40を過ぎた今でも、時々、人に紹介される時に「この人、東大出なんですよ」と言われることがある。
別に出身大学の話題をしているわけでもないのに、だ。
紹介者には悪気はないのだろうが、それでも当人からすればこれほど屈辱的な紹介もない。
私という人間の代名詞を語るのには、20年前まで遡らねばならない──そう宣言されているのと同じだからだ。
過去にスポットを当てるほど、間の空白がくっきり浮かび上がる。
決してやる気がないわけではなかったが、私にとって、業務での成果や社会での出世という問題は、方程式よりもはるかに複雑で、それなりの結果を出すのは困難だった。
独力で解くことが当たり前の試験とは異なり、仕事は単独でできるものなど無く、人間関係という超絶難問——というか無理ゲー過ぎてもはやクソゲー——が加わってくることも、難易度の高さにつながった。
無論、そもそも代名詞となる偉業が存在しない人が大半なのであるから、「ほめられてるだけいいじゃねか我儘を言うな贅沢を言うな」という意見もあるだろう。
確かにそのとおりかもしれない。
しかしそれでも、40を過ぎた人間を指して「この人、東大出なんですよ」などと言ってはならない。
大学以降の空白をわざわざ可視化するくらいなら、褒めてくれなくていい。
褒め言葉として使うには、殺傷能力が高すぎる。
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「この人、東大出てるんですよ。すごいですよね」と言われた時、私は「でも東大も、出ちゃえばうんこですからね」と返すようにしている。
これは、東大なんて碌でもないところだと言っているのではもちろんなく、「どんな高級食材も、もしくは吉野家の牛丼でも、いったん食べてしまえば出てくるものは同じ」という意味の比喩である。
消化器官と教育機関では位置づけが全く異なるから、この混同はひどく乱暴だとわかっている。
ただ私の大学在学期間は、「消化」という言葉がふさわしいくらい無為だったのは、悲しい事実である。
このまま、何歳まで言われ続けるか、試してみるのはどうだろうか。
もしくは大学の先輩の方々がいらっしゃったら、最後に言われた時の年齢を聞きたいものだ。
もし60歳を過ぎて言われたら、ショックで死んでしまうかもしれない。
東大生の平均寿命が一般と比べて短いのは、これが一因である。