勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

向田邦子のエッセイと脳のHDD化について

ここ最近、向田邦子のエッセイを読んでいる。
超一流の脚本家の作品だから読み物として面白いことは言うまでもないのだが、その上、当時の文化的な面での文献としてもとても興味深いものになっていて、というのは、彼女が語っているエピソードにはふんだんに、今の時代では女性差別として大炎上してもおかしくはない職場内の会話や、彼女が育った1930年代ころなら父親の「威厳」、現代なら100%「虐待認定・DV認定」されるに違いない妻や子供に対する男尊女卑的言動などから、「今だったら考えられないけど当時はこれが常識だったんだなぁ。時代もうつろったなあ」と、ここ数十年にあった考え方の変化を感じ取ることもできるのだ。
 
しかしそれ以上に俺が衝撃を受けたのは、彼女が幼少期のことを「え?きのうの話ですか?」ってくらいに鮮明に記憶し、事細かに描写している点だ。
 
例えば、
子供の頃、玄関先で父に叱られたことがあった。
保険会社の地方支店長をしていた父は、宴会の帰りなのか、夜更けにはほろ酔い機嫌で客を連れて帰ることがあった。母は客のコートを預かったり座敷に案内して挨拶をしたりで忙しいので、靴を揃えるのは、小学生のころから長女の私の役目であった。
それから台所へ走り、酒の燗をする湯をわかし、人数分の膳を出して箸置きと盃を整える。再び玄関にもどり、客の靴の泥を落とし、雨の日なら靴に新聞紙を丸めたのを詰めて湿気をとっておくのである。
あれはたしか雪の晩であった。
お膳の用意は母がするから、といわれて、私は玄関で履物の始末をしていた。
七、八人の客の靴には雪がついていたし、玄関のガラス戸の向こうは雪あかりでボオッと白く見えた。

(中略)

「お父さん。お客さまは何人ですか」
いきなり「馬鹿」とどなられた。

また別のページには。

「お前はボールとウエハスで大きくなったんだよ」
祖母と母はよくこういっていたが、たしかに私の一番古いお八つの記憶はボールである。
あれは宇都宮の軍道のそばの家だであった。五歳くらいの私は、臙脂色の銘仙の着物で、むき出しの小さなこたつやぐらを押している。その上に黒っぽい刳り拔きの菓子皿があり、中にひとならべの黄色いボールが入っている。私はそれを一粒ずつ食べながら、二階の小さな窓から、向かいの女学校の校庭を眺めていた。白い運動服の女学生がお遊戯をしているのがみえた。

とある。

 
5歳のころのことを、これほどの解像度で記憶しているのである。
俺には、書きたくても到底書けない。
10歳より前のことは、8歳からの2年間で住んでいた社宅の目の前一面が田んぼだったことを除いて一切何も覚えてはいないし、それ以降もぼんやりとしか覚えてない。
通っていた小学校の名前すら思い出せない、毎日のように遊んでいた(と聞かされた)幼馴染の名前も、聞いても「へーそうなんだ」としか返せないくらいである。
 
 
あまりにも記憶がないので、10歳までがどんな様子だったのかに興味があり、母親に尋ねてみたことがあった。
すると、母親から出てきたのは、思いもよらぬ言葉だった。
 
「勉強、運動、習い事、何事にも負けず嫌いで、全力で取り組んでいた」
「すべてに対して一生懸命で自慢の息子だった」
 
思わず「え?誰の話してるの?」って尋ねてしまいそうになった。
それくらい、今の俺とは正反対である。
しかし少なくとも30年ほど前、小学校低学年くらいまでは、俺はそんな子供だったらしく、今のようにあらゆる方面で怠惰で、嫌なことや辛いことがあれば酒を飲んで忘れることしかできないような人間ではなかったようだ。
まあ酒は飲めないけど。
一体どこで、何をきっかけに変わってしまったのだろうか。
 
今や人生100年時代」である。
今日が0歳の誕生日だと思って再スタートすれば、俺だけ「人生60年」にはなってしまうが、短縮されてしまうことは大した問題ではない。
それよりも自慢の息子像を取り戻すことの方がはるかに大切である。
 
ということで、今日から立派な人間になることにしました。
と思ったが、今日はあまりにも眠いので、明日からにしました。
 
 
それにしても、記憶力の無さには自分でも愕然としている。
早いこと脳にHDDを差し込んで記憶をデータとして外部保存できるように技術が発達してほしい。