勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

「酒を飲んでよかったことなんてあったっけ?」と思い返してみる

ここ数週間、めっきり酒に弱くなった。
 
歳のせいだろうか、とも思ったが、アルコール耐性の低下はここ数週間で急激に感じたものであり、年齢の影響とは考えにくい。
とすると原因は疲れだろうか。
「疲れているから」というのは、あまりにも便利な言葉である。
 
以前、友人らと3人で、「酒なんて飲んでも、いいことなんてひとつもないどころかよくないことばかりだから、世の中から消え去ればいい」なんて話をしていたことがある。
 
俺は酒癖の悪い方でもないし、酒での失敗は多くはない方だが、それでも、「めちゃめちゃ酒癖悪いっすよねw」などと言われて気分を害する、たとえすごくいい話を聞いたとしても次の日起きたら覚えていない、気持ち悪い、頭痛い、要らぬ喧嘩をしてしまう、気がついたら路上で寝ている、不細工な女に声をかけて次の日の朝に後悔する、気分が大きくなってとんでもない額の金銭を支払ってしまう、食いたくもないラーメンを食ってしまう、宿酔で仕事の効率が著しく低下してしまい労働時間が長くなってしまう、デートで酔いつぶれて以降その相手と連絡が取れなくなる、帰宅してベッドの上に嘔吐してしまい布団を駄目にしてしまう、接待の場で取引先に粗相をしてしまいその後の仕事に悪影響を及ぼす、店を出たら財布にあったはずの2万円がなくなっている、など、いくつかのアルコールからの悪影響を受けてきたことに間違いはない。
 
しかし、上に述べた「酒なんてなくなっちゃえばいいんだよマジで」と言い合った男3人がその後、なんのためらいもなく居酒屋に流れ込んでいったことを考えると、酒を止めることなど到底不可能なのだろう。
 
これほどまで人を離さない酒の魅力とはなんなのだろうか。
 
酒を飲めてよかったことを思い返そうとすると、「そういえばなんか楽しかった」くらいしか出てこない。
俺だけだろうか、読者の方もそんなものではなかろうか。
 
それでも人が酒を飲み続けるということは、よかったことが悪かったことを上回っている、つまり
なんか楽しかった > 「めちゃめちゃ酒癖悪いっすよねw」などと言われて気分を害する、たとえすごくいい話を聞いたとしても次の日起きたら覚えていない、気持ち悪い、頭痛い、要らぬ喧嘩をしてしまう、気がついたら路上で寝ている、不細工な女に声をかけて次の日の朝に後悔する、気分が大きくなってとんでもない額の金銭を支払ってしまう、食いたくもないラーメンを食ってしまう、宿酔で仕事の効率が著しく低下してしまい労働時間が長くなってしまう、デートで酔いつぶれて以降その相手と連絡が取れなくなる、帰宅してベッドの上に嘔吐してしまい布団を駄目にしてしまう、接待の場で取引先に粗相をしてしまいその後の仕事に悪影響を及ぼす、店を出たら財布にあったはずの2万円がなくなっている
という不等式が成立する、ということだ。
 
ここまで書いていて、「本当にこの不等式で正しいのか、逆ではないのか?」という思いが芽生えてきたことを隠し切れないのだが、取りあえず今日も俺は酒を飲むだろう。

読書感想:山田ルイ53世「ヒキコモリ漂流記」

山田ルイ53世の本「ヒキコモリ漂流記」を読んだ。めちゃめちゃ面白い本だった。
 
内容に触れるのは最小限にしたいが、一番印象的だったのは「人生が余ってしまった」という表現だ。
 
中学からひきこもってしまい、いわゆる「就職→結婚→定年」という一般的な人生を送ることができなくなった彼にとって、「これから先の人生が余ってしまった」というのは、当時の彼の心情を表現するにはこれ以上ない的確な言葉選びだと思う。
さすが芸人の言語感覚だ。
 
しかし、読んだ後にひとつ違和感が。
それは、「俺自身も『先の人生が余っている』感をビンビンに感じていたし、それは今になっても変わらない」という事実。
さすがに結婚していた期間はそれほどでもなかったが、その前後はビンビンである。
そして俺は当時からヒキコモリではなく会社員だった。
 
山田ルイの指摘する内容を逆にすると、 「就職→結婚→定年」という人生を送れば、「人生は余らない」ということになるはずだが、少なくとも俺にとってはそうではなかった。
まだ定年迎えてないけど。
そして、常識人である俺がそうだったということは、世の中の会社員のうち、どれだけ少なく見積もっても3~4割は「余ってる」感ビンビン派なはず。
 
山田ルイのが少年時代に持った「先の人生が余っている」感は、「自分が想像している人生のレールから外れてしまった」という思いから生まれたものであろう。
一方で会社に勤めていて感じる「先の人生が余っている」感は、「人生のレールがガッチリとはまっていて、先の人生が完全に予想がついてしまった」瞬間にもたらされるのではなかろうか。
読者の中で私と同じ会社員の方がいるならばよくわかると思うが、 会社なんて5年も在籍すれば、将来自分がどれくらいのポジションに収まり、どんな仕事をしているか、など、なんとなく予想がついてくる。
皮肉なことではあるが、先が全く見えなくても、はっきりと見えてしまっても、「人生が余ってしまった」感につながるというのは、興味深い。
 
ここで俺が考えるのは、またしても有閑マダムのことである。
「有閑」というくらいだから、「余っている」どころの話ではないはずだが、喫茶店で集まって会話をしているところを見る限りでは、引け目に感じている雰囲気など皆無で、実に楽しく毎日を過ごしているように思える。
余った人生を、10-0で負けている試合に途中から登板してきた敗戦処理投手が残りの5イニングをノーヒットノーランしてしまうくらいの完璧さで消化している。
さらに言えば、「有閑マダム」という呼び方(呼ばれ方)は、むしろ「余らせていること」自体をコンテンツ化するレベルにすら達している。
 
まあここまで書いて何の解決にもならなかったけど、本を読んだ後にこれを書いていたトータルで3時間程度の人生は余らずに済んだ。

有閑マダムの生態が知りたい

土曜や日曜に家や会社などの近くの喫茶店に入ると、かなりの割合で有閑マダムとおぼしき40~50代の女性数人が集団をなしている。
 
俺のこれまでの人生において接点のなかった人たちであるので、彼女たちが普段どのような生活をしているのか、どこから来てどこへ行くのかについて、俺は知りたいと思っている。
 
あまり趣味がいいことではないが、俺はまず彼女たちの会話に聞き耳を立てる。
しかし、まずその内容を聞き取ることはできない。
なぜなら、有閑マダムの集団は、新たな有閑マダムの集団を呼ぶからである。
もちろん実際に連絡を取って呼んでいるわけではなく、不思議なことになぜか集まるのだ。
そしていつのまにか、彼女らによって店は占拠される。
加えて彼女たちが話す声はもれなく大きい。
したがってそれぞれの集団の話し声が邪魔をして、どのテーブルの話し声も聞き取れない。
 
喫茶店では会話が聞き取れないとなると、店を出て集団がどこへ向かうかを知りたくなる。
しかしこれもままならない。
なぜなら彼女たちは店を出ないからだ。
 
もちろん、いつかは出る。
しかし、「いったいいつ出るんだ?」と思わせられるくらい、長く会話を続ける。
なぜなら有閑だから。
それが彼女たちを有閑マダムたらしめる精神性だから。
そんな彼女たちに俺が敵うわけがない。
俺が「待っていようと思ったが、次の予定があるからもうさすがに待ちきれない」と焦るのを知ってか知らずか、その有閑さを見せつけてくる。
そして俺は根負けして先に店を出るのだ。
 
こうして、彼女たちがどこから現れどこへ向かうのかは、永遠の謎となる。
 
うーん、マンダム。

「◯◯っぽいですよね~」からどのように逃れるか

人と話していると、最近よくこう言われる。
(そもそもあまり人とそんなに話していないので、その数少ない機会のなかでは「よく」という意味で)

 

「A型っぽいと思ったけど、B型だったとは」
「大人っぽいと思ったら、案外子供っぽいんですね」
「タバコ吸う人っぽく見えたけど、意外ですね」
「長男っぽい感じがしたけど、一人っ子なんですね」
「もっと楽しい人っぽく思ってたのに、実はネクラなんだね」

 

当初持っていた第一印象がしばらく話しているうちに塗り替えられ、相手の頭の中で俺は、1つ目の「っぽい」(A型っぽい)から2つ目の「っぽい」(実はB型っぽい)に移動させれられるわけだが、すぐ変わるというのはいかに人の第一印象がいい加減であり、ころころと変わるものであるかを表している。

しかも初対面の人と5分話して下した「っぽい」と、2時間話して下した「っぽい」では、2時間後の方が実態に近いという保証もない。そもそも「実態」なんていう客観的事実が明確に存在するわけでもない。

「世の中で自分のことを一番知らないのは自分だ」ともよく言われる。

 

にもかかわらず、なぜ人は他人のことを「っぽい」と分類するのだろうか。

 

理由をいろいろ考えてみたのだが、行き着いた結論は「分類する行為が楽しいから」でしかないのでは、というものだった。

思い返してみれば、分類することで生活が便利になるわけではない。話しているうちに思い出す程度なら、よくあることだ。

しかし「あの人はネクラだからこういう話し方をしよう」など、分類によってそれぞれの人への対応を使い分けるというような器用なことをする人がいても、それを目的とした分類は少数派であろうというのが俺の実感だ。

少なくとも俺はそんなことができるほど器用ではない。

もっともそれ以上に、人は分類する行為自体を楽しんでいるように見える。

 

反対に、分類されることについてはどうか。

 

これも私見だが、「○○さんって□□っぽいですよね」と言われていい気持ちのする人は少ないであろう。

それには「相手が分類行為を楽しむ材料にされていることに対する不快感」や、「個性重視教育がもたらした価値観の影響」など、様々な感情が入り混じっていそうだが、俺にとっての最大の理由は、以前に血液型と兄弟構成を尋ねられ、B型で一人っ子だと答えたところ、相手の目がクズ、人間界の闇を見るような目つきに変わったことだ。

 

しかしそんなことよりもここで重要なのは、分類行為は「すると楽しいけど、されると嫌なものである」ということだ。

 

俺は上記に挙げた理由などによって、世の中に流通する「『っぽい』を用いた分類行為」の数を、ゼロにしたいと思っている。それこそが、「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」が表した世界ではないだろうか。

 

もしくは、世の中の人が「■■っぽいですよね」(■■には俺の名前が入る)と言われるような存在になりたいと思う。

しかしそれはスーパースターの領域。

だからムリ。

感情の起伏がなくなってきたことについて

すでに多くの人が指摘していることではあるが、人生は苦行である。これは、まちがいなくそうだと言える。
 
実際、二日酔いの気持ち悪さを我慢したり 、買いたいものがあっても金がなくて我慢したり、仕事がうまく進められず怒られて言い返すこともできず我慢したり、同じ職場の人が楽しそうな仕事をしているのを見ながら、「どうして自分はこんな境遇を味わわなくてはいけないんだ」と思いつつもそんなこと言ったって状況が変わるわけじゃないから我慢したり、「どうして俺はモテないんだ」と憤っても少し冷静になって考えればモテない要素なんていくらでても出てくるから憤ってもしょうがねぇなと我慢したり、パンケーキ食べたくても休日目が覚めたら夕方前だし今から出かけるのもめんどくせぇからと我慢したり、同窓の会に出ては「何の仕事してるの?」って聞かれてバカみたいな仕事をしているためバカな話しかできずに「バカなやつだ」と心の奥底で思われているに違いないという惨めな気持ちを我慢したり、どうして俺の人生はキムタクのそれじゃないんだと思ってもキムタクになれるわけがないから我慢したり。挙げればきりがない。
 
こんな風に常に我慢して生活していると、自分の身にある変化が起こってくる。それは「感情の起伏が小さくなる」こと。
 
たまにものすごくいいことがあっても、どこか自分のこととは思えないような違和感を持ってしまったり、何か帳尻合わせのえげつないことがこれから待っているんじゃないかと思ってしまったりする。
反対にものすごくイヤなことがあっても、「いつものことだし…」と、意外とあっさり我慢できるようになるのだ。
 
感情の起伏が小さくなると、人生はどうなるのか。実体験によってわかったのは、プラスの面とマイナスの面の両方があることだ。
 
マイナスの面では
  • 何をやっていても「めっちゃ楽しい」と思うことがない
  • 笑えなくなる
  • 人を好きになるきっかけがわからなくなる
  • 休日に外出することが減る
 
などたくさんあるが、感情が表に出ないのは麻雀をやっている時にはプラスになるから、プラマイゼロである。
 
明日もがんばろう。

モテる方のバカになりたい。

以前、仕事で「ハゲ、チビ、デブ、一番付き合いたくないのは?」というネットアンケートをしようとしたことがあった。
こう言うと、「なんだそのフザケた仕事は! 喝だ!」と憤る人もいるかもしれないが、これも立派な仕事である。職業に貴賎なし。
 
で、アンケート調査をとる前に、参考までに周りにいる何人かの女性にも直接聞いてみた。
 
するとある女性がこう答えた。
 
一番嫌なのはバカ。それ以外は別に気にならない。
 
質問に答えていないことを差し引いても、すばらしい回答である。
 
これほどまでに鋭い意見を、いっさいオブラートに包まずに投げつけてくるサービス精神。サービスが行き過ぎてエンターテインメントの領域にまで達している。そして「容姿は一切気にしない」という懐の深さは、白鵬並みだ。
 
しかし、ずば抜けたクルクルパーを除き、「バカ」を定義するのは案外難しい。
 
例えば、何かに異常なほどハマっている人のことを「◯◯バカ」と呼ぶことがあるが、これは先の女性にとっては恋愛対象外なのだろうか。
 
また、いま俺は新宿のマクドナルドでこのブログを書いているが、となりに座っている男は流体力学という極めて難解高度な勉強をしながらずっとチンコをいじっている。かれこれ20分はいじっている。これはバカなのかバカじゃないのか。
 
全身バカはイヤだが、完璧すぎるのも人間味がないというものだ。「◯◯バカ」と呼ばれるほど何かにハマることができる人を、俺はうらやましく感じることがある。
 
ただ、マクドナルドでチンコをいじっているお前はダメだ。

トーク界のひねり王子こそ最強説

どうすれば女にモテるか。いつの時代にも、男にとって最大のテーマである。

夜に出回っている「◯◯な男が女にモテる」の◯◯に当てはまる言葉には、数多のパターンがあり、それはその言葉を発信する人の性別、年代、恋愛遍歴、人生において何を大切にしているかの価値観などによって変化する。
 
それらの中で一大勢力となっているもののひとつに、「話が面白い男が女にモテる」というものがある。モテたい男性がモテる男性を目指すために読む雑誌に書いてあるのを見たことがある。
 
俺はこれは罪作りな命題だと思っていて、というのも、

「イケメンがモテる」…ブサメンがイケメンになることは(メスでも入れない限り)ムリ
「背が高い男がモテる」…頭にシリコンを入れないとムリ。入れて頭の位置が高くなったとしてもモテるようになるとは思えないからムリ
「運動神経がいい男がモテる」…イケメン同様、持って生まれたものが大きいから、いい年になって挽回するのはムリ
「お金を持っている男がモテる」…仕事をがんばったところで給料が上がるわけでもないからムリ。仕事をがんばるほど収入があがるのは経営レベルの人であり、そんな仕事ができる人たちはそうなった時点でモテているに違いないから関係ない
「おいしいお店に詳しい男がモテる」…舌がバカなのは生まれつきだから詳しくなろうはずもなくムリ
「マメな男がモテる」…マメに連絡しようにも、連絡するようなネタがないからムリ。そもそも毎日人に伝えることがあるような行動力があって楽しい生活を送っている人はその時点でモテているに違いないからこれも関係ない
 
であるため、これらの◯◯は、自分が生まれる前の受精の瞬間からやり直さなければならず当然そんなことはムリだから諦めてそこそこの人生を歩んでいこうという結論にしか到達しない。一方で「話が面白い男が女にモテる」はそうではない。「俺もがんばったら面白い話ができるようになるかも? トーク力を鍛えていっちょモテたろ」と思わせる余地を残しているのだ。
 
しかし、これには大きな問題が横たわる。「話が面白い」は「足が速い」や「背が高い」などと異なり絶対的な尺度ではないということだ。
 
言い換えると、「自分が面白いと思う話を、聞いている相手が同じようにそれを面白いと思うとは限らない」という問題がある。

これに気がつかないまま話しているどういうことになるか。
 
ほら俺の話面白いやろ、だってそら当たり前や。宇宙人に出会った話を面白いと思わんやつがこの世にいるわけがない。ほら、ほら。え? なんでこの子笑わへんの? ほん? うん? …うわーこの人の話マジつまんない、ってか意味わかんない。ほんとムリ。早く帰って○美とLINEしたいんだけど。いっそダッシュで逃げようかしら。
 
といった悲劇が訪れる。
 
「じゃあどうしたら面白い話ができるようになるの?」という問いが出るのが自然な流れだけど、明石家さんまレベルのトーク力の持ち主ならいざしらず、凡人が誰しもにウケる話をできるようになるなんて、到底無理。
 
そこで最近俺が可能性を見出しているのが、「あえて全く関係ないテーマの話題に無理矢理移行するトーク術」というもの。これはどういうものかというと、
 
(腕時計の話をしていて)「腕時計といえば最近よく腹筋してるんだけれども…」
(腹筋の話をしていて)「腹筋もそうだけど、やっぱ人生ってさ…」
(人生の話をしていて)「人生ってリポビタンDに似てるよね…」

 

と、何でもいいから無理矢理に別の話題につなげる会話術だ。
 
「術」といっても何か索があるわけではなく、「リポビタンDに似てるよね」と言った後に、人生とリポビタンDの似ているところを探すだけなのだ。しかし、人間追い込まれると思いもよらぬ能力が発揮されるようで、案外共通点がぱっと出てくるものである。
 
ただこれには瞬発力と同時に、それを裏打ちする相当の知識量が求められる。しかし人はスタートラインに立たない限り、学ぼうとしないのだ。
 
その半面、これがキレイに決まった時のインパクトは絶大だ。それぞれの中身は面白くなくても、「そのテーマとそのテーマを結びつけましたか!」という感動は、あなたへの「話が面白い人」という評価に結びつけるには十分であろう。きっとあなたと話し相手は、古舘伊知郎氏の流れるような実況を思い出すことだろう。そう、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラのことを「リオの関節カーニバル」と呼び、ボブサップを「筋肉の二世帯住宅」と表現した能力に通ずるものを感じないだろうか。その瞬間、話し相手の女性があなたを見る目が変わることはまちがいない。
 
俺自身はまだ一度もこれに成功していない。早く成功させC難度、D難度、E難度とレベルアップしていき、「ひねり王子」「トーク界のシライ」の称号を得たいものだ。だれかコーチお願いします。
 
でもこれって古舘伊知郎はモテるって話にしかなってないな。