勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

経済学とはいったい何なのか問題と、経済のことがわからなくて昔から損ばかりしている話

日本の借金が、2021年時点で1200兆円を超えたそうだ。

国の収入、すなわち歳入は、だいたい年間で100兆円あるらしいが、実際には歳入の100兆円のうち約3分の1は新たな借金で、それで年間25兆円を借金の返済に充てている、という構図である。

金額が大きすぎて訳がわからないので、世帯年収1000万円家庭に置き換えてみる。

1000万円プレイヤーといっても見掛け倒しで、そのうちの300万円以上は借りてきた金、年間で250万円を返済しながら、借金は膨らむ一方、ついに1億2000万円にまで積み上がっているという有様だ。

「超やばい」どころの話ではなく、完全に破綻している。

「1000万円プレイヤー」という称号、そして「あそこのうちは高給取りだから」そんな評判と羨望の眼差しを捨て去ることができず、見栄を張っての自転車操業

借金をしなくても700万円の年収があるのだから身の丈にあった生活をしながら少しずつ借金を返済していけば何の問題もなかったはずなのに、いったん上がってしまった生活レベルは下げることはできず、気がつけばサラ金に手を出してしまう。

とまあ、こんな状態である。

 

どうしてこれほどまでの多額の借金を背負ってしまうまで放っておいたのか。

ウシジマくん風に表現すると、完全に「カタにハメられている」といえよう。

 

仮にこれが自分の身に起こっていることであれば、「ああ、俺の人生終わった」と観念セざるを得ないレベルだ。

「がんばって地道に返済していこう」なんて到底思えないほどの途方もない額を目の前に、まずは自己破産を第一に考えるだろう。

もしくは最後に一発逆転をかけて、一世一代の大博打に出るかもしれない。

勝てば借金返済だが、負ければすなわち死。

そんなカイジばりのギャンブルでしか脱出できない、万事休すの状況だ。

 

俺は問いたい。

「あなたの家計がこんな状況だったらどうですか?」と。

おそらく俺の方針は何ら奇をてらったものではなく、むしろ至極一般的な解釈だと思う。

 

自分の家計だとしたら満場一致で「超やばい」

であるならば、今の国の財政に対してもそうなっていて当然なのだが、奇妙なことに、そうなっていない。

個人と国の家計では、大きな違いがある。

つまり、国の財政は一般家庭のそれとは比較にならないほど莫大かつ複雑であり、俺のような何の知識も持たない者が「マジやばい」とか「まだあわてるような時間じゃない」などと判断するのは力不足、お門違いもいいところなのだ。

しかし有難いことに、世の中には頭が良くて勉強熱心な人も多く、経済学なるものをめちゃめちゃ勉強して、自分の家の家計だけでなく国全体の財政まで、果たして本当に「マジやばい」のかどうなのか、きちんと見極めることができる人がたくさんいる。

だが、そういう本気で勉強して完璧に知識を身に着けた人たちの間でも、意見が真っ二つに分かれているのだから不思議である。

 

「このままでは財政破綻する」とか「そんなの大嘘だ」とか、経済を専門にする人たちどうしで、長い間ずっと言い合っている。

最近ちょくちょく聞く「MMT」という言葉(「現代貨幣理論」Modern Momentary Theoryを表すらしい。意味は全然知らんけど)も、「新しいパラダイムだ」という学者もいれば、「あんなのは大嘘、絶対にやっちゃいけない」なんていう専門家もいるし、「消費税を上げるべきか?下げるべきか?」でもいまだに「上げるべき」「撤廃する、もしくは下げるべき」などと、かれこれ何十年もやりあっている。

 

どういうこと?

Why 経済学者?

お前ら、ずっとその勉強をしてきたんじゃないの?

なんでそんなに180度逆の主張ができるの?

いい加減ひとつの結論に至れよ。

もしかして経済学って科学ではなく、哲学的なものなの?

もう20年以上も前のことなので記憶が曖昧ではあるが、大学生のころに、雑誌(おそらく「SPA!」だったかと思うが)を立ち読みしていて、ある記事が目に止まった。

その内容は大雑把に言うと、

「八百屋を営んでいる家庭では食卓に野菜が、魚屋をやっている家庭では魚が並ぶ割合が、他の家庭と比べると必然的に多くなる。○○屋は○○を、安く、大量に仕入れる、手に入れることができる。従って、金を扱う仕事(≒金融業)が年収が高くなるのは当然のことである」

みたいなことだった。

俺は今まで思いもよらなかった、この切れ味鋭い発想に衝撃を受けたのと同時に、「なぜ俺は工学部なんだ」と、己の過去の判断を悔やんだ。

もしこの記事にもう少し早く触れることができていれば、俺はすぐさま経済学部へと進路を鞍替えし、晴れて金融業界へ、濡れ手に粟状態で、今ごろは田園調布に居住し高級外車を乗り回していたことだろう。

 

と、口惜しい思いを引きずっていたが、ここ最近はまた考えが変わった。

先に述べたように、経済学の専門家でも意見が合致しないことが山のようにあるのだから、俺が経済学をかじったところで、高収入を手にできるとは限らない。

結局のところ、経済学なんて、哲学または宗教に近いものなのだろう。

勉強してないから知らないけど、そうでないと説明がつかない。

40歳近くになって高い壁にぶち当たる経験をした話

いい歳になってくるとどうしても、日々の生活を、変化が乏しいルーティン的なものに感じてしまいがちである。

コロナが出てきて外出自粛するようになってからはなおさらだ。

 

「今までやったことがない新しい経験が必要だ」

そう思った俺は、先日IQテストを受けた。

 

「なんか新しいことを」で、なぜIQテストを選んだのか。

そのきっかけは、少し前にスマホをいじっていて偶然出てきたバナー広告。

そこには「IQを測ってみましょう」とあった。

軽い気持ちでやってみたら結果は121

その時はかなり深酒をして酩酊状態だったこともあり、「これは俺の真の実力ではない」と意気込んで、翌日もう一度やってみると、結果は130

 

昔どこかで聞いたことがある。

IQが130を超えれば、かの有名なMENSAに入れるかもしれないらしい。

ということは、あのスマホ広告のテストがどれくらい信憑性があるのか知らんけど、ひょっとしてひょっとしたら入れるのではないか。

(正確には、上位2%のIQであれば入会資格があって、だいたい130以上がそれに該当するらしい)

 

「どうも、MENSA会員です」

と言ってみたところでどうせ出オチにしかならないだろうし、そんなことでMENSAを使うのも失礼千万な話だが、俺は新しい経験をしなければならないのだ。

そう思って入会方法を調べてみると、現在はコロナの影響で入会テストを開催しておらず、各自でIQテストを受けられる施設に行って、でもってテストを受けて、結果が書かれた証明書を郵送することで、入会テストの代わりとしているらしい。

 

受けたのは「WAIS-Ⅳ」というテスト。

内容を明かすと対策をする人が出てきてしまい、正確な判定ができなくなって困るらしいので、どういう問題だったかなどここには書かないが、対面で、1対1で、1時間半くらいかけて行う、けっこう大変なものだった。

そして2万円くらいかかる(受けるところにもよるらしいけど)。

そっちの意味でもまあまあ大変なものなのだ。

にも関わらず俺は、テストの中盤くらいで、集中していないといけないのについつい「もう今日のメインレース終わったかな、馬券当たってるかな」とか「今日の晩は何を食おうかな、ハンバーガーかな」などどうでもいいことが頭をよぎってしまい、聞き逃してしまったために答えられなかった問題がいくつか出てきて、「こらあかんわ」と心が折れてしまいそうになったが、そこは「何か新しい経験」を求める力が上回り、なんとか最後までやり切った。

 

そして郵送で結果が届いてきたのがさっき。

結果は127で、これだとMENSAに提出したところでどうやら入れないのは確実らしく、俺の2万円と2時間はムダになってしまいましたとさ。

と、一概に言えるわけではなく、というのは、「WAIS-Ⅳ」というテストは、さすが2万円もするだけあって大変な優れもので、単に「あなたのIQはナンボです」と教えてくれるだけではなく、「言語理解」「知覚推理」「ワーキングメモリー」「処理速度」の4項目でそれぞれ点数が出て、得意不得意もわかり、自分への理解を深めたり日々の生活に役立てたりすることができるのだ。

 

ちなみにこの4項目は、より具体的には

言語理解

言葉による推理・思考力/表現能力/状況に合わせ言葉を応用する力/学習知識力 など

 

知覚推理

複数刺激の関連性理解力/視覚と運動連動/空間処理力/非言語推理分析/視覚イメージ/展開予測 など

 

ワーキングメモリー

聞いた言葉や数字を短期間記憶する力/短期記憶を使って情報操作や結果を産出する力/注意集中力 など

 

処理速度

視覚的な短期記憶を使って作業する力/筆記技能/注意の持続力/視覚と運動の協応力/動機付け など

 

参照:https://m-c-ride.com/wais

らしい。

 

40年近く生きてきてわかったことだが、俺は自分の能力の中で最も高いのは「情報処理の速度」だと自覚していた。

これまでの経験上、思考を伴わない単純作業をやれば他の人に比べてもめっぽう速く、事務員などの職業に就けばめちゃめちゃ優秀だったのだろうが、何故かそれとは真反対の仕事を選んでしまい、その結果、うだつが上がらないまま現在に至っている。

 

今さらそんなことを嘆いていても仕方がない。

MENSA入会の可能性は消えたが、自分の特性はそれなりに気になる。

もしかしたら、何か新しい発見があるかもしれない。

 

報告書を読み進めると、

VCI(言語理解):112

PRI(知覚推理):114

WMI(ワーキングメモリー):131

PSI(処理速度):143

そしてこれらの総合点が

FSIQ(前検査):127

だった。

 

処理速度が高かったのは想像通りだったが、少しショックだったのが「言語理解」の低さだ。

仮にも、一時期はライターをやっていたというのに。

また、項目間の数値の差が大きすぎると、日常生活に支障をきたす可能性が出てくるらしく、俺の場合は「ワーキングメモリー」「処理速度」「言語理解」の数値の開きが大きいことから、

「頭の中で多くの情報が瞬時に溢れやすくなる一方で、言葉を体系立ててまとめづらく、的確なレスポンスや言語伝達、文章作成に時間を要し、もどかしさを感じやすくなる場面もあるでしょう」

と、俺宛の所見には書かれていた。

 

そういう場面、たしかにある。

非常に頻繁にある。

「あーこういうこと伝えたいんだけど言葉が出てこない」ってやつ。

やっと原因がわかった。

 

そして、所見には「データ入力などの事務処理作業では非常に高いパフォーマンスを発揮するでしょう」ともあった。

やっと俺に向いている職業が判明した。

気づくのが20年くらい遅い気もするが、「これからの人生で最も若いのは今である」なんて言葉もあるし、物事に遅すぎるなんてことはない。

MENSAの壁は高かったが、これだって十分「新しい経験」だ。

文字を書いたTシャツを着ている人の気持ちがわからない

昔から、文字が書いてある服を選ばないようにしている。

胸にでかでかと文言を掲げて外を歩けば、俺がその内容と同じ思想を持ち、声高らかに主張をしているように見られるのではないか、と疑ってしまうからだ。

おそらく、俺の杞憂であろう。

俺がTシャツの文言と全く同じ思想、主張を持っていたとしても、周囲は俺のTシャツの文字などそれほど気にしていないかもしれない。

また仮にTシャツの文言とは異なる思想、主張を持っていても、そもそも、服のメッセージ性とそれを着用する個人の感情に、関連性を見出す人がいったいどれだけいるだろうか。

しかしどちらの場合であっても、やっぱり嫌なものは嫌だ。

前者は、俺は着ているTシャツの文言から思想、主張を読み取られることが気味が悪いし、後者でも、自身の思想、意志からかけ離れたメッセージを身にまとっている状態も、精神が分裂しているようで居心地が悪い。

 

単に服を意匠したブランドの名が書かれているだけならば、まだましである(それでも、「俺はこのブランドが好きだ」と訴えているように見られるのが嫌だが)。

例えば、さっきすれ違った「I'm going」と書いてあるTシャツを来ていた男性。

見た瞬間に俺の脳内には

「どこに?」

「いや、知らんわ。お前がどこかに向かってるかどうかなんて」

「でも歩いてるんだからそりゃどこかには向かってるんだろうな」

「それともお前は日テレ『Going!Sports&News』関係者か? くりぃむの上田さんか?」

といった数々の感情が去来し、金輪際二度と会うことのないであろうその男の行き先が、一瞬ではあるが気になってしまった。

この高度に情報化された社会において、すれ違うだけの見ず知らずの人がどこに向かおうとして「I'm going」と書いたTシャツを来ているか、という情報は、本当にどうでもいい吐いて捨てるべきものであり、そんな無用の情報によって生まれる感情の動き、割かれる時間も、完全に無駄といえよう。

 

そして今日は、「サウナ」とだけ書いたTシャツを着て歩いている男性も見かけた。

選んで着用するくらいだから、まず間違いなく、彼はサウナが好きなのだろう。

では、いったいどれくらい好きなんだろうか。

毎週欠かさず訪れるくらいだろうか。

いや、週1回では物足りないかもしれない、なんせ胸に「サウナ」なのだ。

自分で楽しむだけでは飽き足らず、「サウナめっちゃいいからみんなもっと行くべきだ」と、友人知人先輩後輩に布教活動を行っているかもしれない。

それはいい、勝手にやってくれ。

いや、もしかしたら、かつて篠原ともえのファッションを真似た人を「シノラー」と呼んでいたのだから、「サウナー」はサウナ愛好家ではなく、「サウナ」と書いたファッションを身に着けている人のことではないのか。

しかし、この男性とも、今日すれ違えばおそらく二度と会うことのないであろう、一期一会の世界。

それがこの大都会、東京。

東京砂漠。

お前がサウナがどれだけ好きだろうと、俺には一切関係ないし、「サウナ、いいよね。行きたいなあ」とも思わないし、「あ、この人サウナ好きなのかな?最近流行ってるからなあ。流行りだしてから始めたのなら普通だけど、もしはるか前だったら先見の明があるタイプやね」などと俺がすれ違いざまに考えた時間は100%無駄だから返却してほしい。

仮にサウナが好きな人と暮らせたところで、「あなたがいれば、つらくはないわ」とはならないのである。

 

このように言えば

「いやいや、別に服に書いてあるからってそれがその人の嗜好や主張をそっくりそのまま表しているとは限らんよ、そこのお兄さん」

と反論してくる読者の方もいらっしゃるだろう。

確かに指摘のとおりである。

しかし俺はあえて問いたい。

では貴方は「SEX」と書かれたTシャツを着て往来を歩くか、と。

そんな格好で歩けば、大半の人は貴方のことを、「ああ、この人はSEXのことで頭がいっぱいなんだろうなあ」と考えるだろう。

つまり貴方に対する周囲からの印象は、Tシャツに書かれた文言と無関係でいることはありえないのだ。

 

 

同様に、表紙を露出させた状態で本を読むのも苦手だ。

「伝え方が9割」というタイトルの本を読んでいるところを見られると、「あの人は伝え方が悪くて損をしてきたんだろうなあ」と思われるだろうし、「40代で必ずやっておくべき74のこと」であれば、「40代に入っちゃったけど30代まではぱっとしなかったからこの10年で一発逆転したいと思ってるんだろうなあ」なんていう目で見られるのだ。

 

読む本はTシャツに書かれた文言よりもはるかに、持ち主の思考を色濃く、正確に反映するから、俺はそんな周囲からの視線には耐えられない。

読んでいる本の内容なんて、見ず知らずの人に知らせるべきものではないのだ。

 

また同じように、SNSに投稿するのも苦手だ。

何者でもない者がその瞬間に考えたことなど、「1000万人都市」東京ですれ違う人のTシャツの文字並に無用な情報であり、すれ違う人どころか世界中に発信するのに見合う価値のあるものなど、全投稿のうち1000億分の1も存在しないであろう。

「うちの猫がかわいい」だの、「今日という一日に感謝」だの、「このパンケーキおいしい」だの、「月曜日のたわわの広告はけしからん」だの、すべて「I'm going」や「サウナ」と同等なのである。

 

 

ここまで読み進めた方ならばお気づきだろう。

(そもそもそんな人は相当稀有だろう、俺なら途中で辞めているが)

このブログも同類ではないか、と。

その指摘は一見正しいようで、実は誤りだ。

こんなブログ、誰も読んでいないただのチラシの裏の落書きなのだから。

記憶力を維持するサプリがミイラ取りになる話

近頃の医学の進歩は目覚ましい。

今さら言うようなことではないが、先日、改めてそう感じる出来事があった。

 

ドラッグストア内を歩いていると、ある商品が目に留まった。

 

「記憶力を維持する」

 

でかでかとそう書かれたパッケージに、俺は驚いた。

内臓や血液に働きかけるものはまだ納得できるが、脳に作用するサプリまでもう造られているのか。

 

しかも

「維持したい」

とか

「維持できるかも」

などではなく、

「維持する」

そう断言しているのだ。

 

脳への作用、しかも断言するほどの自信。

医学の進歩は素晴らしいが、馴染みがない脳への作用は、少し恐ろしくもある。

 

それでも物忘れが激しすぎることが最近の悩みである俺は、迷わず商品を手に取ってレジへと向かった。

 

指定された分量の1日4錠を服用し続けること10日ほど経過したが、まだ実感するほどの効果はない。

そして、さらに1週間ほど経ったある日、俺はふと気が付いた。

 

「あ、最近サプリ飲み忘れてる」

 

 

俺はこういう話を聞くとついニンマリしてしまう。

 

ここでいう「こういう話」とは、例えば、ビートたけし氏の「テレビでの発言をネットニュースにするな」っていうテレビでの発言がネットニュースになったことや

www.nikkansports.com

 

コロナウイルスのことを世界で最も考えているはずのWHO本部でコロナウイルスクラスターが発生してしまったというニュース

www.yomiuri.co.jp

 

インドネシアで実際にあった、不貞行為をむち打ち刑相当とする厳格な法律の整備を進めた組織のメンバーが不倫現場を摘発され、公開むち打ち刑に処された出来事

www.cnn.co.jp

 

このような記事や出来事に接する度に、俺は

「こういう不条理って好きだなあ」

「もっとこんな話をたくさん聞きたい」

「こんな出来事に何か名前があればいいのになあ」

と思うのだ。

 

「何かいい呼び名はないか」そう考えていたら、すでにあった。

「ミイラ取りがミイラになる」が最も意味が近い諺だろう。

 

しかし「ミイラ取り」とは何だ。

あるあるとしてはRG以上にトリッキーすぎて共感できない。

「記憶力を維持するサプリを飲み忘れる」

これのほうがまだわかる。

 

こんな例を知っている方がいればぜひ教えてもらいたい。

エコカアサウケセクイソキスシオ クシキオエケセアウスカコソイサ

これはドラクエのかの有名な復活の呪文、ではない。

では何なのかというと、俺の高校の同級生以外、知る由もない。

いや、同級生であっても、知っているのはそのうちのごく少数であろう。

 

 

高校に進学して数ヶ月くらいが経ったある日、国語の先生から百人一首のテストを行う」と発表された。

内容は明かされず、「百首すべてを記憶していれば満点が獲れる」との予告。

真面目な生徒であれば、テストの期日までにできる限り覚える努力をするのだろうが、俺はそれを行わなかった。

あまりにも理不尽すぎて、がんばってどうにかなるものだと思えなかったからだ。

「1週間練習して、150km/hの球を投げてください」と言われても、「先生、お狂いですか?」という感想しか出てこないだろう、それと同じである。

きのうの晩に何を食べたかすらもう忘れているのに、31文字×100首=3100文字もの大量の文字、しかも意味がわかるものならまだ取っ掛かりもあるが、呪文のような意味不明な文字記号すべてを暗記するなんて、常軌を逸している。

 

ところで当時の国語の担当の先生は、なぜか竹刀を片手に授業を行っていた。

不思議である。

傍線Aと書いた筆者の気持ちを答えるのに、明らかに竹刀は不要だ。

ではいったいどういう用途なのか。

それは主に授業中におしゃべりをしている生徒をしばくことに用いられていた。

そしてテストの後には、成績が著しく悪かった生徒をしばくことにも用いられていた。

令和の今ならアウトだろうが、平成が始まってまだそれほど経っていなかった当時では、よく見られる光景だったのかもしれない。

 

俺は、無理難題に挑戦する無駄な抵抗を避け、あの竹刀でしばかれることを選択した。

どうせみんなしばかれるだろうし。

 

 

テスト当日。

俺が所属していたA組は、その日の国語の授業があるのはD組に続いて2番目だった。

これはもしかしたら超幸運、僥倖かもしれない。

すなわち、D組の誰かから終わったテストの問題用紙を入手し、次のコマまでの10分間に模範解答を作成、暗記すれば、満点には至らずともそこそこの及第点を獲得、ひいては竹刀でしばかれることも回避できる。

 

問題用紙を見て、俺はにわかに色めき立った。

問題の形式が俺にとって理想に近いものだったからである。

上の句が15首分、その下に同じ数の下の句があってそれぞれにア~ソの記号が割り振られていて、上の句と下の句の組み合わせとして正しいものを記号で回答する。

この大問が2問。

3100文字を暗記しなければならないテストが、たった30文字に減ったのだ。

100首のテストなのに、1首分の文字で済むではないか、なんということでしょう。

これが例えば、「この上の句に続く下の句を書きなさい」などといった問題であれば、いかに事前に問題を把握していたとしてもテストが始まるまでに答えを覚えることは現実的ではなく、即座に0点が確定していたところだった。

もちろんD組とA組で問題が異なる可能性もあったが、俺は使いまわしの希望にかけ、残りの5分間、ひたすら唱え続けた。

 

エコカアサウケセクイソキスシオ クシキオエケセアウスカコソイサ

エコカアサウケセクイソキスシオ クシキオエケセアウスカコソイサ

エコカアサウケセクイソキスシオ クシキオエケセアウスカコソイサ

エコカアサウケセクイソキスシオ クシキオエケセアウスカコソイサ

………

 

「5分間だけ覚えていられればいいや」

そう思っていたこの無意味な文字列を、20年以上経った今でも記憶しているのだから、不思議なものである。

 

 

先日、仕事で週1回ほど訪れる新橋を歩いていると、ついこの間まで別の店だったような気がするところに立ち食い寿司の店があって、初めて見たしどんなもんか試してみたろ、と、入店した。

寿司に限らず立ち食いの店は、客は長い時間を立っていたくないから回転率が高いだろうし、接客サービスの質を落としてその分の人件費を原価にかけているだろうことから推測して食材のクオリティが高い感じがなんとなくするから、価格の割に美味そうに思えて好きである。

 

ところで、寿司職人という人たちは、総じてあるものすごい能力を持っている。

それは寿司を握る技術のことではなく、いや、それはもちろんだが、俺がここで言及するのは彼らの記憶力だ。

 

例えば俺が「えー、小鰭と芽ネギと穴子」と注文して、直後に隣の客が、「私は漬けまぐろと赤貝と昆布締めの鯛を」と言って、またその隣の客が「じゃあ僕は〆鯖と鰹と玉子」と立て続けに発しても、職人はもう一度聞き返すことなく、ちゃんと依頼されたネタを握る。

しかもメモを取ることもせず。

これは驚異的なことである。

いったいどんな修業をすれば、このような資質が備わるのだろうか。

 

しかし、この立ち食い寿司の職人さんは、俺の注文を握っている途中で必ず忘れ、聞き返してくる。

覚えられないのならメモすればいいじゃん。

俺はそう思うが、この「メモに頼らない」姿勢も、きっと修業で身についた姿勢なのだろう。

トロたくを食べながら、「エコカアサウケセ…」と、俺はつぶやいた。

 

ポニーテール禁止の校則と戦争について

「猥褻は、そう思う人の心の中にしかない」

映画「愛のコリーダ」の書籍が猥褻にあたるかを問われた裁判の中で、大島渚監督が残した有名な名言だ。

 

俺はこれを、「猥褻な物体というものは存在せず、対象を人が認識して猥褻だと翻訳した瞬間に初めてその物体が猥褻とされるのであって、この場合、猥褻なのは物体そのものではなく、そう判断したその人およびカニズムである」といった風に解釈している

が、この言葉を知る以前から、うっすらとこういった考えを持っていた。
きっかけは、性の意識が芽生えはじめる小学生のころにさかのぼる。
 
同級生の中にウルトラの母に興奮するやつがいた。

なぜそんな性的嗜好を獲得するに至ったのか、知る由もない。

彼にとっては、ウルトラの母こそがこの世で最も猥褻であり、アダルトビデオよりも真っ先にレンタルビデオ店のピンクの暖簾の先に追いやられて然るべきなのはウルトラマンのビデオだったが、もちろん、実際にそうなることはない。

それは、彼の嗜好性が極めて少数派で、一般には共有されていないからであろう。

これが「ウルトラマン」ではなく「(女性の)おっぱい」であればどうか。

おっぱいを見て興奮する男性は多いため、おっぱいが多分に出てくるビデオの多くはアダルトコーナーに追いやられている。

つまり、「おっぱい=猥褻」と世間では認定されている、と言って問題はなさそうだ。

だからおっぱいが出ているビデオは、レンタルビデオ店ではピンクの暖簾の奥に行く。

しかし、おっぱいに興奮しない人も、少数派ではあろうが、確実に存在する。

ウルトラの母に興奮しない人が存在するのと同様に。

おっぱいやウルトラの母といった客体そのものが猥褻性を持つのではなく、見る側が客体に反応する回路こそが猥褻なのだから、猥褻なものとそうでないものを確実に、正確に区切るピンクの暖簾は、存在し得ない。

 

彼はいまどうしているだろうか。

その貴重な性癖を維持できているだろうか、それとも順当に成長してボンテージフェチなどに落ち着いてしまっただろうか。

ポニーテールを禁止する校則についての記事が、数日前に話題になっていた。

373news.com

記事によると、女子生徒が「校則でポニーテールが禁止されているのはなぜか」と尋ねたところ、担任教員からは「男子生徒がうなじに興奮するから」という回答が返ってきたらしい。

これは、ものすごい回答である。

心の中で思っていてもなかなか生徒に向かって口に出して言えるものではない。

しかも答えた担任は女性教員だというからさらに驚く。

彼女が「男子生徒はうなじに興奮する」と言い切る根拠は何なのだろうか。

いくつかのパターンが考えられる。

男子生徒、それも複数人から「ぼくたち、女子生徒のうなじに興奮しちゃって困ってるんですよ。朝礼で起立なんてできたものじゃないですよ」などと相談を受けたのか。

それとも、女性教員自身が生徒のうなじに興奮を禁じえないことに悩んでいたのか。

はたまた、女性教員が、学生時代から自分のうなじによって男性を魅了しまくってきた過去があったのか。

真相はわからない。

しかし確実に言えるのは、この女性教員は「うなじは猥褻である」と解釈しているが、猥褻なのはうなじではなく、そう解釈している女性教員である。

そしてそれは、「校則でポニーテールが禁止されているのはなぜか」と尋ねてきた女性生徒にもバレてしまっただろう。

 

他にもこの記事には突っ込みポイントが数え切れないほどあって、相当味わい深い。

ちなみに俺的クライマックスは、校則見直しを提案した生徒に対する教員からの、「ここは鹿児島だから」という返答

鹿児島だから何だというのだろう。
麻雀漫画の傑作「凍牌」の「俺が堂嶋だ」以上の破壊力がある。

 

閑話休題

繰り返すが、ポニーテールが猥褻なのではなく、猥褻なのはポニーテールやうなじを見て「猥褻」と翻訳する側の脳内であるといえよう。

したがって、「ポニーテール禁止令」を最初に立案、施行した人も、当然、猥褻である。

しかも、中学生に対して導入していることから、「男子は中学生の時点から、ポニーテールに興奮するものである」と、経験則的に知っていることがわかる。

つまり、「ポニーテール禁止令」の立案者は、かつては相当猥褻な男子生徒だったに違いない。

果たしてどんな生徒だったのだろうか。

時は戦前、ある旧制中学校に通う男子生徒。

彼には近所に住む幼馴染の女子がいた。

世の中は男女別学、尋常小学校を出てからふたりは別の学校に通学するようになる。

彼女は学校が終わった後は家の商売の手伝いで忙しいらしく、2人が出会う機会はめっきり少なくなっていた。

ある日、久しぶりに会った彼女は、髪形をポニーテールに変えていた。

後ろを振り返った彼女のうなじが見えた瞬間、彼は脳に雷に打たれたかのような官能的衝撃を受ける。

ズボンの中で彼のイチモツは瞬時にギンギンかつバキバキに屹立し、彼は体勢を前かがみに保ちながら平静を装いつつその場を立ち去るのが精一杯だった。

この時から、これまではただの幼馴染だと思っていた彼女への想いが、大きく変化する。

彼は彼女のうなじを舐めたい、それが叶わぬならば近くでその匂いを嗅ぎたい、それすら叶わぬのならば、せめて彼女と同じ学校へ通い、彼女の後ろの席に座ってずっと眺めていたい、いや、それすら叶わぬのならば、もはや女子生徒であれば誰でも良い、と思うようになった。

しかし彼が通う学校は男子のみ、当然、視界に入るうなじはすべて男子のもの、その最低限の望みすら叶わぬ状況だった。

 

そこから彼はめっちゃ勉強して立身出世、50年後には、その県の教育委員会か何か知らないが、そんな感じの県下の公立学校の校則を決めるような権威ある地位に就任。

そしてこう思う。

 

「いまの学生はワシらの時代と違って男女共学が当たり前になった。ということは、男子生徒が女子生徒の後ろの席でうなじをガン見することもリアル、現実的ということではないか。うらやましすぎる。けしからん」

 

幼馴染のあまりにも魅惑的なうなじによって青春時代をあわや狂わされそうになった彼にとって、今の学生が女子生徒のうなじ見放題なのは、それが時代の流れとはいえ、決して許しておくことができなかったのだ。

できることならば、県下のすべての学校を男女別学にしてやりたいくらい。

しかし、いくら立身出世したとはいえそこまでの権力はない、せめてもの俺に実現できることといえば、「うなじを見えないようにする」ことくらいが関の山だろう。

こうして「ポニーテール禁止」の校則は成立した。

上の例はあくまで俺の想像ではあるが、性癖に限らず、このように、ある特異な価値観を持つ人間が権力を獲得し、それを支配下の者全員に強要するといったケースは多々ある。

これの究極の形が戦争ではないか。

男女別学制と幼馴染のうなじによって性癖を歪められた彼は、その特殊性を「ポニーテール禁止令」によって現代の鹿児島県の学生全体へと拡大再生産していく。

 

しかし幸いなことに、世の中は更に進歩、人々の考え方は多様化しているし、インターネットによって情報も格段に集めやすくなっている。

自分たちの置かれている偏った環境、特殊性を認識することで、矯正しようとする動きが生まれることに期待したい。

無計画な生き方に一瞬憧れたけどすぐやっぱねぇなって思った話

「ご利用は計画的に」

この言葉、1日に何回テレビから聞いているだろうか。

 

我々現代人は、ことあるごとに計画的であることを求められる。

ビジネスでは納期をしくじらないようにきちんと計画を立てなければならないのはもちろんだが、恋愛においても、デートで集合してから「じゃあこれからどこ行こうか」なんて言っている男はダメで、ある程度その日のデートコースを計画している男のほうが、女性からは高く評価されるらしい。

さらに、近ごろは頻繁に「先の読めない時代」と言われる。

だからこそ、計画性の重要さは以前にも増して高まっている。

たとえいま安定した収入源を持っていても、すぐさまそれが頓挫することも十分に考えられる。

毎日テレビCMに諭されるように、金を使うのも貯めるのにも、計画性が求められるのだ。

 

計画的になるのは社会に出てからでよいかと問われればそういうわけでもなく、我々は残念ながら子供の時からすでに「計画性の奴隷」である。

親からは「塾に通いなさい」などと言われるし、学校では別に教師に相談したいと思ってもいない「進路相談」を自動的、強制的にさせられる。

まだ先のことなんて何もわからないうちから、周囲に期待されている将来像を見据え、計画的に進路選択を行い、やりたくもない勉強やつらい練習に耐えなければならないのだ。

 

現代人は、計画性から逃れることはできない。

 

その反動もあって、我々は衝動的な欲求にかられることも多々ある。

しかし、無計画、無軌道な生き方は破滅につながる。

もちろんそのことは、頭では重々承知している。

だから大半の人は、せいぜい週1日から2日の休日の間に、社会的に許される、引き返せる程度の無計画を堪能し、また計画性で充満した社会生活に戻っていくのである。

淡い憧れを抱き、後ろ髪を引かれながらも。

 

 

4年ほど前のこと。

おれはある部下に、「明日、これで菓子の詰め合わせを買っておいて」と、手持ちの1万円を手渡して依頼をした。

2日後に控える取引先との面会に持参するためだ。

 

その部下は「わかりました!」と、こころよく引き受けてくれた。

少々頭が悪いのは難点ではあるが、元気があって朗らかなのは素晴らしい。

 

翌日、夕方になっても、その部下は俺に菓子の詰め合わせを持ってこない。

忘れずに買ってくれているのか確認したかったが、あまり細かいことまでいちいち口出し、管理されるのは部下にとってもうっとうしいだろう。

マイクロマネジメントは良くないって言うし。

しかし面会は明日の朝、もし買い忘れなどしていたら困る。

閉店時間も迫っていたので、俺は尋ねた。

「きのうお願いした菓子って買ってくれた?」

 

するとそいつはしばらく躊躇した後、ものすごくばつが悪そうに、「すみません」とだけ言葉を発した。

 

そうか、忘れていたのか。

俺はやさしい上司だから、「よく忘れるんだからメモぐらい取っておけよ」という苛ついた感情を露にはしない。

まだ閉店までは1時間弱、今から迎えば十分に間に合う。

こんなこともあろうかと、間に合うタイミングで確認したのだ。

なぜなら俺は、計画性の男だから。

俺は部下が忘れたことを一切責めることもなく、「ああそっか。じゃあ今から行くのかな?悪いけどよろしく」と、改めて頼んだ。

 

しかし、返ってきたのは俺の予想を遥かに上回る言葉だった。

 

 

「すみません…、使っちゃいました」

 

は??

使った?

何を?

金を?

どういうこと?

 

詳しく聞いたところでは、そいつはその時ひどく金欠で、何日にもわたって1日1食にしたり水を飲んで空腹を紛らわせるなどして食事を最低限に抑えていたらしい。

そんな時に突然転がり込んできた1万円という大金を目の前にして、つい我慢ができず友人と飲みに行ってしまったという。

 

少し考えれば、いや、一切考えなくてもわかることだが、その1万円は翌日に確実に必要になる金なのだ。

それをあたかも臨時収入かの如く散財。

恐るべき無計画。

 

俺が今まで聞いた中で、圧倒的1位の無計画だ。

と感心していたら、この「無計画バッケンレコードは即座に塗り替えられた。

目の前にいるこのレコードホルダーによって。

 

 

「わかった、その1万円は貸してやる。その代わり、もっと詳しく聞かせろ」

日々要求される計画性に疲れ果て、無計画に対する憧れがあった俺は、このホームラン級の無計画話に興味津々だった。

 

「そもそもお前、いまいくら持ってるの?」

「…きのうは友達におごったので、そのお釣りの2000円くらいです」

「え!?ってことは、その前はほぼ一文無しだったってこと?」

「…はい」

「え!?!?でも給料日までまだあと10日以上あるよね?どうするつもりなの?」

「…この残りの2000円でなんとか…」

「え!?!?!?2000円で10日しのげる?っていうか俺がきのうお菓子買ってきてって頼んで1万円を渡さなかったらどうするつもりだったの?」

「…その時はその時に考えようって思ってました」

「いやいや!きのうがその時だよ!っていうかきのうでもない、もっとだいぶ前にあったよその時!だいぶ通り過ぎちゃってるよ!」

「…そ、そうですね」

「っていうかなに当たり前のようにその2000円を生活費の足しにしてるの!?まあ貸してやるって言ったからもういいけど。それに、そんな状況でよく友達におごったな!」

「…はい…つい」

 

さっき自分出したバッケンレコードを、2度目のジャンプであっさり更新。

葛西なんて目じゃないレジェンドがここにいた。

 

そして、「やっぱ計画的でいいや」と、無計画への憧れが消え去った瞬間だった。