勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

森香澄はトランスエイジなのか問題

「師匠が走る」と書いて「師走」。

「師匠が走り出すほど忙しい時期」が由来だが、今年の師走は、師匠クラスが走って逃げ出したくなるほどの超弩級のスキャンダルが、芸能界、政界、スポーツ界に経済界、様々な業界で飛び出した。

その質と量にすっかり圧倒されてしまったが、少し前に、ある炎上があったのを、皆さんは覚えているだろうか。

炎上の発生源は、元テレビ東京アナウンサーでタレントの森香澄である。

 

 

28歳という年齢に対して「大人のような。子どものような。」の表現が、「28歳なんて大人も大人、子ども要素なんて一切ないだろうが」といった批判を浴びたことで炎上した、とされている。

 

もっとも、ネット上における炎上なんて、「実際は大したことのないボヤのようなものが、記事という『燃料』を投下されることによって本物の火事になり、それをまたニュースサイトがネタにする」という、記事ネタがほしい一部のニュースサイトによって自作自演的に大量生産されているものであり、Xの投稿へのリプを見る限り、今回もその例に漏れないような気もするが、これについて論じ始めると長くなってしまうので、別の機会としたい。

 

さて、炎上のきっかけとなった「28歳という大人のような、子どものような」の表現だが、森個人がズレているとか、非難する側が言い過ぎとか、そういう問題ではなく、最近話題の「トランスエイジ」思想の発露と解釈するのが自然であろう。

「トランスエイジ」についてはかつてこのブログでも触れたことがあるが、自分の年齢に違和感を持ち、実年齢とは異なる年齢を自己認識する人のことである。

身体的性別と性自認が異なる「トランスジェンダー」も、最近話題となることが多いが、これと「トランスエイジ」が異なるのは、「トランスジェンダー」が「多様性」として尊重されるべきという考え方が一般的になっているのに対し、「トランスエイジ」は単なる「年齢に応じた責任から逃れようとする甘えた考え方でしかない」という批判が大勢となっている点だ。

 

しかし、私はそうは考えない。

それは、日本においては特に、「年齢相応」に重きを置きすぎているのではないか、という問題意識から由来している。

「40歳になって結婚していない男はやばい」とか「40歳になれば何も仕事をしてなくてもこれくらいの給料にはなる」とか「いい歳していつまでそんなこと続けてるのあんたは」とか、年齢による制約が、人々の幸福度を低減しているだけではなく、「超有能なのに年功序列だから出世できない」などといった形で社会のイノベーションを阻害しているように思う。

従って、私は「トランスエイジ」を、非難するべきものどころか、一種の発明ですらある、と述べた。

suzuki1001.hatenablog.com

 

しかしこれが「発明」として実際に機能するには、ひとつの必要条件がある。

その条件とは、実年齢と異なる自己認識年齢を主張して、それに応じた対応を周囲にも求める人は、「心の底からその年齢認識を持っている」もしくはそこまではいかなくても、少なくとも「実年齢に違和感を持っている」ことだ。

言い換えると、「何らかの利益にあずかるために、わざと」そういう主張をしていないことが求められる。

 

これはまあ言ってみれば至極当然のことであって、これをやった瞬間に、「トランスエイジ」的発想は、「世界を救うかもしれない斬新なアイデアから「単なる嘘」に転落する。

35歳の女が合コンで、「若く言っておいたほうがモテる」と狡猾な思惑で22歳です」と言って、それが後になってバレたら、激しく責められるに違いない。

 

 

さて、森の話題に戻る。

私が着目したのは、森は「あざとさ」を売りにしている点だ。

つまり、28歳という実年齢に違和感を抱いているわけではなく、「子どものような」と書くことで、「かわいらしい」と好感を持つ人が一定数存在する、もしくは、炎上して注目されれば写真集の宣伝になることを承知の上でやっている可能性が高い。

これは「トランスエイジ」が受容される前提条件である約束事を唾棄する行為だ。

この炎上によって、世界に「トランスエイジ」的考え方が当たり前になるまでの時間を示す「トランスエイジ時計」は、また少し巻き戻されてしまったように思う。