「猥褻は、そう思う人の心の中にしかない」
映画「愛のコリーダ」の書籍が猥褻にあたるかを問われた裁判の中で、大島渚監督が残した有名な名言だ。
俺はこれを、「猥褻な物体というものは存在せず、対象を人が認識して猥褻だと翻訳した瞬間に初めてその物体が猥褻とされるのであって、この場合、猥褻なのは物体そのものではなく、そう判断したその人およびメカニズムである」といった風に解釈している
なぜそんな性的嗜好を獲得するに至ったのか、知る由もない。
彼にとっては、ウルトラの母こそがこの世で最も猥褻であり、アダルトビデオよりも真っ先にレンタルビデオ店のピンクの暖簾の先に追いやられて然るべきなのはウルトラマンのビデオだったが、もちろん、実際にそうなることはない。
これが「ウルトラマン」ではなく「(女性の)おっぱい」であればどうか。
おっぱいを見て興奮する男性は多いため、おっぱいが多分に出てくるビデオの多くはアダルトコーナーに追いやられている。
つまり、「おっぱい=猥褻」と世間では認定されている、と言って問題はなさそうだ。
だからおっぱいが出ているビデオは、レンタルビデオ店ではピンクの暖簾の奥に行く。
しかし、おっぱいに興奮しない人も、少数派ではあろうが、確実に存在する。
ウルトラの母に興奮しない人が存在するのと同様に。
おっぱいやウルトラの母といった客体そのものが猥褻性を持つのではなく、見る側が客体に反応する回路こそが猥褻なのだから、猥褻なものとそうでないものを確実に、正確に区切るピンクの暖簾は、存在し得ない。
彼はいまどうしているだろうか。
その貴重な性癖を維持できているだろうか、それとも順当に成長してボンテージフェチなどに落ち着いてしまっただろうか。
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ポニーテールを禁止する校則についての記事が、数日前に話題になっていた。
記事によると、女子生徒が「校則でポニーテールが禁止されているのはなぜか」と尋ねたところ、担任教員からは「男子生徒がうなじに興奮するから」という回答が返ってきたらしい。
これは、ものすごい回答である。
心の中で思っていてもなかなか生徒に向かって口に出して言えるものではない。
しかも答えた担任は女性教員だというからさらに驚く。
彼女が「男子生徒はうなじに興奮する」と言い切る根拠は何なのだろうか。
いくつかのパターンが考えられる。
男子生徒、それも複数人から「ぼくたち、女子生徒のうなじに興奮しちゃって困ってるんですよ。朝礼で起立なんてできたものじゃないですよ」などと相談を受けたのか。
それとも、女性教員自身が生徒のうなじに興奮を禁じえないことに悩んでいたのか。
はたまた、女性教員が、学生時代から自分のうなじによって男性を魅了しまくってきた過去があったのか。
真相はわからない。
しかし確実に言えるのは、この女性教員は「うなじは猥褻である」と解釈しているが、猥褻なのはうなじではなく、そう解釈している女性教員である。
そしてそれは、「校則でポニーテールが禁止されているのはなぜか」と尋ねてきた女性生徒にもバレてしまっただろう。
他にもこの記事には突っ込みポイントが数え切れないほどあって、相当味わい深い。
ちなみに俺的クライマックスは、校則見直しを提案した生徒に対する教員からの、「ここは鹿児島だから」という返答。
閑話休題。
繰り返すが、ポニーテールが猥褻なのではなく、猥褻なのはポニーテールやうなじを見て「猥褻」と翻訳する側の脳内であるといえよう。
したがって、「ポニーテール禁止令」を最初に立案、施行した人も、当然、猥褻である。
しかも、中学生に対して導入していることから、「男子は中学生の時点から、ポニーテールに興奮するものである」と、経験則的に知っていることがわかる。
つまり、「ポニーテール禁止令」の立案者は、かつては相当猥褻な男子生徒だったに違いない。
果たしてどんな生徒だったのだろうか。
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時は戦前、ある旧制中学校に通う男子生徒。
彼には近所に住む幼馴染の女子がいた。
世の中は男女別学、尋常小学校を出てからふたりは別の学校に通学するようになる。
彼女は学校が終わった後は家の商売の手伝いで忙しいらしく、2人が出会う機会はめっきり少なくなっていた。
ある日、久しぶりに会った彼女は、髪形をポニーテールに変えていた。
後ろを振り返った彼女のうなじが見えた瞬間、彼は脳に雷に打たれたかのような官能的衝撃を受ける。
ズボンの中で彼のイチモツは瞬時にギンギンかつバキバキに屹立し、彼は体勢を前かがみに保ちながら平静を装いつつその場を立ち去るのが精一杯だった。
この時から、これまではただの幼馴染だと思っていた彼女への想いが、大きく変化する。
彼は彼女のうなじを舐めたい、それが叶わぬならば近くでその匂いを嗅ぎたい、それすら叶わぬのならば、せめて彼女と同じ学校へ通い、彼女の後ろの席に座ってずっと眺めていたい、いや、それすら叶わぬのならば、もはや女子生徒であれば誰でも良い、と思うようになった。
しかし彼が通う学校は男子のみ、当然、視界に入るうなじはすべて男子のもの、その最低限の望みすら叶わぬ状況だった。
そこから彼はめっちゃ勉強して立身出世、50年後には、その県の教育委員会か何か知らないが、そんな感じの県下の公立学校の校則を決めるような権威ある地位に就任。
そしてこう思う。
「いまの学生はワシらの時代と違って男女共学が当たり前になった。ということは、男子生徒が女子生徒の後ろの席でうなじをガン見することもリアル、現実的ということではないか。うらやましすぎる。けしからん」
幼馴染のあまりにも魅惑的なうなじによって青春時代をあわや狂わされそうになった彼にとって、今の学生が女子生徒のうなじ見放題なのは、それが時代の流れとはいえ、決して許しておくことができなかったのだ。
できることならば、県下のすべての学校を男女別学にしてやりたいくらい。
しかし、いくら立身出世したとはいえそこまでの権力はない、せめてもの俺に実現できることといえば、「うなじを見えないようにする」ことくらいが関の山だろう。
こうして「ポニーテール禁止」の校則は成立した。
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上の例はあくまで俺の想像ではあるが、性癖に限らず、このように、ある特異な価値観を持つ人間が権力を獲得し、それを支配下の者全員に強要するといったケースは多々ある。
これの究極の形が戦争ではないか。
男女別学制と幼馴染のうなじによって性癖を歪められた彼は、その特殊性を「ポニーテール禁止令」によって現代の鹿児島県の学生全体へと拡大再生産していく。
しかし幸いなことに、世の中は更に進歩、人々の考え方は多様化しているし、インターネットによって情報も格段に集めやすくなっている。
自分たちの置かれている偏った環境、特殊性を認識することで、矯正しようとする動きが生まれることに期待したい。