勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

あなたは奇跡を信じますか?

「あなたは奇跡を信じますか?」
 
というと、胡散臭い宗教団体の勧誘文句ランキングのダントツNo.1に輝くワードだ。
駅前でいきなりこういって話しかけてくる人の前で立ち止まってしまってはいけないし、家に訪れてきた見知らぬ人がこういう話をし始めてしまったら、すぐにもお引き取りいただきたいものである。
 
かくいう俺も、UFOや気功などは好きなのだが、それはそういうものを心の底から信じているのではなく、オカルト的なものに対して懐疑的というか、斜めからおちょくりながら見てしまう性質があってのことである。
 
しかし最近、その考えを改めさせられるできごとが立て続けに起こっている。
 
 
俺の部屋には、松岡修造の日めくりカレンダー2種「まいにち、修造!」と「ほめくり、修造!」が並んで壁にかけられている。
タイトルは違えど、毎日ひとつずつ、松岡修造の暑苦しいほどのメッセージを届けてくれるこの2つのカレンダー、まさに「熱血の二世帯住宅」である。
 
このふたつを全く知らない人にどういうものなのかを知ってもらうためにそのメッセージの一部を紹介しよう。
 
例えば「まいにち、修造!」の7日をめくると、
 
今日から
君は噴水だ!

  

と書かれている。
 
「自分らしく生きられていないのではないか?」と悩む人に対して、
 
噴水はすべての感情を一所懸命に出しきっているじゃないか。君も噴水になって出しきってみろよ!
 
と元気づけてくれるメッセージである。
 
また、「ほめくり修造!」の17日には
 
今日から僕は
松岡修ゾウ

 

とある。これは
 
ゾウは図体が大きい割に、器用に動かせるのは長い鼻だけ。でもゾウはできないことを嘆くのではなく、長い鼻だけでできることを考えて、徹底的に磨き上げた。
今はわからなくても、君にも必ずひとつ、君にしかできないことがあるから、それが見つかったら迷わずゾウになれ!

 

というメッセージである。
 
このように毎日を鼓舞してくれるヒジョーにありがたいカレンダーが「まいにち、修造!」と「ほめくり、修造!」なのである。
 
ところがそんなありがたいカレンダーも、根本的、構造的な問題点をかかえている。
 
それは
 
今日これからどんなことがあるかわからないから、今日のメッセージを読んでも、これが役立つかどうかわからない。
 
というもの。
 
いわば「答え合わせ占い」と同じ構造的問題だ。
しかし「答え合わせ占い」が故意に作られた無意味さ、パラドックスであるのに対し、「ほめくり、修造!」「まいにち、修造!」はそんなことを狙って笑いを取ろうとしているとは思えない。
 
このカレンダーがかかえる問題に早期に気がつきながら、松岡修造化が人生の目標のひとつである俺は、毎日修造のメッセージを浴びていた。
それだけで十分満足していた。
 
ところが最近になって、不思議なことに気がついた。
 
例えば「ほめくり、修造!」27日には、こう書かれている。
 
笑顔のない君なんて、
熱くない松岡修造の
ようなもの

 

「どんなときにも笑顔を絶やさないように」という、松岡修造にしてはわかりやすいメッセージだ。
 
朝にこれを見た俺は、「そうだねー」とただ思っていた。
 
しかし会社に行き仕事をしていると、あるめちゃくちゃ不愉快なできごとがあった。
それは俺がもう少し分別のない大人だったら会社で暴れまわって相手をどつきまわしてしまうのではないかというくらい。
 
そうなるともう、俺の脆弱なメンタルは、精神はダメなのである。
どんな爆笑王が、笑いの神が目の前にあらわれても笑えない。
どんな面白いテレビ番組でも、コントでも、マンガでも、表情を崩すことすらないだろう、終始鉄仮面のような表情になってしまった。
なんて日だ!
 
当然その日はまったく楽しくない、雰囲気の悪いまま終わってしまう1日だったのだが、家に帰って改めてカレンダーが目に飛び込んでくると、「ああ、修造には、今日の俺がこうなることなんてお見通しだったのか」と思わざるを得ないメッセージがそこには書かれているではないか。
 
先に紹介した「まいにち、修造!」の7日のメッセージは
 
今日から
君は噴水だ!

 

であるが、実際にある月の7日の朝にこれを見て、「まーそんなもんかねーよくわからんけどー」と思っていたところ、その日の午後には「周りの空気を読みすぎて自分の思ったことをはっきり言えなかったなーしまったなー」と後悔するできごとがあり、家に帰ると驚愕したのである。

 
このように松岡修造カレンダーは、人の未来を見通して予言する奇跡の能力を持ちあわせているのだ。
 
俺は今ならはっきりとこう言うだろう。
 
奇跡は、ありまぁす!
 

「どこに住みたいか」の変遷が表すもの

合コンなどでよく聞かれる、「どこに住んでるの?」という、遠回しに相手を値踏みする質問がある。
 
以前、御茶ノ水と神保町の間くらいのところに住んでいた時期のことだ。
「どこに住んでるの?」と聞かれて「御茶ノ水」と答えると「え? なんで?」という反応をされることがけっこうあった。
当時は住所に理由を尋ねられたのが初めてだったので、反射的に「え? なんでってなんで?」と返すと、「いや、なんでかな? と思って」などと言われたものだ。
 
この会話、必要?
 
ほかにも、回数は多くはない合コン経験の中で、「将来の夢は?」(答えは「皇族に入ること」)、「仕事の目標は?」(答えは「不労所得で暮らしていくこと」)などそういう場にはあまりふさわしくなさそうな質問を受けることがけっこうあった。
話しづらい、とっつきにくい雰囲気でも出していたのだろうか。
 
それはともかく、「どこに住んでるの?」という質問にはその人の生活、経済状況を知る目的もあるだろうが、人が「住みたい」と思う場所はその人自身の物の考え方を強く反映しているからこそ使われるのではないだろうか。
 
自分の場合でも、その時に応じて住みたいと思う場所はころころ変わっていた。
今回はそんな自分の住みたい場所遍歴を勝手に振り返ることにする。
 
 

住みたい場所遍歴その1:小学生のころ

私が最初に住みたいと思ったのは、「コンビニ」だった。
「コンビニに住む? は? 頭わいてるの?」とお思いになるかもしれないが、幼心に本気で「布団を引くなら雑誌コーナーの前かなー横になりながら雑誌が取れて便利だし」などと想像していたのがこの時期だ。
 
いまから25年以上前の話だ。コンビニには今ほど何でもかんでもそろっていたわけではない。それでも
 
  • まあまあな飯
  • 種類豊富なドリンク
  • 大量のチョコレート
  • 過剰に利いた空調
  • 普段読んでいる雑誌がすべて立ち読みできる
  • ゲームまで売ってる
 
と、コンビニは「おれはここで暮らしたい」と思わせるには十分すぎるほど快適な環境だった。
 
「物質に囲まれていたい、それがあれば十分」という俺の考えをわかりやすく表している。
 
 

住みたい場所遍歴その2:高校卒業~大学に入るころ

次に住みたいと思ったのは、「東京」だった。
 
当時は関西の実家に住んでいたが、ただ「東京に住みたい」というよりもこの時は、「とにかくひとり暮らしがしたい」という想いが強かった。
 
一人っ子でずっと親の干渉を受け続けたことに対する反発だったのだろう。
 
おれは決して誰にも邪魔されることのない空間に憧れていた。そして、コンビニのようにいろんなものがすぐ手に届くことよりもそれが貴重であることに、コンビニには別に住まなくても家から歩いていけば十分なことに気がついていた。
 
その想いかなって、大学進学と同時に東京に出ることができたが、何を血迷ったか学生寮に住むことになってしまい、「何のために東京に出てきたんだ」というオチがついてしまった。
 
 

住みたい場所遍歴その3:社会人2年目ころ

大学の時は、住みたい場所は特になかった。東京に来て間もなかったので、それぞれの場所のイメージがわからなかったのだ。
 
白金は「貴族の街」
自由が丘は「おしゃれでいけすかない」
高円寺は「アングラで個性的」
練馬は「庶民的」
23区外は「未開の地」
 
などのイメージは一切持ちあわせてなかった。
 
社会人になって、仕事を始めてからの住みたい場所は「会社から近すぎず、遠すぎず」。
 
結局、会社から電車で2駅、通勤時間が20分程度の住宅街に家を借りた。
 
会社から近いほうが通勤に便利だけど、あまりに近すぎて家にいるときも仕事から離れられないのはイヤだ。
そんな中途半端に飼いならされた社畜感が表れる選択だったと思う。
 
 

住みたい場所遍歴その4:社会人5年目ころ

このころの俺の住みたい場所は「デパ地下」だった。
 
コンビニって言っていたのが、経済的に少し余裕が出てきて、並ぶご飯のランクが上がっただけである。それにしても、あのちょっとぜいたくなご飯がずらっと並ぶ光景は壮観だ。物質的な豊かさに舞い戻ってしまった時期がこのころ。
 
デパートでは、地下以外の場所にはほとんど用がないこともポイントだ。洋服を買おうにも、選択肢が多すぎるとすぐ眠くなってしまうのは、俺だけではないだろう。
 
 

住みたい場所遍歴その5:社会人8年目ころ

前の「会社から遠すぎず近すぎず」の条件に加えて、「繁華街に住みたい」という希望が加わった。
 
中途半端な社畜感はそのまま維持しつつ、少し余裕が出てきて休日を充実したものにしたい気持ちが表れていたと思う。そして下北沢に住んだものの、結局、寝るだけの休日だった。
 
 

住みたい場所遍歴その6:社会人12年目ころ

会社との距離感はそのままで、「ひとりで入れる飲み屋がたくさんあるところ」という条件が追加される。
 
実際そういう場所に引っ越す少し前まで、独り飲みをする人の気持ちがわからなかった。
「え、なんでひとりで店に行くの? スーパーで酒買って家で飲めばいいじゃん」と思っていたのだが、気がついたらいま自分がそれをしている。
 
独り飲みの意味については別の機会にでも書いてみたいと思うが、次はどこに住むだろうか。

温泉で考える人生の年輪

後楽園にある大型温泉「LAQUA」でこのブログを書いている。そう、私は今日、温泉に入ってきたのだ。
 
ところで、温泉に入った男が必ず行うことがある。
 
それは「チンコ比べ」である。
 
女性にはわからないかもしれないが、100%の男性がこれを行っている。
すべての男性は、出ているチンコに必ず目を向けるようにプログラムされているのだということを知っておいていただきたい。
 
私も男性の端くれとして、近視の目を細めながら通りすがる人のそれぞれのチンコにもれなく目を通していると、つまりチンコチェックをしていると、人間の顔と同じように、チンコの顔というべきか、十人十色ならぬ十人十チンコ、実にさまざまな表情のチンコがあることに気付かされる。
 
主張が強いチンコ。
 
控えめなチンコ。
 
「チンコ界の元木大介」といっても過言ではないほどの曲者チンコ。
 
人見知りのチンコ。
 
冷静に見えるが実は熱いハートを持ったチンコ。
 
いつも明るいチンコ。
 
世の中をやや斜めから見ているチンコ…。
 
 
温泉に入っていると目の位置が下るため、自然とチンコを見てから人の顔を見る、という順番になる。
私もこの自然の摂理にしたがって温泉の醍醐味を味わっていると、もうひとつあることに気がついた。
 
チンコからその人の顔や体格、人相を予想するのがいかに難しいことであるか、と。
 
「え、そのチンコでこの顔!?」とか、逆に「その顔でこのチンコって何?ギャップを意識してるの?」と驚くことも少なくない。
「チンコと顔マッチングクイズ」があれば、正答率は20%くらいではないだろうか。
 
まあそんなクイズに参加してくれる人なんていないからムリだけど。
 
「では、正解発表です! みなさんパンツを脱いでくださいー!」
 
とはならない。
 
 
人は顔とチンコには、違う年輪を刻むのだ。
 
これは、イケメンが必ずしもヤリチンではないという事実に現れているかもしれない。しかし、それが事実かどうかも知らないし、確認するすべもない。だから、この命題に勇気づけられることもない。
 
皆さんだったら、何%正解できるだろうか。

自己啓発本が苦手だ。

自己啓発本が苦手だ。
 
それはなんとなく「意識高い系」に対する反発や、「人の人生の後追いなんてしたくない」という青臭い感情が原因だと思っていた。しかしきのう本屋に行って気がついた。わかってしまった。そういうことではなかったのだ。
 
俺の家の本棚には多くはないがその手のジャンルの本が並んでいる。「ギャンブルで強くなるための本」や「企画術」はいいのだが、問題なのは、それらに次ぐくらいの数であるのが「ストレスで苦しまなくてすむようになろうぜ」系のものであるという事実だ。
 
言うまでもなく、本棚には自分の欲望や悩みの裏返しが並ぶ。つまり俺は「日常生活で強いストレスを感じており」、「それを解消したいと願っている」ことになる。本屋に並んでいるものは、世の中全体の欲望を浮き彫りにしているが、自分の本棚に並ぶタイトルは今の自分の状態をそのまま生写しているのだ。
 
俺が自己啓発本が苦手なのは、この点であった。つまり本棚を眺めれば、「ああ、俺はストレスを解消したいと思っているんだなあ。そりゃあんなことやこんなことがあったらそう思うよね。ああ思い出してきたら嫌な気持ちになってきた」と陰鬱な気分になってしまうからだ。
 
言い換えれば、自己啓発本は処方箋のようなものであり、本棚はカルテがずらっと並んでいるようなものなのだ。そんなものを毎日見ていていい気分になるわけがない。
 
毎日を楽しく過ごすためには、それらの類の本を本棚から取り出し直ちに処分しなくてはならない。しかし俺はまだストレスの解消方法を習得できておらず、本を処分してしまったらやり方がわからなくなり目的を達成できなくなってしまうため、処分してはならない。
 
こうして俺の家の本棚には「ストレスから自由になるための方法論」をテーマにした本が並び、それを目にする俺は毎日をストレスフリーに楽しく生きることができないのである。

読書感想:Licca's Tweet スーパーおしゃれ女子、リカちゃんの華麗なる日常

香山リカTwitterまとめ本。それだけでネタ本かと思ったが、精神科医の方ではなく人形の方。本屋でふと見つけて手にとってしまった。

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精神科医の方のTwitterはもっぱら炎上の中心として一部の好事家から人気のあるものだが、こちらのリカちゃんのTwitterは、存在こそ知っていたがじっくり読んだことはなかった。ネタ本だと思って手にとった私だったが、その期待は完全に裏切られた。

 

リカちゃんは世界一「Twitter での活動を期待されていた人物」かもしれない、そう思わずにはいられない本であった。リカちゃんが最も効果的・魅力的に情報発信を行うために開発されたツール、それがTwitterなのだ。

 

Twitter は自分がシェアしたいと思った瞬間だけをリアルタイムに共有することができる「選択同期」が特徴のプラットフォームである。これこそがリカちゃんのキャラクターをTwitterが昇華させるのに寄与している。

 

リカちゃんは常に最高におしゃれで、毎日違うファッションをして様々なところへ出かけている。そしてその模様を毎日Twitterに投稿しているのだ。これを並の女性が同じことをやろうとすると大変だ。相当の努力や資金力が必要であるし、クローゼットがいくら広くても服で入りきらない。

 

しかしリカちゃんは決してそういった「背景」をTwitter に投稿しない。タイムラインを見る限り、完璧なのだ。生身の女性であれば「影で相当努力しているだろうし痛い」「意識高い」とかと見られるだろうが、リカちゃんにはその心配がない。当然だ。なぜなら「背景が存在しない」からである。だから素直に受け入れることができる。

 

これはリカちゃんにしかできないことだろうか。いや、そんなことはない。生身の人間には当然背景がある。でも、だからどうしたというのだ。現代日本ではとにかく「空気を読むこと」が重要視されるが、それを重苦しく感じているのは他でもない我々なのだ。

 

「女子力」という言葉がこれほど流通すること自体が、世の中からそれが失われていることの証拠であろう。もはや日本の女性が「女子力」を必要とするのかは、今後の社会通念の変化によるかもしれないが、リカちゃんは日本女性が女子力を取り戻すきっかけになる可能性を秘めているように感じる。それどころか、我が道のまま毎日のスーパーおしゃれを楽しむリカちゃんは、「空気を読まないといけない」という空気を、振り切ってくれる救世主になるだろう。