勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

生きる拠り所が「虫歯のないきれいな歯」と「学歴」だった

少し前まで、私が自慢できる数少ない長所といえば、「虫歯がないこと」「学歴」の2つだった。

いや、「自慢できる長所」という言い回しでは、俺のこの2つに対する依存度を正確に表現するにはいささか不十分で、もはや生きる拠り所レゾンデートルと言ったほうが適切かもしれない。

 

10数年前、親知らずを抜いた私は、その場で矯正治療を推奨され、30歳を間近にして歯医者への通院が決まった。

その時抜歯をした歯科医は直後に、

「歯並びはアレですけど、こんなきれいな歯をしている人は見たことがない。虫歯ひとつ無いです。すごいですよ、どんな歯の磨き方をしてるんですか?」

と、俺の歯を激賞した。

ちなみに、特殊な磨き方など一切していないし、それもたった1日1回だ。

大げさすぎる賛辞は、個人で開業している彼なりの営業努力なのだろうが、そうと頭でわかっていても、悪い気はしないものだ。

確かに、いい歳をした大人はだいたい、虫歯の治療の証に銀歯を何本か入れている。

親知らずを抜いたことがきっかけで、俺は自分がここまで良好な歯の状態を維持してきたことを誇らしく思うようになった。

 

また、学歴については、もう少し歴史が古い。

日本では、「学歴」という言葉は、主に卒業した大学名を指す。

俺が20年近くも前に卒業した大学名を言うと、だいたい「まじで?」と驚愕するか、「すごいですね」と感嘆するか、どちらかの反応である。

それくらいには、「東京大学卒」の履歴は「高学歴」と言われるには十分だった。

正治療は順調に進んだが、開始してから2年ほど経って、ある異変があった。

俺が通っていた歯医者では矯正治療には専門医がいたが、その歯科医が「んん?」と何かに気がついたような声を出したかと思えば、突然、別の、俺の抜歯を担当し俺の歯を褒めてくれた歯科医に交代し、いきなり歯をきゅいーんと削る音と、歯のエナメル質を削るあの独特の嫌な感覚がしたのだ。

まさかと思いつつ、一段落したところで何をしていたのか尋ねたところ、「小さな虫歯があったので治療しておきました」と言った。

その歯科医はものすごくさらっと、そしてあっけらかんとその言葉を放ったが、俺にとってはショックがあまりに大きく、椅子からずれ落ちそうになるほどだった。

それもそのはず、「こんな綺麗な歯は見たことがない」と言われていたその歯が、失われてしまったのである。

30歳過ぎにして初めて出来た虫歯は、俺の最大の長所だけでなく、生きるうえでの心の支えが失われてしまったことをダイレクトに意味した。

 

一方の学歴については、その後どのような変化があったかについては、あえて説明するまでもないだろう。

大学名の印籠パワーは、社会に出た瞬間をピークに少しずつ、着実に低下し、30を過ぎたころにはほぼ効力を失っている。

社会人になって10年近くも経てば、とっくにそいつがどれくらい仕事ができるか、評価が十分に固まっていて、どこの大学を出たかなど、どうでもいい情報になっている。

「え?○○大学なの?一緒じゃん」と、大学時代に一度も会ったこともない人との間に謎の親近感を構築するくらいの用途しか残っていない。

そんなことは言われなくても社会生活を送っていれば徐々に感づくものだが、30歳を少し過ぎた時に目にした「社会で学歴が通用するのは30歳まで」というタイトルのネット記事に、見ないようにしていた現実を突きつけられてしまった。

 

こうして俺は31~32歳くらいの間に、自分の誇れるポイントを2つとも失ってしまった。

それから8年ほどが経ち、もうすぐ40歳になるが、これらに代わる物は見つけられていない。

これは、一見すると由々しき事態かもしれない。

しかし、「何かを拠り所にすると、それを失った時に反動が大きいから、そんなものは無いほうがいい」という発見によって、精神が助けられた。

大半の、取り柄などひとつもない人間が、大手を振って歩ける世の中であるべきなのだ。

俺を含めたみんなが、もっと気軽に、「長所?そんなものあるわけねーだろばか」と言えるようになりますように。