18歳のときに上京してから、37の現在に至るまでに8回引っ越しをした。
東京で最初に住んだ国分寺を含めると、東京で9箇所に住んだことになる。
国分寺から大学までは電車で40分もかかる距離で、中央線での電車移動の大変さを知った今では国分寺を選ぶことはないが、当時は東京の電車事情を知らずその移動の大変さを過小評価していたからこその失敗だった。
借りたアパートは私営の学生寮で、どこの大学の学生だろうが関係なく、安い家賃で住むことができたし三度の食事まで用意されていた。
しかしそんなことも物件を決めるまでは知らず、住み始めてから初めて知ったことだった。
周りは全員大学生なのにも関わらず近所付き合いなど一切ないし食堂での会話も全くない、つまらない学生寮だったが、一人暮らしをしたいとずっと思っていた俺にとっては、それでもとても快適な環境であった。
印象的だったのは、何度「新聞は要りません」と言ってもしつこく勧誘して来て、しまいには、いつまでたっても俺を加入させられない罰を上司から受けたのだろうか、目の上に青タンを作ってきた新聞勧誘の人が何度も俺の家を訪問してきたことだった。
この初めて住んだ学生寮を含めて、俺は一度も契約を更新したことがなかった。
現在の日本の賃貸住宅事情では2年ごとの契約更新が一般的であり、つまり、俺は同じ家に2年以上住み続けたことがなかったことになる。
別に必ずしも住んでいた家に不満があったわけではなかったのだが、だいたいどの家も3ヶ月も住んでいれば慣れてくるし、その「慣れ」が「飽き」に変わってくるのにも、2年という時間は十分すぎる長さであった。
ところが2020年になって俺は、このままでは初めて更新契約をすることになる。
いまの家には十分に「慣れ」、そして「飽き」ているにも関わらず、である。
それはこのコロナ禍において引っ越しが容易ではないことも要因のひとつではあるが、それ以上に大きいのは、「引っ越しが面倒である」という感情だ。
無論これまでも引っ越しは面倒であった。
やったことがある人は理解してくれるだろうが、あれはものすごく大変な作業である。
何回やっても、毎回うんざりするほどだ。
その大変さに屈してしまった俺は、過去に引越し業者に多大なる迷惑をかけてきた。
24歳のある日には、引っ越し前日の夜から荷造りをしようとしていたのだが、友人から麻雀に誘われ、「今日は引っ越しの準備があるから電車で帰るよ」と言っていたにも関わらず、負けが混みだすと自分から延長を切り出し、結局、当日の朝まで麻雀をした結果、引越し業者が家に到着したにも関わらずダンボール一箱たりとも荷造りができていなかった、なんということもあった。
そこまで苦労しても、2年おきの転居を欠かしたことはなかった。
しかし今回は、引っ越しをせず契約を更新。
「人は自分自身のことが一番わからないものだ」とよく言われるが、それでも精一杯の自己分析によれば、「飽き」から来る不快さを引っ越しの面倒さが上回ってしまったということであろう。
ここに俺は自分の加齢とそれに伴う衰えを感じずにはいられない。
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現代は「寿命」ではなく「健康寿命の時代」だと言われる。
これはどういうことか。
つまり、医療の発達で人間の平均寿命がどんどん延長されている。
しかしせっかく引き延ばされた寿命も、病院のベッドで寝ている時間が長くなるだけでは意味がない。
健康に過ごす寿命を獲得しよう、という考え方であり、数字上の加齢は止められぬがそれでも精神および肉体的な老いには抗おう、という発想である。
俺もこの意見に賛同する者の一人ではあるが、たったいま衰えを感じてしまったところでもある。
どうすればよいのだろうか。
答えを導くことは簡単である。
引っ越しをしなかったことが衰えにつながっているわけであるから、衰えを止めようと思うのならば無理矢理にでも引っ越しをすればいいだけの話である。
最近はアンチエイジングのために引越し情報サイトばかりを見ている。
あの江戸川乱歩は、生涯で46回も引っ越しをしたらしい。だからこそあれほどにまで多彩な名作を生み出すことができ、晩年にも数々の新しい才能を発掘することができたのであろう。
あれほどの才能を持ってさらにその上に46回の転居という凄まじい努力。
俺も見習ってもっと頻繁に引っ越さなければならない。
乱歩が46回なら、俺は100回か。