昨今、クラフトビールのブームが到来している。
これによって、国内、海外のもの含めて、これまで見たこともないような数多の種類のビールを手に入れられるようになった。
これまで日本の4大メーカーのものしか口にしたことがなかった俺も、興味本位で様々なビールに手を出しているのだが、中でも最近はHAZY IPAという種類のビールを好んで飲用している。
その魅力は何か、と問われれば、俺は
「ビールといえばその苦さから敬遠している人も多いのではないでしょうか。しかしこのHAZY IPAは、やや控えめな苦さの中にもフルーティーな芳ばしさが漂い、苦さがアクセントとなってそれを際立たせるのです。このギャップは、これまでのビールには存在しなかったと思います」
と答えるだろう。
と、ここまで書いて、思い出した。
人間とはとかくギャップが好きな生き物らしい。
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例を挙げるのは、枚挙に暇がないから簡単である。
同等水準の善良さであっても、以前からずっと同じ善良レベルだった人よりも、元々は不良だったところから更生した人のほうが評価される傾向がある、みたいな話はよく聞くし、見るからに真面目そうな雰囲気で実際にも真面目な男性よりも、見た目は少し悪そう、やんちゃそうだけど根は優しい男性のほうが、女性からは好意的に見られることが多いらしい。
同じくらいの賢さでも、普段から賢い感じを出している人よりも、普段は見るからに馬鹿でもここぞという時に賢さを発揮する人の方が、「なんかあの人って賢いよね」という印象をもたれやすい、なんていう話もどこかで聞いたことがある、気がする。
実に不可解なことである。
なぜ若い頃から道を外さずにずっと品行方正、謹厳実直にやってきた者よりも、かつて品性下劣、悪逆無道だった者の方が評価されるのか。
子供の頃の俺が受けた「悪事を働かず清廉潔白に生きなさい」という親および教師の指導は、いまとなって考えると誤りであって、望むべくは、「成人したらちゃんとすればいいから、それまではなるべく悪いことをたくさんやっておいたほうがいいよ。更生してからむしろ評価があがるから。もちろん、法に触れない範囲でね」くらいの助言をするべきだったのではないだろうか。
社会でこれほどまでギャップが持て囃されているとは、子供はもちろん知る由もない。
そういった本当に役立つ知識や技術を教えることこそが、血の通った教育と言えるのではないだろうか。
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やはり、兎に角ギャップである。俺もこれを身に着けなければ、うだつは上がらぬまま、出世は覚束ない。しかし雀の魂百まで、今更、人間の本質を変容させることなど不可能である。ということは、ギャップを獲得するには、表層的なガワの部分を変えるしかない。
つまりそれは、「演じる」に他ならない。
「クズそうに見えて、実は優しい」
これは優しくない俺には不可能だから
「優しそうに見えて、実はクズ」
と表裏を逆にするのがよさそうだ。
クズを演じる方が比較的容易である。
「ちょっと悪そうに見えて、実は誠実」
これは「ちょっと悪そう」とギャップがあるほど俺は誠実でもないから、ギャップを大きくするためには
「いかにも詐欺師っぽい、5分もしゃべったら何の効力もない壺とかを買わされそうになるが、実はそれほどでもない」
くらい大げさにしなければならない。
「インドア派に見えて、実はアウトドア派」
これも、俺は全くアウトドア活動など興味が無く、アウトドア派を演じるのは非常に煩わしいので、逆にする戦法がよさそうだ。
「キャンプじフットサルにサバゲーにゴルフにサーフィン、何でもやりそう。休日は必ずアウトドア派に見えて、実はどれも一切しない。休日は起きるのは夕方」
よし、これでかなり出世が近づいたはずである。