勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

向田邦子のエッセイと脳のHDD化について

ここ最近、向田邦子のエッセイを読んでいる。
超一流の脚本家の作品だから読み物として面白いことは言うまでもないのだが、その上、当時の文化的な面での文献としてもとても興味深いものになっていて、というのは、彼女が語っているエピソードにはふんだんに、今の時代では女性差別として大炎上してもおかしくはない職場内の会話や、彼女が育った1930年代ころなら父親の「威厳」、現代なら100%「虐待認定・DV認定」されるに違いない妻や子供に対する男尊女卑的言動などから、「今だったら考えられないけど当時はこれが常識だったんだなぁ。時代もうつろったなあ」と、ここ数十年にあった考え方の変化を感じ取ることもできるのだ。
 
しかしそれ以上に俺が衝撃を受けたのは、彼女が幼少期のことを「え?きのうの話ですか?」ってくらいに鮮明に記憶し、事細かに描写している点だ。
 
例えば、
子供の頃、玄関先で父に叱られたことがあった。
保険会社の地方支店長をしていた父は、宴会の帰りなのか、夜更けにはほろ酔い機嫌で客を連れて帰ることがあった。母は客のコートを預かったり座敷に案内して挨拶をしたりで忙しいので、靴を揃えるのは、小学生のころから長女の私の役目であった。
それから台所へ走り、酒の燗をする湯をわかし、人数分の膳を出して箸置きと盃を整える。再び玄関にもどり、客の靴の泥を落とし、雨の日なら靴に新聞紙を丸めたのを詰めて湿気をとっておくのである。
あれはたしか雪の晩であった。
お膳の用意は母がするから、といわれて、私は玄関で履物の始末をしていた。
七、八人の客の靴には雪がついていたし、玄関のガラス戸の向こうは雪あかりでボオッと白く見えた。

(中略)

「お父さん。お客さまは何人ですか」
いきなり「馬鹿」とどなられた。

また別のページには。

「お前はボールとウエハスで大きくなったんだよ」
祖母と母はよくこういっていたが、たしかに私の一番古いお八つの記憶はボールである。
あれは宇都宮の軍道のそばの家だであった。五歳くらいの私は、臙脂色の銘仙の着物で、むき出しの小さなこたつやぐらを押している。その上に黒っぽい刳り拔きの菓子皿があり、中にひとならべの黄色いボールが入っている。私はそれを一粒ずつ食べながら、二階の小さな窓から、向かいの女学校の校庭を眺めていた。白い運動服の女学生がお遊戯をしているのがみえた。

とある。

 
5歳のころのことを、これほどの解像度で記憶しているのである。
俺には、書きたくても到底書けない。
10歳より前のことは、8歳からの2年間で住んでいた社宅の目の前一面が田んぼだったことを除いて一切何も覚えてはいないし、それ以降もぼんやりとしか覚えてない。
通っていた小学校の名前すら思い出せない、毎日のように遊んでいた(と聞かされた)幼馴染の名前も、聞いても「へーそうなんだ」としか返せないくらいである。
 
 
あまりにも記憶がないので、10歳までがどんな様子だったのかに興味があり、母親に尋ねてみたことがあった。
すると、母親から出てきたのは、思いもよらぬ言葉だった。
 
「勉強、運動、習い事、何事にも負けず嫌いで、全力で取り組んでいた」
「すべてに対して一生懸命で自慢の息子だった」
 
思わず「え?誰の話してるの?」って尋ねてしまいそうになった。
それくらい、今の俺とは正反対である。
しかし少なくとも30年ほど前、小学校低学年くらいまでは、俺はそんな子供だったらしく、今のようにあらゆる方面で怠惰で、嫌なことや辛いことがあれば酒を飲んで忘れることしかできないような人間ではなかったようだ。
まあ酒は飲めないけど。
一体どこで、何をきっかけに変わってしまったのだろうか。
 
今や人生100年時代」である。
今日が0歳の誕生日だと思って再スタートすれば、俺だけ「人生60年」にはなってしまうが、短縮されてしまうことは大した問題ではない。
それよりも自慢の息子像を取り戻すことの方がはるかに大切である。
 
ということで、今日から立派な人間になることにしました。
と思ったが、今日はあまりにも眠いので、明日からにしました。
 
 
それにしても、記憶力の無さには自分でも愕然としている。
早いこと脳にHDDを差し込んで記憶をデータとして外部保存できるように技術が発達してほしい。

文春さんや新潮さん、おれもトマトを克服したぜって話

岸田内閣の国会対策委員長に就任した高木毅っていう人は、過去に、女性宅に侵入し下着を盗んで逮捕されたことがあるらしい。

俺はこのことを、今日、Yahoo!ニュースアプリが「高木毅」が検索急上昇ワードになってるよってスマートフォン上で通知してきたことで知ったのだが、調べてみると、これは30年も前のことである。

高木氏は今回、内閣の要職に抜擢されたことで、30年も前の不祥事を蒸し返され、改めて今日、新しいニュースとして報道されることになったのだ。

 

最近、この手の話が多い。

東京オリンピックの開会式の演出チームに選出されたとたんに過去の悪事を再び持ち出されて、即辞任、辞退に追い込まれた人は、1人ではすまなかった。

この選出から辞任までのスピード感は、ちょっと前にはなかった、まさにネット社会を象徴しているなあって感じがして今っぽいなあって震えたし、今回の自民党総裁選でも、出馬を公表したとたんに、「このタイミングで記事を出すのが本人に一番ダメージが与えられるだろう」って待ち構えていたとしか思えないタイミングで、河野太郎パワハラの音声を公開されるわ、野田聖子「夫は元暴力団員」っていう、「え、知ってましたよ?」って感じの記事を出されてしまった。

 
もはや「選ばれる」→「文春砲が発動」の流れができあがってしまっている。
 

 

38年間食べることができなかったトマトを、最近食べられるようになった。

 

もちろん条件はある。

それはハンバーガーに挟まっている」こと。

 

いままでの俺ならハンバーガー内のトマトは必ずこれを除去しなければならないものだったし、それが嫌だからって、最初からトマトが入っているハンバーガーを選択肢から外すと、食べられるのがテリヤキバーガーかフィッシュ系のものに限定されてしまう。

だが最近、トマトが入ったバーガーを間違えてそのまま食べてしまったところ、なんということでしょう、難なく食べることができたのである。

どうやら、ハンバーガーの味の濃さがトマトの嫌な味、食感、匂いをかき消しているのだろう。

こうしてトマトを克服した俺は、最近ハンバーガーばかり食べるようになってしまい、それはそれで困っている。

それはいいとして、生涯食べることはないと思っていたトマトを、簡単に克服することができたのだ。

 

人間は成長するのである。

 

 

松本人志はその著書の中で

「結婚はしない」

「家族なぞ百害あって一利なし」

「映画は撮らない」

「40で引退する」

と書いていたが、今では結婚して子供もいるし、映画もバンバン撮ったし、もうすぐ60になるが今でも芸能界の第一線である。

 

そう、人間は成長するのである。

 

30年前に下着泥棒をしたからといって、いま国会対策委員長には相応しくないとは限らないし、小山田圭吾だって40年前の話、野口聖子にいたっては夫ではあるが、本人の話ですらない。

 

松本人志が考えを一転させたように、俺がトマトを食べられるようになったように、今はその地位にうってつけの人物に世の中や文春新潮が知らないうちになっているかもしれない、そうは考えられないだろうか。

 

そういえばこっちは通知されなかったが、「ドリル小渕」なんて呼び名があったことも思い出した。

彼女だってあの件があったことでもしかしたら進歩しているかもしれないのだ。

結果が出るまでしばらくはそっとしておいたらどうか。

 

 

本心ではあまり政治的なことはこのブログでは書きたくないのだが、今回の主題はそこではなく、トマトを克服した嬉しさが表面化したものといった側面が大きい。

ただ、ハンバーガーに挟まっていないトマトはまだ食べられないままなんだが、それもこのペースなら70歳までには乗り越えられる自信はある。

先日、好きなものがひとつ減った話

駅の構内や改札のそばにあるポップアップストアが好きだ。
 
どういうところが好きなのかって?
何と言っても、そんな場所に店を出しちゃえる自信
まるで後光がさしているかのように、店構えから自信が溢れているように見えるわけです。
後光というと俺がオカルトにハマっているように思われるかもしれないが、実際、過去のある時期にそういったことはあったものの、今は落ち着いているし、ハマっていたとはいっても、その類の本を読み漁ったり、矢追純一の話を聞きに行ったりした、くらいで、心酔しているわけではなく大した問題ではない。
それでも十分ヤバいよ、と言われれば、そうかもしれないが。
 
話を戻そう。
ここで言う「自信」とは何か。
それを説明する前に触れておかなかればならないのが、本来、駅という場所は電車に乗るために行く場所であって、グルメ、美食を楽しむために行く所ではない、ということである。
駅とは、移動の目的に特化した施設だ。
したがってそこに行く我々も、当然、グルメを楽しむ気分など微塵もなく、なんとかして次に来る電車に乗ってやろう、もしくは、電車に乗って目的の移動を達成したろう、という気持ちなのである。
もちろん、電車による移動の目的が「どこぞの美味い料理を出す有名店に行く」といったグルメ関連であれば、話は別である。
そういったケースを除けば、駅に行く者には、グルメを楽しむ気持ち的な準備など、万端どころかまったくない、ゼロである。
そこにポツネンと豆大福の店。
通常の精神であれば、「私は切符を買いに来たのであって、豆大福を求めてはおりません」となる。
 
これが例えば百貨店であれば、客はグルメを楽しむことそのものを目的に来ているわけだから、同じ豆大福の店であっても、「ほう、豆大福か。これはうまそうだからひとつ買って食べてみよう」とも思うかもしれない。
しかし人間はとても情緒的であり相対的な生物であるから、それを食べたいと思っている時に食べる豆大福と、沢尻エリカばりに「別に…」と思っている時に食べる豆大福では、同じ豆大福でも味が全然違うし、豆大福を前にして「食べたい」という気持ちが生まれるか生まれないかをも、存分に影響するのである。
 
「…である」なんて学者気取りで言ってみたけど、実際そうじゃないですか?
昔の作家は「…のでR」とか書いて、ふざけていたよね。
 
つまり、駅に出す店は別に食べたい気持ちが高まっていないからそこで食べても「うまい」とはなりづらく、これを広告業界などでは「ハードルが上がった状態」と呼んだりするが、百貨店や飲食店街などといった、いわゆる食を提供する店舗にとってのホームな環境とは異なる、駅のようなアウェイな環境に店を出しているってことは、よほど自信があるいう証左なのだ。
 
その自信に、私なぞは感銘を受けてしまうのです。
 
 
先日、ある駅の切符売場の手前で、フルーツ大福が販売されているのをみかけた。
 
前述の思考回路によってそのフルーツ大福から後光が指しているように見えた俺は、フルーツ大福の異なる2種類の味を購入、大いなる期待を押さえきれずに、人目を気にすることなくその場で食べた。
 
スカみたいな味がした。
フルーツ大福に入っていたのは、みかんやパイナップルではなく、みかん風味の何かわからないもの、だった。
 
好きなものがひとつ減りました。

今回の東京オリンピックで起きた不祥事の大半は「狭いサービス精神」が起こしたものだと思う

今日で閉会式を迎えるが、連日東京オリンピック関連の話題で持ちきりだ。
誰々がメダルを取ったとか、日本が獲得したメダルが何個目になったとか、そんな内容のニュースが多いが、それと同じくらいに多いのが、不祥事についての話題である。
 
オリンピックごとに不祥事の数など数えたことがある人などおそらくいないだろうが、今回多くの人がこう感じているのではないか。
今回のオリンピックは、不祥事が多すぎる、と。
 
大会エンブレムの盗作問題は、当時、世間を激震の渦に巻き込んだが、もはや「ああそんなこともあったな」と思うくらい、大会直前からトラブルが相次いでいる。
森喜朗は立て続けの女性蔑視発言で組織委会長を辞任、佐々木宏氏は開会式の演出で渡辺直美をブタに見立てた演出案を出していたことがわかって辞任したし(しかもその後に天皇陛下に○✕クイズを出す案も出していたことを、追い文春砲される)、小山田圭吾が過去のいじめ問題が明らかになって辞任すれば、これを契機に、ラーメンズ小林賢太郎竹中直人、絵本作家ののぶみ氏が立て続けに過去の不適切言動で解任もしくは辞任、それでもなんとか開会式を終えてやっと安心、あとは閉会式まで滞りなくできればいいよね、って感じで不祥事確変モードも落ち着いたかと思いきや、今度は名古屋市長の河村たかしが表敬訪問に訪れた選手の金メダルを噛んで現在進行系で大炎上。
まさに「呪われた五輪」と呼ばれるにふさわしいほど、新しいトラブルのニュースがない日を見つけることが難しい。
 
なぜこれほどまで多発するのだろうか。
上に挙げた全員とも馬鹿、阿呆なのだろうか。
いや、そんなわけはなく、皆が皆、日本を代表する役割、ポジションを与えられていて、そこに至るまでには抜きん出た成果を出してきたからこそ選ばれたわけで、当然、もれなく非凡な人たちである。
ならば、自滅行為によって五輪をぶち壊してやろうというテロリズムかましているのか。
仮にその通りであればその試みは大いに成功しているといえようが、無論そんなわけはなく、名声ある人たちの意図的な行動とは考えられない。
 
などと考えているうちに、俺はある恐ろしい事に気がついてしまった。
みんな、良かれと思ってやったことで失敗しているのである。
 
考えてみれば、成功者というのはみんな、サービス精神が旺盛である。
だからこそ突出した成果を挙げることができるのだ。
しかしそのサービス精神が、ひとたびよろしくない形で発出すると、不祥事に姿を変えてしまう。
 
森喜朗氏の女性蔑視発言に限らずすべての政治家の失言は、「俺のウイットで関係者や記者をいっちょ笑かせてやろ、これも一興」と意気込んで発せられたものだろうし、小山田圭吾氏だって雑誌のインタビューに「これくらいの大ネタをかましてやったら編集も喜ぶやろ」とサービス精神を存分に発揮して臨んだ結果だろう。
小林賢太郎氏だって、ユダヤ人を卑下することが目的だったわけでなく、純粋に、ネタを見てくれる人を笑わせようとしていただろうし、佐々木宏氏だって渡辺直美に恥を欠かせようとしていたわけではなく、観客を喜ばせようとして考えた演出案だったに違いない。
河村たかし氏だって、金色のものを噛めば記者が喜んでくれるだろうと思ってメダルを噛んでいる、過去には金のしゃちほこを噛んでいたようだし。
 
きっと、みんな悪気がないのである。
この問題が根深いのは、ここに理由がある。
 
つまり、悪気があっての行いであれば、「うわーやっぱ悪いことしたら世間から叩かれるし社会的に死んでしまうわーやめとこ」と、踏みとどまることができる。
しかし良かれと思ってやることは、「良いことをすれば人に喜ばれるからバンバンやらな」となるため、抑止力が効かないというか、抑止する理由がそもそもないので、「善は急げ」の精神で、思いついたら即行動してしまうのだ。
したがって、トラブルが絶えない。
 
では我々はどうすればよいのか。
誤った「善は急げ」精神がトラブルを量産するのを指を加えて見ているしかないのだろうか。
 
非常に難しい問題ではあるが、ひとつこういった行為で人生を棒に振る人を減らすひとつの心がけとして、「より大きな世界での『良かれと思って』を追い求める」ことが有効なのではないか、と思う。
 
「より大きな世界」とは何か。
それはサービス精神が及ぶ範囲、喜ばせようとする人のゾーンの広さのことを指している。
森喜朗氏が喜ばせようとしたのは、近い思想を持った(と森氏本人が思っているだけだが)政治家や政治記者
小林賢太郎氏はネタを観に来たファン、小山田圭吾氏は雑誌の担当編集者。
佐々木宏氏は開会式を観る人、という意味では範囲はめちゃめちゃ広いようにも思えるが、観客の半分が女性であることを忘れているようにしか思えないし、男性であってもこれを面白いと思えない人の多さに目が届いていない。
河村たかし氏も同様である。
しかも河村氏はその後の謝罪会見で「あの時は非常にフレンドリーな感じだった」と語っていたが、フレンドリーだったのは河村氏とその取り巻きだけであり、謝罪するに至った今でも直接対面していた表敬訪問した選手のことには考えが及んでいないことが、この発言からも伺える。
このように、不祥事を起こしてしまった人たちは揃って、サービス精神の対象が狭く限定されているのだ。
 
もし仮に彼らのサービス精神の対象が「地球にいる人みんな」だったとしたら、こんな行動、発言をすることはなかったに違いない。
大半の人は喜ぶどころか不快になるのだから、サービスの効果は総量としてはマイナスになる。
合理的に踏みとどまることができるのだ。
 
当然これは極端な仮定で実現は不可能だ。
しかし、サービス精神を完全に封印することはできない。
それでは健全な社会生活を送ることが難しいからだ。
どうせサービス精神を持つのならば、可能な限りその対象範囲を広くしようと心がけることが、「良かれと思ってやった、言ったことで人生を棒に振る」確率を少しでも減らすことにつながるのではないかと思う。

電車に乗ってもらえていたギフトがコロナウイルスで失われるんじゃないかという心配

ある日のある始発駅、電車の中で座席に座り出発を待っていると、なぜか血まみれの中年女性が乗ってきて何事もなかったかのように向かいに座った。
またそう遠くない別の日、違う駅で電車が到着するのを待っていたところ、あるスーツ姿の男性がいきなり通過電車に向かって走り出し車体にドロップキックをした。
またまた別の電車では、下校途中の高校生マクドナルドで購入したハンバーガー等を肴に、車両の床に座り込んで宴会をしていた。
そしてつい先日、向かいに座っていた初老の女性は、マスクを口と鼻だけでなく目まで被っていた。
 
 
電車という乗り物は、それに乗らなければおそらく生涯において出会うことのない人と、偶発的、運命的に出会う空間である。
会社や学校、マンションの管理組合にクラブ活動などの、社会生活を営む過程で出会う人たちは、住む地域や年収、趣味嗜好などの社会的背景が一部共通している人が大半である。
それは至極当然のことで、同じくらいの収入だから同じランクの住居を選ぶのだし、学校は公立であれば同じ地域、私立であれば目標とする進路を共有するわけだから、いわばそういった人たちとの出会いは、社会的連続性の先にあるといえよう。
他方電車は、たまたま同じタイミングに同じ方面に向かうが、それ以外に共通点がほとんどない人たちどうしが出会うもので、社会的連続性は断絶されている。
つまり「人生を普通に生きていれば出会わないような人に出会える」のが電車、ということである。
毎日電車で通勤する人は、1日2回、1年240日働くとして、1年で480回、30年働けばこうした運命の出会いをする機会を得るのだ。
 
先に書いた話は、俺がこれまで15年くらい電車で通学・通勤する間に出会った、奇跡のような出来事である。
 
 
コロナウイルスの登場は、副産物的に、これまで会社員には不可能だと思われていた在宅勤務を当たり前のものにした。
同時に、これまで在宅勤務が出来なかった理由は「会社に行かなければ業務が執行できないから」ではなく、単に「みんな毎日出社しているから」でしかなかった、という事実を白日の下に晒した。
そして誰も会社にいなくても、社会が、企業がこれまでどおり問題なく運営可能だと判明した今、人類がコロナウイルスを克服した後も、別に出社する必要はないのだから、在宅勤務、リモートワークは続くと思われる。
もちろん出社しないと業務が遂行できないような仕事内容の人もいるだろうし、そういう人はじゃんじゃん出勤してぐるぐる経済を回せばよいが、行かなくて済むものなら会社になんて行きたくないし、出社する人の数が減れば事務所を縮小することもできるから、企業側も社員がバンバン在宅勤務をすることは歓迎のはずだ。
そして出勤する人の数が減れば、電車の混雑も緩和され、通勤ラッシュに巻き込まれて不快な想いをする人もいなくなる。
 
これで三方良し、言い換えればWin-Win-Winってやつで、まったくもってすばらしい世界がやってきたと言えよう。
 
しかし、である。
在宅勤務をすることによって失われるものがある。
それは電車に乗る機会である。
 
 
先に述べた通り、電車という空間は、社会的に非連続な関係にある人と、遭遇できる媒介である。
それが失われると、人は連続性のある相手としか、つまり「会ってしかるべき人」以外とは出会わない、ということになる。
 
東京に在住するようになって20年弱で、電車で奇跡の遭遇、それはもう「ギフト」と呼んでもいいかもしれない、そんな俺の印象に強く残っている人は、冒頭に述べた4人くらいである。
20年ほぼ毎日電車に乗って4人。
そして今後、電車に乗る頻度は激減する。
俺にはもうギフトは訪れないかもしれない。
しかしそれも変化する時代の要請なのだろう。

「人を傷つけない政治」が実現する日

いまのお笑いに求められていると言われる、「人を傷つけない笑い」

平成終盤までは笑いを取るために普通に行われていたいじり行為も、いまでは「それはもういじめ、誹謗中傷、差別であり、そんな方法で笑いを取ることは、差別を助長するものだから撲滅すべきだよ」「というかもう笑えないんですけど」となっているし、容姿いじりや差別的な笑いなどは即炎上、その後の活動に影響が及ぶほどの避難を浴びる時代になった。

 

いつの時代も笑いは世相を反映するものであるとも言われる。

だとすると、「人を傷つけない笑い」への支持が高まりは、社会全体で多様性を認め合い、誰しもが尊重されるべきだという価値観の広まりを表しているのではないだろうか。

 

ぺこぱのようにツッコまないことをボケとするものや、ティモンディ高岸のような全方位的に褒めたおす芸人は、まだ新しいトレンドであり少数派かもしれないが、近い将来には逆転、褒めるのが当たり前になり、真っ向からツッコミなんてする芸人は淘汰されてしまうかもしれない。

 

 

お笑いは全世代に向けたものであり、したがって若い世代で発生している変化を早いうちに反映しているようだが、人を傷つけないことが当然のこととして求められるようになったにも関わらず、一向にその変転を捉えられていない業界がある。

 

政治である。

 

やつらと来たら人が一生懸命考えて話している内容に対してツッコむどころか全否定、完全にディスってるし、人がマジメにしゃべっている間にあろうことか野次まで飛ばす。

「人を傷つけない」という、もはや常識である価値基準すら守ることができていないのだ。

とはいえ、政治がお笑いと違うのは、政治は若い人を対象としていない。

もちろん厳密にはこれは誤りである。

しかし、お笑い芸人は若者から受け入れられなくなったら、「収入がなくなってしまう」直接的なダメージがあるが、政治家は元々若者からの関心など得られていないからそれを失うこともないし、彼らから直接的に収入を得ているわけではないから相手にしていない、という点で「対象にしていない」。

そしてその無関心をいいことに、未だに古い価値観の蔓延を放置しているのだ。

さらにこの古い価値観が表出して行われる国会でのディスりや人を傷つける発言によって、若者は政治への関心を失ってしまうという、悪循環を生んでいる。

この構造で恐ろしいのは、現役の政治家たちが、若者が今後も政治への関心を持たないよう期待していることである。

なぜなら、若者が関心を持ってしまったら、自分は落選、失職してしまうかもしれないからである。

もしかしたら、意識的に、若者に嫌われてでも古い価値観を堅持しようとしているのかもしれない。

 

しかし、悲観することはない。

時間はかかっても、価値観は必ず入れ替わる。

なぜなら、新しい価値観を持った今の若者が歳を重ね、施政者になる時期が必ず来るからである。

その時は、今のお笑い界のような国会になっているに違いない。

 

「裏金は絶対ダメ…! とは言い切れない…俺ももらってしまうかもしれない」
国債発行ゼロ? やればきっとできる!」

 

第7世代政治家は、その時の若者の支持を集められるだろうか。

 

<追記>
と思っていたら、今井絵理子参院議員が「批判なき選挙、批判なき政治」を掲げて話題になっていたことを思い出した。
これぞまさに「人を傷つけない政治」そのものではないか。
こんな最近の出来事にすら気がつかないなんて、文筆家の端くれとしてはあるまじき能無しの謗りを免れないだろう。
また一からやりなおしたい。

「生活必需品」の定義はどこまでか問題と恐怖体験

最近、夕食難民になっている。

飲食店が軒並み20時に閉店してしまうため、仕事を終えて夕食をとろうとしても、開いている店がなく食べることができない。

コロナウイルスの影響で様々な業態の店舗が休業もしくは時短営業を余儀なくされているが、我々会社員は、リモートワークこそ可能になったものの、時短どころかコロナウイルスへの対策を万全にした上での業務遂行を求められ、その業務量は激増、時短どころか以前にもまして勤務時間は長くなっており、世間とは逆方向へ進んでいる。

世の中が時短化に向かうなら俺の仕事も時短になってほしいのだが、そうはいかず時長になる一方で、それでも24時間営業の店によって俺は不自由ない食生活ライフスタイルを営むことができていたのだが、今では食事の確保にすら苦心するようになってしまった。

会議中に議論が長引いて20時が近づいてしまい、「うわもうすぐ店が全部閉まる、もう飯が食べられない」と思っても、「店が閉まるからいったん会議を休憩して飯を食ってきてもいいですか?」なんてことは言えないのである。

そんな私の強い味方が、食事は20時で終わってしまうがテイクアウトだけは深夜も継続してくれている吉野家と、オリジン弁当と、コンビニエンスストアである。

この3本の柱をローテーションして、なんとかやりすごしている。

ごくまれにUber Eatsなどで食べたことのない店から届けてもらうといった贅沢もするものの、俺ひとりの飯のためにひとりの配達員の方を煩わせるのも気が引けてしまい、それくらいならきのうもオリジン弁当だったけど今日もオリジン弁当でいいや、となるのである。

「飽きないのか?」と問われれば、とうの昔に飽きているが、それしか選択肢がないのだから仕方がない。

権藤、権藤、雨、権藤雨、雨、権藤、雨、権藤の時代に、権藤が「先発ローテーション成立してなくない?」なんてことは思わないのである。

「先発ローテーション」という概念がそもそもなかったのだから。

 

 

緊急事態宣言下の現在の東京では、百貨店などの大型商業施設へ「生活必需品のみの営業再開に留めるように」と要請が出されている。

しかしこの「生活必需品」という曖昧な表現が、「そうは言うけどじゃあどこまでが必需品で、どの売り場は再開してええの?」と各事業者を悩ませてしまっているらしい。

 

上の例にあるとおり、食品は疑いようのない「生活必需品」である。

では服はどうなんだ、観葉植物はどうなんだ、腕時計はどうなんだ、ブランドもののバッグはどうなんだ。

個人的な意見は以下のとおりである。

  • 服は防寒上必要だし、服を着ないで屋外を出歩くと犯罪になってしまうため必需品といえる。じゃあ1枚1000円のTシャツと1着20万円の外套はどちらも必需品なんかい?と尋ねられたら、俺は「いやいや外套なんて3万円もあれば十分立派なものが買えるから、20万円の外套は不要でしょ」と思うが、「じゃあいくらまでが必需品の範疇なの?」という問題は、各々の懐事情や経済観念で千差万別なので一律のルールを設けることなど現実的ではなく、邪魔くさいので服はどんなふざけた服であってもすべて必需品としてしまうのが現実的な落とし所
  • 観葉植物はあくまで目で楽しむものであって見なくても死にはしないし逮捕もされない、社会的な生活が維持できないわけではないので、必需品とはいえない
  • 携帯電話で時間を知ることができる現代で、腕時計などもはや己の金銭的豊かさ経済力を誇示する以外の用途はなく、到底必需品とはいえない
  • ブランドもののバッグも時計と同様

読者の方の多くも賛同してくれるのではないかと思っているが、ある百貨店の「一部のフロア・ショップ・催事・イベントの営業・中止・変更」に関する情報を見ると、なんとすべて今も販売しており、これらはすべて必需品であると判断しているようだ。

 

どうやら俺が思っていた以上に、生活必需品の範囲は広かった。

 

また、百貨店各社も悩んでいるようで、12日から生活必需品の範囲を見直したところもあるらしい。

「こんなの生活していくにあたって別にいらんと思っていましたが、やっぱ無いとダメでしたわ」なんてこともあるのだから、人にとって何が必要で何が不必要かなんて、これ以上ない難問なのだろう。

 

www.nikkei.com

百貨店各社が緊急事態宣言延長後の店舗営業について相次いで方針を決めている。高島屋は10日、東京都内の4店舗で営業を続けていた食品などの売り場に加え、12日から婦人服や紳士服などの売り場も営業を再開することを決めた。東京都は12日以降も引き続き百貨店などに休業要請する。同社は「要請を受け入れて休業するが、生活必需品の範囲を見直した」としている。エイチ・ツー・オーリテイリング(H2O)も大阪府内の5店で営業する売り場を拡大する。
 
高島屋の都内の店舗で12日以降も営業を再開しない売り場はエステやアクセサリー、宝飾品の売り場などになる。大阪府内の3店舗についても、「生活必需品」の範囲を見直し、従来の食料品に加えて化粧品と婦人洋品の売り場も営業をする。京都府内の2店舗は府の要請に基づき、平日は全館営業を再開する。休日は生活必需品売り場のみ営業する。

 

 

3年ほど前に一度だけ合コンで会ったきり女性から、連絡が来た。

「お久しぶりです、覚えてますか?」

飯を食っただけで何もしていないが、初めて会った日に俺の小銭入れを見て「それ素敵な財布ですね、ください」と強奪し、20時半ころには「もう眠いので帰ります」と解散、それっきり連絡が途絶えるという、少々エキセントリックな体験をした相手だったので、記憶には残っていた。

いきなり連絡してきてどうしたのかと尋ねると、「死にそうになってるから、気になる人に声をかけている」のだそうだ。

死にそうになっている。

穏やかではないではないので、その原因を聞くと、「コロナの孤独で死にそう」という返答が返ってきた。

よく「うさぎは孤独で死ぬ」という都市伝説を耳にするが、人間にとって孤独が直接的な死因になるなんてことは聞いたことがない。

やはりどこか奇矯なところがあるなあ。

そう俺は思ったが、ある人にとっては「他人との接触が「生活必需品」になるということだろうか。

そして、もし会えば次はどんな奇抜な行動が見られるか、好奇心がないわけではなかったが、気味悪さが上回ったのでスルーすることにした。

「奇異体験」は若いころこそ「生活必需品」だったが、いまはそうではなくなってしまったのだろうか。