勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

7payが終了した、そこに引き際の美学はあったか

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昔、あるビジネスマン向けの雑誌で読んだ。気がする。
「気がする」と書いたのは記憶が明瞭ではないからであって、内容もうろ覚えだが何の雑誌だったかすら覚えていないが、俺が熱心に読んでいた雑誌は「SPA!」くらいだったから、おそらく「SPA!」だったのだと思う。
 
その内容は
「八百屋を営んでいる家庭の食卓には野菜が並びやすいのと同様に、金融業界ではお金が配られやすい。つまり高給」
といったもので、極めて暴論なのかもしれないが、当時ビジネス感覚が著しく欠如していた俺は、妙に納得してしまった。
これを読んだのが就職前であれば、俺は銀行を目指して就職活動をしていたのだろう。
しかし残念ながらすでに広告代理店で働いて数年たったころで、俺は
「余ったスポット枠もらっても仕方ないやんけ」
などとつぶやくくらいしかできなかった。
 
 
セブン&アイグループが始めたスマホ決済アプリ「7pay」が終了するらしい。
決済サービスは金を扱うサービス、しかも成功すれば極めて多数の人が日常的に使う金銭の流通経路となるため、先ほどの「SPA!」の記事の理論に従えば、食卓にお金が並ぶどころかめちゃめちゃ儲かって笑いが止まらない事業になり得る。
営利を追求する企業として、しかも大手流通という、その覇権を狙えるポジションにある企業として、「7pay」を成功させるモチベーションは尋常ならざるものだったに違いない。
しかしそれにも関わらず、諦めてしまったのだ。
 
「7pay」の決済音は著名音楽クリエイターのヒャダイン氏が開発したらしい。
 
 
サービスを使う側からすれば単なる「決済を確認する音」だろうが、運営者側からすれば懐に入る金がチャリンチャリンと鳴る音にしか聞こえなかっただろうと想像する。
それくらい、決済サービスは儲かるのだ。
SPA!」にはそう書いてあった。
 
だがしかしそれでもなおそうは言っても、彼らは断念したのだ。
「セキュリティ対策がお粗末だったから仕方ないじゃん」
そう言ってしまえばそれまでなのだが、全国で鳴り響くチャリンチャリン音を目の前にしながら、「これ以上傷を広げるわけにはいかない」という思いからの英断には、尊敬の念を禁じえない。
 
 
スポーツ選手の引退会見は名言の宝庫だ。
それは、スポーツ選手が引退を決意する瞬間に、美学があるからである。
「引き際の美学」を感じずにはいられない有名な会見には、千代の富士の「体力の限界…」があるが、スポーツ選手が引退を決意するタイミングとしては
「自身が納得できるプレーができなくなったから辞める」
「プレーする場が得られるまでは限界まで続ける」
の2つの極端に集約されるように思える。
会社員のように「定年」がない彼らには、引き際を自ら決定する必要があり、そこに美学が姿を現す隙間があるのだ。
 
一方、会社員である俺の退職は当然ながら他動的かつ自動的に行われ、美学からは程遠いように思われる。
しかし、それは本当だろうか?
 
 
20代のある日の夏のことだった。
外を歩いていると、突然、視界に入るすべての人それぞれに波乱万丈の人生と、映画のような涙なしでは語れない経験があるんだろうな、という感情が巻き起こり、その情報量の多さに圧倒されてしまったことがあった。
しかし、それから10年ほど経って思ったのは、「あれはただの勘違いだった」ということ。
30年と6年ほど生きた自分の経験では、人生なんて
平日は仕事して終わったら飯食って風呂入ってテレビ見て寝る。
土日は仕事がない日はテレビ見て、部屋掃除して片付けてとかしているうちに夜になって寝る。
これをただひたすら繰り返し続ける、物語にするにはエピソードがあまりにも足りない平坦な人生なのである。
おそらく俺があの日に見た人もほとんどが同じだろう。
 
また、俺が勤める会社の社内報には毎年ある季節になると、定年退職を迎える方々が、「四十何年の会社員生活、いろいろなことがありましたが、会社の皆さんには感謝しかありません」といった140文字程度のメッセージを書かされ、載せられるというイベントがある。
もちろん詳しく書けば140文字では到底収まるものはないのだろうが、かといって特別取りあげるほどの逸話もない。
それは会社の同僚たちで飲みに行けば、話題は上司や取引先の愚痴しかないことからも明らかである。
 
働く部署、昇進や異動、勤務地、定年のタイミングまで、すべて会社が決定、我々はどう思っていようがそれに従う。
それが大半の人の生き様なんだと思う。
 
しかしこの平坦で他動的な人生の中にも、俺はスポーツ選手の引退とはまた違った類の美学を感じずにはいられない。
「子供を大学に入れるためには会社を辞めるわけにはいかない」
「妻から転職を反対された」
「家のローンを返却するためには定職は手放せない」
など、各人が置かれた条件の中で折り合いをつけ渋々下す決断の中には、十分なほど美学は溢れているのではないか。
そう思えば、家庭もなし、何も縛られる条件を持たない俺こそが、最も美学から遠い地点にいることになる。
 
さて、俺はこれからどうやって美学を取り戻せばいいのだろうか。