勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

今回の東京オリンピックで起きた不祥事の大半は「狭いサービス精神」が起こしたものだと思う

今日で閉会式を迎えるが、連日東京オリンピック関連の話題で持ちきりだ。
誰々がメダルを取ったとか、日本が獲得したメダルが何個目になったとか、そんな内容のニュースが多いが、それと同じくらいに多いのが、不祥事についての話題である。
 
オリンピックごとに不祥事の数など数えたことがある人などおそらくいないだろうが、今回多くの人がこう感じているのではないか。
今回のオリンピックは、不祥事が多すぎる、と。
 
大会エンブレムの盗作問題は、当時、世間を激震の渦に巻き込んだが、もはや「ああそんなこともあったな」と思うくらい、大会直前からトラブルが相次いでいる。
森喜朗は立て続けの女性蔑視発言で組織委会長を辞任、佐々木宏氏は開会式の演出で渡辺直美をブタに見立てた演出案を出していたことがわかって辞任したし(しかもその後に天皇陛下に○✕クイズを出す案も出していたことを、追い文春砲される)、小山田圭吾が過去のいじめ問題が明らかになって辞任すれば、これを契機に、ラーメンズ小林賢太郎竹中直人、絵本作家ののぶみ氏が立て続けに過去の不適切言動で解任もしくは辞任、それでもなんとか開会式を終えてやっと安心、あとは閉会式まで滞りなくできればいいよね、って感じで不祥事確変モードも落ち着いたかと思いきや、今度は名古屋市長の河村たかしが表敬訪問に訪れた選手の金メダルを噛んで現在進行系で大炎上。
まさに「呪われた五輪」と呼ばれるにふさわしいほど、新しいトラブルのニュースがない日を見つけることが難しい。
 
なぜこれほどまで多発するのだろうか。
上に挙げた全員とも馬鹿、阿呆なのだろうか。
いや、そんなわけはなく、皆が皆、日本を代表する役割、ポジションを与えられていて、そこに至るまでには抜きん出た成果を出してきたからこそ選ばれたわけで、当然、もれなく非凡な人たちである。
ならば、自滅行為によって五輪をぶち壊してやろうというテロリズムかましているのか。
仮にその通りであればその試みは大いに成功しているといえようが、無論そんなわけはなく、名声ある人たちの意図的な行動とは考えられない。
 
などと考えているうちに、俺はある恐ろしい事に気がついてしまった。
みんな、良かれと思ってやったことで失敗しているのである。
 
考えてみれば、成功者というのはみんな、サービス精神が旺盛である。
だからこそ突出した成果を挙げることができるのだ。
しかしそのサービス精神が、ひとたびよろしくない形で発出すると、不祥事に姿を変えてしまう。
 
森喜朗氏の女性蔑視発言に限らずすべての政治家の失言は、「俺のウイットで関係者や記者をいっちょ笑かせてやろ、これも一興」と意気込んで発せられたものだろうし、小山田圭吾氏だって雑誌のインタビューに「これくらいの大ネタをかましてやったら編集も喜ぶやろ」とサービス精神を存分に発揮して臨んだ結果だろう。
小林賢太郎氏だって、ユダヤ人を卑下することが目的だったわけでなく、純粋に、ネタを見てくれる人を笑わせようとしていただろうし、佐々木宏氏だって渡辺直美に恥を欠かせようとしていたわけではなく、観客を喜ばせようとして考えた演出案だったに違いない。
河村たかし氏だって、金色のものを噛めば記者が喜んでくれるだろうと思ってメダルを噛んでいる、過去には金のしゃちほこを噛んでいたようだし。
 
きっと、みんな悪気がないのである。
この問題が根深いのは、ここに理由がある。
 
つまり、悪気があっての行いであれば、「うわーやっぱ悪いことしたら世間から叩かれるし社会的に死んでしまうわーやめとこ」と、踏みとどまることができる。
しかし良かれと思ってやることは、「良いことをすれば人に喜ばれるからバンバンやらな」となるため、抑止力が効かないというか、抑止する理由がそもそもないので、「善は急げ」の精神で、思いついたら即行動してしまうのだ。
したがって、トラブルが絶えない。
 
では我々はどうすればよいのか。
誤った「善は急げ」精神がトラブルを量産するのを指を加えて見ているしかないのだろうか。
 
非常に難しい問題ではあるが、ひとつこういった行為で人生を棒に振る人を減らすひとつの心がけとして、「より大きな世界での『良かれと思って』を追い求める」ことが有効なのではないか、と思う。
 
「より大きな世界」とは何か。
それはサービス精神が及ぶ範囲、喜ばせようとする人のゾーンの広さのことを指している。
森喜朗氏が喜ばせようとしたのは、近い思想を持った(と森氏本人が思っているだけだが)政治家や政治記者
小林賢太郎氏はネタを観に来たファン、小山田圭吾氏は雑誌の担当編集者。
佐々木宏氏は開会式を観る人、という意味では範囲はめちゃめちゃ広いようにも思えるが、観客の半分が女性であることを忘れているようにしか思えないし、男性であってもこれを面白いと思えない人の多さに目が届いていない。
河村たかし氏も同様である。
しかも河村氏はその後の謝罪会見で「あの時は非常にフレンドリーな感じだった」と語っていたが、フレンドリーだったのは河村氏とその取り巻きだけであり、謝罪するに至った今でも直接対面していた表敬訪問した選手のことには考えが及んでいないことが、この発言からも伺える。
このように、不祥事を起こしてしまった人たちは揃って、サービス精神の対象が狭く限定されているのだ。
 
もし仮に彼らのサービス精神の対象が「地球にいる人みんな」だったとしたら、こんな行動、発言をすることはなかったに違いない。
大半の人は喜ぶどころか不快になるのだから、サービスの効果は総量としてはマイナスになる。
合理的に踏みとどまることができるのだ。
 
当然これは極端な仮定で実現は不可能だ。
しかし、サービス精神を完全に封印することはできない。
それでは健全な社会生活を送ることが難しいからだ。
どうせサービス精神を持つのならば、可能な限りその対象範囲を広くしようと心がけることが、「良かれと思ってやった、言ったことで人生を棒に振る」確率を少しでも減らすことにつながるのではないかと思う。