勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

日本の希望

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残念なことだが、日本の将来はお先真っ暗だと思う。
日々様々な誌面を飾る、「日本はもう終わり」の文字。
 
日本を代表する大企業がバンバン破産・倒産したり買収されるし、まあ運良くそうはなっていないところも、中国や韓国などの企業にしゅんしゅん抜かれているらしい。
かつてないほどに広がる貧富の差、特に地方経済は崩壊の一途らしいし、街を歩けば爺や婆ばかりでそれらを支える若い世代は減少、働く人がずんずんと減っており、近い将来には老人を介護する人が足りなくなってしまうらしい。
世界を一変させるような新しい技術やサービスは、日本の外からばかり発生し、日本はもはや”技術大国”の地位から滑り落ちてしまったらしい。
日本の大学はアホというか行ってもあんまり意味がないから、留学生はあまり日本に来たがらないらしい。
「働き方改革」なんて言われているがそれで休日が増えたり残業が減ったりする気配は全く見えず朝から晩まで月曜から日曜まで仕事だし、こんなことが問題になっているのは日本くらいであって、日本以外の国では企業と労働者の関係はもっとビジネスライクというか、労働者側が「契約に書いてないからそんな仕事はやらん俺は」と、平然と上司に言ったりすることができるらしい。
選挙の投票率はずいずい低下、国民はもはや政治どころか生活、人生に失望しており、毎年ものすごい数の人が自殺しているらしい。
コンビニの冷蔵庫や飲食店の食器乾燥機に入り込むなど、一般常識やマナーを著しく欠いた行為をわざわざソーシャルネットで公開して楽しむ奴が続出しているらしいし、週刊誌には毎週のようにしょうもないスキャンダルな話題が取り上げられてる。
 
こうしてみればたしかに、悲観的な状況ばかりが目立つ。
しかし、本当に日本にはもう絶望しか存在しないのだろうか。
希望の光は完全に消えてしまったのだろうか。
 
 
否。
いや少なくとも俺は、否、と考える。
その根拠はこれである。
 

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LINEで新しく送ることができるようになった、もこもこした字。
別にLINEが好きなわけでは全くないが、もこもこした字でメッセージをやり取りすることができるだけで、どんなえげつない事件があっても悲惨な目にあっても、精神がほっこりするのではないだろうか。
 

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麻雀から自分の人格のカス化を知る

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今回は麻雀を知らない人にはわけのわからない文章かもしれないが、最近、裏ドラが乗らない。
裏ドラというのは、リーチをかけてあがった人が享受できるボーナスのようなもので、あがった後ドラ表示牌の下に置かれている牌をめくり、それが示す牌が自分の手の中にあれば、枚数に応じて点数が増える、ほぼ運100%の要素だ。
(「本当に運100%かどうか」には異論がある人もいるだろうが、その点についてはまた別の機会に書きたい)
 
記録が残っているわけではないが、俺は2~3年前までは、一緒に麻雀をした多くの人から「とにかく裏ドラがよく乗る人」という評価を受けていた。
事実、「俺だけ優遇されているのではないか」と錯覚してしまうほどよくそれが乗る会もあったし、そうでなくても裏ドラに助けられることが多かった印象がある。
しかし不思議なことに、2016年に入ったあたりから、ぱたっと乗らなくなった。
まるで「人生の裏ドラ」を使い切ってしまったかのように。
いや、これまでバンバン乗っていたことの方がはるかに不思議なことなのかもしれないが、重要なのは、乗らなくなったことで俺が得られる点数が下がることだ。
 
俺は本当に人生の裏ドラを使い切ってしまったのだろうか。
俺というダムには、裏ドラは残っているのだろうか。
麻雀は無条件で最高に楽しい遊戯だが、裏ドラがバンバンとは言わなくてもそれなりに乗るほうが楽しさは増すだろうから、裏ドラを取り戻す方法はないものか、と思う。
 
伝説の雀鬼桜井章一によると、人の一生における「運の量」は決まっていないらしい。
つまり、自分の運を増やすこともできれば、減らしてしまうこともある、というのだ。
そして、運を引き寄せるには、何事にも誠実に丁寧に対応することが重要で、そうしているうちに自然に運の流れが来るらしい。
俺は今、それができていないのだ。
さらに桜井の本を読むと、「運の流れなど30分程度で変わることもある」らしく、2年も裏ドラが乗らない流れにある俺は、「流れ」などの一言では片づけられない根本に問題があるなんてことなのだろうか。
 
どうやら俺は2016年近辺を境目に、人格がクズおよびカス化してしまっているらしく、つらい。
今風に言うと、つらたん。
でも麻雀がしたい。

最近ブログさぼりがちだったので、がんばって書きます。

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この手の宣言があまり好きではない。
 
というのも、「週に1本書いてアップすること」などの契約でもない限り、ブログ執筆は義務ではなく、したがって「さぼる」という概念も当てはまらない。
では何のために「がんばって」書くのか。
ブログの公開を楽しみに待っている人に向けて?
そんな人などいるのか?
実存するかもしれないが、自分から”そんな人がいるものとして”「がんばって書きます」と宣言するのは、過剰な自意識の発露ではないのか?
 
 
地上に立っている人には、大気から2000kgほどの圧力を受けているという。
その力がなければ我々は内部からの圧力に皮膚が耐えきれず破裂してしまうそうであり、つまり人間に限らず生物が生きていくには、何らかの、それもかなり強い圧力が必要なのである。
 
何らかの力を「ブログを継続して書く理由」としてみずから解釈しなければ、ブログはすぐに止まってしまう。
幸いなことに今の日本は経済的に豊かなので、「生きる理由」を自分の中で開発することなく、初期設定として持つ最低限のエネルギーを保ち、エネルギー保存則に従って生き続けることはそれほど難しいことではないだろうが、それとは異なる生き方を目指そうとするならば、それに適した圧力が必要となってくる。
そしてそれは、だいたい自分で設定もしくは発見もしくは開発もしくはでっち上げなければならない。
他人のそれを面倒見てくれるような親切な人などいないのだ。
 
どういった圧力を自らに課すことが適切だろうか。

俺も昔はかわいい子供だったと判明した

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俺は物を覚える能力が低い。
名刺交換をした1分後にはその人の名前を忘れているし、今日の昼に何を食べたかなどは当然覚えていない。
それどころか、俺には10歳より前の記憶がほとんどない。
 
テレビでお笑い芸人が幼少期のエピソードを披露して笑いをとっていたり、何かの本で著者が「現在の価値観は幼少期のころに構築されて、それがあっていま大成功を収めています」といった話を書いているのを読んだりすると、小さい頃の記憶が失われていることを口惜しく感じていた。
 
昔の記憶を取り戻すにはどうすればいいのか。
写真や映像、文章など、当時の様子がわかるものを見返せばいいのではないか。
そう考えた俺は、前回の年に1度の帰省の際、親に幼少期の写真をもらうようにリクエストした。
 
パソコンとか機会が苦手だったはずの両親は、最低限の知識を最大限活かして写真をデータ化しており、スムーズにデータを受け取ることができた。
これには、ちょっとじわっときた。
写真は0歳のころから12歳くらいのころまでのもので、200枚ほど。
そもそおこの歳まで自分の昔の写真を見たことがないのもおかしな話だが、それ以上にはるかにおかしな話だったのが、200枚の写真を見てもなお、一切の記憶がよみがえらないことである。
おそらくすべての記憶が残っている人であれば、200枚の写真をすべて見るには相当の時間がかかるはずだが、俺は常に「これいつだろうわからん」「これ何の時?わからん」「この横にいる子だれだろう?知らんけど」といった感じなので、すぐに見終わってしまった。
 
ただ写真集からひとつわかったことが、どうやら俺は10歳を迎える前くらいまでは、明るく無邪気でかわいい子供だったようだ。
それはもう、今のような仕上がりが想定できないくらいに。
であれば、10歳くらいのころに人格形成に影響を与える何かしらの出来事があったのだろうと考えるのが自然だ。
しかしそれが何だったのかがわからない。
親に聞くのも気恥ずかしいし、たぶん親もそれが何かわからないだろうし、もはや迷宮入りである。
謎を解明しようとしてした行為が、逆に謎を深める結果となった。
俺に限らずどんな人でも、たとえどんなクズであっても人でなしであっても、子供のころは無垢だったはずで、今その人がクズであり人でなしなのは何らかの外部要因に起因するものだろうから、その人自体を恨んだり憎んだりしてはいけないのだ。

承認欲求および自己実現について

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こんな世の中にとって一切無意味かつ無価値なブログを読んで人生の時間を無駄にしている人たちは知らないかもしれないが、有名な心理学の理論で「マズロー欲求5段階説」というものがある。
 
カンタンにいうと
人間の欲求には、
「生理的欲求
「安全・安定の欲求
「社会的欲求
「承認欲求
の5段階があり、低次の欲求が満たされていくと、高次の欲求が湧いてくる
という内容である。
 
この理論が様々なところで言及、応用され、現代に至るまで通用していることに、さすが昔のえらい人は卓越した洞察と分析をしとるなぁ、と感嘆、その爪の垢を煎じて飲ませてほしいと思う一方で、偉人といえどやはり人の子、完璧であることなどあり得ないとも知るのである。
 
なぜか。
マズローは人間の大きな欲求を、ひとつ見落としているからにほかならない。
 
では、マズローが見落としている欲求とは何か。
それは、チンポジである。
 
女性の方にはわからないだろうし、わかる術もない、わかりたくもないだろうが、男性にとってチンポジは非常にセンシティブかつナイーブな問題である。
 
「ん、チンポジが悪いな今」と思ってもすぐに修正できる場面であれば問題ないが、そうでもない状況、例えば衆人環視のシチュエーションなどでは、悪いポジショニングのまま過ごさなければならず、これは相当に集中力を削がれることなのだ。
 
会議の内容などちっとも頭に入ってこないから、突如意見を求められたときに、これまでの話の経緯がわからず素っ頓狂な回答を連発、仕事ができないボンクラというレッテルを貼られて解雇、なんてことになったら一大事だし、デートの会話も全然覚えていられないから、彼女から「私の話、聞いてないでしょ!」と愛想を尽かされてしまっては大変だ。
 
チンポジが整っていないと、「社会的欲求」など満たされるはずもないのである。
 
 
と、ここまで書いて気がついてしまったのだが、マズローチンポジ問題を見落としていたわけではなかった。
それは「安定の欲求」で、きちんと考慮されていたに違いない。
チンポジを含めた安定、それが満たされて始めて「安全・安定の欲求」がコンプリートされるのだ。
さすがマズロー
 
しかし最近つくづく思うのが、チンポジの悩みがクリアされると、より高次の欲求が出現するわけだが、その高次の欲求というのが、とても重い。
「社会で必要とされたい」とか「あるべき自分になりたい」なんて欲求は、充足が非常に困難な欲求であるし、その欲求をバリバリに全面に押し出している人は正直けっこうめんどくさい。
むしろみんながチンポジで悩んでいるレベルでとどまっている方が平和なのではないかと思うが、これは文明の否定になってしまうのだろうか。
俺自身では、最近購入したパンツの性能が優れていることでチンポジの悩みはほとんど解消されたが、それによって表れたより高次の欲求によって悩まされ、むしろ人生の幸福度は低下してしまっているかもしれないと感じるのだ。

「座右の銘」が必要になる時

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小室圭さんが一般人から一躍時の人となり、メディア対応などいろいろ大変そうだなぁ、と思っていたところ、先日の記者会見でこんなやりとりがあったようだ。
 
記者:好きな言葉ですとか、座右の銘があればお聞かせください
小室さん:それについては、今は申し上げることはできませんので、控えさせていただきたいと思います

 

「今は言えない」という言葉には、
  • どうして“今は”言えないのか?
  • いつになったら言えるようになるのか?
  • 言えない座右の銘とは、いったいどのようなものなのか?
  • 「言えなかったものがあるタイミングから言えるようになる」とは、いったいどういうことなのか。座右の銘を発表するにもいろいろ各所との調整が必要になってくるのだろうか。
  • それとも、座右の銘まで与えられたものを使わなければならないような立場になってしまったのか。
など、様々な疑問や憶測の余地があり実に味わい深い言葉であるが、実際、俺が同じ立場に置かれたとして(これは「眞子さまと婚約したとして」という妄想と同義であり、そう思うと常軌を逸しているが…)、同じ質問をされたら即座に答えられるかというと、そうはいかないだろう。
なぜなら、普段俺が座右の銘を意識して生活をしていないからである。
 
しかし、小室さんがそうであったように、俺だって世の中での知名度が一夜にして0%から100%になることも全くない話ではない。
そんな場面に備えて、俺も座右の銘を考えておくべきだという考えに至った。
 
現代人の悪癖のひとつだが、座右の銘を考えようと思うと、条件反射的にインターネットで検索をしてしまう。
すると、出るわ出るわの「おすすめ座右の銘30選」の類のまとめ記事。
これまで数々の先人が発表しており、今から自分の座右の銘を考えようとする人にとっては、「カタログから選ぶだけ」感覚で手軽にマイ座右の銘を持つことができるようになるのだ。
 
ちなみに、「座右の銘」とは

いつも自分の座る場所のそばに書き記しておいて、戒めとする文句。(大辞泉

という意味である。

 
さて、俺もカタログから選ぶのでもよいのだが、折角の天から与えられた機会であるから、100%オリジナル、DIY精神あふれた自作座右の銘にしたい。
選ぶなんていつでもできる。
 
まず必要となるのは材料となる概念である。
俺は普段どういう思想信条で生きているか、それを抽象化、概念化、言語化し、一言でバシッと伝わる機能的かつクールな座右の銘を作り上げるのだ。
 
そこで、俺は普段何を考えていたか、思い返してみた。
 
・・・
 
麻雀したい
寝たい
本を読みたい
めんどくさい
酒飲みたい
ダム見たい
宝くじ当てたい
尊敬されたい
おっぱい揉みたい
不労所得がほしい
 
どれもこれも、座右の銘として明かすには恥ずかしい、カスみたいな概念というか、ただの欲求であって、このアプローチでは何年かかっても座右の銘には到達することはない。
 
ここから異なる手法を考えてみたが、すでにカラッカラになるまで全力で絞りきった雑巾を再度絞ったからといって何も出てこないのと同様に、俺の発想は先のカスみたいな概念の羅列ですでに枯渇、 いくら考えてもなかなか思いつかず、このままでは俺の座右の銘もなし、このブログも没になってしまうので、「今年の目標は、座右の銘をつくること」として、とりあえずは終わりにしたいと思う。

人生をムダにしないために、知っておくべきこと

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というタイトルの本やネットの記事がをとても頻繁に目にする。

これは当然、ムダにしたくないと思っている人がいかに多いかの裏返しである。

そして、この答えには多くのバリエーションがあるが、ムダにしまくってきた俺だからこそ最近気がついたことがある。

 

 

俺が前にいた会社に異業種から転職しようかどうか悩んでいるという女性を紹介され、話を聞いた。

いざ話を聞いてみると、「どういう点がしんどいのか?」「残業や休日出勤はどれくらいあるのか?」というのが主な”悩み”らしい。

俺は「そんなにイメージが悪いのか広告業界は」と、前にいた業界に対する世の中からの風当たりの強さを嘆いた。

しかし、「実際は残業なんてほとんどないし、休日出勤なんて年に1回あるかないかくらいですよ」なんて言えば嘘になる。

「ありのままの姿をみせてしまっては、いまこの瞬間に広告業界への志望者を1人減らして業界縮小につながりかねない、いま俺に求めらているのはオブラートに包む心」と考えた俺は、「最近は変わってきてるみたいですよー」と、ほぼ何も言っていないに等しい回答をした。

と言いながら「残業がないとか休日出勤とか、そんなに気になるか?」と本心では思ってしまった俺は随分ブラック企業に毒されてしまっているのだろう、と、その時は思っていた。

 

後日その人含め3人で、転職の相談関係なしに酒を飲んだ。

全員30代半ばで、結婚とかまったく興味がないという女性(相談に乗った女性)、結婚とかまったく興味がないという男性、バツイチの俺、という、世の中的にはダメ人間の集まりでしかなかったが、その3人で、「結婚観」についての話題になった。

 

「結婚にまったく興味がない」というその女性は、同時に、「どうしても結婚が嫌というわけでもない」と、一見矛盾した考えを露わにする。

どうして結婚にまったく興味がないのかと尋ねてみると、「今の独身生活に不満がない」のと、それ以上に、「失敗した時に失われるもの、特に時間、が大きすぎる」かららしい。

 

そうすると次に、「結婚しないことで失われることなく使うことができる時間を、いったい何に使うのか」という疑問が生まれるが、どうやら旅行とかおいしいものを食べたりとか、そういうことに使うようだ。

 

俺はそれを聞いて、つい、「しょうもな」と思ってしまった。

いや、たぶん口に出してしまっていた。

結婚に失敗し、協議や手続きなど婚姻関係の解消に多大なる時間を費やしてしまった未来と、そんなことに時間を費消することなく有意義に休暇を消化、海外旅行、日本では見ることのできない風景を目の当たりにしたり、外国人と交流をしたり、おいしいものを食べることができた未来、その2つの間にいったいどれほど大きな差があるのか、それなのに、残業したくないとか休日出勤したくないとか結婚でムダな時間を使いたくないとか、いったい何を言っているんだ愚か者が、そう思ったのだ。

どれだけうまいものを食べてもその味覚は数時間後には失われているし、どれだけ美しい風景を見ても1週間も経てば記憶から消えてしまうのに、これらを経験することが果たしてそんなに大切なことなのだろうか。

 

就職してからの人生を指して「懲役50年」と、さらにアグレッシブに言えば、生まれてからの人生を「終身刑」と冷笑を込めて表現することが世の中ではよく見られるが、死ぬまで刑務所にいるのならば、そこがどれだけ快適であっても、不快であっても、苦痛であっても、退屈であっても、あまり変わりはない。

なぜならそこは刑務所だから。

一時的にバリ島にいても、徹夜で残業をしていても、どうせ戻る先は独房なのだから。

 

人生を懲役のように解釈するのは、人生で起こるつらい出来事に対する抗体を自分の体内に作り出す、いわば防衛本能のようなものであり、アプローチこそ違えど、根本となるコンセプトは宗教と似ているのではないだろうか。

つらいこと耐性ができた結果、つらいことに身体が反応しなくなるのは当然の帰結である。

 

しかしみんな、「私の人生は私だけのもの、プライスレス」という考えを大切にしたいし、「私らしく輝きたい」と願っているし、そういってがんばっている人は輝いているから、「しょうもな」いのは彼女ではなく俺の方である。

「つらいことを剥き身のままつらいこととして受け止める」のが、「人生をムダにしない」コツだと思う。

俺はそんな強靭な心を持ち合わせてはいないので、それができる人はがんばってもらいたい。