勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

洗濯物に修造イズムを学ぶ

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前回に続き、服の話。

それも洗濯の話。

 

先日、洗濯をした。

おそらく多くの人と同様のやり方、スタイルで、汚れた服を全自動洗濯機に放り込み、定められた量の洗剤を投入、全自動で洗浄から脱水まで行う設定でボタンを押下し、あとは終了するまでほったらかし、という手法である。

この日も慣れた手つきで上記の手順を行った。

いつもと同じである。

ただいつもと違ったのが、中の3着に、限りなく黒に近い青色の着色が広範囲についていたことである。

毎回服の汚れを着実に落としてくれていたはずの洗濯機なのに、こんなふざけたことがあるものか。

いったい何があったというのか、さてはこれまで従順だったはずの洗濯機が所有主である俺に謀反、反逆を起こしたというのか。

と思って洗濯機のメーカーに文句を言ってやろうと思っていたところ、洗濯物の山の中からボールペンを発見した。

どうやら、これを胸ポケットに差したまま洗濯機に投入してしまったらしい。

そう言われてみればたしかに、いや部屋には俺独りで誰も何も言っていないが、被害が最も甚大だった服は胸ポケットのところが中心にどど黒くなっているし、1週間ほど前に俺はこの服の胸ポケットにこのボールペンを指し、当然抜き取っていたものだと思っていたが、そのボールペン自体を紛失していた。

あちゃあ俺のミスじゃん失態じゃん、それをなに洗濯機のメーカーにクレーム入れようとしてんだよ俺は、まったくとんだ赤っ恥をかくところだった、そう思って一安心したのも束の間、大変な事態に俺は気がついた。

 

それは、この服に沈着した限りなく黒に近い青のインク跡が、いくら石鹸や洗剤を大量に使用しても、熱心に擦っても、一切落ちる気配がないことである。

これはまずい。

被害を受けたのがたった3着だったことは不幸中の幸いではあるが、最小限の数の服で日々のローテーションを組んでいる俺にとっては、それでも貴重な戦力だった。

その上前に書いた記事のように、俺は洋服を購入するのが極めて不得意であり、この3着を放棄して新たに同数を購入するのは至難、また百貨店に行って多すぎる選択肢に圧倒され途方にくれて気絶するしかないのだ。

suzuki1001.hatenablog.com

 

ところが、「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉があるように、世の中には漂白剤という便利なものがある。

それを思い出した俺は、直ちに薬局がドラッグストアに業態を拡張したような感じの店舗に行ってこれを購入。

さっそく商品裏面の注意書きに従い、衣類が痛まない上限であるところの2時間ほど、3着を洗剤と漂白剤の混合液につけ込んだところ、完全にはほど通いが、インクが衣服から溶け出しているではないか。

さすが拾う神だ、と一度は希望に胸を躍らせたが、すでに俺は「これ以上つけ込んだら衣類が痛むからたいがいにしとけよ」と注意書きが警告する2時間を使い切ってしまっていたことを思い出し、すぐさま絶望の縁。

いや、しかしこのまま終えてもこんなインクで汚れまくった服など着て外に出られるわけもなく、であれば、服が傷んでしまっても同じこと、俺は注意書きの警告を無視して、その後も衣類を洗剤と漂白剤の混合液につけ込み続けた。

 

 

そして、はや1週間が経過。

衣類は痛むことなくピンピンしているのは喜ばしいことだが、残念なのは、インク汚れもピンピンしていること。

意味ないじゃん、と俺は呟いてしまったが、「これ以上や服が死ぬぞやめておけ」という忠告を振り切ってつけ込みの荒行を受け続けている3着から、己の限界に挑戦し続ける姿勢のすばらしさ、周りが限界だと勝手に決めつけたものは本当は限界とは限らないこと、それを知ることができるのは挑戦をした時だけであること、など、一種の修造イズムを教えられた土曜の夜。

洗濯から選択

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週に1回、着る、洗う、干すのルーティンをくり返したことで、ある服の繊維質が薄くなって穴が開いていた。
これはもうそろそろ新しいものを買わなければならない、そう思って街へ出たものの、俺の足取りは重い。
なぜならば、洋服を買うのは困難を極めるからである。
 
買う物が例えば米であればこれほど難しいことはなく、なぜならこしひかりなのかささにしきなのかひとめぼれなのか、3キロなのか5キロなのか10キロなのか、くらいしか選択肢がないから迷うことがないし、たとえ間違えたとしても、ブランドが違ってもまあどれもうまいし、量を間違えてもなくなったらまた買えばいい。
 
しかし洋服ときたらふざけたもので、まずそこそこ大きなターミナル駅周辺にはデパートメントストアーがたくさんあって、どれに入るかで一迷いするし、入ったら入ったで数十もの店舗があるし、それぞれの店舗に何十種類の服が並べられている。
この中から自分が買うべきひとつの服を選ぶなぞ、もはや天文学的な確率であり、そのため俺は店に入った途端に途方にくれてしまうのだ。
つらたん。
いや、今は、つらみ、といった方が新しいらしい。
つらみ。
 
 
実は世の中には俺のように考える人は少なくないようで、そういう人のために世の中には「セレクトショップ」と呼ばれる店舗がある。
これは極めて便利なもので、世の中数多あるファッションブランド、そのひとつひとつが展開するあらゆる商品の中から、これはいけている、と考えるものだけを厳選して陳列していて、しかもその選別をしている人がファッションの道のプロ、これが俺やそこら辺のおっさんであれば、だれがそんな奴がチョイスする商品を信用して買うことができようか、と思うが、専門家が選ぶのだから安心。
 
新宿の近くに住む俺は、たしか三丁目のあたりにBEAMSっていう著名なセレクトショップがあったな。ラッキー。と、大船に乗ったつもりで店に向かった。
以前一度だけ訪れたことがあった新宿のBEAMSは、場所こそ同じところにあれど、店舗の中は俺の記憶とは全く異なる雰囲気になっていた。
それは、なんかちょっと違うなぁ。とかいうレベルではなく、もはや全く別のコンセプトに基づいた全く別の店舗である。
そうは言ってもセレクトのプロ、任せておけば大丈夫、そう思って店に入ると、中には法被や浮世絵が書かれたTシャーツ、日出づる処!って感じのイラストを施した湯呑み、キューピーマヨネーズの人形の置物、達磨などが並び、フロアマップを見ると、「日本のセンス」「日本のポップカルチャー」「日本の猫」などと書かれており、まあオブラートに包んだ一言で表現すれば「誰が買うというのか」と思ってしまうような品揃えであった。
 
 
どうしてこのようなことに成り果ててしまったのだろうか。
かつて訪れたときには、ああこれを買おうか、しかしあっちも悪くない、どっちも買うわけにはいかないがどうしよう。あ、でもあっちもなかなか。そう思っていたと記憶しているが、今回は欲しいと思うものが皆無ではないか。
 
しかし、これでいいのである。
セレクトショップとは本来、セレクターが、これはいけている、と判断したものを陳列する店であって、その選別のセンスを信頼して人々は店に訪れるのであるから、「わかりやすい品揃えにしておけばたくさんの人が買ってくれてもうかるからいいんと違うか」「この商品はものすごくいいバイブスを出しているが、たぶんそれは俺以外の他の人には理解できないだろうから、これを店に並べるのは止めておこう」なんて考えている店は、セレクトショップとしての存在意義を持ち得ない。
雑誌などのメディアが、自分たちが正しい、すばらしいと信じるメッセージを発信していればいいのと同様、セレクトショップは信念に基づいた品揃えをするからこそ、そこに人が集まるのである。
 
俺は行かないけど。
服に開いた穴は、袖を折り返せばなんとでも隠せるし。

日本の希望

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残念なことだが、日本の将来はお先真っ暗だと思う。
日々様々な誌面を飾る、「日本はもう終わり」の文字。
 
日本を代表する大企業がバンバン破産・倒産したり買収されるし、まあ運良くそうはなっていないところも、中国や韓国などの企業にしゅんしゅん抜かれているらしい。
かつてないほどに広がる貧富の差、特に地方経済は崩壊の一途らしいし、街を歩けば爺や婆ばかりでそれらを支える若い世代は減少、働く人がずんずんと減っており、近い将来には老人を介護する人が足りなくなってしまうらしい。
世界を一変させるような新しい技術やサービスは、日本の外からばかり発生し、日本はもはや”技術大国”の地位から滑り落ちてしまったらしい。
日本の大学はアホというか行ってもあんまり意味がないから、留学生はあまり日本に来たがらないらしい。
「働き方改革」なんて言われているがそれで休日が増えたり残業が減ったりする気配は全く見えず朝から晩まで月曜から日曜まで仕事だし、こんなことが問題になっているのは日本くらいであって、日本以外の国では企業と労働者の関係はもっとビジネスライクというか、労働者側が「契約に書いてないからそんな仕事はやらん俺は」と、平然と上司に言ったりすることができるらしい。
選挙の投票率はずいずい低下、国民はもはや政治どころか生活、人生に失望しており、毎年ものすごい数の人が自殺しているらしい。
コンビニの冷蔵庫や飲食店の食器乾燥機に入り込むなど、一般常識やマナーを著しく欠いた行為をわざわざソーシャルネットで公開して楽しむ奴が続出しているらしいし、週刊誌には毎週のようにしょうもないスキャンダルな話題が取り上げられてる。
 
こうしてみればたしかに、悲観的な状況ばかりが目立つ。
しかし、本当に日本にはもう絶望しか存在しないのだろうか。
希望の光は完全に消えてしまったのだろうか。
 
 
否。
いや少なくとも俺は、否、と考える。
その根拠はこれである。
 

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LINEで新しく送ることができるようになった、もこもこした字。
別にLINEが好きなわけでは全くないが、もこもこした字でメッセージをやり取りすることができるだけで、どんなえげつない事件があっても悲惨な目にあっても、精神がほっこりするのではないだろうか。
 

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麻雀から自分の人格のカス化を知る

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今回は麻雀を知らない人にはわけのわからない文章かもしれないが、最近、裏ドラが乗らない。
裏ドラというのは、リーチをかけてあがった人が享受できるボーナスのようなもので、あがった後ドラ表示牌の下に置かれている牌をめくり、それが示す牌が自分の手の中にあれば、枚数に応じて点数が増える、ほぼ運100%の要素だ。
(「本当に運100%かどうか」には異論がある人もいるだろうが、その点についてはまた別の機会に書きたい)
 
記録が残っているわけではないが、俺は2~3年前までは、一緒に麻雀をした多くの人から「とにかく裏ドラがよく乗る人」という評価を受けていた。
事実、「俺だけ優遇されているのではないか」と錯覚してしまうほどよくそれが乗る会もあったし、そうでなくても裏ドラに助けられることが多かった印象がある。
しかし不思議なことに、2016年に入ったあたりから、ぱたっと乗らなくなった。
まるで「人生の裏ドラ」を使い切ってしまったかのように。
いや、これまでバンバン乗っていたことの方がはるかに不思議なことなのかもしれないが、重要なのは、乗らなくなったことで俺が得られる点数が下がることだ。
 
俺は本当に人生の裏ドラを使い切ってしまったのだろうか。
俺というダムには、裏ドラは残っているのだろうか。
麻雀は無条件で最高に楽しい遊戯だが、裏ドラがバンバンとは言わなくてもそれなりに乗るほうが楽しさは増すだろうから、裏ドラを取り戻す方法はないものか、と思う。
 
伝説の雀鬼桜井章一によると、人の一生における「運の量」は決まっていないらしい。
つまり、自分の運を増やすこともできれば、減らしてしまうこともある、というのだ。
そして、運を引き寄せるには、何事にも誠実に丁寧に対応することが重要で、そうしているうちに自然に運の流れが来るらしい。
俺は今、それができていないのだ。
さらに桜井の本を読むと、「運の流れなど30分程度で変わることもある」らしく、2年も裏ドラが乗らない流れにある俺は、「流れ」などの一言では片づけられない根本に問題があるなんてことなのだろうか。
 
どうやら俺は2016年近辺を境目に、人格がクズおよびカス化してしまっているらしく、つらい。
今風に言うと、つらたん。
でも麻雀がしたい。

最近ブログさぼりがちだったので、がんばって書きます。

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この手の宣言があまり好きではない。
 
というのも、「週に1本書いてアップすること」などの契約でもない限り、ブログ執筆は義務ではなく、したがって「さぼる」という概念も当てはまらない。
では何のために「がんばって」書くのか。
ブログの公開を楽しみに待っている人に向けて?
そんな人などいるのか?
実存するかもしれないが、自分から”そんな人がいるものとして”「がんばって書きます」と宣言するのは、過剰な自意識の発露ではないのか?
 
 
地上に立っている人には、大気から2000kgほどの圧力を受けているという。
その力がなければ我々は内部からの圧力に皮膚が耐えきれず破裂してしまうそうであり、つまり人間に限らず生物が生きていくには、何らかの、それもかなり強い圧力が必要なのである。
 
何らかの力を「ブログを継続して書く理由」としてみずから解釈しなければ、ブログはすぐに止まってしまう。
幸いなことに今の日本は経済的に豊かなので、「生きる理由」を自分の中で開発することなく、初期設定として持つ最低限のエネルギーを保ち、エネルギー保存則に従って生き続けることはそれほど難しいことではないだろうが、それとは異なる生き方を目指そうとするならば、それに適した圧力が必要となってくる。
そしてそれは、だいたい自分で設定もしくは発見もしくは開発もしくはでっち上げなければならない。
他人のそれを面倒見てくれるような親切な人などいないのだ。
 
どういった圧力を自らに課すことが適切だろうか。

俺も昔はかわいい子供だったと判明した

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俺は物を覚える能力が低い。
名刺交換をした1分後にはその人の名前を忘れているし、今日の昼に何を食べたかなどは当然覚えていない。
それどころか、俺には10歳より前の記憶がほとんどない。
 
テレビでお笑い芸人が幼少期のエピソードを披露して笑いをとっていたり、何かの本で著者が「現在の価値観は幼少期のころに構築されて、それがあっていま大成功を収めています」といった話を書いているのを読んだりすると、小さい頃の記憶が失われていることを口惜しく感じていた。
 
昔の記憶を取り戻すにはどうすればいいのか。
写真や映像、文章など、当時の様子がわかるものを見返せばいいのではないか。
そう考えた俺は、前回の年に1度の帰省の際、親に幼少期の写真をもらうようにリクエストした。
 
パソコンとか機会が苦手だったはずの両親は、最低限の知識を最大限活かして写真をデータ化しており、スムーズにデータを受け取ることができた。
これには、ちょっとじわっときた。
写真は0歳のころから12歳くらいのころまでのもので、200枚ほど。
そもそおこの歳まで自分の昔の写真を見たことがないのもおかしな話だが、それ以上にはるかにおかしな話だったのが、200枚の写真を見てもなお、一切の記憶がよみがえらないことである。
おそらくすべての記憶が残っている人であれば、200枚の写真をすべて見るには相当の時間がかかるはずだが、俺は常に「これいつだろうわからん」「これ何の時?わからん」「この横にいる子だれだろう?知らんけど」といった感じなので、すぐに見終わってしまった。
 
ただ写真集からひとつわかったことが、どうやら俺は10歳を迎える前くらいまでは、明るく無邪気でかわいい子供だったようだ。
それはもう、今のような仕上がりが想定できないくらいに。
であれば、10歳くらいのころに人格形成に影響を与える何かしらの出来事があったのだろうと考えるのが自然だ。
しかしそれが何だったのかがわからない。
親に聞くのも気恥ずかしいし、たぶん親もそれが何かわからないだろうし、もはや迷宮入りである。
謎を解明しようとしてした行為が、逆に謎を深める結果となった。
俺に限らずどんな人でも、たとえどんなクズであっても人でなしであっても、子供のころは無垢だったはずで、今その人がクズであり人でなしなのは何らかの外部要因に起因するものだろうから、その人自体を恨んだり憎んだりしてはいけないのだ。

承認欲求および自己実現について

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こんな世の中にとって一切無意味かつ無価値なブログを読んで人生の時間を無駄にしている人たちは知らないかもしれないが、有名な心理学の理論で「マズロー欲求5段階説」というものがある。
 
カンタンにいうと
人間の欲求には、
「生理的欲求
「安全・安定の欲求
「社会的欲求
「承認欲求
の5段階があり、低次の欲求が満たされていくと、高次の欲求が湧いてくる
という内容である。
 
この理論が様々なところで言及、応用され、現代に至るまで通用していることに、さすが昔のえらい人は卓越した洞察と分析をしとるなぁ、と感嘆、その爪の垢を煎じて飲ませてほしいと思う一方で、偉人といえどやはり人の子、完璧であることなどあり得ないとも知るのである。
 
なぜか。
マズローは人間の大きな欲求を、ひとつ見落としているからにほかならない。
 
では、マズローが見落としている欲求とは何か。
それは、チンポジである。
 
女性の方にはわからないだろうし、わかる術もない、わかりたくもないだろうが、男性にとってチンポジは非常にセンシティブかつナイーブな問題である。
 
「ん、チンポジが悪いな今」と思ってもすぐに修正できる場面であれば問題ないが、そうでもない状況、例えば衆人環視のシチュエーションなどでは、悪いポジショニングのまま過ごさなければならず、これは相当に集中力を削がれることなのだ。
 
会議の内容などちっとも頭に入ってこないから、突如意見を求められたときに、これまでの話の経緯がわからず素っ頓狂な回答を連発、仕事ができないボンクラというレッテルを貼られて解雇、なんてことになったら一大事だし、デートの会話も全然覚えていられないから、彼女から「私の話、聞いてないでしょ!」と愛想を尽かされてしまっては大変だ。
 
チンポジが整っていないと、「社会的欲求」など満たされるはずもないのである。
 
 
と、ここまで書いて気がついてしまったのだが、マズローチンポジ問題を見落としていたわけではなかった。
それは「安定の欲求」で、きちんと考慮されていたに違いない。
チンポジを含めた安定、それが満たされて始めて「安全・安定の欲求」がコンプリートされるのだ。
さすがマズロー
 
しかし最近つくづく思うのが、チンポジの悩みがクリアされると、より高次の欲求が出現するわけだが、その高次の欲求というのが、とても重い。
「社会で必要とされたい」とか「あるべき自分になりたい」なんて欲求は、充足が非常に困難な欲求であるし、その欲求をバリバリに全面に押し出している人は正直けっこうめんどくさい。
むしろみんながチンポジで悩んでいるレベルでとどまっている方が平和なのではないかと思うが、これは文明の否定になってしまうのだろうか。
俺自身では、最近購入したパンツの性能が優れていることでチンポジの悩みはほとんど解消されたが、それによって表れたより高次の欲求によって悩まされ、むしろ人生の幸福度は低下してしまっているかもしれないと感じるのだ。