昔から、文字が書いてある服を選ばないようにしている。
胸にでかでかと文言を掲げて外を歩けば、俺がその内容と同じ思想を持ち、声高らかに主張をしているように見られるのではないか、と疑ってしまうからだ。
おそらく、俺の杞憂であろう。
俺がTシャツの文言と全く同じ思想、主張を持っていたとしても、周囲は俺のTシャツの文字などそれほど気にしていないかもしれない。
また仮にTシャツの文言とは異なる思想、主張を持っていても、そもそも、服のメッセージ性とそれを着用する個人の感情に、関連性を見出す人がいったいどれだけいるだろうか。
しかしどちらの場合であっても、やっぱり嫌なものは嫌だ。
前者は、俺は着ているTシャツの文言から思想、主張を読み取られることが気味が悪いし、後者でも、自身の思想、意志からかけ離れたメッセージを身にまとっている状態も、精神が分裂しているようで居心地が悪い。
単に服を意匠したブランドの名が書かれているだけならば、まだましである(それでも、「俺はこのブランドが好きだ」と訴えているように見られるのが嫌だが)。
例えば、さっきすれ違った「I'm going」と書いてあるTシャツを来ていた男性。
見た瞬間に俺の脳内には
「どこに?」
「いや、知らんわ。お前がどこかに向かってるかどうかなんて」
「でも歩いてるんだからそりゃどこかには向かってるんだろうな」
「それともお前は日テレ『Going!Sports&News』関係者か? くりぃむの上田さんか?」
といった数々の感情が去来し、金輪際二度と会うことのないであろうその男の行き先が、一瞬ではあるが気になってしまった。
この高度に情報化された社会において、すれ違うだけの見ず知らずの人がどこに向かおうとして「I'm going」と書いたTシャツを来ているか、という情報は、本当にどうでもいい吐いて捨てるべきものであり、そんな無用の情報によって生まれる感情の動き、割かれる時間も、完全に無駄といえよう。
そして今日は、「サウナ」とだけ書いたTシャツを着て歩いている男性も見かけた。
選んで着用するくらいだから、まず間違いなく、彼はサウナが好きなのだろう。
では、いったいどれくらい好きなんだろうか。
毎週欠かさず訪れるくらいだろうか。
いや、週1回では物足りないかもしれない、なんせ胸に「サウナ」なのだ。
自分で楽しむだけでは飽き足らず、「サウナめっちゃいいからみんなもっと行くべきだ」と、友人知人先輩後輩に布教活動を行っているかもしれない。
それはいい、勝手にやってくれ。
いや、もしかしたら、かつて篠原ともえのファッションを真似た人を「シノラー」と呼んでいたのだから、「サウナー」はサウナ愛好家ではなく、「サウナ」と書いたファッションを身に着けている人のことではないのか。
しかし、この男性とも、今日すれ違えばおそらく二度と会うことのないであろう、一期一会の世界。
それがこの大都会、東京。
東京砂漠。
お前がサウナがどれだけ好きだろうと、俺には一切関係ないし、「サウナ、いいよね。行きたいなあ」とも思わないし、「あ、この人サウナ好きなのかな?最近流行ってるからなあ。流行りだしてから始めたのなら普通だけど、もしはるか前だったら先見の明があるタイプやね」などと俺がすれ違いざまに考えた時間は100%無駄だから返却してほしい。
仮にサウナが好きな人と暮らせたところで、「あなたがいれば、つらくはないわ」とはならないのである。
このように言えば
「いやいや、別に服に書いてあるからってそれがその人の嗜好や主張をそっくりそのまま表しているとは限らんよ、そこのお兄さん」
と反論してくる読者の方もいらっしゃるだろう。
確かに指摘のとおりである。
しかし俺はあえて問いたい。
では貴方は「SEX」と書かれたTシャツを着て往来を歩くか、と。
そんな格好で歩けば、大半の人は貴方のことを、「ああ、この人はSEXのことで頭がいっぱいなんだろうなあ」と考えるだろう。
つまり貴方に対する周囲からの印象は、Tシャツに書かれた文言と無関係でいることはありえないのだ。
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同様に、表紙を露出させた状態で本を読むのも苦手だ。
「伝え方が9割」というタイトルの本を読んでいるところを見られると、「あの人は伝え方が悪くて損をしてきたんだろうなあ」と思われるだろうし、「40代で必ずやっておくべき74のこと」であれば、「40代に入っちゃったけど30代まではぱっとしなかったからこの10年で一発逆転したいと思ってるんだろうなあ」なんていう目で見られるのだ。
読む本はTシャツに書かれた文言よりもはるかに、持ち主の思考を色濃く、正確に反映するから、俺はそんな周囲からの視線には耐えられない。
読んでいる本の内容なんて、見ず知らずの人に知らせるべきものではないのだ。
また同じように、SNSに投稿するのも苦手だ。
何者でもない者がその瞬間に考えたことなど、「1000万人都市」東京ですれ違う人のTシャツの文字並に無用な情報であり、すれ違う人どころか世界中に発信するのに見合う価値のあるものなど、全投稿のうち1000億分の1も存在しないであろう。
「うちの猫がかわいい」だの、「今日という一日に感謝」だの、「このパンケーキおいしい」だの、「月曜日のたわわの広告はけしからん」だの、すべて「I'm going」や「サウナ」と同等なのである。
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ここまで読み進めた方ならばお気づきだろう。
(そもそもそんな人は相当稀有だろう、俺なら途中で辞めているが)
このブログも同類ではないか、と。
その指摘は一見正しいようで、実は誤りだ。
こんなブログ、誰も読んでいないただのチラシの裏の落書きなのだから。