正月という時期は、人を、普段ではやらないようなことをやってしまうような、少し浮足立たせる雰囲気を纏っているように感じる。
先日、テレビで映画「ライオン・キング」を観た。
近々、新作「ライオン・キング ムファサ」が上映開始されるためその前フリでの放送らしい。
「ライオン・キング」を大西ライオンの存在を通じてしか認知していない私のような人間の嗜好からすると普段ならまず観ることのない類の作品だが、正月の浮かれ気分とは恐ろしいもので、気がつけば最後まで観てしまった。
ストーリーはカタルシスがあり、さすが名作なだけあって面白かった。
展開もさることながら映像もとても美しい。
いったいどうやって作っているんだろうか、と思うくらいすごい。
だがその一方で、設定や動物たちが発するセリフ(動物たちがセリフを発していること自体も含めてその内容にも)に、原作者が抱く人間の動物に対する嫉妬心のようなものを感じてしまい、「なぜ動物の社会を舞台にしてしまったのか」と、少し悲しい気持ちになってしまった部分もある。
もしかすると人間という存在、もしくは人間が他の動物と一線を画すエッセンスである人間性は、限界が近づいているのかもしれない。
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今さら敢えて指摘する必要もないが、「ライオン・キング」はファンタジーである。
それゆえに事実とは異なる要素や脚色が多数ある。
あり過ぎて挙げるとキリがないが、最も根本にあるのは、動物が本能的な存在ではなく理性を持っている存在として描かれていること、そして人間と同じような社会を形成していること。
この2点を認識した上で、「現実にはありえないファンタジー」とみなすことに異論をはさむ人はいないであろう。
ここからはネタバレなので、まだ観ていない、これから観る、という方は、この記事を読まないでください。
ネタバレって言っても5年前の作品だけど。
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父であり王であるムファサから、王としての生き方を叩き込まれながら育つライオンのシンバ。
しかし、野心的な叔父のスカーは王位を狙い、ムファサを策略で死に追いやってしまう。
スカーはシンバに責任を押し付け、王国から追放。
荒野をさまようシンバは、ミーアキャットのティモンとイノシシのプンバァに出会い、今度は彼らから「ハクナ・マタタ(心配ないさ)」の精神を学ぶ。
「ハクナ・マタタ」は過去の悩みや未来の不安から解放され、ただ現在を楽しく生きればいいじゃんという思想だが、これはムファサから学んだ「恐れや困難から逃げるのではなく、立ち向かう勇気を持つことが王として重要だ」という教えと相反する。
シンバは葛藤しながらも、最終的には「ハクナ・マタタ」の方を採択し、楽しく暮らしていく。
そんな中、シンバは幼なじみのナラと奇跡的に再会する。
彼女は王国がスカーの支配で荒廃している現状を伝え、シンバに帰還を求めるが、シンバは「俺は『ハクナ・マタタ』の精神を取り入れたので、故郷がどうなっているかなど知らん」とこれを拒否。
続けて「ここめっちゃ楽しいからもう故郷とか放っておいて一緒に暮らそうよ」とも持ちかける。
これを聞いたナラは「あなたは変わってしまったわ」と失望する。
ナラとの対話を通じて、シンバは自分が過去から逃げ続けていることに気づき、父ムファサの霊とも出会い「お前は王だ」と声をかけられたことなどから、シンバは過去と向き合い王としての使命を果たす決意を固め、スカーをぶち殺す。
サバンナじゅうの動物はシンバによる統治を求め、シンバは王に就任、サバンナには平和が訪れましたとさ。
これが「ライオン・キング」のざっくりあらすじである。
観ていて私がもっとも驚いたのは、「ハクナ・マタタ」の精神をナラが秒速で完全否定した瞬間である。
「ハクナ・マタタ」とは「心配ないさ」という意味を持ち、「過去の悩みや後悔からの解放」「いまこの瞬間を楽しく生きる」「心配な事はとにかく忘れる」といったことを提唱している。
これは、度が過ぎてしまうと、あまりに楽観的すぎ、自由奔放で無軌道な生き方を提唱する無責任な思想である、とも捉えられかねないものの、過度なストレス社会とされている現代では、一定の支持は得ている人生哲学であるといえよう。
一定の支持を得ているどころか、「金を稼がなきゃ」とか「同期より出世が遅れていてやばい」とか「仕事を変えたいけど見つからないから仕方ないけど本当は嫌だなあ」とか「頭髪が薄くなってきたなあ」などといった、あらゆる「嫌な現実」を無視することができるのならば、「俺だって『ハクナ・マタタ』で生きたいよ」と心の奥底で思っている人は、実はかなり多いのではないだろうか。
そうでなければ、10年前の問題作CM「好きなことで、生きていく」が、賛否両論こそあれどあれほどまでに大きな反響を得ることはなかったはずだ。
従って、「あなたには失望しました」と下衆を見るような目でシンバを見下してすぐさま背を向けたナラには、ちょっとびっくりしたというか、自分にはない価値観を受け入れる度量が欠如しているのではないか、と感じたのだ。
ここで冷静になって思い出したいのは、この登場人物はすべて動物である、という点だ。
本能のみで生きている動物は、過去を後悔したり先のことを心配することなどもちろんなく、ただこの瞬間にやるべきことを本能の指示に従って行動している。
つまり、他人(他動物)から教わったりするまでもなく、生まれながらにして「ハクナ・マタタ」を地で行っているのだ。
その動物たちに、「ハクナ・マタタなんだ!」とか「そんなことを言っている場合ではない」とか「失望した」などというセリフを発せさせてしまう作者の胸の内には、どういった感情があったのだろうか。
「ライオン・キング」は作品を通じて、「リーダーシップと責任感」「過去と向き合うことの大切さ」を伝えていると評価されているが、実は作者の内心はその反対ではなかったか。
ある見地に立てば、「ハクナ・マタタ」のほうが、優れた思想であるに決まっている。
つまり、果たさなければならない責任や後悔してしまう過去、向き合わなければならない心配事が無く、ただ今この瞬間を楽しく生きられる状態のほうが良いに違いないのだ。
社会性でがんじがらめになった人間にはそれはできないが、動物たちはいとも自然に体現している。
なのになぜ俺はこんなにも苦悩しなければならないのだ。
うらやましい。
動物に対する屈折した嫉妬心が、動物に「ハクナ・マタタ」を否定させるという変態的筋書きに姿を変えて露出したのではないか。
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驚いたもう1点は、スカーの恐怖による劣悪な支配から逃れることができた動物たちが、シンバによる統治を望んだことである。
自然に考えれば、権力による支配は、支配される側からすれば心地よいものではない。
本能が壊れた人間が、個々が勝手な行動を取って無法地帯になってしまうのを回避するためにやむなく発明したのが社会性および権力による統治なのであって、こんなものがなくてもやっていけるのであれば、無いに越したことはないのである。
この点においても、人間は動物に劣っている。
すべての動物が王の就任を喜んで受け入れた箇所は、人間の動物に対する羨望が鬱屈した形で表現されており、芸術性が高い。