勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

電車に乗ってもらえていたギフトがコロナウイルスで失われるんじゃないかという心配

ある日のある始発駅、電車の中で座席に座り出発を待っていると、なぜか血まみれの中年女性が乗ってきて何事もなかったかのように向かいに座った。
またそう遠くない別の日、違う駅で電車が到着するのを待っていたところ、あるスーツ姿の男性がいきなり通過電車に向かって走り出し車体にドロップキックをした。
またまた別の電車では、下校途中の高校生マクドナルドで購入したハンバーガー等を肴に、車両の床に座り込んで宴会をしていた。
そしてつい先日、向かいに座っていた初老の女性は、マスクを口と鼻だけでなく目まで被っていた。
 
 
電車という乗り物は、それに乗らなければおそらく生涯において出会うことのない人と、偶発的、運命的に出会う空間である。
会社や学校、マンションの管理組合にクラブ活動などの、社会生活を営む過程で出会う人たちは、住む地域や年収、趣味嗜好などの社会的背景が一部共通している人が大半である。
それは至極当然のことで、同じくらいの収入だから同じランクの住居を選ぶのだし、学校は公立であれば同じ地域、私立であれば目標とする進路を共有するわけだから、いわばそういった人たちとの出会いは、社会的連続性の先にあるといえよう。
他方電車は、たまたま同じタイミングに同じ方面に向かうが、それ以外に共通点がほとんどない人たちどうしが出会うもので、社会的連続性は断絶されている。
つまり「人生を普通に生きていれば出会わないような人に出会える」のが電車、ということである。
毎日電車で通勤する人は、1日2回、1年240日働くとして、1年で480回、30年働けばこうした運命の出会いをする機会を得るのだ。
 
先に書いた話は、俺がこれまで15年くらい電車で通学・通勤する間に出会った、奇跡のような出来事である。
 
 
コロナウイルスの登場は、副産物的に、これまで会社員には不可能だと思われていた在宅勤務を当たり前のものにした。
同時に、これまで在宅勤務が出来なかった理由は「会社に行かなければ業務が執行できないから」ではなく、単に「みんな毎日出社しているから」でしかなかった、という事実を白日の下に晒した。
そして誰も会社にいなくても、社会が、企業がこれまでどおり問題なく運営可能だと判明した今、人類がコロナウイルスを克服した後も、別に出社する必要はないのだから、在宅勤務、リモートワークは続くと思われる。
もちろん出社しないと業務が遂行できないような仕事内容の人もいるだろうし、そういう人はじゃんじゃん出勤してぐるぐる経済を回せばよいが、行かなくて済むものなら会社になんて行きたくないし、出社する人の数が減れば事務所を縮小することもできるから、企業側も社員がバンバン在宅勤務をすることは歓迎のはずだ。
そして出勤する人の数が減れば、電車の混雑も緩和され、通勤ラッシュに巻き込まれて不快な想いをする人もいなくなる。
 
これで三方良し、言い換えればWin-Win-Winってやつで、まったくもってすばらしい世界がやってきたと言えよう。
 
しかし、である。
在宅勤務をすることによって失われるものがある。
それは電車に乗る機会である。
 
 
先に述べた通り、電車という空間は、社会的に非連続な関係にある人と、遭遇できる媒介である。
それが失われると、人は連続性のある相手としか、つまり「会ってしかるべき人」以外とは出会わない、ということになる。
 
東京に在住するようになって20年弱で、電車で奇跡の遭遇、それはもう「ギフト」と呼んでもいいかもしれない、そんな俺の印象に強く残っている人は、冒頭に述べた4人くらいである。
20年ほぼ毎日電車に乗って4人。
そして今後、電車に乗る頻度は激減する。
俺にはもうギフトは訪れないかもしれない。
しかしそれも変化する時代の要請なのだろう。