アジフライ3枚による俺たちへの提案
(主人公・黒沢が職場の若者たちに連れて行かれてファミリーレストランを訪れるときの心の声)オレは…もうずいぶん長く…このファミレスってやつが苦手だった…!だいたいネーミングが傲慢だ…!ファミリーレストランなんて、あっさり言い切るが、世の中にはな、ファミリーに縁のない奴だって、いっぱいいるんだぞ…!拒絶する気かよ…!このレストラン群どもは…!オレたち…シンガー(独り者)を…!
高齢化や女性の社会進出の増加、世帯人口の減少等を背景とした社会構造の変化の中で、お客様の生活スタイルや価値観が日々大きく変化しています。そのような流れの中、私たちは、それぞれが培ってきた企業文化を融合し、互いのノウハウを活かしあいながら首都圏における「新しい食提案型のスーパーマーケット」を創造すべく事業に取り組んでまいります。
「withコロナ」時代を予想してみた
自粛疲れと引きこもり
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子供はとにかく外で遊びたい。それができずにグズグズする子供の面倒を見るのがストレス
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スポーツなどによってストレス発散をできない
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夫が嫌い、妻が嫌い、目のつかないところにいてくれるのであればそれが会社だろうがどこだろうが何でもいいのだが
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人と話せないのがストレス
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ずっと家にいると気が滅入る
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家族がいないから他人にイラつくことがない
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スポーツがストレス発散にならない。もちろんスポーツできないことがストレス源にもならない。そもそも「山に登れないことがストレス」「テニスができないことがストレス」という状況がよくわからない。それを始める前はストレスがなかったわけであり、本来はいつでも始める前の状況に戻れるはずである。
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家には本もあればインターネットもあってゲームもできるから、無限に時間をつぶすことができてストレスを感じることがない
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人と話すほうがむしろ緊張する、どうしても話したかったら「ZOOM飲み」などすればいい
自転車に乗るようになってから、他人の気持ちになって考えることなんて到底不可能なことがわかった
半年ほど前に、自転車を購入した。
小学生のころから乗り始め、中学では毎日の通学に、高校生の時もちょいちょいとは使っていたが、大学で上京するときに実家に置いてきてしまったので、それ以来だ。
現在俺が住んでいる集合住宅には自転車置き場がないのだが、自転車乗りにとってこれがあるのとないのとでは大違いである。
というのも、自転車とは、雨ざらしになってしまうと錆びてしまい乗る気が失せて放置してしまうから、ますます錆びてしまって、すると自転車にに乗りたいという気持ちも加速度的に減少し、という悪循環にはまってしまう、そういう乗り物である。
これを防ぐためには部屋の中で保管するしかない、そう考えた俺は、7.5帖のワンルームに置けるよう、折りたたみ機能にこだわった。
その結果、自転車としてはかなり高額な部類になってしまった。
すると乗らないと勿体ないので、電車で行きたいところも少々無理して極力自転車で移動するようになった。
いっぱしの自転車ライダーである。
そんなライダー生活をしばらく続けていると、不思議なことに世の中が自転車中心に見えてきた。
「世の中が自転車中心」とはどういうことか。
たとえばある道路を自転車で走行しようすると、自転車は車道の左端を通行するのが道路交通法上のルールである。
しかし車道は自動車がびゅんびゅんと高速に走行しており、危険な感じがする。
じゃあ歩道か、と思ったら、最近でこそ幅員に余裕のある道路では歩道上に自転車専用レーンが用意されているものがあるが、そんなものはまだまだ珍しく、歩道では歩行者が幅を利かせており、自転車のスムーズな走行疾走の妨げになることも多い。
「何をチンタラほっつき歩いているんだ」と苛立つなど、精神衛生にもよくない。
歩道で苛ついていたある日に思い出したのは、自転車ライダーになる前、俺は歩行者だった過去である。
歩行者の俺はチリンチリンを鳴らし歩道を暴走する自転車に対して、「歩道は歩行者のものなのになぜこっちが自転車を避けなければならないのか」と、チリンチリン無視を決め込んでいたりした。
ライダーの俺からみれば身勝手な主張である。
仕方ないので車道を走っていると、車道の左側というのは、駐車している車があったり、タクシーが客を拾うために目の前でいきなり停車したりと、これまたスムーズな走行の妨げになるものが多く、「車道の左側には自転車マークもついているのに、誰の許可を得て左端に停車しているのか」などと、停車している車をぶち壊したくなる心境に駆られるのである。
しかしぶち壊したくなる心境とともに蘇るのは、かつて俺は自動車のドライバーであった記憶。
自動車ドライバーからすると、駐車場に入れるほどではないほんのちょっとした停車の際に道路の左端に寄せることなど当たり前の行為だ。
そして車道をふらふらしながらのろのろ走っている自転車はめちゃくちゃ邪魔な存在であり、もし追い抜こうとする直前に右側によろめいてきたら轢いてしまうのではないか、と空恐ろしい気持ちにさせる存在でもある。
だが、そんなことよりも遥かに空恐ろしいのは、自転車ライダーである俺と、歩行者である俺、またかつて自動車ドライバーであった俺は同一人物である点だ。
移動手段が変わるだけで人間の思考というものはここまで大きく変化するものなのか、そして、人間はここまで利己主義的になることができるものなのか、と、自分のことながら衝撃を受けている。
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いま、世界中でコロナウイルスが猛威をふるっている。
政府は大規模イベントの開催等を自粛するように要請しているが、あらゆる主催者は実施するかしないかの判断を迫られ、実施したイベントに対しては「時期を考えろ」だの「命をなんだと思っているんだ」といった批判が向けられている。
しかし、その批判をしている人がイベンターだったことはあるのだろうか。
自転車ライダーの気持ちが自転車ライダーになってみないのとわからないのと同じように、イベンターの気持ちはイベンターになってみないとわからないはずだ。
イベント実施の決定をした主催者はおそらく苦渋の決断のだったろうが、もしかしたら
「これくらい大丈夫っしょ。伝染らないっしょ。みんなビビりすぎ」
と思っているのかもしれないし
「世間が心配する気持ちもわかるが、我々もこのイベントを中止したら俺の会社も即倒産そしてそんなことになったら俺も首吊りは免れない。知らん奴の命より俺の命を優先する」
と思っているかもしれない。
だが、そんなことは俺はイベンターではないからわからない。
なんてことを書いたら、あるイベンターの人が
「俺はイベンターだが中止したぞ。すべての主催者が人命を軽視しているとでも主張するのか。殺す」
と言ってくるかもしれないが、そのイベンターは資金にちょっとした余裕があって、ひとつイベントをミスったら即倒産せざるを得ないような金銭的に余裕のないイベンターの気持ちなんてわからないに違いない。
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このように考えると
「私があなたの立場ならする(しない)はずの行為を、あなたはどうしてしない(する)のか」
といったあらゆる批判がすべて無意味だとわかる。
その人はすでに全力で努力してその状況に至ったのかもしれないし、もしくは全力で努力できない状況にあったのかもしれないが、それを他人が推し量ることはできないのだ。
もうじき「ただおいしいから食べる」ことはできなくなる
仕事でトラブル処理をしていたら「AIに取って代わられない」仕事を見つけた
俺の仕事のひとつのうちに、「トラブルを解決する」というものがある。
先日も、部下がやりとりをしていた取引先が激怒し、俺が「初めまして」と挨拶した流れでそのまま陳謝する、といった出来事があった。
もちろん俺が仕事を仕損じてトラブルになるケースもあれば、このように俺の部下が俺の伺い知らないところでしくじり、何の前触れもなく
「すみません、部長が激怒しています」
「取材先が今にも怒鳴り込みに来る勢いです」
「得意先が怒髪冠を衝いています。その勢いでカツラが浮かび上がってました。あの人カツラだったんですね。え、知ってたんですか?だったら教えてくださいよ」
といった報告を受けたりする場合もある。
これらのケースは俺に過失はなくとも、責任は俺にあるとされる。
これを一般には「監督者責任」と呼び、職場で管理監督する立場にある人間は部下の行動に責任を負うことになる、という仕組みである。
監督というのは、他の人より立派であるからという理由でその役割を与えられるのだろうが、監督だからといって聖人君子ではない。
「なんで俺は悪くないのに謝罪しなければならないのか、やってられねぇ。取引先も部下もぶん殴りてぇ」
と思うことは日常茶飯事である。
多くの企業では、現場で優秀な仕事っぷりを発揮すると、出世して管理職になるようだが、優れた仕事ができるからといって、人格的に優れているとは限らない。
さらには、別に出色した業績を残せない凡人や、並どころかまともに業務遂行が覚束ない盆暗であっても、年齢を重ねるうちに「あいつもさすがにそろそろ課長くらいにはしておいてやらないとかわいそう」などといった温情で出世することだって多々ある。
事実、俺がそうであるように、世の管理職とて多くは人格者ではない。
プロ野球珍プレー好プレーで判定に納得のいかない監督がブチ切れてホームベースを引っこ抜いて退場したシーンは子供のころから何度も繰り返し見たし、映画監督から出演者によるセクハラパワハラの類は枚挙に暇がない。
しばらく前にはスポーツの各競技で監督によるパワハラが次々と発覚し、「次はどの競技か」などともささやかれたりした。
最近はその傾向が強まっているような感覚を持っている。
もっと言えば、「監督、指導者が人格者であることを放棄し始めている」のだ。
米国のトランプ大統領がいい例である。
人格的にはふさわしくないとずっと言われながら、それでも米国人は彼を指導者に選んでいる。
国の指導者に人格を求めていないのだ。
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俺が新卒で就職活動をしていたころ、100人の学生がいれば85人は
「私は一言でいうならば『潤滑油』のような人間です」
と面接で言って、5人は間違えて
「私は『ローション』のような人間です」
と言っていた、と聞く。
大きな仕事や誰もやったことのないような未踏の業績をあげようと思えば、当然、利害関係の衝突があり、そこには摩擦が生まれる。
そんな時にぬるぬる潤滑油人間であれば、あら便利。
彼らは潤滑油だから、摩擦を一切生まない。
自分は悪いとは一切思っていないけど謝罪、インスタント焼き土下座をすれば、謝られたほうは矛を収めるしかなく、再びスムーズにプロジェクトが進行していく。
あれから十余年。
潤滑油人間、もしくはローション人間は、おそらくかなり数を減らしているだろうと思う。
それは、全世界的に「好きなことして生きていく」のがかっこいい、イケてるという価値観が拡がっているからである。
「会社員になったからってなんでやりたくないことをやらんといかんの? 僕は僕の思うがままに生きるよ。出世しようが関係なく、ね」
と、みんなが思い始めるのだ。
国の最高指導者ですらそうなのだから。
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最近はAIの発達に代表される「第四次産業革命」によって、自分の職能は無価値化し仕事を失ってしまうのではないかと、心配している人が多い。
俺もそんなうちのひとりである。
そんな中で価値が高まるのはエンジニアやプログラマーだと言われているが、「今さら一から技術を学ぶことなんてできるわけないだろうが」と絶望するサラリーマンに俺が言いたいのは、「潤滑油人間も価値が高まるよ」っていうことなのだ。
まず、純粋にみんなが好き勝手に生きる世界では、潤滑油人間の絶対数は減少する。
そして、「俺が悪いとは一切思わないけど、とりあえず謝罪する」行為は、AIにはできない。
できたとしても、ひたすら「申し訳ございません」を連発するAIは単純にムカつくから、この仕事はAIに取って代わられることはない。
プログラミングを今から学ぶことができないなーって思っている人には、潤滑油人間に人格を変えることを推奨する。
どちらもできない人は、わからない。
俺がそれで悩んでいるのだから。