仮想通貨と「労働意欲とは何か?」という話
最近よく、仕事関係の人から
「お前ビットコイン(仮想通過全般の意で使われている)持ってるの?」
と尋ねられる。
聞いてくる人に共通する思惑、魂胆は
「仮想通貨でボロ儲けしている人を周囲で発見、その要領、秘訣を聞き出し、応用、自分も今後働く必要もないくらいの金員を儲け、実際に働くのをやめる」
のが理想らしい。
そのことは、俺が
「(仮想通貨は)持っていません」
と返答したら、後にだいたい
「なんだよーやってねーのかよ。誰か知りあいで億とか儲けた人いないの?」
と続くことから推し量れる。
実際、仮想通貨に代表されるビットコインは、直近1年間に限っても10倍以上の価値になっており、億単位の儲けを出した「億り人」なんて言葉も誕生、「俺も億儲けてさっさと引退したい」という思いも、単なる妄想の域を超えた現実味を帯びているように思える。
金融資本主義が発達してから、労働の意義は相対的に低下していたが、それでもまだ価格は労働(が将来的に生み出す価値)と結びついていた。
しかし、仮想通貨はもはや、労働との関連性はない。
俺には経済的な知識がほぼないので適切な表現かどうかわからないが、印象としてはより単なる数字あわせ、ゲームに近い。
そんな仮想通貨によって「1万円が数億円に」なんて一発逆転、リアル「カイジ」のような社会が現実となりつつある中、我々は労働の意味を再定義せざるを得ない。
俺が考えるこれからの労働に対するイメージを先に言うと、「一攫千金即リタイアを仮想通貨で実現するための種銭稼ぎ」である。
今までの社会では、死ぬまでに必要な金を稼ぐためには、一部の資本家や経営者などを除いて、定年まで働かなくてはならなかった。
労働市場では、一度ドロップアウトしてしまうとなかなか復帰が難しいため、相当の厳しい環境であっても逃れることができず、また、歳を重ねるにつれてより高いスキルが要求されるため、労働者はスキルの研鑽という苦行に耐える必要があった。
しかしこれからは、仮想通貨という名の賭場に行き一発当てれば人生ゴールも夢ではなく、労働はその種銭稼ぎでしかないわけだから、何も我慢することはない。
「キャリア」の呪縛から逃れ、嫌な仕事など直ちに離れ、コツコツと黙々と淡々と貯金、ゴールチャンスが来るのをじっと待っていればいいのだ。
当然、ゴールは決まらないことの方が多い。
外してしまえば、また一から種銭の充填をやり直せばいいだけの話だ。
当たった者から労働の呪縛から一抜け、先立つ者がうらやましくても「次は自分の番だ」と思えれば仕事の辛さにも耐えられる。
どれだけ頑張っても定年まで続く気が遠くなるような会社員人生に比べれば、どれだけ夢がある話だろうか。
今後、ますます労働に対する信仰は失われていくだろう。
俺のフラット化と現実離れ
ものの寿命についての考察
先日街頭を歩いていると、いきなり右足首から我が家の鍵が出てきた。
なぜ鍵が足から出てくるのか。
こんな感じで足首からじゃんじゃん家の鍵を出すことができるのならば、俺の足は黄金の右足であるに違いなく、もっと鍛錬を積んで好きなものを好きなときに出すことができる右足首にしたいものだ。
例えばあがり牌とか出せれば、毎回リーチ一発ツモである。
これは僥倖、そう思って歩行を泊め佇んでいると、なんてことはない、ジーンズの右ポケットに穴が開いており、そこから鍵がこぼれてジーンズの内部右足をつたって落下、裾から出てきたのを、「俺の右足が鍵を産んだ」と独り騒いでいただけのことだったのだ。
それに気がついた時、俺はひどく落胆した。
落胆しました。
理由は、俺の右足が黄金でないことが判明したこともあるが、そんなことよりも重要なのは、その時履いていたジーンズが愛用していたものだったからである。
黄金の右足を気がついたら俺が持っていた、なんていう奇跡はそうそうない。
そんなことに浮かれることなどないくらいには、俺は現実的である。
そう、重要なのは愛用のジーンズ。
みかけに大きな損傷もなく、履き心地も依然としてよく申し分なかったのだが、右ポケットに穴が開いていると、家の鍵を紛失してしまうかもしれないのだ。
今回は運良く右足から出てくるところを発見できたが、次回もそううまくいくとは限らない。
歩いているうちに鍵が右足から出ていき、気がついたときにはどこで落としたかわからない、なんて事態になったら超困る。
じゃあ左ポケットに鍵を入れることにしたらええやん? はい解散、解散。
そのように指摘する御方もいらっしゃるかもしれないが、これまで20年以上、家の鍵を右ポケットに入れ続けてきた俺が、急に鍵を入れるポケットを左に変更することは、困難を極める。
そんなこと簡単なことだろう、と思うかもしれないが、これが継続、習慣の恐ろしいところで、今までの方法に慣れていればいるほど、転換は難しいのだ。
大企業が自社のビジネスモデル崩壊を認識していながらも、これまでの成功の幻想に囚われそれを放棄できないこと、蛙が水温を徐々に上げていくといつのまにか茹で上がってしまうことと同様である。
ポケットの死。
ならば、右ポケットを裁縫、開いた穴を塞げばよろしい、そう指摘する人が次に現れるだろう。
現れないかもしれないが、現れるんじゃないかと俺は思う。
しかし、すべての人には得手不得手があり、俺でいうと裁縫が一切できない。
他にもトマトが食べられない、字が汚い、料理が一切できない、記憶力が乏しい、短気、人の心が理解できない、などなど、いろいろあるが、欠点があるからこそ人は魅力がある。
ともかく、裁縫ができないから右ポケットの穴を塞ぐことができない。
以上から何が言えるかというと、あくまで俺にとって、ではあるが、このジーンズの寿命は終わっている。
鍵を入れるポケットを変更する柔軟性または裁縫能力があれば、ジーンズの寿命は数倍にも延びるはずで、もったいないことこの上ないが、仕方がない。
■
ある日、新調した眼鏡をかけて出社したところ、上司や同僚からそろって「変な眼鏡だ」「変な眼鏡をかけていることで、顔全体が変だ」と一笑に付された。
俺は落胆した。
眼鏡なんてそうそう破壊されることのない、ものの寿命としては5年、それ以上の間使用できるはずだが、この日を持って、俺にとってこの眼鏡の寿命が終わってしまった。
俺にとってはそこそこ高額高級な眼鏡で、清水の舞台から飛び降りる気持ちで奮発、購入したものにも関わらず、である。
先のジーンズ理論で考えれば、顔の組成を変形すなわち整形することで眼鏡にジャストフィットした顔になる、もしくは、「変な顔をしている」と言われても一切気にせず「変ですが何か?」と堂々としていられる強靭な精神を持ち合わせていれば、眼鏡の寿命は数百倍に延びるのだが、これも両方とも俺が不得手とするところであり、もったいないが仕方ない。
■
ジーンズや眼鏡のようなとても物質的なものですら、それを使う側の人間の受容性によってここまで寿命の長い短いが左右されてしまうのだから、ものの寿命とは不思議なものだ。
とここまで考えた後、俺の寿命はどれくらいなんだろうか、とふと考えてしまったが、それを本気で考え始めると暗澹たる気持ちになるに違いないので辞めた。
世界の捉え方は四者四様である
洗濯物に修造イズムを学ぶ
前回に続き、服の話。
それも洗濯の話。
先日、洗濯をした。
おそらく多くの人と同様のやり方、スタイルで、汚れた服を全自動洗濯機に放り込み、定められた量の洗剤を投入、全自動で洗浄から脱水まで行う設定でボタンを押下し、あとは終了するまでほったらかし、という手法である。
この日も慣れた手つきで上記の手順を行った。
いつもと同じである。
ただいつもと違ったのが、中の3着に、限りなく黒に近い青色の着色が広範囲についていたことである。
毎回服の汚れを着実に落としてくれていたはずの洗濯機なのに、こんなふざけたことがあるものか。
いったい何があったというのか、さてはこれまで従順だったはずの洗濯機が所有主である俺に謀反、反逆を起こしたというのか。
と思って洗濯機のメーカーに文句を言ってやろうと思っていたところ、洗濯物の山の中からボールペンを発見した。
どうやら、これを胸ポケットに差したまま洗濯機に投入してしまったらしい。
そう言われてみればたしかに、いや部屋には俺独りで誰も何も言っていないが、被害が最も甚大だった服は胸ポケットのところが中心にどど黒くなっているし、1週間ほど前に俺はこの服の胸ポケットにこのボールペンを指し、当然抜き取っていたものだと思っていたが、そのボールペン自体を紛失していた。
あちゃあ俺のミスじゃん失態じゃん、それをなに洗濯機のメーカーにクレーム入れようとしてんだよ俺は、まったくとんだ赤っ恥をかくところだった、そう思って一安心したのも束の間、大変な事態に俺は気がついた。
それは、この服に沈着した限りなく黒に近い青のインク跡が、いくら石鹸や洗剤を大量に使用しても、熱心に擦っても、一切落ちる気配がないことである。
これはまずい。
被害を受けたのがたった3着だったことは不幸中の幸いではあるが、最小限の数の服で日々のローテーションを組んでいる俺にとっては、それでも貴重な戦力だった。
その上前に書いた記事のように、俺は洋服を購入するのが極めて不得意であり、この3着を放棄して新たに同数を購入するのは至難、また百貨店に行って多すぎる選択肢に圧倒され途方にくれて気絶するしかないのだ。
ところが、「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉があるように、世の中には漂白剤という便利なものがある。
それを思い出した俺は、直ちに薬局がドラッグストアに業態を拡張したような感じの店舗に行ってこれを購入。
さっそく商品裏面の注意書きに従い、衣類が痛まない上限であるところの2時間ほど、3着を洗剤と漂白剤の混合液につけ込んだところ、完全にはほど通いが、インクが衣服から溶け出しているではないか。
さすが拾う神だ、と一度は希望に胸を躍らせたが、すでに俺は「これ以上つけ込んだら衣類が痛むからたいがいにしとけよ」と注意書きが警告する2時間を使い切ってしまっていたことを思い出し、すぐさま絶望の縁。
いや、しかしこのまま終えてもこんなインクで汚れまくった服など着て外に出られるわけもなく、であれば、服が傷んでしまっても同じこと、俺は注意書きの警告を無視して、その後も衣類を洗剤と漂白剤の混合液につけ込み続けた。
■
そして、はや1週間が経過。
衣類は痛むことなくピンピンしているのは喜ばしいことだが、残念なのは、インク汚れもピンピンしていること。
意味ないじゃん、と俺は呟いてしまったが、「これ以上や服が死ぬぞやめておけ」という忠告を振り切ってつけ込みの荒行を受け続けている3着から、己の限界に挑戦し続ける姿勢のすばらしさ、周りが限界だと勝手に決めつけたものは本当は限界とは限らないこと、それを知ることができるのは挑戦をした時だけであること、など、一種の修造イズムを教えられた土曜の夜。