勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

「定年制の廃止」は超やばい

f:id:suzuki1001:20181008180839p:plain

すでに多くの人が言っていることだが、近い将来、定年制がなくなるのではないかという予想がある。

予想というか、そうしないと日本社会が維持できないという意見、提言も見られる。

 

思い返してみれば、これまでさまざまな法律や制度が「こんな法案が成立したら本当にやばい」など、成立前に多くの人に危惧されていた。

しかしそんな声が国会に届くことはなく、いや、届いたのかもしれないが有効な影響力を持つまでには至らず、法案はしれっと成立し、施行されてきた。

さて、その後私たちの生活に大きな問題などあっただろうか?

人によっては、生きづらさを感じたり不満に思うことがあるだろうが、新しい法律の施行によって社会システムが直ちにが破綻したわけではない。

「本当にやばい」と言われてきたものも、そういう意味では「本当にやばい」というほどではなかったのだ。

 

しかし、今回の「定年制廃止」、これはマジで「本当にやばい」。

高度プロフェッショナル制度」とは比べ物にならないくらいやばい。

個人的にはあまり政治的な発言をしたくはないのだが、今回はいままで「この法案はやばい」と言われてきた数々の法案とは比べ物にならないほどやばいと思っていて、その割に「やばいでしょ」の声が少ないと感じたので、書くことにした。

 

 

企業勤めをしたことがある人はわかると思うが、会社員は、くだらない愛想を言ったり、馬鹿な顧客や上司の理不尽な命令に従ったり、お門違いの叱責やクレーム、暴力にも反抗せず我慢したりしなければならない。

長年にわたってそんな苦行に耐えるのは超人的な精神を必要とする。

それを支えるのは、「そうしていれば給料が出る」「出世すれば理不尽をされる側からする側に回れる」「長いとはいっても終わりがある(とわかっている)」からだ。

この3つの条件のうち、どれかひとつでも欠けてしまえば、超人的な精神力をもってしても崩壊は免れない。

 

1つ目と2つ目は当然のことだが、案外、3つ目もとても重要である。

というのも、中に時計があるサウナに入るのと、何もなく時間がわからないサウナに入るのでは、同じ10分間であっても、体感的な時間は全然違うはずで、これは俺に限らず多くの人が実感として持っているのではないだろうか。

ラソンランナーも、42.195kmではなく、「走ってる間にゴールの場所決めます。だいたい40kmくらいかなーと思いますが、その時になってみるまでわかりません」と言われたらよりつらいだろうし、懲役30年よりも「無期懲役と言われていたけど、30年後に『明日出ていいよ』と言われた」人のほうが長く感じるだろう。

ラソンも懲役もやったことないからわからないけど。

 

会社であれば65歳まで、大卒即入社として40年ちょいの期間。

人生の半分弱、そうとう長い時間だが、暗い暗い洞窟の先にうっすら光が見えているからこそ、人はその光を目指して進むことができるのではないか。

 

「定年制廃止」は、そんな会社員のささやかな夢を奪い取り完全にぶち壊す、極めて無慈悲な施策といえよう。

 

どうしても定年制を廃止する以外に、高齢化社会による働き手不足などの諸問題を解決する方法がないというのであれば、実質的には「定年制廃止」と大差ないが、「定年を100歳にします」と言われるほうがまだはるかにマシである。
はるか遠くとはいえ、ゴールが見えているのだから。

 

 

「嫌だったら辞めればいい」と言い放つ人もいる。

しかしわかりきっているように、大半の人は、人が嫌がること、めんどくさいと思っていること、なんでこんなことを俺様がやらなくてはいけないのかお前がやっとけよと思うことを、その人に代わって行うからこそ賃金がもらえるのであって、仕事を辞めて好き放題遊んでいたら瞬く間に無一文になってしまうのは言うまでもない。

「好きなことで生きていく」なんて、よほどの才能か運に恵まれなければ、到底成立しないのだ。

 

 

とはいえ、日本は世界に前例のないほどの超高齢化社会を迎えるし、ただでさえ国際的には競争力が低下している中で、少ない労働力であふれる高齢層を支える構造が破綻するのは明らかで、そうなれば「みんな死ぬまで働くしかないよね」という発想に行き着くのは自然なことだと思う。

 

「死ぬまで働く」

そんな終わりの見えない地獄をやりすごすことができる強靭な忍耐力を持つ人は問題ではないが、俺のような凡人は、定年を迎えられない時代への対策をいち早く取るべきである。

定年のない社会で働くのを辞めるには、残りの人生で必要な金を貯めるか、死ぬしかない。

そして一部の超高所得者以外、莫大な金をつかむ起爆剤は、もはや仮想通過しか残されていないと思う。

 

しかし、これだけあれば十分と思える額の金を貯めることができたとしても、長生きしすぎることに対する恐怖は残る。

「残りの人生でいくら必要なのか」は、その計算が狂えば、晩年は悲惨なことになる。

 

そうするともう、残る答えはひとつしかないように思えてきてしまう。

人生の定年は、自分の手で迎えるしかないのだろうか。