勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

先日、好きなものがひとつ減った話

駅の構内や改札のそばにあるポップアップストアが好きだ。
 
どういうところが好きなのかって?
何と言っても、そんな場所に店を出しちゃえる自信
まるで後光がさしているかのように、店構えから自信が溢れているように見えるわけです。
後光というと俺がオカルトにハマっているように思われるかもしれないが、実際、過去のある時期にそういったことはあったものの、今は落ち着いているし、ハマっていたとはいっても、その類の本を読み漁ったり、矢追純一の話を聞きに行ったりした、くらいで、心酔しているわけではなく大した問題ではない。
それでも十分ヤバいよ、と言われれば、そうかもしれないが。
 
話を戻そう。
ここで言う「自信」とは何か。
それを説明する前に触れておかなかればならないのが、本来、駅という場所は電車に乗るために行く場所であって、グルメ、美食を楽しむために行く所ではない、ということである。
駅とは、移動の目的に特化した施設だ。
したがってそこに行く我々も、当然、グルメを楽しむ気分など微塵もなく、なんとかして次に来る電車に乗ってやろう、もしくは、電車に乗って目的の移動を達成したろう、という気持ちなのである。
もちろん、電車による移動の目的が「どこぞの美味い料理を出す有名店に行く」といったグルメ関連であれば、話は別である。
そういったケースを除けば、駅に行く者には、グルメを楽しむ気持ち的な準備など、万端どころかまったくない、ゼロである。
そこにポツネンと豆大福の店。
通常の精神であれば、「私は切符を買いに来たのであって、豆大福を求めてはおりません」となる。
 
これが例えば百貨店であれば、客はグルメを楽しむことそのものを目的に来ているわけだから、同じ豆大福の店であっても、「ほう、豆大福か。これはうまそうだからひとつ買って食べてみよう」とも思うかもしれない。
しかし人間はとても情緒的であり相対的な生物であるから、それを食べたいと思っている時に食べる豆大福と、沢尻エリカばりに「別に…」と思っている時に食べる豆大福では、同じ豆大福でも味が全然違うし、豆大福を前にして「食べたい」という気持ちが生まれるか生まれないかをも、存分に影響するのである。
 
「…である」なんて学者気取りで言ってみたけど、実際そうじゃないですか?
昔の作家は「…のでR」とか書いて、ふざけていたよね。
 
つまり、駅に出す店は別に食べたい気持ちが高まっていないからそこで食べても「うまい」とはなりづらく、これを広告業界などでは「ハードルが上がった状態」と呼んだりするが、百貨店や飲食店街などといった、いわゆる食を提供する店舗にとってのホームな環境とは異なる、駅のようなアウェイな環境に店を出しているってことは、よほど自信があるいう証左なのだ。
 
その自信に、私なぞは感銘を受けてしまうのです。
 
 
先日、ある駅の切符売場の手前で、フルーツ大福が販売されているのをみかけた。
 
前述の思考回路によってそのフルーツ大福から後光が指しているように見えた俺は、フルーツ大福の異なる2種類の味を購入、大いなる期待を押さえきれずに、人目を気にすることなくその場で食べた。
 
スカみたいな味がした。
フルーツ大福に入っていたのは、みかんやパイナップルではなく、みかん風味の何かわからないもの、だった。
 
好きなものがひとつ減りました。