勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

小学校の6年かけて大掛かりなどっきりをかけられているんじゃないかという妄想の存在

小学生のころ、学校の授業の内容について、こんなことを考えていたことがあった。

 

いま教わっている内容が実は全部嘘で、市の教育委員会や学校が結託して数年がかりの壮大なドッキリをしかけている最中だとしたら、どうしようか。

先生たちはいつネタばらしをしようかと、今もうずうずしているんじゃなかろうか。

 

もちろんこんなこと本気で考えているわけではない。

ただ、3%くらいは、あってもおかしくないとは思っていたのは事実だ。

3%というのは、当時の消費税率と同じである。

 

当時の俺がなぜこんな発想に至ったか、今となってはわからない。

ただ、このままドッキリのネタあかしをされることなく授業が進行していけば、いずれ大恥をかくことは明白で、というのは他校の生徒は当然正しい内容を学んでいるわけであり、彼らと勉強について会話をしたものならば、

 

え? 大化の改新? そんなの聞いたことないよ! ってか藤原家? 誰それ!?

塩より砂糖の方が水に溶けやすいって、お前の家どんな砂糖使ってんだよ!

九九を覚えるなんてマジキチじゃね?

 

などとなるに違いないのである。

 

実は俺は小学校の3年生と5年生の時に転居に伴う転校を経験している。

いずれも公立小学校であり、3つの小学校は管轄となる自治体がすべて異なるのだが、俺の転校の際には、上記のドッキリについても転校元・転校先の両校で引き継ぎがなされているものだと考えていた。

ここまで来ると、これがもし自分の子供の話であれば些か不安になる。

 

かと言って、たまに頭の片隅にわいて出るこの思いに対して俺は大した対策を取るわけでもなく、ある日先生が「今日は授業を始める前に、皆さんにお話があります。実は、これまで皆さんに授業で教えてきた内容は、すべて嘘でした」と言い出した時のリアクションを練習するなどしてすごしていた。

練習とは当然、「実はドッキリを仕掛けられていることに薄々感づいてたが、それをネタばらし前に言ってしまうと興ざめしてしまうので、知らぬふりをしつつ、存外に驚く」ことを指す。

 

そうこうしているうちに、小学5年生になって中学受験をするための準備として塾に通うようになって、学校で習っていたことを否定せずに授業が進められているのを見て、「ああ、俺は騙されてなかったんだな」と思ったことを覚えている。

医者のセカンドオピニオンのようなものだ。

 

 

大人になった今、当時をふと思い出して湧き上がったのは、「むしろ大人になってからの方がこのような事態はありえるんじゃね?」という思いだ。

 

というのは即ち、大人、社会人になってから人から教えられる、例えば「いい感じの仕事の進め方」や「女からちやほやされやすい言動」などはは、「1+1=2」や「セミは昆虫」などという単純かつ絶対的な内容ではなく、より複雑であり、明白な解答が存在するわけではなく、人によって様々な解釈があってもおかしくないものが多いとかんがえられるからである。

実際、ある人がまったくもって正しいと考える内容でも、別の人から見たら真っ赤な嘘である、なんてことは案外珍しくない。

 

小学校で習う内容程度であれば、塾でも同様のことを教われば、学校の授業も嘘ではないと判断して問題なさそうであるが、大人問題に関して言えば、2人の大人が同じことを言っていたとしても、3人目が違うことを言うかもしれず、教わった内容が正しいと確証を得るためには多くの人に意見を尋ねなければならない。

 

では、100人が正しいと言った内容があったとして、それが自分にも当てはまるとは限らないから困ったものだ。

つまり、何が正しいかを知ろうとした時点で詰んでいるのである。

 

何が言いたいかというと、テレビで昔は多かったドッキリの番組をどしどし復活させて、社会全体に対してドッキリ耐性を身に着けておくよう啓蒙するべきである、ということです。

 

 

「ノーベル賞今年もとれなかった」と言われることに見る「生殺しの辛さ」

棲む世界が違いすぎて一夜を共にするなど考えられないくらいの女性、もしくは、腐れ縁であるからしてやりたいという発想も出てこない女性と食事をして、やることなく解散したとしても、つらい、悲しい、という心境には全くなることはないだろう。
しかし、「もしかしたらワンチャンあるかも」「今日は勝負だ」と思いながら挑んだ女性との食事では、話は異なり、大いなる失望感に襲われるものだ。
 
もしそれが、毎晩続くとしたら、どうだろうか。
 
 
ノーベル文学賞の受賞者が発表された。ボブ・ディランの受賞は驚きをもって世界に受け止められたそうだが、日本人にとっては村上春樹がまたしても受賞を逃したことのほうが、関心が高いようだ。
 
本人はいったいどんな想いだろうか、私には到底それを思い知る方法もないし、知りたいという欲求もない。
ただ、彼に少しでもノーベル文学賞がほしいという気持ちがあったとするならば、毎年有力候補として扱われることは、相当つらいことなのではなかろうか。
 
私の記憶では、この「村上春樹ノーベル文学賞とれるんんじゃね?」騒動は、10年前ほどからあったと思う。
つまり彼は10年の間、毎年この「期待→失望」のループを回らされているのだ。
 
これだけでも十分、想像を絶する境地だが、これ以上につらいと私が思う点は、別のところにある。
それは「ノーベル賞候補者たるもの、それにふさわしくないことをしてはならない」ということ。
この足かせは相当、対象者の日々の生活指針や精神状態に大きな影響を与える。
 
10年間候補であり続けるということは、10年間、いまの彼が持たれているイメージを変えることはできないということだ。
それは選考者に対する裏切り行為になってしまう。
 
例えば、極端な例で申し訳ないが、もし彼が今から「なんかAV男優でもやってみたいなぁ。よっしゃいっちょデビューしたろ」などと思い立ち、それを実現した場合、おそらく間違いなく次の選考から、彼の名前は候補から消え二度と復活することはないだろう。
 
これはあまりに突拍子もない話ではあるが、文春にゲス不倫が見つかったとしても、だめだろう。
福本豊が「立ちションベンもできなくなる」という理由で国民栄誉賞を断った話は、あまりにも有名である。
 
さらに言えば、文学賞という性質上、これまで接したことのない価値観に触発され、自らの精神性を大きく鞍替えすることは、もうできない。
「来年こそはノーベル賞」と思い続けている限り。
 
 
とここまで書いて、これは何もノーベル賞などに限らず、企業労働者の出世などについても当てはまる、実に世にありふれた話だということに気がついた。
 
ただ、会社での出世は、ある程度年齢制限がある。
ノーベル賞はそうではない、この事態は死ぬまで続く。
自らの意思で、それを捨てない限り。

自分の一生を左右した出来事について思い返してみた

自己啓発本の類が相変わらず多い。
みんな自分の人生をよりよく変えたいのだろう。
そりゃそうだ、俺だってそうだ。
 
でも人の一生なんて、意外としょうもないことで左右されるものだとも思っている。
そこで今回、一生を左右する出来事について思い出してみた。
 
 
最近、またアゴの調子が悪い。
どう悪いかというと、あくびをするとバコッと外れそうになってしまい、口を元に戻すときにまたバキッと大きな音がする、といった感じだ。
 
ここ数年は鳴りを潜めていたが、昔からこういうことはよくあった。
しかし当然、最初からうまれつきずっとこの調子だったわけではない。
 
 
俺がアゴを悪くしてしまったのは、子供のころのある事件がきっかけである。
 
その時俺は中学校1年生で夏だった。
いや、もしかしたら2年生だったかもしれない。
思い出したくない過去の記憶はいつもあやふやである。
 
しかし確実に覚えているのは、俺は家でダウンタウンガキの使いやあらへんで」を見ていた。
当時はガキの使いはたしか火曜日の深夜にやっていて、その放送を毎週楽しみにしていたのだ。
父親は単身赴任で、家には奥の台所で作業をしている母親と俺の2人きりだった。
 
その日は夏真っ盛りで猛暑で、体感気温を少しでも下げるために俺はコンビニで売られているロックアイス、いわゆるかちわり氷を口に頬張っていた。
かちわり氷はひとつひとつその大きさがまちまちであるため、普段は口に入れるのにちょうどよいサイズのものを探すのだが、ちょうどいいサイズのものはすでになくなってしまっており、その時俺が選んだのは、口に入るかやや心配になるほどのサイズであった。
しかしなんとかそれを口に入れ、「ガキの使い」を見ていた。
 
番組が始まって早々、出演者の誰かがものすごく面白いことを言った。
そりゃそうですよね、なんてったってガキの使いですから。
思わず笑ってしまったことで、口に入れていたかちわり氷が口のさらに奥、喉に迫るところまで行ってしまい、限界まで開かれていた俺の口は限界を越えて氷によって押し広げられてしまい、その時…
 
ガコッ
 
というそれまで聞いたことのない大きな音とともに、アゴがしまらなくなってしまった俺がそこにいた。
 
アゴは閉じようとしてもびくともしない。 
これはやばい。
俺は背後の台所に立っているはずの母親の助けを呼びたいのだが、口は大きい「お」の状態から動かせない上に口いっぱいの大きな氷を加えているから、ほぼ声が出せない。
仕方なくそのまま台所まで行き、口から氷を吐き出して、母親に「はほははふへへふひは…」など、自分の危機的状況をアピールする。
母親は最初は笑っていたが、ようやく何が起こったかを理解して、病院に電話をかけ始めた。
 
しばらくして、深夜外来を受け付けている病院を発見、タクシーを呼びそこまで向かうことにした。
母親と、口を大きな「お」の状態から動かせず「ほへふは」などとしか話せない児童がタクシーに乗り込む。
 
病院に着いたら、先生がすぐにアゴをもとに戻してくれた。
自分ではもう永遠に口が閉まることはないのではないか、そう思ってしまうくらい絶望的にびくともしなかったアゴが、である。
「え、こんなにカンタンに戻るの? これまで10,000人ものアゴはずし患者を救ってきたゴッドハンドなの?」
とその時は思ったが、どうやらコツがあったらしい。
「1回外すとクセになるから気をつけて」とアドバイスをもらうも、「誰が2回もアゴをはずしてしまうほどの大きすぎるかちわり氷を食べるんだ」と、俺はそれを聞き流していた。
炎症を抑える薬を処方してもらい、病院の外で待っていてくれたタクシーに乗って帰宅の路へ。
 
病院を出たころには、深夜2時近くなっていた。
普段ならとっくに寝ている時間だ。
眠気から、ついついあくびをしてしまった、その時。
 
ガコッ
 
俺はゴッドハンド先生のアドバイスを軽視し、一生どころか30分経たないうちに「お」の口に戻った俺を見て笑い転げながらタクシーの運転手に「さっきのところに引き返してください」といった母親が、その後に発したのは
 

「あんた、『ガキの使い』よりおもろいんちゃうの?」

 
の一言。
 
「親バカ」ではなく完全な「バカ親」、いや「息子をバカにしている親」だったが、俺は言い返す能力を持っていなかった。
 
次の日、俺は学校を休んだ。
 
そしてこの日以来、先生の予言どおり、俺のアゴはカンタンに外れるようになってしまったのだ。
ゴッドハンドから2回目の手ほどきを受けた俺は、そのコツを盗み、だいたいの場合において自分の手ですぐに外れたアゴを戻すことができるが、たまになかなか戻せないこともある。
そういうときは、3分ほどアゴと格闘しなければならない。
 
その機会が偶然、交際を始める前の女性とのデートや就職活動の面接など、人生を左右する場面で表れたことがあった。
「お」の状態から動かないアゴを手で抱えながらうんうん唸っている男と、交際してもよいと考える女性がどこにいるだろうか。
「お」の状態から動かないアゴを手で抱えながらうんうん唸っている男を、採用してもよいと考える会社がどこにあるだろうか。
 
 
人の一生を左右する出来事なんて、そんなものである。
 

「君の名は。」を観たが面白いと思えなかったときに感じたこと

先日、話題になっているので「君の名は。」を観てきた。

「話題になっているので」などと書くと、「自分が観る映画すら周りに流されて決めるんかい、お前には主体性というものが皆無かわれ、ぼけ」と思う人もいるかもしれないが、全くその通りで、公開を待ちわびていた作品でもなければ、これから観るものの選択になどこだわりは持っていない。

 

感想としては、残念ながら、面白いと思えなかった。

 

実は上映終了後に、映画館内で友人夫婦と遭遇し「面白かった?」と聞かれ、「いいや、どこが面白いのかわからんかった」と返答したのだが、これは簡単なようで実は難しい。

(決して自慢してるわけではない)

なぜなら、それを聞いた相手は「え? 世の中のみんなが面白いと思っているのに、マジで言ってんの?」と思うことが予想されるから。

 

俺はこの、「え? お前マジで言ってんの?」の雰囲気がとても苦手なのだ。

 

伝わりますかね? あの雰囲気。

「ばっかじゃねーの」と口に出しては言わないけれど、目の奥にそう書いてあるのが見える目つき。

話し始める直前に鼻で笑う、あの話し方。

言葉の前に接頭語として入っているように感じてしまう、「意味わかんないんだけど…」の一言。

声に出しては言わないので旗から見ている人にはわからないが、見下す側と見下される側、当事者だけがわかる、見下される側からしたら逃げ出したくなるような空間。

小島聡ラリアットのように、人の自尊心を豪腕でなぎ倒す。

 

例えばこの映画館でのやりとり、友人だったので正直に答えることができたが、それほど親しくはない知人だった場合、「え? お前マジで言ってんの?」リスクを考えて、「いや面白かったですねーやっぱ」などと言っていたかもしれない。

しかしその場合、相手が乗ってきて「ですよねー、どのシーンがよかったですか?」などと、より具体的な内容の話に入っていってしまったら目も当てられない。

嘘の取り返しがつかなくなる事態に陥る危険性もあり得る。

両方のリスクが瞬時に頭の中で天秤にかかり、しかしあまりにも瞬時すぎて判断を下すことができず、結果として「いやーなんていうか、あれでしたねー」などと、答えにもなっていない答えを放ってしまうのが関の山だったかもしれない。

 

もし俺が国政選挙に立候補するとしたら、「『え? お前マジで言ってんの?』感の発露を法律で禁止する」ことを公約のひとつに掲げるであろう。

立候補しないけど。

それくらい、「え? お前マジで言ってんの?」感にはこの世から消え去ってほしいと思っている。

しかし今のところ違法でもないので、悪気があってもなくても、それを放ってくる人はいる。

したがってそれまでは、自分が強くなってこれに対抗するしかない。

 

このブログは単なる気晴らしで始めたものだが、数人から感想を聞いて、そういった精神の鍛錬が目的のひとつとなってしまった。

だからこのブログを見た人は、次に俺に会ったら、「え? お前マジで言ってんの?」と直接言ってもらってかまわない。

ブログの内容が急に「どこどこのプリンがおいしかった」なんて内容に変わったら、心が折れたのだと思ってもらえばいい。

自分が発した言葉をその登場回数でランキングにしたらクズだった

人が発する言葉は、その人の精神状態を色濃く表していると思う。
今月の3分の2が終わろうとしているが、今月俺が発した言葉をその登場頻度でランキングにしてみた。
なお、当然ではあるが、全発言を記録にとっているわけではないので、登場回数もランキングも俺自身による憶測である。
 
1位 めんどくさい  453回
2位 酒  126回
3位 ありがとう 109回
4位 ブチ殺すぞ  88回
5位 仕事  68回
6位 金がない  45回
7位 オフライン  33回
8位 キューピーコーワゴールドアルファープラス   32回
9位 麻雀  18回
10位 おっぱい  14回  
 
1位は2位に3倍以上の差をつけて「めんどくさい」となった。
もうあまりにめんどくさすぎて、何がめんどくさいのか、どうしてめんどくさいのかを考えることすらめんどくさい。
 
2位は「酒」だった。以前も書いたが、酒が俺の人生にとってプラスになっている印象があまりないのだが、ついつい飲むことになる。
 
「『ありがとう』は魔法の合言葉」というように、人に感謝を表すことで自分にも幸せが回ってくるという話を鵜呑みにして、事あるごとに「ありがとう」と言っているのだが、振り返ってみるとそれとほぼ同じ回数「ブチ殺すぞ」と言っていたので、自分に回ってくる幸せ効果はプラスマイナスゼロになっている気がする。
 
5位は「仕事」だが、他にやることがないので、仕事のことを考えざるを得ない。9位の「麻雀」が今以上に存在感を増して「仕事」を追い抜いてくれることを願ってやまない。
 
転職してから生活水準を下げる必要に迫られているのだが、そんなに贅沢をしているつもりではなくても慣れた生活のスタイルを変えるのは難しく、6位に「金がない」が入ってしまった。
 
7位は仕事関連。オフラインチェック多すぎ問題。
 
最近深夜にテレビを見ているとついつい目に留まるのが、米倉涼子が出演しているキューピーコーワゴールドアルファープラスのCM。
CMの量がとても多いこと、米倉涼子があまりにスムーズに「キューピーコーワゴールドアルファープラス」とさらっと早口で言いのけていること、「ゴールド」も「アルファー」も「プラス」も役割としては「超」とか「すごい」とか「スーパー」などの“形容詞的”な言葉であり、それが3つも続いている「キューピーコーワゴールドアルファープラス」はどれだけ効き目がすごいのか、そんなことがCMが放送されるたびに気になってしまい、俺の心を離してくれない。
 
9位は趣味。
これくらいしかないので。
 
10位は揉みたくてランクイン。

俺の家の周辺で火事が集中しているという謎について

いまの家に引っ越して1年半が経つ。
 
俺は18歳の時に上京して、それから15年の間に7回の引っ越しをするくらいにはあっちこっちに居住した経験があったが、今の家に住み始めて1ヶ月ほどが経過した時、あることが気になった。
 
「このあたりの火事発生頻度は異常だ」
 
というのも、消防車の出動回数が尋常ではないのだ。 
家の近辺にいる時間だけでも、週に1回は消防車が出動を主張するサイレン音を聞いた。
これまで住んでいた場所ではこのようなことはなかったので、どうしてこのあたりだけこんなに火事が多いのだろうか。江戸時代かワレ。と、サイレン音にひとりツッコんでいた。
 
しばらくの間、この謎は解けることはなかったが、ある夜、いつも使っている駅の隣駅近くにある店で酒を飲んだ後に、「ひと駅くらい歩いて帰ったろか」と思い家まで歩いていると、家の近くのある建造物から消防車が今まさに出動しようとしているところを目撃し、俺は気がついた。
 
つまり、家から徒歩2分のところに消防署があり、求められればそこからありとあらゆる場所へ消防車は向かうから、俺は頻繁にサイレン音を聞いていたのであって、家の近くで火事が多発しているわけではなかったのだ。
そこに消防署があることは前から知っていて、それにも関わらず「うわ、この辺めっちゃ火事多いな」などとのたまわっていた俺はなんて愚鈍なのだろうかと己を嘆いたが、 「灯台下暗し」というように、こういうことは案外気がつきにくいものである。
自宅周辺が火事集中エリアでなくて、また、現代が江戸時代でなくてよかった。
 
六本木の蔦屋書店の入口すぐには、「自分らしく生きてキラキラした女性になって人生すべてうまくいくための方法」みたいな内容の本が500冊くらいある。
というか、平積みになっている本はほぼすべてがそんなテーマだ。
俺が普段よく行く本屋では、競馬で収益を上げるための方法を紹介している本や、マッキンゼーの超一流コンサルタントの仕事術を二流三流の人にも模倣できるように感じさせる本、全裸の女性の写真がたくさん載っている本、漫画本を中心に取り扱っているから、この偏りは明らかに異様である。
 
また一度だけ入ったことのある信濃町駅すぐの本屋では、池田大作という人物を称える本がやたら多く置かれていた。
俺はこの人物を知らないのでよくわからないが、この偏りもまた特異である。
 
2年ほど前、観光で北朝鮮を訪問したことがある。
平壌の本屋では、販売されている書籍の9割が金日成金正日親子の著作だった。
文才は遺伝するのだろうか。
 
世の中にはまだまだ謎なことが多く、興味深い。

「失敗を恐れるな」という風潮について思うこと

人は失敗を恐れる。
チャレンジすることに寛容ではないと言われる日本においては、特にそうである。
 
しかし、失敗は、恐ろしいものではない。
同じように、事故は、恐ろしいものではない。
ましてや、破産も、恐ろしいものではない。
 
病は、敵ではない。
台風も、敵ではない。
肌の乾燥も、敵ではない。
怪我も、敵ではない。
脂肪も、敵ではない。
不況も、敵ではない。
リストラも、敵ではない。
脱輪も、敵ではない。
リア充も、敵ではない。
 
非難されることは、問題ではない。
カツアゲにあうことも、問題ではない。
フラれるのも、問題ではない。
BANされるのも、問題ではない。
ぼったくりに遭うのも、問題ではない。
風俗店で化物が出てくるのも、問題ではない。
失脚するのも、問題ではない。
殴られるのも、問題ではない。
解雇されるのも、問題ではない。
逮捕されるのも、問題ではない。
 
五里霧中は、問題ではない。
紆余曲折も、問題ではない。
一発免停も、問題ではない。
孤立無援も、問題ではない。
木端微塵も、問題ではない。
死屍累々も、問題ではない。
一家離散も、問題ではない。
再起不能も、問題ではない。
白紙撤回も、問題ではない。
 
死は、終わりではない。
 
そんな境地に、なってみたい。