山田ルイ53世の本「ヒキコモリ漂流記」を読んだ。めちゃめちゃ面白い本だった。
内容に触れるのは最小限にしたいが、一番印象的だったのは「人生が余ってしまった」という表現だ。
中学からひきこもってしまい、いわゆる「就職→結婚→定年」という一般的な人生を送ることができなくなった彼にとって、「これから先の人生が余ってしまった」というのは、当時の彼の心情を表現するにはこれ以上ない的確な言葉選びだと思う。
さすが芸人の言語感覚だ。
しかし、読んだ後にひとつ違和感が。
それは、「俺自身も『先の人生が余っている』感をビンビンに感じていたし、それは今になっても変わらない」という事実。
さすがに結婚していた期間はそれほどでもなかったが、その前後はビンビンである。
そして俺は当時からヒキコモリではなく会社員だった。
山田ルイの指摘する内容を逆にすると、 「就職→結婚→定年」という人生を送れば、「人生は余らない」ということになるはずだが、少なくとも俺にとってはそうではなかった。
まだ定年迎えてないけど。
そして、常識人である俺がそうだったということは、世の中の会社員のうち、どれだけ少なく見積もっても3~4割は「余ってる」感ビンビン派なはず。
山田ルイのが少年時代に持った「先の人生が余っている」感は、「自分が想像している人生のレールから外れてしまった」という思いから生まれたものであろう。
一方で会社に勤めていて感じる「先の人生が余っている」感は、「人生のレールがガッチリとはまっていて、先の人生が完全に予想がついてしまった」瞬間にもたらされるのではなかろうか。
読者の中で私と同じ会社員の方がいるならばよくわかると思うが、 会社なんて5年も在籍すれば、将来自分がどれくらいのポジションに収まり、どんな仕事をしているか、など、なんとなく予想がついてくる。
皮肉なことではあるが、先が全く見えなくても、はっきりと見えてしまっても、「人生が余ってしまった」感につながるというのは、興味深い。
ここで俺が考えるのは、またしても有閑マダムのことである。
「有閑」というくらいだから、「余っている」どころの話ではないはずだが、喫茶店で集まって会話をしているところを見る限りでは、引け目に感じている雰囲気など皆無で、実に楽しく毎日を過ごしているように思える。
さらに言えば、「有閑マダム」という呼び方(呼ばれ方)は、むしろ「余らせていること」自体をコンテンツ化するレベルにすら達している。
まあここまで書いて何の解決にもならなかったけど、本を読んだ後にこれを書いていたトータルで3時間程度の人生は余らずに済んだ。