勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

文字を書いたTシャツを着ている人の気持ちがわからない

昔から、文字が書いてある服を選ばないようにしている。

胸にでかでかと文言を掲げて外を歩けば、俺がその内容と同じ思想を持ち、声高らかに主張をしているように見られるのではないか、と疑ってしまうからだ。

おそらく、俺の杞憂であろう。

俺がTシャツの文言と全く同じ思想、主張を持っていたとしても、周囲は俺のTシャツの文字などそれほど気にしていないかもしれない。

また仮にTシャツの文言とは異なる思想、主張を持っていても、そもそも、服のメッセージ性とそれを着用する個人の感情に、関連性を見出す人がいったいどれだけいるだろうか。

しかしどちらの場合であっても、やっぱり嫌なものは嫌だ。

前者は、俺は着ているTシャツの文言から思想、主張を読み取られることが気味が悪いし、後者でも、自身の思想、意志からかけ離れたメッセージを身にまとっている状態も、精神が分裂しているようで居心地が悪い。

 

単に服を意匠したブランドの名が書かれているだけならば、まだましである(それでも、「俺はこのブランドが好きだ」と訴えているように見られるのが嫌だが)。

例えば、さっきすれ違った「I'm going」と書いてあるTシャツを来ていた男性。

見た瞬間に俺の脳内には

「どこに?」

「いや、知らんわ。お前がどこかに向かってるかどうかなんて」

「でも歩いてるんだからそりゃどこかには向かってるんだろうな」

「それともお前は日テレ『Going!Sports&News』関係者か? くりぃむの上田さんか?」

といった数々の感情が去来し、金輪際二度と会うことのないであろうその男の行き先が、一瞬ではあるが気になってしまった。

この高度に情報化された社会において、すれ違うだけの見ず知らずの人がどこに向かおうとして「I'm going」と書いたTシャツを来ているか、という情報は、本当にどうでもいい吐いて捨てるべきものであり、そんな無用の情報によって生まれる感情の動き、割かれる時間も、完全に無駄といえよう。

 

そして今日は、「サウナ」とだけ書いたTシャツを着て歩いている男性も見かけた。

選んで着用するくらいだから、まず間違いなく、彼はサウナが好きなのだろう。

では、いったいどれくらい好きなんだろうか。

毎週欠かさず訪れるくらいだろうか。

いや、週1回では物足りないかもしれない、なんせ胸に「サウナ」なのだ。

自分で楽しむだけでは飽き足らず、「サウナめっちゃいいからみんなもっと行くべきだ」と、友人知人先輩後輩に布教活動を行っているかもしれない。

それはいい、勝手にやってくれ。

いや、もしかしたら、かつて篠原ともえのファッションを真似た人を「シノラー」と呼んでいたのだから、「サウナー」はサウナ愛好家ではなく、「サウナ」と書いたファッションを身に着けている人のことではないのか。

しかし、この男性とも、今日すれ違えばおそらく二度と会うことのないであろう、一期一会の世界。

それがこの大都会、東京。

東京砂漠。

お前がサウナがどれだけ好きだろうと、俺には一切関係ないし、「サウナ、いいよね。行きたいなあ」とも思わないし、「あ、この人サウナ好きなのかな?最近流行ってるからなあ。流行りだしてから始めたのなら普通だけど、もしはるか前だったら先見の明があるタイプやね」などと俺がすれ違いざまに考えた時間は100%無駄だから返却してほしい。

仮にサウナが好きな人と暮らせたところで、「あなたがいれば、つらくはないわ」とはならないのである。

 

このように言えば

「いやいや、別に服に書いてあるからってそれがその人の嗜好や主張をそっくりそのまま表しているとは限らんよ、そこのお兄さん」

と反論してくる読者の方もいらっしゃるだろう。

確かに指摘のとおりである。

しかし俺はあえて問いたい。

では貴方は「SEX」と書かれたTシャツを着て往来を歩くか、と。

そんな格好で歩けば、大半の人は貴方のことを、「ああ、この人はSEXのことで頭がいっぱいなんだろうなあ」と考えるだろう。

つまり貴方に対する周囲からの印象は、Tシャツに書かれた文言と無関係でいることはありえないのだ。

 

 

同様に、表紙を露出させた状態で本を読むのも苦手だ。

「伝え方が9割」というタイトルの本を読んでいるところを見られると、「あの人は伝え方が悪くて損をしてきたんだろうなあ」と思われるだろうし、「40代で必ずやっておくべき74のこと」であれば、「40代に入っちゃったけど30代まではぱっとしなかったからこの10年で一発逆転したいと思ってるんだろうなあ」なんていう目で見られるのだ。

 

読む本はTシャツに書かれた文言よりもはるかに、持ち主の思考を色濃く、正確に反映するから、俺はそんな周囲からの視線には耐えられない。

読んでいる本の内容なんて、見ず知らずの人に知らせるべきものではないのだ。

 

また同じように、SNSに投稿するのも苦手だ。

何者でもない者がその瞬間に考えたことなど、「1000万人都市」東京ですれ違う人のTシャツの文字並に無用な情報であり、すれ違う人どころか世界中に発信するのに見合う価値のあるものなど、全投稿のうち1000億分の1も存在しないであろう。

「うちの猫がかわいい」だの、「今日という一日に感謝」だの、「このパンケーキおいしい」だの、「月曜日のたわわの広告はけしからん」だの、すべて「I'm going」や「サウナ」と同等なのである。

 

 

ここまで読み進めた方ならばお気づきだろう。

(そもそもそんな人は相当稀有だろう、俺なら途中で辞めているが)

このブログも同類ではないか、と。

その指摘は一見正しいようで、実は誤りだ。

こんなブログ、誰も読んでいないただのチラシの裏の落書きなのだから。

記憶力を維持するサプリがミイラ取りになる話

近頃の医学の進歩は目覚ましい。

今さら言うようなことではないが、先日、改めてそう感じる出来事があった。

 

ドラッグストア内を歩いていると、ある商品が目に留まった。

 

「記憶力を維持する」

 

でかでかとそう書かれたパッケージに、俺は驚いた。

内臓や血液に働きかけるものはまだ納得できるが、脳に作用するサプリまでもう造られているのか。

 

しかも

「維持したい」

とか

「維持できるかも」

などではなく、

「維持する」

そう断言しているのだ。

 

脳への作用、しかも断言するほどの自信。

医学の進歩は素晴らしいが、馴染みがない脳への作用は、少し恐ろしくもある。

 

それでも物忘れが激しすぎることが最近の悩みである俺は、迷わず商品を手に取ってレジへと向かった。

 

指定された分量の1日4錠を服用し続けること10日ほど経過したが、まだ実感するほどの効果はない。

そして、さらに1週間ほど経ったある日、俺はふと気が付いた。

 

「あ、最近サプリ飲み忘れてる」

 

 

俺はこういう話を聞くとついニンマリしてしまう。

 

ここでいう「こういう話」とは、例えば、ビートたけし氏の「テレビでの発言をネットニュースにするな」っていうテレビでの発言がネットニュースになったことや

www.nikkansports.com

 

コロナウイルスのことを世界で最も考えているはずのWHO本部でコロナウイルスクラスターが発生してしまったというニュース

www.yomiuri.co.jp

 

インドネシアで実際にあった、不貞行為をむち打ち刑相当とする厳格な法律の整備を進めた組織のメンバーが不倫現場を摘発され、公開むち打ち刑に処された出来事

www.cnn.co.jp

 

このような記事や出来事に接する度に、俺は

「こういう不条理って好きだなあ」

「もっとこんな話をたくさん聞きたい」

「こんな出来事に何か名前があればいいのになあ」

と思うのだ。

 

「何かいい呼び名はないか」そう考えていたら、すでにあった。

「ミイラ取りがミイラになる」が最も意味が近い諺だろう。

 

しかし「ミイラ取り」とは何だ。

あるあるとしてはRG以上にトリッキーすぎて共感できない。

「記憶力を維持するサプリを飲み忘れる」

これのほうがまだわかる。

 

こんな例を知っている方がいればぜひ教えてもらいたい。

エコカアサウケセクイソキスシオ クシキオエケセアウスカコソイサ

これはドラクエのかの有名な復活の呪文、ではない。

では何なのかというと、俺の高校の同級生以外、知る由もない。

いや、同級生であっても、知っているのはそのうちのごく少数であろう。

 

 

高校に進学して数ヶ月くらいが経ったある日、国語の先生から百人一首のテストを行う」と発表された。

内容は明かされず、「百首すべてを記憶していれば満点が獲れる」との予告。

真面目な生徒であれば、テストの期日までにできる限り覚える努力をするのだろうが、俺はそれを行わなかった。

あまりにも理不尽すぎて、がんばってどうにかなるものだと思えなかったからだ。

「1週間練習して、150km/hの球を投げてください」と言われても、「先生、お狂いですか?」という感想しか出てこないだろう、それと同じである。

きのうの晩に何を食べたかすらもう忘れているのに、31文字×100首=3100文字もの大量の文字、しかも意味がわかるものならまだ取っ掛かりもあるが、呪文のような意味不明な文字記号すべてを暗記するなんて、常軌を逸している。

 

ところで当時の国語の担当の先生は、なぜか竹刀を片手に授業を行っていた。

不思議である。

傍線Aと書いた筆者の気持ちを答えるのに、明らかに竹刀は不要だ。

ではいったいどういう用途なのか。

それは主に授業中におしゃべりをしている生徒をしばくことに用いられていた。

そしてテストの後には、成績が著しく悪かった生徒をしばくことにも用いられていた。

令和の今ならアウトだろうが、平成が始まってまだそれほど経っていなかった当時では、よく見られる光景だったのかもしれない。

 

俺は、無理難題に挑戦する無駄な抵抗を避け、あの竹刀でしばかれることを選択した。

どうせみんなしばかれるだろうし。

 

 

テスト当日。

俺が所属していたA組は、その日の国語の授業があるのはD組に続いて2番目だった。

これはもしかしたら超幸運、僥倖かもしれない。

すなわち、D組の誰かから終わったテストの問題用紙を入手し、次のコマまでの10分間に模範解答を作成、暗記すれば、満点には至らずともそこそこの及第点を獲得、ひいては竹刀でしばかれることも回避できる。

 

問題用紙を見て、俺はにわかに色めき立った。

問題の形式が俺にとって理想に近いものだったからである。

上の句が15首分、その下に同じ数の下の句があってそれぞれにア~ソの記号が割り振られていて、上の句と下の句の組み合わせとして正しいものを記号で回答する。

この大問が2問。

3100文字を暗記しなければならないテストが、たった30文字に減ったのだ。

100首のテストなのに、1首分の文字で済むではないか、なんということでしょう。

これが例えば、「この上の句に続く下の句を書きなさい」などといった問題であれば、いかに事前に問題を把握していたとしてもテストが始まるまでに答えを覚えることは現実的ではなく、即座に0点が確定していたところだった。

もちろんD組とA組で問題が異なる可能性もあったが、俺は使いまわしの希望にかけ、残りの5分間、ひたすら唱え続けた。

 

エコカアサウケセクイソキスシオ クシキオエケセアウスカコソイサ

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………

 

「5分間だけ覚えていられればいいや」

そう思っていたこの無意味な文字列を、20年以上経った今でも記憶しているのだから、不思議なものである。

 

 

先日、仕事で週1回ほど訪れる新橋を歩いていると、ついこの間まで別の店だったような気がするところに立ち食い寿司の店があって、初めて見たしどんなもんか試してみたろ、と、入店した。

寿司に限らず立ち食いの店は、客は長い時間を立っていたくないから回転率が高いだろうし、接客サービスの質を落としてその分の人件費を原価にかけているだろうことから推測して食材のクオリティが高い感じがなんとなくするから、価格の割に美味そうに思えて好きである。

 

ところで、寿司職人という人たちは、総じてあるものすごい能力を持っている。

それは寿司を握る技術のことではなく、いや、それはもちろんだが、俺がここで言及するのは彼らの記憶力だ。

 

例えば俺が「えー、小鰭と芽ネギと穴子」と注文して、直後に隣の客が、「私は漬けまぐろと赤貝と昆布締めの鯛を」と言って、またその隣の客が「じゃあ僕は〆鯖と鰹と玉子」と立て続けに発しても、職人はもう一度聞き返すことなく、ちゃんと依頼されたネタを握る。

しかもメモを取ることもせず。

これは驚異的なことである。

いったいどんな修業をすれば、このような資質が備わるのだろうか。

 

しかし、この立ち食い寿司の職人さんは、俺の注文を握っている途中で必ず忘れ、聞き返してくる。

覚えられないのならメモすればいいじゃん。

俺はそう思うが、この「メモに頼らない」姿勢も、きっと修業で身についた姿勢なのだろう。

トロたくを食べながら、「エコカアサウケセ…」と、俺はつぶやいた。

 

ポニーテール禁止の校則と戦争について

「猥褻は、そう思う人の心の中にしかない」

映画「愛のコリーダ」の書籍が猥褻にあたるかを問われた裁判で、大島渚監督が残した名言だ。

 

これを俺は、「猥褻な物体というものは存在せず、対象を人が認識して猥褻だと翻訳した瞬間に初めてその物体が猥褻とされるのであって、この場合、猥褻なのは物体そのものではなく、そう判断したメカニズムおよびその人である」といった風に解釈している。

そういった考えを持つようになったきっかけは、性の意識が芽生えはじめる小学生のころにさかのぼる。

同級生の中にウルトラの母に興奮するやつがいた。

なぜそんな性的嗜好を獲得したのかはわからない。

彼にとっては、ウルトラの母こそがこの世で最も猥褻であり、アダルトビデオよりも真っ先にレンタルビデオ店のピンクの暖簾の先に追いやられて然るべきなのはウルトラマンのビデオだったが、では世間一般的に「ウルトラマン=猥褻」と認定されるかというと決してそんなことはなく、なぜならその嗜好性は一般には共有されることのないものであるからだ。

ではこれが「ウルトラマン」ではなく「おっぱい」であればどうか。

おっぱいを見て興奮する男性は多いだろうが、ではそれをもって「おっぱい=猥褻」と認定してしまってよいのだろうか。

よいとするなら、「猥褻」は多数決によって決められる概念ということになる。

しかし、本当にそれが正しいのだろうか。

 

そして、彼はいまどうしているだろうか。

その貴重な性癖を維持できているだろうか、それとも順当に成長してボンテージフェチなどに落ち着いてしまっただろうか。

ポニーテールを禁止する校則についての記事が、数日前に話題になっていた。

373news.com

記事によると、女子生徒が「校則でポニーテールが禁止されているのはなぜか」と尋ねたところ、担任教員からは「男子生徒がうなじに興奮するから」という回答が返ってきたらしい。

これはものすごい回答である。

心の中で思っていてもなかなか生徒に向かって口に出して言えるものではない。

しかも答えた担任は女性教員だというからさらに驚く。

彼女が「男子生徒はうなじに興奮する」と言い切る根拠は何なのだろうか。

男子生徒から「ぼくたち、女子生徒のうなじに興奮しちゃって困ってるんですよ。朝礼で起立なんてできたものじゃないですよ」などと相談を受けたのか。

それとも、女性教員自身が女性生徒のうなじに興奮を禁じえないことに悩んでいたのか。

はたまた、女性教員が、学生時代から自分のうなじによって男性を魅了しまくってきた過去があったのか。

真相はわからないが、この一文だけでも想像を掻き立てる余白が十分にある。

 

他にもこの記事には突っ込みポイントが数え切れないほどあって、相当味わい深い。

ちなみに俺的クライマックスは、校則見直しを提案した生徒に対する教員からの、「ここは鹿児島だから」という返答

鹿児島だから何だというのだろう。
麻雀漫画の傑作「凍牌」の「俺が堂嶋だ」以上の破壊力がある。

 

閑話休題

先の解釈によれば、ポニーテールが猥褻なのではなく、猥褻なのはポニーテールやうなじを見て「猥褻」と翻訳する男子生徒の頭の中であるといえよう。

したがって、「ポニーテール禁止令」が作られるきっかけとなった、猥褻な思考回路を持った男子生徒がかつて存在したはずだ、と俺は推測する。

果たしてどんな生徒だったのだろうか。

時は戦前、ある旧制中学校に通う男子生徒。

彼には近所に住む幼馴染の女子がいた。

世の中は男女別学、尋常小学校を出てからふたりは別の学校に通学するようになり、また学校が終わった後は家の商売の手伝いで忙しいらしく、会う機会は少なくなった。

ある日久しぶりに会った彼女は、髪形をポニーテールに変えていた。

そのうなじを見た瞬間、彼は脳に雷に打たれたかのような官能的衝撃を受ける。

ズボンの中で彼のイチモツは瞬時にギンギンかつバキバキに屹立し、彼は体勢を前かがみに保ちながらその場を立ち去るのが精一杯だったに違いない。

これまではただの幼馴染だと思っていた彼女への想いが、この瞬間を以て大きく変化する。

彼は彼女のうなじを舐めたい、それが叶わぬならば近くでその匂いを嗅ぎたい、それすら叶わぬのならば、せめて彼女と同じ学校へ通い、彼女の後ろの席に座ってずっと眺めていたい、と思うようになった。

しかし彼女が通う学校は男子禁制、その最低限の望みすら叶わぬ状況だった。

 

そこから彼はめっちゃ勉強して立身出世、50年後には、その県の教育委員会か何か知らないが、そんな感じの県下の公立学校の校則を決めるような権威ある地位に就任。

そしてこう思う。

 

「いまの学生はワシらの時代と違って男女共学が当たり前になった。ということは、男子生徒が女子生徒の後ろの席でうなじをガン見することもリアル、現実的ということではないか。うらやましすぎる。けしからん」

 

幼馴染のあまりにも魅惑的なうなじによって青春時代をあわや狂わされそうになった彼にとって、今の学生が女子生徒のうなじ見放題なのは、それが時代の流れとはいえ、決して許しておくことができなかったのだ。

できることならば、県下のすべての学校を男女別学にしてやりたいくらい。

しかしそこまでの権力はない、せめてもの俺に実現できることといえば、「うなじを見えないようにする」ことくらいが関の山だろう。

こうして「ポニーテール禁止」の校則は成立した。

上の例はあくまで俺の想像ではあるが、性癖に限らず、このように、ある特異な価値観を持つ人間が権力を獲得し、それを支配下の者全員に強要するといったケースは多々ある。

これの究極の形が戦争ではないか。

男女別学制と幼馴染のうなじによって性癖を歪められた彼は、その特殊性を「ポニーテール禁止令」によって現代の鹿児島県の学生全体へと拡大再生産していく。

 

しかし幸いなことに、世の中は更に進歩し、グローバルに、そしてインターネットもある。

自分たちの置かれている偏った環境、特殊性を認識することで、矯正しようとする動きが生まれることに期待したい。

無計画な生き方に一瞬憧れたけどすぐやっぱねぇなって思った話

「ご利用は計画的に」

この言葉、1日に何回テレビから聞いているだろうか。

 

我々現代人は、ことあるごとに計画的であることを求められる。

ビジネスでは納期をしくじらないようにきちんと計画を立てなければならないのはもちろんだが、恋愛においても、デートで集合してから「じゃあこれからどこ行こうか」なんて言っている男はダメで、ある程度その日のデートコースを計画している男のほうが、女性からは高く評価されるらしい。

さらに、近ごろは頻繁に「先の読めない時代」と言われる。

だからこそ、計画性の重要さは以前にも増して高まっている。

たとえいま安定した収入源を持っていても、すぐさまそれが頓挫することも十分に考えられる。

毎日テレビCMに諭されるように、金を使うのも貯めるのにも、計画性が求められるのだ。

 

計画的になるのは社会に出てからでよいかと問われればそういうわけでもなく、我々は残念ながら子供の時からすでに「計画性の奴隷」である。

親からは「塾に通いなさい」などと言われるし、学校では別に教師に相談したいと思ってもいない「進路相談」を自動的、強制的にさせられる。

まだ先のことなんて何もわからないうちから、周囲に期待されている将来像を見据え、計画的に進路選択を行い、やりたくもない勉強やつらい練習に耐えなければならないのだ。

 

現代人は、計画性から逃れることはできない。

 

その反動もあって、我々は衝動的な欲求にかられることも多々ある。

しかしもちろん、無計画、無軌道な生き方は破滅につながることは、頭では重々承知している。

だから大半の人はせいぜい週1日から2日の休日の間に、社会的に許される、引き返せる程度の無計画を堪能し、また計画性で充満した社会生活に戻っていくのである。

淡い憧れを抱き、後ろ髪を引かれながらも。

 

 

4年ほど前のこと。

おれはある部下に、「明日、これで菓子の詰め合わせを買っておいて」と、手持ちの1万円を手渡して依頼をした。

2日後に控える取引先との面会に持参するためだ。

 

その部下は「わかりました!」と、こころよく引き受けてくれた。

少々頭が悪いのは難点ではあるが、元気があって朗らかなのは素晴らしい。

 

翌日、夕方になってもその部下は俺に菓子の詰め合わせを持ってこない。

確認したかったが、あまり細かいことまでいちいち口出し、管理されるのは部下にとってもうっとうしいだろう。

マイクロマネジメントは良くないって言うし。

しかし面会は明日の朝、もし買い忘れなどしていたら困る。

閉店時間も迫っていたので、俺は尋ねた。

「きのうお願いした菓子って買ってくれた?」

 

するとそいつはしばらく躊躇した後、ものすごくばつが悪そうに、「すみません」とだけ言葉を発した。

 

そうか、忘れていたのか。

俺はやさしい上司だから、「よく忘れるんだからメモぐらい取っておけよ」という苛ついた感情を露にはしない。

まだ閉店までは1時間弱、今から迎えば十分に間に合う。

こんなこともあろうかと、間に合うタイミングで確認したのだ。

なぜなら、計画性の男だから。

俺は部下が忘れたことを一切責めることなく、「ああそっか。じゃあ今から行くのかな?悪いけどよろしく」と、改めて頼んだ。

 

しかし、返ってきたのは俺の予想を遥かに上回る言葉だった。

 

「すみません…、使っちゃいました」

 

は??

使ったってどういうこと?

 

詳しく聞いたところでは、そいつはその時ひどく金欠で、何日にもわたって1日1食にしたり水を飲んで空腹を紛らわせるなどして食事を最低限に抑えていたらしい。

そんな時に突然転がり込んできた1万円という大金、つい我慢ができず友人と飲みに行ってしまったという。

 

少し考えれば、いや、一切考えなくてもわかることだが、その1万円は翌日に確実に必要になる金なのだ。

それをあたかも臨時収入かの如く散財。

恐るべき無計画。

 

俺が今まで聞いた中で、圧倒的1位の無計画だ。

と思っていたら、この“無計画バッケンレコードは即座に塗り替えられた。

目の前にいるこのレコードホルダーによって。

 

 

「わかった、その1万円は貸してやる。その代わり、もっと詳しく聞かせろ」

日々要求される計画性に疲れ果て、無計画に対する憧れがあった俺は、このホームラン級の無計画話に興味津々だった。

 

「そもそもお前、いまいくら持ってるの?」

「…きのうは友達におごったので、そのお釣りの2000円くらいです」

「え!?ってことは、その前はほぼ一文無しだったってこと?」

「…はい」

「え!?!?でも給料日までまだあと10日以上あるよね?どうするつもりなの?」

「…この残りの2000円でなんとか…」

「え!?!?!?2000円で10日しのげる?っていうか俺がきのうお菓子買ってきてって頼んで1万円を渡さなかったらどうするつもりだったの?」

「…その時はその時に考えようって思ってました」

「いやいや!きのうがその時だよ!っていうかきのうでもない、もっとだいぶ前にあったよその時!だいぶ通り過ぎちゃっってるよ!」

「…そ、そうですね」

「っていうかなに当たり前のようにその2000円を生活費の足しにしてるの!?まあ『貸してやる』って言ったからもういいけど。それに、そんな状況でよく友達におごったな!」

「…はい…つい」

 

さっき自分出したバッケンレコードを、2度目のジャンプであっさり更新。

葛西なんて目じゃないレジェンドがここにいた。

 

そして、「やっぱ計画的でいいや」と、無計画への憧れが消え去った瞬間だった。

とにかくバンバン内容証明を送りたい

子供のころ、「内容証明」に憧れていた。

 

なぜかって?

だってカッコいいじゃん、「内容証明」って。

何なのかよくわからないけど、なんとなく。

 

俺がこの言葉を初めて知ったのは、おそらくあるドラマからだったとうっすら記憶している。

ドラマの内容は覚えていないが、悪さをしているやつに対して弁護士が電話で

「それでは、お宅に内容証明をお送りします」

の決め台詞。

そしてうろたえる、悪さをしているやつ。

 

相手に何が届けられて何がどうなるのかはよくわからないが、悪さをしているやつのうろたえっぷりから

「うわ!こいつ詰んだ…社会的に死んだ」

って感じがして、内容証明「この紋所が目に入らぬか」とか「お前はもう、死んでいる」のような最後通牒感を見出した俺は、いつかは不届者に内容証明を送って勧善懲悪、世直しをするような大人になりたいと夢見ていた。

 

 

それから歳を重ね、そんなドラマのことも忘れ去っていたある日、俺は弁護士ではなく広告マンになっていた。

弁護士なんて、所詮「内容証明」への憧れぐらいでは、そうそうなれるものではない。

 

それはさておき、これだけ長く生きていると、それなりの揉め事も経験する。

数年前、俺はあるトラブルに巻き込まれた。

と言っても俺に非は一切なく、10:0の事故に巻き込まれたようなもので、「訴えたらまあ勝てるんだろうなこれ」と思いながらも、その先の手続きの煩わしさを考えると、そこまでやるほど被害を受けたわけでもないし、スルーして終わらせる方針で、俺の脳内の多数決はまとまりつつあった。

「スルー法案」が可決しそうになっていた時、ある知人が、このトラブルをSNS上で見て心配し、連絡をくれた。

「なんであんなことになってるんですか?」

「知らん。俺が聞きたいくらい」

「で、どうするんですか?」

「もう放っとこかなって思ってる」

「え!?あんなひどい目に遭ったのにいいんですか?」

「まあもうめんどくさいし」

「相手が勤務する会社宛に内容証明を送ってみたらどうですか?」

 

知人からの提案で思い出した。

そうだ、そういえばかつて俺は「内容証明」に憧れていたのだった。

たしかに、送るタイミングとしては最適である。

俺は遅れてきた青春を取り戻すかのように、それを実行しようと思った。

 

しかしふと思い返すと、俺は送り方を知らないし、そもそも内容証明が何なのかすら知らなかった。

そんな状態でよく送ろうなんて思ったものだな。

すぐさまスマートフォンで「内容証明」を検索したところ、驚愕の事実を知ることとなった。

 

一般書留郵便物の内容文書について証明するサービスです。
いつ、いかなる内容の文書を誰から誰あてに差し出されたかということを、差出人が作成した謄本によって当社が証明する制度です。

内容証明 | 日本郵便株式会社

 

なんそれ!!!!

 

家で独り、ZAZYばりにそう叫んだ。

 

内容証明は、その名が示す通り単なる「内容に対する証明、お墨付き」でしかなかったのだ。

切り札でもなんでもない。

子供のころの俺が憧れていたあの「伝家の宝刀」感は、ただの幻だったのだ。

こうして俺の最後の切り札は消え去り、俺はトラブルへの対処方法を失ってしまった。

 

と、同時に、内容証明がいとも気軽に送れるものであることも知った。

用紙の指定など制限はあるが、書留郵便に1枚あたり440円の加算料金を追加で支払えば、その時点で内容証明になるらしい。

これから送る手紙とか全部、内容証明にしてみようかな。

これは歓迎すべき…新たな格差の誕生

ちょっと前に話題になったが、「飲みニケーションの支持率が急激に低下した」ことを示す調査結果が発表された。

 

www.nikkei.com

 

そして記事のもとになっている調査がこれ。

https://www.nissay.co.jp/news/2021/pdf/20211117.pdf

 

「職場の方との”飲みニケーション”は必要だと思いますか?」

という問いに対して、「必要」もしくは「どちらかといえば必要」と答えたのが38.2%、これは昨年比でマイナス16.1%だったらしい。

 

おれは新卒で入社した会社で7年くらい営業をやっていたが、心の底から接待というものを嫌悪していたこともあって、そのときによくやっていた妄想で、

「もしも、自分が選挙に出馬するとしたら、何を公約にするか」

という問いに対して

「あらゆる接待の禁止」

を掲げていたくらいであった。

そのような俺からすれば、この低下傾向は喜ばしいことではあるものの、遅すぎるというか、昨年までは「必要」「どちらかといえば必要」派が過半数を超えていたこと自体が意味不明、理解不能である。

 

ただここにはひとつ難しい点があって、いかに「職場内の飲みニケーション」であっても、飲んでいて楽しい相手とは俺も飲みたいと思う。

しかし職場である特性上、嫌な相手と飲みにいくことを強制されるケースもあって、そのストレスたるや尋常ではなく、従って一律に接待を禁止するしかない。

いわば「接待禁止法案」「肉を切らせて骨を断つ」作戦である。

 

それはさておき、「必要」派の考えがまったくわからないから、「必要だと思う理由」を見てみる。

 

1位 本音を聞ける・距離を縮められるから 57.6%
2位 情報収集を行えるから 38.5%
3位 ストレス発散になるから 33.6%
4位 悩み(仕事)を相談できるから 29.2%
5位 人脈を広げられるから 29.2%
6位 悩み(プライベート)を相談できるから 12.8%
7位 お酒が好きだから 12.5%
8位 色々なお店に行けるから 9.5%

 

ここで僭越ながら私が反対派の意見を代表すると

 

本音を聞ける・距離を縮められる

→素面で本音を話せない相手となど飲みたくない

 

情報収集を行える

→本でも読めば?

 

ストレス発散になる

→お前が発散したストレスが俺に溜まるんですが

 

悩み(仕事)を相談できる

→悩みを聞こうと思える相手なら素面でも聞くし、そう思えない相手など酒を飲んでいても聞きたくはない

 

人脈を広げられる

→「いっしょに酒を飲んだ」など人脈でも何でもないし、「人脈」という言葉で利用されたくない

 

悩み(プライベート)を相談できる

→悩み(仕事)以上に興味がない

 

お酒が好き

→勝手に独りで飲め

 

色々なお店に行ける

→勝手に独りで行け

 

ということで、個人的にはあまり好きな行為ではないが、完全に論破してしまった。

 

だいたい「人間は社会的動物であるから普段はある程度本性を隠すために鎧を着ているが、酒はその鎧を剥がして人間の本性を表す効果がある」などとよく言われるが、これが真理だとすれば、糞な人間は酒を飲むことでよりその糞性を辛うじて隠していた、遮断していたものが取っ払われてより糞化するのであって、普段から嫌な相手はより嫌になるだけなのである。

つまり良い性格をした者はよりいい本性を、悪い性格をした者はより悪い本性を顕在化するのが酒というものであり、人はみな良い性格の者と接近して悪い性格の者は避けたいと思うに違いないから、「職場での強制的飲みニケーション」がなくなった世界では、良い性格の者に「今度飲みに行きましょう」の声が集中して、そうでない者には一切声がかからないことになる。

ここに新たな格差が誕生するが、これは格差にしては珍しく、歓迎すべきものであると思う。

 

ということで、これを読んだ私の知人の方、「今度飲みに行きましょう」。