロナ時代」とか「withコロナ時代」とか呼ぶ人がいるが、ワクチンや特効薬が開発されてコロナが恐れるに足りない存在になるにはまだまだ時間がかかるし、それまでの間も経済活動を完全に停止させるわけにはいかない、人類は止まったら死ぬ、という理由から、人類はコロナウイルスやこれからも生まれるであろう未知なるウイルスとうまく付き合っていかなければならなくなる、というのが大方の予想らしく、「after」よりも「with」という言葉が使われているのには、そういった諦めにも似た感情が込められているようだ。
 
では「withコロナ」の世界は今とどういった違いがあるのだろうか。
俺なりに予想してみた。
 
 
最近俺は、リモートワークをしている。
週に1~2回は出社しなければならないものの、会議はオンラインでも案外問題なく進むので、特に業務に支障をきたすことは少ない。
その上に通勤時間も必要なくなるため、以前より睡眠時間を長く取ることができる、などメリットばかりで、これはいい、外出できる時が戻っても会社員も自宅での勤務が認められるようになれば世の中みんなハッピー、と思っていた。
 
 
先日、上司にブチ切れられるという出来事があった。
もうすぐ40歳にもなろうというのに、だ。
それはさておき、ブチ切れられたのも、テレワークだから電話である。
つまりその上司は、俺にブチ切れるためにわざわざ電話をかけてきたのだ。
 
人に電話をかけるというのは、なかなかエネルギーを要する行為である。
大した用事でなければ、「わざわざ電話してまで話すことではない」と思ってメールなどで伝えるようにすることも多い。
少なくとも俺にとってはそうである。
その分、電話で伝えられる怒りのエネルギーは、越えてきた壁の高さの分だけより増幅されて、ブチ切れられる側の人間にぶつけられるのである。
 
そして、ブチ切れられた会社員はどういう行動に出るか。
同僚に愚痴るのである。
愚痴ることでストレスを発散し、また仕事に戻る精神状態を取り戻すことができる。
しかしリモートワーク環境下では、愚痴を言うのにも電話をしなければならない。
愚痴なんて、怒り以上にわざわざ電話するほどのことでもないし、メールでも送りづらい。
であればLINEか?
コミュニケーションツールとして最も障壁が低いのはLINEのようなメッセージアプリである。
しかしそれでもまだ、「愚痴のためにわざわざ会話を始める」ことの敷居の高さは依然として残る。
 
こうして、ブチ切れられたストレスは発散されることなく、ただ蓄積するだけに終わる。
 
 
今後コロナウイルスが収束した時に、もし会社員と雇う企業の双方が
「リモートで業務も滞らなかったし、出社できるけど必要ないからみんな在宅勤務でいいじゃん」
と考えた結果、「通勤」行為が廃れて家で働くのが当たり前となったら、精神を病む人が増えるであろう。
 
コロナ禍により必要に迫られた人類は、「対面会議」に替わり「オンライン会議」を普及させつつある。
しかしそれだけでは不十分であるのは言うまでもない。
 
健康増進法」という誰が求めているのかわからない謎の法律によって社内から撤去されてしまったが、それまで喫煙所は、タバコを吸うための場所ではなく、同僚と、上司の悪口やどうでもいい話をするための場所として設けられていた。
その証拠に、俺はタバコが吸えないにも関わらずよく喫煙所に行っていたものだ。
しかし今、喫煙所が奪われ、そしてみな在宅勤務になってしまい、愚痴を言う術をどんどん失っている。
しかも、俺は結婚しておらずひとり暮らしだからわからないが、ネットの記事によると、在宅勤務で夫が家にずっといることに耐えられない妻が増えているらしい。
 
 
こういった事態の解消を目的として、「出社要請」が政府から発令されるだろう、というのが俺の予想である。

自粛疲れと引きこもり

コロナウイルスが猛威を振るい外出の自粛が要請されている中、「自粛疲れ」を感じている人が多いらしい。
「自粛疲れ」には、外出できないことで心身にストレスを感じることから陥ってしまうらしいが、自分のことを振り返ってみると、外出できないことに対するストレスなど感じたことはなく、それを訴える人の心情を理解することができない。
だが「理解することができない」と一言で終わらせてしまうと、他人との心の交流が成立せず、ひいては世界平和など夢のまた夢、戦争の絶えない世界となってしまうから、少し考えてみたいと思う。
 
まず、おれはどれくらい外出をしていない、か。
夜に居酒屋へ飲みに行く、友人と会って談笑する、趣味のために遠出をする、などのいわゆる「不要不急」の外出を断ってから3週間が経つ。
そして仕事をリモートワークに変更、すなわち職場への通勤を中止して1週間が経った。
また俺は自炊能力がゼロなのと、幸いなことに飲食店はまだ営業しているところもあるので、食事のたびに家の近所にある店まで歩いて出かけているのと、人と会わない散歩を数日に一度くらいの頻度で行っており、これら以外のほとんどの時間は、自宅にてすごしている。
 
これが他の人と比較してどれくらい「外出していない」レベルなのかはわからないが、自粛要請が出て以降は、家にいる時間は睡眠時間を除けば数十倍にもなっている。
 
で、ストレスはどれほどかというと、前述の通りまったく感じていない。
従って、他の人がどうしてストレスを感じるのかが想像がつかない。
そういう時は、調べるしかない。
 
 
まずいろいろな記事やインターネット投稿を見ていると、いくつかのパターンがあるようだ。
  • 子供はとにかく外で遊びたい。それができずにグズグズする子供の面倒を見るのがストレス
  • スポーツなどによってストレス発散をできない
  • 夫が嫌い、妻が嫌い、目のつかないところにいてくれるのであればそれが会社だろうがどこだろうが何でもいいのだが
  • 人と話せないのがストレス
  • ずっと家にいると気が滅入る
 
おれは
  • 家族がいないから他人にイラつくことがない
  • スポーツがストレス発散にならない。もちろんスポーツできないことがストレス源にもならない。そもそも「山に登れないことがストレス」「テニスができないことがストレス」という状況がよくわからない。それを始める前はストレスがなかったわけであり、本来はいつでも始める前の状況に戻れるはずである。
  • 家には本もあればインターネットもあってゲームもできるから、無限に時間をつぶすことができてストレスを感じることがない
  • 人と話すほうがむしろ緊張する、どうしても話したかったら「ZOOM飲み」などすればいい
といった理由から、「外出できないストレス」をまったく感じないでいることができている。
 
 
ある調査によると
「人が外出を我慢できる期間は平均で14.4日」
らしいが、いま俺がやっているくらいの外出が許される範囲内であれば、俺は無限に耐えられる気がする。
 
そして、世の中には「引きこもり」と言われる、14.4日どころか数年もずっと外出せずに暮らしている人たちもいる。
今こそ彼らの声に耳を傾け、その生き方にノウハウを学びとするべきではないだろうか。
コロナ禍への戦い方に、手段を選んではいられないのである。
 

自転車に乗るようになってから、他人の気持ちになって考えることなんて到底不可能なことがわかった

半年ほど前に、自転車を購入した。
小学生のころから乗り始め、中学では毎日の通学に、高校生の時もちょいちょいとは使っていたが、大学で上京するときに実家に置いてきてしまったので、それ以来だ。
現在俺が住んでいる集合住宅には自転車置き場がないのだが、自転車乗りにとってこれがあるのとないのとでは大違いである。
というのも、自転車とは、ざらしになってしまうと錆びてしまい乗る気が失せて放置してしまうから、ますます錆びてしまって、すると自転車にに乗りたいという気持ちも加速度的に減少し、という悪循環にはまってしまう、そういう乗り物である。
これを防ぐためには部屋の中で保管するしかない、そう考えた俺は、7.5帖のワンルームに置けるよう、折りたたみ機能にこだわった。
その結果、自転車としてはかなり高額な部類になってしまった。
すると乗らないと勿体ないので、電車で行きたいところも少々無理して極力自転車で移動するようになった。
いっぱしの自転車ライダーである。
 
そんなライダー生活をしばらく続けていると、不思議なことに世の中が自転車中心に見えてきた。
「世の中が自転車中心」とはどういうことか。
たとえばある道路を自転車で走行しようすると、自転車は車道の左端を通行するのが道路交通法上のルールである。
しかし車道は自動車がびゅんびゅんと高速に走行しており、危険な感じがする。
じゃあ歩道か、と思ったら、最近でこそ幅員に余裕のある道路では歩道上に自転車専用レーンが用意されているものがあるが、そんなものはまだまだ珍しく、歩道では歩行者が幅を利かせており、自転車のスムーズな走行疾走の妨げになることも多い。
「何をチンタラほっつき歩いているんだ」と苛立つなど、精神衛生にもよくない。
 
歩道で苛ついていたある日に思い出したのは、自転車ライダーになる前、俺は歩行者だった過去である。
歩行者の俺はチリンチリンを鳴らし歩道を暴走する自転車に対して、「歩道は歩行者のものなのになぜこっちが自転車を避けなければならないのか」と、チリンチリン無視を決め込んでいたりした。
ライダーの俺からみれば身勝手な主張である。
 
仕方ないので車道を走っていると、車道の左側というのは、駐車している車があったり、タクシーが客を拾うために目の前でいきなり停車したりと、これまたスムーズな走行の妨げになるものが多く、「車道の左側には自転車マークもついているのに、誰の許可を得て左端に停車しているのか」などと、停車している車をぶち壊したくなる心境に駆られるのである。
 
しかしぶち壊したくなる心境とともに蘇るのは、かつて俺は自動車のドライバーであった記憶。
自動車ドライバーからすると、駐車場に入れるほどではないほんのちょっとした停車の際に道路の左端に寄せることなど当たり前の行為だ。
そして車道をふらふらしながらのろのろ走っている自転車はめちゃくちゃ邪魔な存在であり、もし追い抜こうとする直前に右側によろめいてきたら轢いてしまうのではないか、と空恐ろしい気持ちにさせる存在でもある。
 
だが、そんなことよりも遥かに空恐ろしいのは、自転車ライダーである俺と、歩行者である俺、またかつて自動車ドライバーであった俺は同一人物である点だ。
移動手段が変わるだけで人間の思考というものはここまで大きく変化するものなのか、そして、人間はここまで利己主義的になることができるものなのか、と、自分のことながら衝撃を受けている。
 
 
いま、世界中でコロナウイルスが猛威をふるっている。
政府は大規模イベントの開催等を自粛するように要請しているが、あらゆる主催者は実施するかしないかの判断を迫られ、実施したイベントに対しては「時期を考えろ」だの「命をなんだと思っているんだ」といった批判が向けられている。
 
しかし、その批判をしている人がイベンターだったことはあるのだろうか。
自転車ライダーの気持ちが自転車ライダーになってみないのとわからないのと同じように、イベンターの気持ちはイベンターになってみないとわからないはずだ。
イベント実施の決定をした主催者はおそらく苦渋の決断のだったろうが、もしかしたら
「これくらい大丈夫っしょ。伝染らないっしょ。みんなビビりすぎ」
と思っているのかもしれないし
「世間が心配する気持ちもわかるが、我々もこのイベントを中止したら俺の会社も即倒産そしてそんなことになったら俺も首吊りは免れない。知らん奴の命より俺の命を優先する」
と思っているかもしれない。
だが、そんなことは俺はイベンターではないからわからない。
 
なんてことを書いたら、あるイベンターの人が
「俺はイベンターだが中止したぞ。すべての主催者が人命を軽視しているとでも主張するのか。殺す」
と言ってくるかもしれないが、そのイベンターは資金にちょっとした余裕があって、ひとつイベントをミスったら即倒産せざるを得ないような金銭的に余裕のないイベンターの気持ちなんてわからないに違いない。
 
 
このように考えると
「私があなたの立場ならする(しない)はずの行為を、あなたはどうしてしない(する)のか」
といったあらゆる批判がすべて無意味だとわかる。
 
その人はすでに全力で努力してその状況に至ったのかもしれないし、もしくは全力で努力できない状況にあったのかもしれないが、それを他人が推し量ることはできないのだ。

もうじき「ただおいしいから食べる」ことはできなくなる

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「人間はなぜ物を食べるのか」
 
ある人は
「腹が減ったから」
と答えるだろうし、もう少し科学的な論考を好む人であれば
「あらゆる生命体は活動するためのエネルギーが必要であり、それを生成することができない人間をはじめとする動物は、エネルギー摂取のために物を食べるのである」
とか
「健康的な生活を送るためには人体が必要とする栄養素がそれぞれ何ミリグラム摂取するべきである、などといった国家が推奨する分量を確保するため」
と言うだろう。
 
また、科学的論考ではなく文化、人文学に志向する人は
「あらゆる動物の中で唯一文化的動物である人間にとっては、食事という行為も文化的でなくてはならない。したがってそれは当然『カロリーすなわりエネルギー摂取』という単純、素朴な目的に留まるべきではなく、食事そのものを楽しむために味の向上は際限なくそれを追求しなければならないし、食事をする場所の雰囲気も大変重要である」
といった発言をするかもしれない。
 
人によって違いはあるが、だいたいこのパターンに収斂される。
と、ある日までは思っていた。
 
 
先日、あるドラッグストアを訪問した。
店内のある一角に菓子類を陳列している棚があったのだが、そこに並ぶ商品を見て驚愕した。
 
「目の疲労感を軽減するチョコレート」
「指先の冷えを軽減するチョコレート」
「事務的な作業による一時的・心理的なストレスを低減するチョコレート」
「脂肪や糖の吸収を抑えるチョコレート」
 
俺が知っているチョコレートといえば「カカオなんとかパーセント」とか「苺のフレイバーが楽しめる」とか「さくさくした食感がナイス」とか、そういう要素で差別化や競争をしていたものだったが、俺が目を離した隙にここまで進化していたのか。
 
あまりの衝撃にふらつきながら店内を歩いていると、横にはガム陳列棚があって、そこはキシリトールとか「ミント」とか見慣れた商品が並んでいた。
「ここは早すぎる進歩から免れられたユートピアか、落ち着くなあ」とひと安心していたら、またしても目に飛び込んできたのが
 
「ストレスや疲労感を軽減するガム」
「記憶力を維持するガム」
 
と、やはりここでも斬新なガムを目の当たりにしてしまい、「ガムまで資本主義に侵されてしまった」と、あまりのショックに俺は思わず何も買わずにドラッグストアを退店してしまった。
 
こういった真新しい商品を開発する企業努力はきっとすさまじいものであって頭が下がる思いだが、問題なのは「なぜ物を食べるのか」である。
人が物を食べる理由に大きな変化を及ぼすことは避けられないのだ。
 
というのも、例えば普段から冷え性に悩まされている人であれば、指先の冷えを軽減する最先端のチョコレートと、指先の冷えを軽減しない凡庸なチョコレートが並んでいれば、指先の冷えを軽減するチョコレートを選ぶに決まっているのであり、これはもはや、「指先の冷えを軽減するためにチョコレートを食べている」状態とそれほど遠くないのである。
 
売上を伸ばそうとする企業努力はすさまじいものである。
今後、さらなる血が出るような企業努力を続けた結果、
「一発で体脂肪率が10%になるハンバーガー」
「瞬時に偏差値が70に到達するカルボナーラ
「100mが2秒早く走れるようになる揚げ出し豆腐」
なる食品が開発、販売されるようになることは時間の問題であり、これはもう少々まずかろうが間違いなく選ぶだろうし、ここまで強力な機能がついた食品であれば、「物を食べる目的」は完全に付加機能の方に移ってしまうだろう。
 
さすがにそれは大げさだろう大馬鹿者が、と僕のことをあざ笑う人もいるかもしれない。
しかし、俺らが子供だったころ(それは20~30年前のことを指しているのですが)に、「目の疲労感を軽減するチョコレート」が100円そこそこで売られるようになるなんて、果たしてどれだけの人が予想していただろうか。
 
これから技術が進歩するにつれてさらに、「物を食べる理由」だけでなく、「温泉に入る理由」や「車に乗る理由」は、付加機能に支配されていくのだろうと思う。
我々は「意味」から逃れられなくなるのだろうか。
 
そんな世の中へのわずかな鼓動を感じたドラッグストアの菓子棚だった。
 

仕事でトラブル処理をしていたら「AIに取って代わられない」仕事を見つけた

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俺の仕事のひとつのうちに、「トラブルを解決する」というものがある。

先日も、部下がやりとりをしていた取引先が激怒し、俺が「初めまして」と挨拶した流れでそのまま陳謝する、といった出来事があった。

 

もちろん俺が仕事を仕損じてトラブルになるケースもあれば、このように俺の部下が俺の伺い知らないところでしくじり、何の前触れもなく

「すみません、部長が激怒しています」

「取材先が今にも怒鳴り込みに来る勢いです」

「得意先が怒髪冠を衝いています。その勢いでカツラが浮かび上がってました。あの人カツラだったんですね。え、知ってたんですか?だったら教えてくださいよ」

といった報告を受けたりする場合もある。

 

これらのケースは俺に過失はなくとも、責任は俺にあるとされる。

これを一般には「監督者責任」と呼び、職場で管理監督する立場にある人間は部下の行動に責任を負うことになる、という仕組みである。

監督というのは、他の人より立派であるからという理由でその役割を与えられるのだろうが、監督だからといって聖人君子ではない。

「なんで俺は悪くないのに謝罪しなければならないのか、やってられねぇ。取引先も部下もぶん殴りてぇ」

と思うことは日常茶飯事である。

多くの企業では、現場で優秀な仕事っぷりを発揮すると、出世して管理職になるようだが、優れた仕事ができるからといって、人格的に優れているとは限らない。

さらには、別に出色した業績を残せない凡人や、並どころかまともに業務遂行が覚束ない盆暗であっても、年齢を重ねるうちに「あいつもさすがにそろそろ課長くらいにはしておいてやらないとかわいそう」などといった温情で出世することだって多々ある。

 

事実、俺がそうであるように、世の管理職とて多くは人格者ではない。

プロ野球珍プレー好プレーで判定に納得のいかない監督がブチ切れてホームベースを引っこ抜いて退場したシーンは子供のころから何度も繰り返し見たし、映画監督から出演者によるセクハラパワハラの類は枚挙に暇がない。

しばらく前にはスポーツの各競技で監督によるパワハラが次々と発覚し、「次はどの競技か」などともささやかれたりした。

 

最近はその傾向が強まっているような感覚を持っている。

もっと言えば、「監督、指導者が人格者であることを放棄し始めている」のだ。

米国のトランプ大統領がいい例である。

人格的にはふさわしくないとずっと言われながら、それでも米国人は彼を指導者に選んでいる。

国の指導者に人格を求めていないのだ。

 

 

俺が新卒で就職活動をしていたころ、100人の学生がいれば85人は

「私は一言でいうならば『潤滑油』のような人間です」

と面接で言って、5人は間違えて

「私は『ローション』のような人間です」

と言っていた、と聞く。

 

大きな仕事や誰もやったことのないような未踏の業績をあげようと思えば、当然、利害関係の衝突があり、そこには摩擦が生まれる。

そんな時にぬるぬる潤滑油人間であれば、あら便利。

彼らは潤滑油だから、摩擦を一切生まない。

自分は悪いとは一切思っていないけど謝罪、インスタント焼き土下座をすれば、謝られたほうは矛を収めるしかなく、再びスムーズにプロジェクトが進行していく。

 

あれから十余年。

潤滑油人間、もしくはローション人間は、おそらくかなり数を減らしているだろうと思う。

それは、全世界的に「好きなことして生きていく」のがかっこいい、イケてるという価値観が拡がっているからである。

 

「会社員になったからってなんでやりたくないことをやらんといかんの? 僕は僕の思うがままに生きるよ。出世しようが関係なく、ね」

と、みんなが思い始めるのだ。

国の最高指導者ですらそうなのだから。

 

 

最近はAIの発達に代表される第四次産業革命」によって、自分の職能は無価値化し仕事を失ってしまうのではないかと、心配している人が多い。

俺もそんなうちのひとりである。

そんな中で価値が高まるのはエンジニアやプログラマーだと言われているが、「今さら一から技術を学ぶことなんてできるわけないだろうが」と絶望するサラリーマンに俺が言いたいのは、「潤滑油人間も価値が高まるよ」っていうことなのだ。

 

まず、純粋にみんなが好き勝手に生きる世界では、潤滑油人間の絶対数は減少する。

そして、「俺が悪いとは一切思わないけど、とりあえず謝罪する」行為は、AIにはできない。

できたとしても、ひたすら「申し訳ございません」を連発するAIは単純にムカつくから、この仕事はAIに取って代わられることはない。

 

プログラミングを今から学ぶことができないなーって思っている人には、潤滑油人間に人格を変えることを推奨する。

どちらもできない人は、わからない。

俺がそれで悩んでいるのだから。