勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

無計画な生き方に一瞬憧れたけどすぐやっぱねぇなって思った話

「ご利用は計画的に」

この言葉、1日に何回テレビから聞いているだろうか。

 

我々現代人は、ことあるごとに計画的であることを求められる。

ビジネスでは納期をしくじらないようにきちんと計画を立てなければならないのはもちろんだが、恋愛においても、デートで集合してから「じゃあこれからどこ行こうか」なんて言っている男はダメで、ある程度その日のデートコースを計画している男のほうが、女性からは高く評価されるらしい。

さらに、近ごろは頻繁に「先の読めない時代」と言われる。

だからこそ、計画性の重要さは以前にも増して高まっている。

たとえいま安定した収入源を持っていても、すぐさまそれが頓挫することも十分に考えられる。

毎日テレビCMに諭されるように、金を使うのも貯めるのにも、計画性が求められるのだ。

 

計画的になるのは社会に出てからでよいかと問われればそういうわけでもなく、我々は残念ながら子供の時からすでに「計画性の奴隷」である。

親からは「塾に通いなさい」などと言われるし、学校では別に教師に相談したいと思ってもいない「進路相談」を自動的、強制的にさせられる。

まだ先のことなんて何もわからないうちから、周囲に期待されている将来像を見据え、計画的に進路選択を行い、やりたくもない勉強やつらい練習に耐えなければならないのだ。

 

現代人は、計画性から逃れることはできない。

 

その反動もあって、我々は衝動的な欲求にかられることも多々ある。

しかし、無計画、無軌道な生き方は破滅につながる。

もちろんそのことは、頭では重々承知している。

だから大半の人は、せいぜい週1日から2日の休日の間に、社会的に許される、引き返せる程度の無計画を堪能し、また計画性で充満した社会生活に戻っていくのである。

淡い憧れを抱き、後ろ髪を引かれながらも。

 

 

4年ほど前のこと。

おれはある部下に、「明日、これで菓子の詰め合わせを買っておいて」と、手持ちの1万円を手渡して依頼をした。

2日後に控える取引先との面会に持参するためだ。

 

その部下は「わかりました!」と、こころよく引き受けてくれた。

少々頭が悪いのは難点ではあるが、元気があって朗らかなのは素晴らしい。

 

翌日、夕方になっても、その部下は俺に菓子の詰め合わせを持ってこない。

忘れずに買ってくれているのか確認したかったが、あまり細かいことまでいちいち口出し、管理されるのは部下にとってもうっとうしいだろう。

マイクロマネジメントは良くないって言うし。

しかし面会は明日の朝、もし買い忘れなどしていたら困る。

閉店時間も迫っていたので、俺は尋ねた。

「きのうお願いした菓子って買ってくれた?」

 

するとそいつはしばらく躊躇した後、ものすごくばつが悪そうに、「すみません」とだけ言葉を発した。

 

そうか、忘れていたのか。

俺はやさしい上司だから、「よく忘れるんだからメモぐらい取っておけよ」という苛ついた感情を露にはしない。

まだ閉店までは1時間弱、今から迎えば十分に間に合う。

こんなこともあろうかと、間に合うタイミングで確認したのだ。

なぜなら俺は、計画性の男だから。

俺は部下が忘れたことを一切責めることもなく、「ああそっか。じゃあ今から行くのかな?悪いけどよろしく」と、改めて頼んだ。

 

しかし、返ってきたのは俺の予想を遥かに上回る言葉だった。

 

 

「すみません…、使っちゃいました」

 

は??

使った?

何を?

金を?

どういうこと?

 

詳しく聞いたところでは、そいつはその時ひどく金欠で、何日にもわたって1日1食にしたり水を飲んで空腹を紛らわせるなどして食事を最低限に抑えていたらしい。

そんな時に突然転がり込んできた1万円という大金を目の前にして、つい我慢ができず友人と飲みに行ってしまったという。

 

少し考えれば、いや、一切考えなくてもわかることだが、その1万円は翌日に確実に必要になる金なのだ。

それをあたかも臨時収入かの如く散財。

恐るべき無計画。

 

俺が今まで聞いた中で、圧倒的1位の無計画だ。

と感心していたら、この「無計画バッケンレコードは即座に塗り替えられた。

目の前にいるこのレコードホルダーによって。

 

 

「わかった、その1万円は貸してやる。その代わり、もっと詳しく聞かせろ」

日々要求される計画性に疲れ果て、無計画に対する憧れがあった俺は、このホームラン級の無計画話に興味津々だった。

 

「そもそもお前、いまいくら持ってるの?」

「…きのうは友達におごったので、そのお釣りの2000円くらいです」

「え!?ってことは、その前はほぼ一文無しだったってこと?」

「…はい」

「え!?!?でも給料日までまだあと10日以上あるよね?どうするつもりなの?」

「…この残りの2000円でなんとか…」

「え!?!?!?2000円で10日しのげる?っていうか俺がきのうお菓子買ってきてって頼んで1万円を渡さなかったらどうするつもりだったの?」

「…その時はその時に考えようって思ってました」

「いやいや!きのうがその時だよ!っていうかきのうでもない、もっとだいぶ前にあったよその時!だいぶ通り過ぎちゃってるよ!」

「…そ、そうですね」

「っていうかなに当たり前のようにその2000円を生活費の足しにしてるの!?まあ貸してやるって言ったからもういいけど。それに、そんな状況でよく友達におごったな!」

「…はい…つい」

 

さっき自分出したバッケンレコードを、2度目のジャンプであっさり更新。

葛西なんて目じゃないレジェンドがここにいた。

 

そして、「やっぱ計画的でいいや」と、無計画への憧れが消え去った瞬間だった。

とにかくバンバン内容証明を送りたい

子供のころ、「内容証明」に憧れていた。

 

なぜかって?

だってカッコいいじゃん、「内容証明」って。

何なのかよくわからないけど、なんとなく。

 

俺がこの言葉を初めて知ったのは、おそらくあるドラマからだったとうっすら記憶している。

ドラマの内容は覚えていないが、悪さをしているやつに対して弁護士が電話で

「それでは、お宅に内容証明をお送りします」

の決め台詞。

そしてうろたえる、悪さをしているやつ。

 

相手に何が届けられて何がどうなるのかはよくわからないが、悪さをしているやつのうろたえっぷりから

「うわ!こいつ詰んだ…社会的に死んだ」

って感じがして、内容証明「この紋所が目に入らぬか」とか「お前はもう、死んでいる」のような最後通牒感を見出した俺は、いつかは不届者に内容証明を送って勧善懲悪、世直しをするような大人になりたいと夢見ていた。

 

 

それから歳を重ね、そんなドラマのことも忘れ去っていたある日、俺は弁護士ではなく広告マンになっていた。

弁護士なんて、所詮「内容証明」への憧れぐらいでは、そうそうなれるものではない。

 

それはさておき、これだけ長く生きていると、それなりの揉め事も経験する。

数年前、俺はあるトラブルに巻き込まれた。

と言っても俺に非は一切なく、10:0の事故に巻き込まれたようなもので、「訴えたらまあ勝てるんだろうなこれ」と思いながらも、その先の手続きの煩わしさを考えると、そこまでやるほど被害を受けたわけでもないし、スルーして終わらせる方針で、俺の脳内の多数決はまとまりつつあった。

「スルー法案」が可決しそうになっていた時、ある知人が、このトラブルをSNS上で見て心配し、連絡をくれた。

「なんであんなことになってるんですか?」

「知らん。俺が聞きたいくらい」

「で、どうするんですか?」

「もう放っとこかなって思ってる」

「え!?あんなひどい目に遭ったのにいいんですか?」

「まあもうめんどくさいし」

「相手が勤務する会社宛に内容証明を送ってみたらどうですか?」

 

知人からの提案で思い出した。

そうだ、そういえばかつて俺は「内容証明」に憧れていたのだった。

たしかに、送るタイミングとしてはこれ以上ないくらい最適である。

俺は遅れてきた青春を取り戻すかのように、それを実行しようと思った。

 

しかしふと思い返すと、俺は送り方を知らないし、そもそも内容証明が何なのかすら知らなかった。

そんな状態でよく送ろうなんて思ったものだな。

すぐさまスマートフォンで「内容証明」を検索したところ、驚愕の事実を知ることとなった。

 

一般書留郵便物の内容文書について証明するサービスです。
いつ、いかなる内容の文書を誰から誰あてに差し出されたかということを、差出人が作成した謄本によって当社が証明する制度です。

内容証明 | 日本郵便株式会社

 

なんそれ!!!!

 

家で独り、ZAZYばりにそう叫んだ。

 

内容証明は、その名が示す通り単なる「内容に対する証明、お墨付き」でしかなかったのだ。

切り札でもなんでもない。

子供のころの俺が憧れていたあの「伝家の宝刀」感は、ただの幻だったのだ。

こうして俺の最後の切り札は消え去り、俺はトラブルへの対処方法を失ってしまった。

 

と、同時に、内容証明がいとも気軽に送れるものであることも知った。

用紙の指定など制限はあるが、書留郵便に1枚あたり440円の加算料金を追加で支払えば、その時点で内容証明になるらしい。

これから送る手紙とか全部、内容証明にしてみようかな。

これは歓迎すべき…新たな格差の誕生

ちょっと前に話題になったが、「飲みニケーションの支持率が急激に低下した」ことを示す調査結果が発表された。

 

www.nikkei.com

 

そして記事のもとになっている調査がこれ。

https://www.nissay.co.jp/news/2021/pdf/20211117.pdf

 

「職場の方との”飲みニケーション”は必要だと思いますか?」

という問いに対して、「必要」もしくは「どちらかといえば必要」と答えたのが38.2%、これは昨年比でマイナス16.1%だったらしい。

 

おれは新卒で入社した会社で7年くらい営業をやっていたが、心の底から接待というものを嫌悪していたこともあって、そのときによくやっていた妄想で、

「もしも、自分が選挙に出馬するとしたら、何を公約にするか」

という問いに対して

「あらゆる接待の禁止」

を掲げていたくらいであった。

そのような俺からすれば、この低下傾向は喜ばしいことではあるものの、遅すぎるというか、昨年までは「必要」「どちらかといえば必要」派が過半数を超えていたこと自体が意味不明、理解不能である。

 

ただここにはひとつ難しい点があって、いかに「職場内の飲みニケーション」であっても、飲んでいて楽しい相手とは俺も飲みたいと思う。

しかし職場である特性上、嫌な相手と飲みにいくことを強制されるケースもあって、そのストレスたるや尋常ではなく、従って一律に接待を禁止するしかない。

いわば「接待禁止法案」「肉を切らせて骨を断つ」作戦である。

 

それはさておき、「必要」派の考えがまったくわからないから、「必要だと思う理由」を見てみる。

 

1位 本音を聞ける・距離を縮められるから 57.6%
2位 情報収集を行えるから 38.5%
3位 ストレス発散になるから 33.6%
4位 悩み(仕事)を相談できるから 29.2%
5位 人脈を広げられるから 29.2%
6位 悩み(プライベート)を相談できるから 12.8%
7位 お酒が好きだから 12.5%
8位 色々なお店に行けるから 9.5%

 

ここで僭越ながら私が反対派の意見を代表すると

 

本音を聞ける・距離を縮められる

→素面で本音を話せない相手となど飲みたくない

 

情報収集を行える

→本でも読めば?

 

ストレス発散になる

→お前が発散したストレスが俺に溜まるんですが

 

悩み(仕事)を相談できる

→悩みを聞こうと思える相手なら素面でも聞くし、そう思えない相手など酒を飲んでいても聞きたくはない

 

人脈を広げられる

→「いっしょに酒を飲んだ」など人脈でも何でもないし、「人脈」という言葉で利用されたくない

 

悩み(プライベート)を相談できる

→悩み(仕事)以上に興味がない

 

お酒が好き

→勝手に独りで飲め

 

色々なお店に行ける

→勝手に独りで行け

 

ということで、個人的にはあまり好きな行為ではないが、完全に論破してしまった。

 

だいたい「人間は社会的動物であるから普段はある程度本性を隠すために鎧を着ているが、酒はその鎧を剥がして人間の本性を表す効果がある」などとよく言われるが、これが真理だとすれば、糞な人間は酒を飲むことでよりその糞性を辛うじて隠していた、遮断していたものが取っ払われてより糞化するのであって、普段から嫌な相手はより嫌になるだけなのである。

つまり良い性格をした者はよりいい本性を、悪い性格をした者はより悪い本性を顕在化するのが酒というものであり、人はみな良い性格の者と接近して悪い性格の者は避けたいと思うに違いないから、「職場での強制的飲みニケーション」がなくなった世界では、良い性格の者に「今度飲みに行きましょう」の声が集中して、そうでない者には一切声がかからないことになる。

ここに新たな格差が誕生するが、これは格差にしては珍しく、歓迎すべきものであると思う。

 

ということで、これを読んだ私の知人の方、「今度飲みに行きましょう」。

向田邦子のエッセイと脳のHDD化について

ここ最近、向田邦子のエッセイを読んでいる。
超一流の脚本家の作品だから読み物として面白いことは言うまでもないのだが、その上、当時の文化的な面での文献としてもとても興味深いものになっていて、というのは、彼女が語っているエピソードにはふんだんに、今の時代では女性差別として大炎上してもおかしくはない職場内の会話や、彼女が育った1930年代ころなら父親の「威厳」、現代なら100%「虐待認定・DV認定」されるに違いない妻や子供に対する男尊女卑的言動などから、「今だったら考えられないけど当時はこれが常識だったんだなぁ。時代もうつろったなあ」と、ここ数十年にあった考え方の変化を感じ取ることもできるのだ。
 
しかしそれ以上に俺が衝撃を受けたのは、彼女が幼少期のことを「え?きのうの話ですか?」ってくらいに鮮明に記憶し、事細かに描写している点だ。
 
例えば、
子供の頃、玄関先で父に叱られたことがあった。
保険会社の地方支店長をしていた父は、宴会の帰りなのか、夜更けにはほろ酔い機嫌で客を連れて帰ることがあった。母は客のコートを預かったり座敷に案内して挨拶をしたりで忙しいので、靴を揃えるのは、小学生のころから長女の私の役目であった。
それから台所へ走り、酒の燗をする湯をわかし、人数分の膳を出して箸置きと盃を整える。再び玄関にもどり、客の靴の泥を落とし、雨の日なら靴に新聞紙を丸めたのを詰めて湿気をとっておくのである。
あれはたしか雪の晩であった。
お膳の用意は母がするから、といわれて、私は玄関で履物の始末をしていた。
七、八人の客の靴には雪がついていたし、玄関のガラス戸の向こうは雪あかりでボオッと白く見えた。

(中略)

「お父さん。お客さまは何人ですか」
いきなり「馬鹿」とどなられた。

また別のページには。

「お前はボールとウエハスで大きくなったんだよ」
祖母と母はよくこういっていたが、たしかに私の一番古いお八つの記憶はボールである。
あれは宇都宮の軍道のそばの家だであった。五歳くらいの私は、臙脂色の銘仙の着物で、むき出しの小さなこたつやぐらを押している。その上に黒っぽい刳り拔きの菓子皿があり、中にひとならべの黄色いボールが入っている。私はそれを一粒ずつ食べながら、二階の小さな窓から、向かいの女学校の校庭を眺めていた。白い運動服の女学生がお遊戯をしているのがみえた。

とある。

 
5歳のころのことを、これほどの解像度で記憶しているのである。
俺には、書きたくても到底書けない。
10歳より前のことは、8歳からの2年間で住んでいた社宅の目の前一面が田んぼだったことを除いて一切何も覚えてはいないし、それ以降もぼんやりとしか覚えてない。
通っていた小学校の名前すら思い出せない、毎日のように遊んでいた(と聞かされた)幼馴染の名前も、聞いても「へーそうなんだ」としか返せないくらいである。
 
 
あまりにも記憶がないので、10歳までがどんな様子だったのかに興味があり、母親に尋ねてみたことがあった。
すると、母親から出てきたのは、思いもよらぬ言葉だった。
 
「勉強、運動、習い事、何事にも負けず嫌いで、全力で取り組んでいた」
「すべてに対して一生懸命で自慢の息子だった」
 
思わず「え?誰の話してるの?」って尋ねてしまいそうになった。
それくらい、今の俺とは正反対である。
しかし少なくとも30年ほど前、小学校低学年くらいまでは、俺はそんな子供だったらしく、今のようにあらゆる方面で怠惰で、嫌なことや辛いことがあれば酒を飲んで忘れることしかできないような人間ではなかったようだ。
まあ酒は飲めないけど。
一体どこで、何をきっかけに変わってしまったのだろうか。
 
今や人生100年時代」である。
今日が0歳の誕生日だと思って再スタートすれば、俺だけ「人生60年」にはなってしまうが、短縮されてしまうことは大した問題ではない。
それよりも自慢の息子像を取り戻すことの方がはるかに大切である。
 
ということで、今日から立派な人間になることにしました。
と思ったが、今日はあまりにも眠いので、明日からにしました。
 
 
それにしても、記憶力の無さには自分でも愕然としている。
早いこと脳にHDDを差し込んで記憶をデータとして外部保存できるように技術が発達してほしい。

文春さんや新潮さん、おれもトマトを克服したぜって話

岸田内閣の国会対策委員長に就任した高木毅っていう人は、過去に、女性宅に侵入し下着を盗んで逮捕されたことがあるらしい。

俺はこのことを、今日、Yahoo!ニュースアプリが「高木毅」が検索急上昇ワードになってるよってスマートフォン上で通知してきたことで知ったのだが、調べてみると、これは30年も前のことである。

高木氏は今回、内閣の要職に抜擢されたことで、30年も前の不祥事を蒸し返され、改めて今日、新しいニュースとして報道されることになったのだ。

 

最近、この手の話が多い。

東京オリンピックの開会式の演出チームに選出されたとたんに過去の悪事を再び持ち出されて、即辞任、辞退に追い込まれた人は、1人ではすまなかった。

この選出から辞任までのスピード感は、ちょっと前にはなかった、まさにネット社会を象徴しているなあって感じがして今っぽいなあって震えたし、今回の自民党総裁選でも、出馬を公表したとたんに、「このタイミングで記事を出すのが本人に一番ダメージが与えられるだろう」って待ち構えていたとしか思えないタイミングで、河野太郎パワハラの音声を公開されるわ、野田聖子「夫は元暴力団員」っていう、「え、知ってましたよ?」って感じの記事を出されてしまった。

 
もはや「選ばれる」→「文春砲が発動」の流れができあがってしまっている。
 

 

38年間食べることができなかったトマトを、最近食べられるようになった。

 

もちろん条件はある。

それはハンバーガーに挟まっている」こと。

 

いままでの俺ならハンバーガー内のトマトは必ずこれを除去しなければならないものだったし、それが嫌だからって、最初からトマトが入っているハンバーガーを選択肢から外すと、食べられるのがテリヤキバーガーかフィッシュ系のものに限定されてしまう。

だが最近、トマトが入ったバーガーを間違えてそのまま食べてしまったところ、なんということでしょう、難なく食べることができたのである。

どうやら、ハンバーガーの味の濃さがトマトの嫌な味、食感、匂いをかき消しているのだろう。

こうしてトマトを克服した俺は、最近ハンバーガーばかり食べるようになってしまい、それはそれで困っている。

それはいいとして、生涯食べることはないと思っていたトマトを、簡単に克服することができたのだ。

 

人間は成長するのである。

 

 

松本人志はその著書の中で

「結婚はしない」

「家族なぞ百害あって一利なし」

「映画は撮らない」

「40で引退する」

と書いていたが、今では結婚して子供もいるし、映画もバンバン撮ったし、もうすぐ60になるが今でも芸能界の第一線である。

 

そう、人間は成長するのである。

 

30年前に下着泥棒をしたからといって、いま国会対策委員長には相応しくないとは限らないし、小山田圭吾だって40年前の話、野口聖子にいたっては夫ではあるが、本人の話ですらない。

 

松本人志が考えを一転させたように、俺がトマトを食べられるようになったように、今はその地位にうってつけの人物に世の中や文春新潮が知らないうちになっているかもしれない、そうは考えられないだろうか。

 

そういえばこっちは通知されなかったが、「ドリル小渕」なんて呼び名があったことも思い出した。

彼女だってあの件があったことでもしかしたら進歩しているかもしれないのだ。

結果が出るまでしばらくはそっとしておいたらどうか。

 

 

本心ではあまり政治的なことはこのブログでは書きたくないのだが、今回の主題はそこではなく、トマトを克服した嬉しさが表面化したものといった側面が大きい。

ただ、ハンバーガーに挟まっていないトマトはまだ食べられないままなんだが、それもこのペースなら70歳までには乗り越えられる自信はある。

先日、好きなものがひとつ減った話

駅の構内や改札のそばにあるポップアップストアが好きだ。
 
どういうところが好きなのかって?
何と言っても、そんな場所に店を出しちゃえる自信
まるで後光がさしているかのように、店構えから自信が溢れているように見えるわけです。
後光というと俺がオカルトにハマっているように思われるかもしれないが、実際、過去のある時期にそういったことはあったものの、今は落ち着いているし、ハマっていたとはいっても、その類の本を読み漁ったり、矢追純一の話を聞きに行ったりした、くらいで、心酔しているわけではなく大した問題ではない。
それでも十分ヤバいよ、と言われれば、そうかもしれないが。
 
話を戻そう。
ここで言う「自信」とは何か。
それを説明する前に触れておかなかればならないのが、本来、駅という場所は電車に乗るために行く場所であって、グルメ、美食を楽しむために行く所ではない、ということである。
駅とは、移動の目的に特化した施設だ。
したがってそこに行く我々も、当然、グルメを楽しむ気分など微塵もなく、なんとかして次に来る電車に乗ってやろう、もしくは、電車に乗って目的の移動を達成したろう、という気持ちなのである。
もちろん、電車による移動の目的が「どこぞの美味い料理を出す有名店に行く」といったグルメ関連であれば、話は別である。
そういったケースを除けば、駅に行く者には、グルメを楽しむ気持ち的な準備など、万端どころかまったくない、ゼロである。
そこにポツネンと豆大福の店。
通常の精神であれば、「私は切符を買いに来たのであって、豆大福を求めてはおりません」となる。
 
これが例えば百貨店であれば、客はグルメを楽しむことそのものを目的に来ているわけだから、同じ豆大福の店であっても、「ほう、豆大福か。これはうまそうだからひとつ買って食べてみよう」とも思うかもしれない。
しかし人間はとても情緒的であり相対的な生物であるから、それを食べたいと思っている時に食べる豆大福と、沢尻エリカばりに「別に…」と思っている時に食べる豆大福では、同じ豆大福でも味が全然違うし、豆大福を前にして「食べたい」という気持ちが生まれるか生まれないかをも、存分に影響するのである。
 
「…である」なんて学者気取りで言ってみたけど、実際そうじゃないですか?
昔の作家は「…のでR」とか書いて、ふざけていたよね。
 
つまり、駅に出す店は別に食べたい気持ちが高まっていないからそこで食べても「うまい」とはなりづらく、これを広告業界などでは「ハードルが上がった状態」と呼んだりするが、百貨店や飲食店街などといった、いわゆる食を提供する店舗にとってのホームな環境とは異なる、駅のようなアウェイな環境に店を出しているってことは、よほど自信があるいう証左なのだ。
 
その自信に、私なぞは感銘を受けてしまうのです。
 
 
先日、ある駅の切符売場の手前で、フルーツ大福が販売されているのをみかけた。
 
前述の思考回路によってそのフルーツ大福から後光が指しているように見えた俺は、フルーツ大福の異なる2種類の味を購入、大いなる期待を押さえきれずに、人目を気にすることなくその場で食べた。
 
スカみたいな味がした。
フルーツ大福に入っていたのは、みかんやパイナップルではなく、みかん風味の何かわからないもの、だった。
 
好きなものがひとつ減りました。

今回の東京オリンピックで起きた不祥事の大半は「狭いサービス精神」が起こしたものだと思う

今日で閉会式を迎えるが、連日東京オリンピック関連の話題で持ちきりだ。
誰々がメダルを取ったとか、日本が獲得したメダルが何個目になったとか、そんな内容のニュースが多いが、それと同じくらいに多いのが、不祥事についての話題である。
 
オリンピックごとに不祥事の数など数えたことがある人などおそらくいないだろうが、今回多くの人がこう感じているのではないか。
今回のオリンピックは、不祥事が多すぎる、と。
 
大会エンブレムの盗作問題は、当時、世間を激震の渦に巻き込んだが、もはや「ああそんなこともあったな」と思うくらい、大会直前からトラブルが相次いでいる。
森喜朗は立て続けの女性蔑視発言で組織委会長を辞任、佐々木宏氏は開会式の演出で渡辺直美をブタに見立てた演出案を出していたことがわかって辞任したし(しかもその後に天皇陛下に○✕クイズを出す案も出していたことを、追い文春砲される)、小山田圭吾が過去のいじめ問題が明らかになって辞任すれば、これを契機に、ラーメンズ小林賢太郎竹中直人、絵本作家ののぶみ氏が立て続けに過去の不適切言動で解任もしくは辞任、それでもなんとか開会式を終えてやっと安心、あとは閉会式まで滞りなくできればいいよね、って感じで不祥事確変モードも落ち着いたかと思いきや、今度は名古屋市長の河村たかしが表敬訪問に訪れた選手の金メダルを噛んで現在進行系で大炎上。
まさに「呪われた五輪」と呼ばれるにふさわしいほど、新しいトラブルのニュースがない日を見つけることが難しい。
 
なぜこれほどまで多発するのだろうか。
上に挙げた全員とも馬鹿、阿呆なのだろうか。
いや、そんなわけはなく、皆が皆、日本を代表する役割、ポジションを与えられていて、そこに至るまでには抜きん出た成果を出してきたからこそ選ばれたわけで、当然、もれなく非凡な人たちである。
ならば、自滅行為によって五輪をぶち壊してやろうというテロリズムかましているのか。
仮にその通りであればその試みは大いに成功しているといえようが、無論そんなわけはなく、名声ある人たちの意図的な行動とは考えられない。
 
などと考えているうちに、俺はある恐ろしい事に気がついてしまった。
みんな、良かれと思ってやったことで失敗しているのである。
 
考えてみれば、成功者というのはみんな、サービス精神が旺盛である。
だからこそ突出した成果を挙げることができるのだ。
しかしそのサービス精神が、ひとたびよろしくない形で発出すると、不祥事に姿を変えてしまう。
 
森喜朗氏の女性蔑視発言に限らずすべての政治家の失言は、「俺のウイットで関係者や記者をいっちょ笑かせてやろ、これも一興」と意気込んで発せられたものだろうし、小山田圭吾氏だって雑誌のインタビューに「これくらいの大ネタをかましてやったら編集も喜ぶやろ」とサービス精神を存分に発揮して臨んだ結果だろう。
小林賢太郎氏だって、ユダヤ人を卑下することが目的だったわけでなく、純粋に、ネタを見てくれる人を笑わせようとしていただろうし、佐々木宏氏だって渡辺直美に恥を欠かせようとしていたわけではなく、観客を喜ばせようとして考えた演出案だったに違いない。
河村たかし氏だって、金色のものを噛めば記者が喜んでくれるだろうと思ってメダルを噛んでいる、過去には金のしゃちほこを噛んでいたようだし。
 
きっと、みんな悪気がないのである。
この問題が根深いのは、ここに理由がある。
 
つまり、悪気があっての行いであれば、「うわーやっぱ悪いことしたら世間から叩かれるし社会的に死んでしまうわーやめとこ」と、踏みとどまることができる。
しかし良かれと思ってやることは、「良いことをすれば人に喜ばれるからバンバンやらな」となるため、抑止力が効かないというか、抑止する理由がそもそもないので、「善は急げ」の精神で、思いついたら即行動してしまうのだ。
したがって、トラブルが絶えない。
 
では我々はどうすればよいのか。
誤った「善は急げ」精神がトラブルを量産するのを指を加えて見ているしかないのだろうか。
 
非常に難しい問題ではあるが、ひとつこういった行為で人生を棒に振る人を減らすひとつの心がけとして、「より大きな世界での『良かれと思って』を追い求める」ことが有効なのではないか、と思う。
 
「より大きな世界」とは何か。
それはサービス精神が及ぶ範囲、喜ばせようとする人のゾーンの広さのことを指している。
森喜朗氏が喜ばせようとしたのは、近い思想を持った(と森氏本人が思っているだけだが)政治家や政治記者
小林賢太郎氏はネタを観に来たファン、小山田圭吾氏は雑誌の担当編集者。
佐々木宏氏は開会式を観る人、という意味では範囲はめちゃめちゃ広いようにも思えるが、観客の半分が女性であることを忘れているようにしか思えないし、男性であってもこれを面白いと思えない人の多さに目が届いていない。
河村たかし氏も同様である。
しかも河村氏はその後の謝罪会見で「あの時は非常にフレンドリーな感じだった」と語っていたが、フレンドリーだったのは河村氏とその取り巻きだけであり、謝罪するに至った今でも直接対面していた表敬訪問した選手のことには考えが及んでいないことが、この発言からも伺える。
このように、不祥事を起こしてしまった人たちは揃って、サービス精神の対象が狭く限定されているのだ。
 
もし仮に彼らのサービス精神の対象が「地球にいる人みんな」だったとしたら、こんな行動、発言をすることはなかったに違いない。
大半の人は喜ぶどころか不快になるのだから、サービスの効果は総量としてはマイナスになる。
合理的に踏みとどまることができるのだ。
 
当然これは極端な仮定で実現は不可能だ。
しかし、サービス精神を完全に封印することはできない。
それでは健全な社会生活を送ることが難しいからだ。
どうせサービス精神を持つのならば、可能な限りその対象範囲を広くしようと心がけることが、「良かれと思ってやった、言ったことで人生を棒に振る」確率を少しでも減らすことにつながるのではないかと思う。