勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

今、ピンクグレープフルーツジュースに怒っている

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最近、俺はあることに気がつき、かなり憤っている。
 
何に対してかと言うと、ピンクグレープフルーツジュースに、である。
と書くと、「お前はピンクグレープフルーツジュースが嫌いなのか。では見なければよいしそんなことでいちいち激怒していてはこのストレス社会では即憤死だよ」と忠告してくれる親切な方も何人かいらっしゃるが、そうではない。
俺はピンクグレープフルーツジュースが好きなのだ。
まあ必ずしもピンクである必要はないのだが、ピンクであることが好ましい。
ただ、100%のものでなければならない、という条件があるし、美味しいものでなければならないのは言うまでもない。
ピンクイズベター、100%イズマスト。
 
話は変わるが、「何か買い物せんとなあ」と思った時に、いまの俺の家の周囲には、セブンイレブンが2店、ファミリーマートが1店、イトーヨーカドーが1店あり、さらにちょっと離れたところにマルエツがある。
利便性を追求しすぎたことによる過剰なまでの密集具合だが、21世紀ももうすぐ5分の1を過ぎるところで、効率化も行き届いた結果の飽和状態が今のコンビニ・スーパー密度なのだろう、これは素直に享受したい。
 
だが、それにも関わらず、である。
 
ある日、俺は「あ、冷蔵庫のピンクグレープフルーツジュースが切れとる。買わな」と思い、最寄りのセブンイレブンに行ったところ、先日まで置いてあった500mlのピンクグレープフルーツジュースのパッケージがなく、その場所にさもオレンジジュースのパックが「ここにはずっと前から僕が置かれていましたけれども何か」とでも言わんとばかりに置かれていた。
つい先日俺が同じ売り場を見たときには、左からりんごジュース、オレンジジュース、ピンクグレープフルーツジュースとそれぞれ1列ずつ陳列されていたのに、今見たらりんごジュース、オレンジジュース、オレンジジュースとなっている。
はて、「オレンジジュースは売り場が2倍になるほど人気があっただろうか」と思ったが、いや、そんなことはなく、先日からずっと、最初に売り切れそうになるのはピンクグレープフルーツジュースで、この3種類のうち一番人気なのである。
 
俺も「困ったな」と一言つぶやいたものの、そこは大人、店員をぶん殴ったりすることなく、もう1店舗のセブンイレブンに向かったのだが、ここにもない。
「どうなっているんだ」とつぶやいてもやはり大人、店員を蹴り倒したりすることなく、ファミリーマートに行くとここにもない。
さすがに次の店になかったら、店員を火炙りにしよう、そう思ってイトーヨーカドーに向かう。
コンビニと違って店舗面積が広いイトーヨーカドーならきっとあるだろう、と思って売り場に行くと、いつもはあるはずの1000mlで152円のパックはなく、「ぴゅあぷれみあむ」とかなんとか書いてあるもので、750mlで352円のものがあった。
「なぜいつものがないのだ、こんな高いの誰が買うんだ」と、コレジャナイ感は残りつつも、一応あることにはあったわけだから、店員を火炙りにするわけにもいかない。
結局俺はピンクグレープフルーツジュースのない時期をしばらく過ごすこととなってしまった。
 
しばらくして、最寄りのセブンイレブンでピンクグレープフルーツジュースが復活、「ああよかったよかったこれでもうピンクグレープフルーツジュースがない生活を過ごすことなくやっていける」と思っていたが、しばらくしてまた急に取り扱いがなくなり、そしてまた復活。
これを何度か繰り返して、気がついたことがある。
 
グレープフルーツジュースセブンイレブンにない時には、もう1店のセブンイレブンにもないし、ファミリーマートにもないし、イトーヨーカドーにもなく、マルエツにもない。
ただヨーカドーとマルエツには、ぴゅあぷれみあむ」とか「果実しぼり」とかいい加減な理由をつけて高価なもののみ取り扱われてはいたが、普段取り扱っているお手軽価格のグレープフルーツは、時期を揃えて商品棚から消えていたのである。
 
これこそ、不当に高価なものを買わせようとするカルテルでないとして、果たして何であろうか。
許す訳にはいかない、グレープフルーツジュースに罪はないのだから。
まだグレープフルーツジュースを引退する訳にはいかない。

新潟の米山元県知事の会見は、稀に見るすさまじい内容だった

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ここしばらく性的スキャンダルによる謝罪会見が立て続けに行われているが、そんな中でも圧倒的に新潟の米山元県知事の会見は、人の心をうつ、すさまじい内容だったのではないか、と個人的には感じている。

 

通常の記者会見で要求されるのは、「事実の説明」と「謝罪」、このふたつで十分である。

だから本来であれば

「出会い系サイトで知り合った女性と援助交際をしていました。不適切な行為で謝罪するとともに、責任を取って知事職を辞任します」

とだけ言えば他には何も必要なかったはずだ。

 

援助交際はもちろん褒められたことではないが、男性がマネーの力を活用して女性にちやほやされたいとか性欲を発散したいという欲求は極めてよくありふれたものであるため、込み入った表現は不要であろう。

最低限の釈明さえあれば、「あーそういうことね、やりたかったのね」とわかりやすく解釈され、この件は終わっていたに違いない。

 

しかし、この会見はそれでは終わらなかった。

米山元県知事からは

「私としては、交際だったと思っている」

「女性の歓心を買うためのことだった」

「好きになってほしかった」

「もらう側からは、そんなことで好きになることは全くない、もらうことだけが目的だったということだったのだろう」

と続き、さらには友人の紹介で交際した女性がいたと明かした上で

「無理をしなくても愛されるって、こんなにいいのか、こんなに楽なのかと思った」

と、記者会見の持つ無機質なイメージからはかけ離れた生々しさの、あたかも心の奥底をえぐり出してぐいぐいと見せつけるかのような発言が飛び出した。

 

これには「そこまでぶっちゃけるか」と思ったとともに、言う必要のないことをつい漏らしてしまう元知事の不器用さ、その過度な素直さ、青臭さを感じずにはいられない。

だが、ただ「不器用な人だ」では納得できないほどの異様さを放っている。

まるで男子中学生の初めての告白ではないか。

いや、中学・高校と男子校だったからよく知らないが。

 

おそらく、元知事は会見に訪れた記者たちではなく、援助交際をしていた相手に話していたのではないか。

もうその女性には会うことはできない。

しかし、せめて本当の気持ちだけでも伝えたい。

そこでメディアを通じてそれを実現した、元知事なりの苦渋の決断ではなかったか。

「お前はどう思うか知らないが、いや、わかっているつもりだが、それでも俺は本気だったんだぞ」と、伝えたかったに違いない。

映画の別れのセリフさながらの。

いや、映画以上に映画的で、ロマンチックだ。

 

中継動画を見てみると、1時間20分もの長い会見だったようで、しかも、後半から元知事は汗だくになっている。

いやはや、すごい会見だった。

ワークライフバランスの両立とか働き方改革なんて存在しない

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最近は働き方改革という言葉がよく出回っている。
実際、長時間かつ理不尽な労働を従業員に強いるブラック企業なるものが跋扈し、一度そんなところに入社してしまったものなら、肉体、精神は蝕まれ不幸のスパイラルに陥ってしまうケースも多いらしい。
加えて、インターネットを使ったコミュニケーションツールも進化し、「リモートワーク」といって会社に出社せずともバンバンしゅんしゅん仕事をこなしていくことも可能になった。
出社時間やムダな会議を省き、勤務時間の短縮にも繋がっているとかいないとかいう話を聞いたこともある。
つまり、世の中が総出で
「会社になんか行くのやめてネットで仕事すればいいじゃん」
「労働時間なんてどんどん短くしていけばいいやん」
という歓迎すべき機運、ムードになっているのである。
そもそも仕事なんてしないで済むに越したことはないんだし。
 
しかし先日、俺にとってこの機運をぶち壊す出来事があった。
 
 
何を隠そう、私は「LINEツムツム」というスマホで遊ぶゲームをやることがある。
一時期は隙きあらばすぐツムツム、といったくらいにツムツムをやることが常態化していたのだが、ある日を契機に全くやらなくなった。
ツムツムに真剣に向き合っている時間を、空虚なものに感じてしまったのだ、それも突然。
「断ツムツム」としたのである。
 
先日、ふと1年ぶりくらいにツムツムアプリを開いた。
いや、1年ぶりか何年ぶりかもうわからない、それくらい「断ツムツム」中、俺はツムツムのことを忘れていた。
悪魔との再開だとも気づかずに。
 
久しぶりのツムツムプレイに、俺はいくばくかの練習期間を必要としたが、すぐさま感覚を取り戻し、1000万点以上のスコアを叩き出した。
ツムツムをやる人には理解してもらえると思うが、これはかなりのハイスコアである。
実際俺にとっても、これまでの自己最高を塗り替えるスコアだった。
 
ハイスコアを出して得意気な俺は、スコアランキングを見て愕然とした。
1000万点を超えている俺は、ランキング1位になったのだが、2位には600万点くらいで、某番組でいっしょにやっているディレクターがランクインしていた。
他にも、仕事で関わっている人が何人かがランクイン。
ツムツムのランキングは週1回更新されるのだが、この週、このディレクターはVTRの出来が悪くかなり追い込まれていたはずで、そのロケの仕込みやVTRの修正などでとてもツムツムどころではなかったはずである。
そんな合間に600万点、何やってるんだこいつは。
 
そう思った直後、俺は反省、自戒した。
「俺自身が最もそう思われる場所にいる」ことに気がついたのだ。
本来、ツムツムのスコアとその人の閑暇には何の関係もないのだが、実際にランキングを見ていると、どうしても「高スコアを出しているやつ=暇人」のイメージが拭いきれない。
職場でツムツムのハイスコアなんて出している場合ではないのだ。
 
 
それにしても、おそろしいのはLINEである。
 
コミュニケーションツールとしてあまりに普及してしまったため、個人的な範囲にとどまらず職場や仕事関係の人とつながったり、実際にそれを使って業務連絡をやりとりすることになるケースも多いかと想像する。
それだけであればまだよかったのだが、ゲームにまで関連してしまっている現状では、リモートワーク、ひいては働き方改革など、まだまだ夢物語ではないだろうか。

仮想通貨と「労働意欲とは何か?」という話

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最近よく、仕事関係の人から
「お前ビットコイン(仮想通過全般の意で使われている)持ってるの?」
と尋ねられる。

聞いてくる人に共通する思惑、魂胆は
「仮想通貨でボロ儲けしている人を周囲で発見、その要領、秘訣を聞き出し、応用、自分も今後働く必要もないくらいの金員を儲け、実際に働くのをやめる」
のが理想らしい。

そのことは、俺が
「(仮想通貨は)持っていません」
と返答したら、後にだいたい
「なんだよーやってねーのかよ。誰か知りあいで億とか儲けた人いないの?」
と続くことから推し量れる。

 

実際、仮想通貨に代表されるビットコインは、直近1年間に限っても10倍以上の価値になっており、億単位の儲けを出した「億り人」なんて言葉も誕生、「俺も億儲けてさっさと引退したい」という思いも、単なる妄想の域を超えた現実味を帯びているように思える。

 

金融資本主義が発達してから、労働の意義は相対的に低下していたが、それでもまだ価格は労働(が将来的に生み出す価値)と結びついていた。

しかし、仮想通貨はもはや、労働との関連性はない。

俺には経済的な知識がほぼないので適切な表現かどうかわからないが、印象としてはより単なる数字あわせ、ゲームに近い。

そんな仮想通貨によって「1万円が数億円に」なんて一発逆転、リアル「カイジ」のような社会が現実となりつつある中、我々は労働の意味を再定義せざるを得ない。

 

俺が考えるこれからの労働に対するイメージを先に言うと、「一攫千金即リタイアを仮想通貨で実現するための種銭稼ぎ」である。

 

今までの社会では、死ぬまでに必要な金を稼ぐためには、一部の資本家や経営者などを除いて、定年まで働かなくてはならなかった。

労働市場では、一度ドロップアウトしてしまうとなかなか復帰が難しいため、相当の厳しい環境であっても逃れることができず、また、歳を重ねるにつれてより高いスキルが要求されるため、労働者はスキルの研鑽という苦行に耐える必要があった。

 

しかしこれからは、仮想通貨という名の賭場に行き一発当てれば人生ゴールも夢ではなく、労働はその種銭稼ぎでしかないわけだから、何も我慢することはない。

「キャリア」の呪縛から逃れ、嫌な仕事など直ちに離れ、コツコツと黙々と淡々と貯金、ゴールチャンスが来るのをじっと待っていればいいのだ。

 

当然、ゴールは決まらないことの方が多い。

外してしまえば、また一から種銭の充填をやり直せばいいだけの話だ。

当たった者から労働の呪縛から一抜け、先立つ者がうらやましくても「次は自分の番だ」と思えれば仕事の辛さにも耐えられる。

どれだけ頑張っても定年まで続く気が遠くなるような会社員人生に比べれば、どれだけ夢がある話だろうか。

 

今後、ますます労働に対する信仰は失われていくだろう。

 

俺のフラット化と現実離れ

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『フラット化する社会』という著作が昔ベストセラーになった。
10年以上前に発表されたこの本は、インターネットによって情報が物理的な距離の障壁を越え、あらゆる産業がグローバル化、フラット化する、と、まさに今の世界の状況を予見した名著だと思うが、俺は読んでいないので、おそらくそんな内容だったんだろうと推測する。
 
発売当時俺は本のタイトルと帯だけを見て、「あーなるほどねー先見の明とはこういうことを言うんだなあ。俺にもそれがあれば、時代に先回りして銭儲けができるのに」と思ったものの、本の物理的な厚みと、労働がどうした経済がどうしただの、表紙から漂う内容の意識の高さを敬遠して、手に取ることはなかった。
しかし最近になって、10年遅れでやっと俺にも、「あーたしかにフラット化やね世界は」と肚の底から思えるような感覚が何度もあり、フラット化前線の到来を身をもって体感している。
これぞ先見性のなさ。
 
 
最近頻繁に「若者の○○離れ」が話題に取り上げられている。
○○には、テレビや酒、車、旅行、恋愛、ガム、ギャンブル、お茶など様々なものが当てはまり、この手の話題があがるたびに「近頃の若者はどうなっとるんだ!?」と嘆く人が現れる。
俺はそういった言説に対してどう思っているかと言うと、基本的には「そらそやろ。当然そうなるやろ」と思っている。
「若者」というには俺は歳を取りすぎてはいるが、自分の体験としてそう思うのだ。
 
つまり、実際に俺もいろんな○○から離れまくっており、その原因がインターネットやバーチャルリアリティの発達による自分の欲望の低下にあることを、実感しているからである。
 
いろんなものの発達によって、我々はいつでも、
遠い国の美しい風景を目の当たりにすることができるし
10年に1人レベルの高校球児を育成することができるし
レアルマドリードと対戦することもできれば、レアルマドリードになることもできるし
金メダリストにもなれるし
悪い奴から宇宙を救うヒーローになることもできるし
超いい女とセックスできるし
富士山の頂上まで行くことができるし
美少女な戦国武将を育てて野球で天下統一することができるし
家にいながらなんだってできるのである。
 
そんなものだから、趣味がなんだとか夢がなんだとか、あの人がうらやましいとか、翻って俺の今置かれたこの悲惨な状況は何だ、とも思わなくなる。
だって俺は万能だから、非現実の中でだけは。
そして陰にも陽にも感情の振れ幅が小さくなり、「フラット」になってくるのだ。
先進国と発展途上国の経済とか技術がフラットになってくるとかそういう難しいことはよくわからないが、俺の「フラット化」はここにある。
 
こういう状況に対して、「それは現実から逃亡だ」と非難する人もいるが、逃亡できているうちは逃亡していていいと思うし、むしろ今後の技術発展は、さらに逃亡の幅を広げ、より現実に近い非現実を提供する方向に進むだろうから、みんなばんばんフラットになっていって、何も思わぬ人で世界は埋め尽くされるようになるのであろう。

ものの寿命についての考察

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先日街頭を歩いていると、いきなり右足首から我が家の鍵が出てきた。

なぜ鍵が足から出てくるのか。

こんな感じで足首からじゃんじゃん家の鍵を出すことができるのならば、俺の足は黄金の右足であるに違いなく、もっと鍛錬を積んで好きなものを好きなときに出すことができる右足首にしたいものだ。

例えばあがり牌とか出せれば、毎回リーチ一発ツモである。

これは僥倖、そう思って歩行を泊め佇んでいると、なんてことはない、ジーンズの右ポケットに穴が開いており、そこから鍵がこぼれてジーンズの内部右足をつたって落下、裾から出てきたのを、「俺の右足が鍵を産んだ」と独り騒いでいただけのことだったのだ。

 

それに気がついた時、俺はひどく落胆した。

落胆しました。

理由は、俺の右足が黄金でないことが判明したこともあるが、そんなことよりも重要なのは、その時履いていたジーンズが愛用していたものだったからである。

黄金の右足を気がついたら俺が持っていた、なんていう奇跡はそうそうない。

そんなことに浮かれることなどないくらいには、俺は現実的である。

 

そう、重要なのは愛用のジーンズ。

みかけに大きな損傷もなく、履き心地も依然としてよく申し分なかったのだが、右ポケットに穴が開いていると、家の鍵を紛失してしまうかもしれないのだ。

今回は運良く右足から出てくるところを発見できたが、次回もそううまくいくとは限らない。

歩いているうちに鍵が右足から出ていき、気がついたときにはどこで落としたかわからない、なんて事態になったら超困る。

 

じゃあ左ポケットに鍵を入れることにしたらええやん? はい解散、解散。

そのように指摘する御方もいらっしゃるかもしれないが、これまで20年以上、家の鍵を右ポケットに入れ続けてきた俺が、急に鍵を入れるポケットを左に変更することは、困難を極める。

そんなこと簡単なことだろう、と思うかもしれないが、これが継続、習慣の恐ろしいところで、今までの方法に慣れていればいるほど、転換は難しいのだ。

大企業が自社のビジネスモデル崩壊を認識していながらも、これまでの成功の幻想に囚われそれを放棄できないこと、蛙が水温を徐々に上げていくといつのまにか茹で上がってしまうことと同様である。

ジーンズの茹で蛙

ポケットの死。

 

ならば、右ポケットを裁縫、開いた穴を塞げばよろしい、そう指摘する人が次に現れるだろう。

現れないかもしれないが、現れるんじゃないかと俺は思う。

しかし、すべての人には得手不得手があり、俺でいうと裁縫が一切できない。

他にもトマトが食べられない、字が汚い、料理が一切できない、記憶力が乏しい、短気、人の心が理解できない、などなど、いろいろあるが、欠点があるからこそ人は魅力がある。

ともかく、裁縫ができないから右ポケットの穴を塞ぐことができない。

 

以上から何が言えるかというと、あくまで俺にとって、ではあるが、このジーンズの寿命は終わっている。

鍵を入れるポケットを変更する柔軟性または裁縫能力があれば、ジーンズの寿命は数倍にも延びるはずで、もったいないことこの上ないが、仕方がない。

 

 

ある日、新調した眼鏡をかけて出社したところ、上司や同僚からそろって「変な眼鏡だ」「変な眼鏡をかけていることで、顔全体が変だ」と一笑に付された。

俺は落胆した。

眼鏡なんてそうそう破壊されることのない、ものの寿命としては5年、それ以上の間使用できるはずだが、この日を持って、俺にとってこの眼鏡の寿命が終わってしまった。

俺にとってはそこそこ高額高級な眼鏡で、清水の舞台から飛び降りる気持ちで奮発、購入したものにも関わらず、である。

 

先のジーンズ理論で考えれば、顔の組成を変形すなわち整形することで眼鏡にジャストフィットした顔になる、もしくは、「変な顔をしている」と言われても一切気にせず「変ですが何か?」と堂々としていられる強靭な精神を持ち合わせていれば、眼鏡の寿命は数百倍に延びるのだが、これも両方とも俺が不得手とするところであり、もったいないが仕方ない。

 

 

ジーンズや眼鏡のようなとても物質的なものですら、それを使う側の人間の受容性によってここまで寿命の長い短いが左右されてしまうのだから、ものの寿命とは不思議なものだ。

 

とここまで考えた後、俺の寿命はどれくらいなんだろうか、とふと考えてしまったが、それを本気で考え始めると暗澹たる気持ちになるに違いないので辞めた。

世界の捉え方は四者四様である

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喫茶店の席に座っている。
対面には60歳前後のおっさんが座っているのだが、このおっさんがいわゆる「あっちの世界の方」である。
 
「あっちの世界の方」というのは俺が勝手にそう呼んでいるだけなのだが、皆さんも一度は見かけたことがあるのではないか。
往来で誰に対してでもなく宙に向かって延々と話しかける、いきなり演説を始める、駅で駅員さんの真似事をする、など、一見奇異に思える行動をとる人のことである。
尋ねてみたことがないので定かではないが、おそらく彼らには彼らなりの世界の捉え方があって、その範囲内で自分自身のことを正常と思っているが、その世界が周囲とズレまくっているために、周囲からは奇人と見られてしまうのだろう。
 
いま俺の対面に座っているおっさんは、相当レベルの高い「あっちの世界」の人で、右手には聖書を持ち、左手で何かを呼ぶかのように手招きのごとく上下左右に動かしながら、ブツブツ何か言っている状態がかれこれ30分以上続いている。
 
隣に座っていた28歳くらいの女性は、おっさんの奇行に気がつくと顔色を急変させ、店で購入しまだ大半が残っているコーヒーのカップをうち捨て、店を出てしまった。
 
その後空いた席には、何も知らない22歳くらいの男性が座った。
「あぁ、彼もすぐおっさんの非常識的な言動に恐怖を感じ、すぐに店を出ていってしまうのだろうなぁ」と俺は当初高をくくっていた。
しかし、一人目の女性と彼の違いは、彼は耳にイヤホンを装着しおそらく何らかの音楽を聴いていたことで、その音楽であろうものが、彼がおっさんの奇怪な言動に気がつかないように妨げている。
 
つけあがったおっさんは、かばんからギャッツビーのボディーシートを取り出し、まずは聖書をピカピカにした後、自らの顔、脇、腹、足と、次々とまるで入浴かのように拭いた。
その間ももちろんブツブツ何かを言い続けるのは止めずに。
しかしこれでもまだ、推定22歳の男性はおっさんの異常に気がつかない。
それほどまで彼が聴いている音楽が爆音なのか。
それとも、彼もまた「あっちの世界」の人なのだろうか。
わからないが、俺はおっさんが気になって店を出られない。
そして俺の隣に座っている30歳くらいの男性は、おっさんとの距離的におっさんの狂逸に気がついていない訳がないのだが、ひたすら無視を決め込んでいる。
この男性も「あっちの世界」の人なのだろうか、それともここ新宿という土地では、このようなおっさんとの遭遇は日常茶飯事、取るに足らないことなのだろうか。
 
おっさんに対する反応は、四者四様である。