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勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

自分が発した言葉をその登場回数でランキングにしたらクズだった

人が発する言葉は、その人の精神状態を色濃く表していると思う。
今月の3分の2が終わろうとしているが、今月俺が発した言葉をその登場頻度でランキングにしてみた。
なお、当然ではあるが、全発言を記録にとっているわけではないので、登場回数もランキングも俺自身による憶測である。
 
1位 めんどくさい  453回
2位 酒  126回
3位 ありがとう 109回
4位 ブチ殺すぞ  88回
5位 仕事  68回
6位 金がない  45回
7位 オフライン  33回
8位 キューピーコーワゴールドアルファープラス   32回
9位 麻雀  18回
10位 おっぱい  14回  
 
1位は2位に3倍以上の差をつけて「めんどくさい」となった。
もうあまりにめんどくさすぎて、何がめんどくさいのか、どうしてめんどくさいのかを考えることすらめんどくさい。
 
2位は「酒」だった。以前も書いたが、酒が俺の人生にとってプラスになっている印象があまりないのだが、ついつい飲むことになる。
 
「『ありがとう』は魔法の合言葉」というように、人に感謝を表すことで自分にも幸せが回ってくるという話を鵜呑みにして、事あるごとに「ありがとう」と言っているのだが、振り返ってみるとそれとほぼ同じ回数「ブチ殺すぞ」と言っていたので、自分に回ってくる幸せ効果はプラスマイナスゼロになっている気がする。
 
5位は「仕事」だが、他にやることがないので、仕事のことを考えざるを得ない。9位の「麻雀」が今以上に存在感を増して「仕事」を追い抜いてくれることを願ってやまない。
 
転職してから生活水準を下げる必要に迫られているのだが、そんなに贅沢をしているつもりではなくても慣れた生活のスタイルを変えるのは難しく、6位に「金がない」が入ってしまった。
 
7位は仕事関連。オフラインチェック多すぎ問題。
 
最近深夜にテレビを見ているとついつい目に留まるのが、米倉涼子が出演しているキューピーコーワゴールドアルファープラスのCM。
CMの量がとても多いこと、米倉涼子があまりにスムーズに「キューピーコーワゴールドアルファープラス」とさらっと早口で言いのけていること、「ゴールド」も「アルファー」も「プラス」も役割としては「超」とか「すごい」とか「スーパー」などの“形容詞的”な言葉であり、それが3つも続いている「キューピーコーワゴールドアルファープラス」はどれだけ効き目がすごいのか、そんなことがCMが放送されるたびに気になってしまい、俺の心を離してくれない。
 
9位は趣味。
これくらいしかないので。
 
10位は揉みたくてランクイン。

俺の家の周辺で火事が集中しているという謎について

いまの家に引っ越して1年半が経つ。
 
俺は18歳の時に上京して、それから15年の間に7回の引っ越しをするくらいにはあっちこっちに居住した経験があったが、今の家に住み始めて1ヶ月ほどが経過した時、あることが気になった。
 
「このあたりの火事発生頻度は異常だ」
 
というのも、消防車の出動回数が尋常ではないのだ。 
家の近辺にいる時間だけでも、週に1回は消防車が出動を主張するサイレン音を聞いた。
これまで住んでいた場所ではこのようなことはなかったので、どうしてこのあたりだけこんなに火事が多いのだろうか。江戸時代かワレ。と、サイレン音にひとりツッコんでいた。
 
しばらくの間、この謎は解けることはなかったが、ある夜、いつも使っている駅の隣駅近くにある店で酒を飲んだ後に、「ひと駅くらい歩いて帰ったろか」と思い家まで歩いていると、家の近くのある建造物から消防車が今まさに出動しようとしているところを目撃し、俺は気がついた。
 
つまり、家から徒歩2分のところに消防署があり、求められればそこからありとあらゆる場所へ消防車は向かうから、俺は頻繁にサイレン音を聞いていたのであって、家の近くで火事が多発しているわけではなかったのだ。
そこに消防署があることは前から知っていて、それにも関わらず「うわ、この辺めっちゃ火事多いな」などとのたまわっていた俺はなんて愚鈍なのだろうかと己を嘆いたが、 「灯台下暗し」というように、こういうことは案外気がつきにくいものである。
自宅周辺が火事集中エリアでなくて、また、現代が江戸時代でなくてよかった。
 
六本木の蔦屋書店の入口すぐには、「自分らしく生きてキラキラした女性になって人生すべてうまくいくための方法」みたいな内容の本が500冊くらいある。
というか、平積みになっている本はほぼすべてがそんなテーマだ。
俺が普段よく行く本屋では、競馬で収益を上げるための方法を紹介している本や、マッキンゼーの超一流コンサルタントの仕事術を二流三流の人にも模倣できるように感じさせる本、全裸の女性の写真がたくさん載っている本、漫画本を中心に取り扱っているから、この偏りは明らかに異様である。
 
また一度だけ入ったことのある信濃町駅すぐの本屋では、池田大作という人物を称える本がやたら多く置かれていた。
俺はこの人物を知らないのでよくわからないが、この偏りもまた特異である。
 
2年ほど前、観光で北朝鮮を訪問したことがある。
平壌の本屋では、販売されている書籍の9割が金日成金正日親子の著作だった。
文才は遺伝するのだろうか。
 
世の中にはまだまだ謎なことが多く、興味深い。

「失敗を恐れるな」という風潮について思うこと

人は失敗を恐れる。
チャレンジすることに寛容ではないと言われる日本においては、特にそうである。
 
しかし、失敗は、恐ろしいものではない。
同じように、事故は、恐ろしいものではない。
ましてや、破産も、恐ろしいものではない。
 
病は、敵ではない。
台風も、敵ではない。
肌の乾燥も、敵ではない。
怪我も、敵ではない。
脂肪も、敵ではない。
不況も、敵ではない。
リストラも、敵ではない。
脱輪も、敵ではない。
リア充も、敵ではない。
 
非難されることは、問題ではない。
カツアゲにあうことも、問題ではない。
フラれるのも、問題ではない。
BANされるのも、問題ではない。
ぼったくりに遭うのも、問題ではない。
風俗店で化物が出てくるのも、問題ではない。
失脚するのも、問題ではない。
殴られるのも、問題ではない。
解雇されるのも、問題ではない。
逮捕されるのも、問題ではない。
 
五里霧中は、問題ではない。
紆余曲折も、問題ではない。
一発免停も、問題ではない。
孤立無援も、問題ではない。
木端微塵も、問題ではない。
死屍累々も、問題ではない。
一家離散も、問題ではない。
再起不能も、問題ではない。
白紙撤回も、問題ではない。
 
死は、終わりではない。
 
そんな境地に、なってみたい。

「酒を飲んでよかったことなんてあったっけ?」と思い返してみる

ここ数週間、めっきり酒に弱くなった。
 
歳のせいだろうか、とも思ったが、アルコール耐性の低下はここ数週間で急激に感じたものであり、年齢の影響とは考えにくい。
とすると原因は疲れだろうか。
「疲れているから」というのは、あまりにも便利な言葉である。
 
以前、友人らと3人で、「酒なんて飲んでも、いいことなんてひとつもないどころかよくないことばかりだから、世の中から消え去ればいい」なんて話をしていたことがある。
 
俺は酒癖の悪い方でもないし、酒での失敗は多くはない方だが、それでも、「めちゃめちゃ酒癖悪いっすよねw」などと言われて気分を害する、たとえすごくいい話を聞いたとしても次の日起きたら覚えていない、気持ち悪い、頭痛い、要らぬ喧嘩をしてしまう、気がついたら路上で寝ている、不細工な女に声をかけて次の日の朝に後悔する、気分が大きくなってとんでもない額の金銭を支払ってしまう、食いたくもないラーメンを食ってしまう、宿酔で仕事の効率が著しく低下してしまい労働時間が長くなってしまう、デートで酔いつぶれて以降その相手と連絡が取れなくなる、帰宅してベッドの上に嘔吐してしまい布団を駄目にしてしまう、接待の場で取引先に粗相をしてしまいその後の仕事に悪影響を及ぼす、店を出たら財布にあったはずの2万円がなくなっている、など、いくつかのアルコールからの悪影響を受けてきたことに間違いはない。
 
しかし、上に述べた「酒なんてなくなっちゃえばいいんだよマジで」と言い合った男3人がその後、なんのためらいもなく居酒屋に流れ込んでいったことを考えると、酒を止めることなど到底不可能なのだろう。
 
これほどまで人を離さない酒の魅力とはなんなのだろうか。
 
酒を飲めてよかったことを思い返そうとすると、「そういえばなんか楽しかった」くらいしか出てこない。
俺だけだろうか、読者の方もそんなものではなかろうか。
 
それでも人が酒を飲み続けるということは、よかったことが悪かったことを上回っている、つまり
なんか楽しかった > 「めちゃめちゃ酒癖悪いっすよねw」などと言われて気分を害する、たとえすごくいい話を聞いたとしても次の日起きたら覚えていない、気持ち悪い、頭痛い、要らぬ喧嘩をしてしまう、気がついたら路上で寝ている、不細工な女に声をかけて次の日の朝に後悔する、気分が大きくなってとんでもない額の金銭を支払ってしまう、食いたくもないラーメンを食ってしまう、宿酔で仕事の効率が著しく低下してしまい労働時間が長くなってしまう、デートで酔いつぶれて以降その相手と連絡が取れなくなる、帰宅してベッドの上に嘔吐してしまい布団を駄目にしてしまう、接待の場で取引先に粗相をしてしまいその後の仕事に悪影響を及ぼす、店を出たら財布にあったはずの2万円がなくなっている
という不等式が成立する、ということだ。
 
ここまで書いていて、「本当にこの不等式で正しいのか、逆ではないのか?」という思いが芽生えてきたことを隠し切れないのだが、取りあえず今日も俺は酒を飲むだろう。

読書感想:山田ルイ53世「ヒキコモリ漂流記」

山田ルイ53世の本「ヒキコモリ漂流記」を読んだ。めちゃめちゃ面白い本だった。
 
内容に触れるのは最小限にしたいが、一番印象的だったのは「人生が余ってしまった」という表現だ。
 
中学からひきこもってしまい、いわゆる「就職→結婚→定年」という一般的な人生を送ることができなくなった彼にとって、「これから先の人生が余ってしまった」というのは、当時の彼の心情を表現するにはこれ以上ない的確な言葉選びだと思う。
さすが芸人の言語感覚だ。
 
しかし、読んだ後にひとつ違和感が。
それは、「俺自身も『先の人生が余っている』感をビンビンに感じていたし、それは今になっても変わらない」という事実。
さすがに結婚していた期間はそれほどでもなかったが、その前後はビンビンである。
そして俺は当時からヒキコモリではなく会社員だった。
 
山田ルイの指摘する内容を逆にすると、 「就職→結婚→定年」という人生を送れば、「人生は余らない」ということになるはずだが、少なくとも俺にとってはそうではなかった。
まだ定年迎えてないけど。
そして、常識人である俺がそうだったということは、世の中の会社員のうち、どれだけ少なく見積もっても3~4割は「余ってる」感ビンビン派なはず。
 
山田ルイのが少年時代に持った「先の人生が余っている」感は、「自分が想像している人生のレールから外れてしまった」という思いから生まれたものであろう。
一方で会社に勤めていて感じる「先の人生が余っている」感は、「人生のレールがガッチリとはまっていて、先の人生が完全に予想がついてしまった」瞬間にもたらされるのではなかろうか。
読者の中で私と同じ会社員の方がいるならばよくわかると思うが、 会社なんて5年も在籍すれば、将来自分がどれくらいのポジションに収まり、どんな仕事をしているか、など、なんとなく予想がついてくる。
皮肉なことではあるが、先が全く見えなくても、はっきりと見えてしまっても、「人生が余ってしまった」感につながるというのは、興味深い。
 
ここで俺が考えるのは、またしても有閑マダムのことである。
「有閑」というくらいだから、「余っている」どころの話ではないはずだが、喫茶店で集まって会話をしているところを見る限りでは、引け目に感じている雰囲気など皆無で、実に楽しく毎日を過ごしているように思える。
余った人生を、10-0で負けている試合に途中から登板してきた敗戦処理投手が残りの5イニングをノーヒットノーランしてしまうくらいの完璧さで消化している。
さらに言えば、「有閑マダム」という呼び方(呼ばれ方)は、むしろ「余らせていること」自体をコンテンツ化するレベルにすら達している。
 
まあここまで書いて何の解決にもならなかったけど、本を読んだ後にこれを書いていたトータルで3時間程度の人生は余らずに済んだ。

有閑マダムの生態が知りたい

土曜や日曜に家や会社などの近くの喫茶店に入ると、かなりの割合で有閑マダムとおぼしき40~50代の女性数人が集団をなしている。
 
俺のこれまでの人生において接点のなかった人たちであるので、彼女たちが普段どのような生活をしているのか、どこから来てどこへ行くのかについて、俺は知りたいと思っている。
 
あまり趣味がいいことではないが、俺はまず彼女たちの会話に聞き耳を立てる。
しかし、まずその内容を聞き取ることはできない。
なぜなら、有閑マダムの集団は、新たな有閑マダムの集団を呼ぶからである。
もちろん実際に連絡を取って呼んでいるわけではなく、不思議なことになぜか集まるのだ。
そしていつのまにか、彼女らによって店は占拠される。
加えて彼女たちが話す声はもれなく大きい。
したがってそれぞれの集団の話し声が邪魔をして、どのテーブルの話し声も聞き取れない。
 
喫茶店では会話が聞き取れないとなると、店を出て集団がどこへ向かうかを知りたくなる。
しかしこれもままならない。
なぜなら彼女たちは店を出ないからだ。
 
もちろん、いつかは出る。
しかし、「いったいいつ出るんだ?」と思わせられるくらい、長く会話を続ける。
なぜなら有閑だから。
それが彼女たちを有閑マダムたらしめる精神性だから。
そんな彼女たちに俺が敵うわけがない。
俺が「待っていようと思ったが、次の予定があるからもうさすがに待ちきれない」と焦るのを知ってか知らずか、その有閑さを見せつけてくる。
そして俺は根負けして先に店を出るのだ。
 
こうして、彼女たちがどこから現れどこへ向かうのかは、永遠の謎となる。
 
うーん、マンダム。

「◯◯っぽいですよね~」からどのように逃れるか

人と話していると、最近よくこう言われる。
(そもそもあまり人とそんなに話していないので、その数少ない機会のなかでは「よく」という意味で)

 

「A型っぽいと思ったけど、B型だったとは」
「大人っぽいと思ったら、案外子供っぽいんですね」
「タバコ吸う人っぽく見えたけど、意外ですね」
「長男っぽい感じがしたけど、一人っ子なんですね」
「もっと楽しい人っぽく思ってたのに、実はネクラなんだね」

 

当初持っていた第一印象がしばらく話しているうちに塗り替えられ、相手の頭の中で俺は、1つ目の「っぽい」(A型っぽい)から2つ目の「っぽい」(実はB型っぽい)に移動させれられるわけだが、すぐ変わるというのはいかに人の第一印象がいい加減であり、ころころと変わるものであるかを表している。

しかも初対面の人と5分話して下した「っぽい」と、2時間話して下した「っぽい」では、2時間後の方が実態に近いという保証もない。そもそも「実態」なんていう客観的事実が明確に存在するわけでもない。

「世の中で自分のことを一番知らないのは自分だ」ともよく言われる。

 

にもかかわらず、なぜ人は他人のことを「っぽい」と分類するのだろうか。

 

理由をいろいろ考えてみたのだが、行き着いた結論は「分類する行為が楽しいから」でしかないのでは、というものだった。

思い返してみれば、分類することで生活が便利になるわけではない。話しているうちに思い出す程度なら、よくあることだ。

しかし「あの人はネクラだからこういう話し方をしよう」など、分類によってそれぞれの人への対応を使い分けるというような器用なことをする人がいても、それを目的とした分類は少数派であろうというのが俺の実感だ。

少なくとも俺はそんなことができるほど器用ではない。

もっともそれ以上に、人は分類する行為自体を楽しんでいるように見える。

 

反対に、分類されることについてはどうか。

 

これも私見だが、「○○さんって□□っぽいですよね」と言われていい気持ちのする人は少ないであろう。

それには「相手が分類行為を楽しむ材料にされていることに対する不快感」や、「個性重視教育がもたらした価値観の影響」など、様々な感情が入り混じっていそうだが、俺にとっての最大の理由は、以前に血液型と兄弟構成を尋ねられ、B型で一人っ子だと答えたところ、相手の目がクズ、人間界の闇を見るような目つきに変わったことだ。

 

しかしそんなことよりもここで重要なのは、分類行為は「すると楽しいけど、されると嫌なものである」ということだ。

 

俺は上記に挙げた理由などによって、世の中に流通する「『っぽい』を用いた分類行為」の数を、ゼロにしたいと思っている。それこそが、「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」が表した世界ではないだろうか。

 

もしくは、世の中の人が「■■っぽいですよね」(■■には俺の名前が入る)と言われるような存在になりたいと思う。

しかしそれはスーパースターの領域。

だからムリ。