勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

自分で自分の誕生日パーティーを主催できる人がうらやましい

SNSを眺めていると、「私の誕生日パーティーを開催するので、ぜひ来てください!参加表明はこちらのボタンをクリック」といった投稿をたまに目にするのだが、これを見ると毎回なんとも言えぬもやっとした気持ちになる。

そして、しばらく考える。

すると、そのもやっとした感情の発生源は、単なる「うらやましい」であることに気がつく。

俺はなぜ、自分の誕生日パーティーを自分で主催して、告知、招待できる側の人間になることができなかったのだろうか。

 

一度、仮に俺が同じことをやったらどうなるか、想像をしたことがある。
結果は、恐ろしいものだった。

 

パーティー開くはいいけど、自分で主催するからには内容も自分で決めないといけないが、何をやろうか。

というか、俺では、何をやったとしても、見る側は「私達はいったい何を見せられているのだろうか」ってなるだろうなあ。

中身はさておき、会費はいくらにしようか。

こんな暇イベント、無料でも人は集まるのだろうか。

招待はどこまで幅広く声をかけようか。

仲の良い人たちだけにするのか、それとも、とりあえずSNSでつながっている人は全員か。

いや、もはや、つながっていても俺のことなど知らないもしくは覚えていない人が過半数くらいいるだろうから、全員は無いか。

でも仲の良い人に絞ったのに全然集まらなかったらどうしよう。

そもそも、仲の良い人なんていたっけ?

全員に声をかけたら、SNSで招待を見た人はどう思うのだろうか。「なにやってんだこいつ」とか思うのかな。

 

などの難題が山積、考え出すと面倒すぎて目眩がしてくるから、私は私の誕生日パーティーを開催することは永遠にないであろう。

しかしこれで終わってしまうと、今回のブログのテーマが完結してしまうので、面倒を承知で、パーティーを開こうとするとどうなるか、推考を続けてみよう。

 

特にややこしいのが、会費である。

 

一般的には、人が参加したいという気持ちは、会費の額と反比例すると考えられる。

さらに、会費が高ければ高いほど、参加する側が「こんな高い金払ったんだから、さぞかし面白い催し物をやるんだろうな。それが無いなら最低限、美味いもの食って元を取ったろ。しょうもなかったら承知せんぞ」と、内容およびクオリティに対する期待値、言い換えれば、主催者に対する精神的圧力、が上がる。

募集要項を見た人の「こいつの誕生日に○○○○円なんて、果たして誰が行くというのか」というつぶやきが、スマホの画面越しに聞こえてくるような気持ちになる。

会費が高ければ高いほど「誰が行くねん」という人の数は増えるし、「行くわけないだろうが」の気持ちも強まる(であろうと、スマホの画面越しに伝わってくる)。

誕生日パーティーを開きたい人は、おそらく、ある程度の数の人に祝ってもらいたいから開催するわけであって、参加者を減らしたくないから、会費はなるべく抑えたいところだ。

一方で、会費が低ければ低いほど、会場費、運営費、飲食費などの費用が賄えずに赤字になる可能性が上がる、また赤字額も膨れ上がる。

このバランスをとって絶妙な会費を設定するのは大変困難と想像され、会費が高すぎても安すぎても、赤字になるリスクは大きくなるが、最適解は事前にはわからないし、事後にもわからないであろう。

つまり、自前誕生日パーティー開催を実現するには、相応の集客力と、赤字を厭わない資金力が必要とわかる。

さらにやっかいなのが、相応の資金力を持つ人は、だいたい、集客力も兼ね備えている場合が多い。

それは資金資産がある人に近づくとおこぼれに預かれると考えて行きたくなるのか、または資産資金がある人は人間的魅力、いわゆる人間力が高いことの所作であるから必然的に集客力も持っているのか、もしくは逆に、集客力すなわち人気があることで収入が高まり資金が貯まっているのか、鶏と卵の関係で因果関係はわからない。

ただ確実に言えることは、誕生日パーティーの開催資格を持つ人は、一部の富裕層に集中し、ピケティも見落とした「自前誕生日パーティー開催力」の偏りの存在だ。

 

この偏りには、SNSのある機能も影響を与えている。

俺は集客力も資金も持ち合わせていないが、仮に、そんなことを意に介さず強行して誕生会を行った場合にも、SNSには困った機能がある。

誰が、何人が参加する意向を表明しているのか、一目でわかるあれだ。

これがあることによって、参加者が多い誕生日パーティーは、「お、なんかめちゃめちゃ人が集まっとるやんけ。楽しそうやな、俺も参加したろ」となるし、参加者がほとんどいないパーティーだと、「なんやこれ、2人しかおらんやんけ。こんなん行っても誰とも話されへんし、楽しなさそうやからやめとこう」となる。

人が人を呼ぶ、もしくは人の不在が人を遠ざける。

これによって、誕生日パーティー集客力の格差社会が生まれるのだ。

 

では、この格差を克服し、誕生日パーティーを開催できる人間になるには、どうすればよいのだろうか。

上記の考察により、以下の筋道が考えられる。

 

①とにかく金を貯める

俺には金があるから赤字になっても全く構わない、という精神的余裕を拠り所とし、参加費を極限まで下げる。

それでも集客力が足りないのなら、参加費を無料にした上で参加者に金を配る。

行くだけで飯が食える、金がもらえるのであれば、主催者に人気がなくても、つまらないパーティーでも、ある程度の人は集まるだろう。

金を貯める方法は、死ぬほど働いて収入を増やしながら、生活費をギリギリまで節約する、以外の方法を知っている方はぜひ教えてほしい。

 

②人気者になる

言うのは簡単だが、実行するのは至難の業である。

そして前にも述べたように、人気者になる資質は、資本主義社会で成功する能力と共通する部分が多い。

もちろん、資本主義社会で失敗することによって人気者になる、というケースもあるが、これは、水原一平や粗品、(規模は全然違うけど)岐阜暴威などのように、金を失ったこと自体をエンタメ化できる強靭な精神力が必要となる(水原一平はまだそれをやっておらず、彼の復活のためにはそれしかないだろうからがんばってほしい、という期待を込めて)。

これは並大抵のことではなく、私なら、株取引で1000万円失ったら1年は立ち直れないだろうし、ギャンブルで60億も溶かしたらUber Eatsなんてやっても意味がないと絶望して身体が動かないだろうし、ましてやYouTubeに動画を投稿するなどして自分の失態を世に広めようなんて、思いも寄らないだろう。

しかし、私は、資金力や集客力より根本的な問題を抱えていることに、逃れることはできないだろう。

それはひと言で言えば、気持ちの問題である。

「私の誕生日に、参加したい人を募集する、または、幅広く募るほどの価値がある」と、自分が思っているかどうか、ということだ。

 

前にも述べたことがあるが、私には、10歳より前の記憶がほとんど無い。

suzuki1001.hatenablog.com

 

家族で誕生日パーティーを開くのなんて、だいたい10台前半くらいまでだろうから、私は、人生で私の誕生日パーティーをやった、もしくはやってもらった経験がない。(経験はあるのかもしれないが、記憶がない以上、それは経験していないのと同じだ)。

せいぜい、飲み屋で飲んでいたら突然店内が暗くなって、BGMが流れ、花火が3本ほど乗ったケーキを持ってきてもらった経験が2度ほどある程度だ(それも大変ありがたいことであり、本当は「程度だ」なんて書いてはいけないのだが、ここは便宜上、誕生日パーティーと比較するためにそのようにする)。

5段の跳び箱を跳び越えられない者が12段に挑戦しようとは思わないのと同様に、私のような誕生日パーティー童貞が、「私の誕生日パーティーを開催するので、ぜひ来てください!参加表明はこちらのボタンをクリック!」なんて、SNSに投稿できるわけがないのは自明のことであり、集客力とか資金力とか以前の精神性の部分で、私は「自前で誕生日パーティー開ける」勢に完敗していたのである。

 

誤解しないでもらいたいが、これは私の心の闇とか、そういった類のものでは全く無い。

どちらかといえば、「右利きか左利きか」といった、単純な個性の違いに近い。

ただ、私はそれを心底うらやましいと思っている。