信用スコアと愚行権とその先にある革命
話題としてはちょっと古いが、ネット上で個人の信用スコアをつけて、それをいろんな評価に活用する動きが出ている。
日本では、みずほ銀行とソフトバンクが組んで「J.Score」を立ち上げたり、LINEも参入を発表、今後はヤフーも事業を開始するらしい。
カンタンに言うとソフトバンクやLINEは、自社サービスのユーザーデータを分析して、銀行が各ユーザーに融資する際の金利を個別に算出する、というサービスだ。
一見すると「個人情報保護的にやばくね?」という感じもあるが、多くのポイントカードがやっているような「頻繁に使う人ほどポイント還元を有利にする」のが、少し複雑になったところで大差ないのでは、とも思う。
だが、学校の先生ならまだしもたかだかいち企業に
「あ、35点のお客様ですね、金利は通常の2倍となります」
と言われるのも癪だし、
「こんなのいやだなーでも世の中の流れは止められないのかなー」
と気になってちょいちょい調べてみたら、ちょっと前に話題になった中国の「芝麻信用」が、その悪夢のような状況をまさに体現しているところまでいききっているらしい。
「分割払いを使ったらスコアが上がる」とか、あまりのストレートさに清々しさすら感じるが、よく考えてみると、多くのポイントカードが「頻繁に使う人ほどポイント還元を有利にする」というえこひいきをしているし、それが少し複雑になったところで大差ないのでは、とも思う。
ただひとつ確信を持って言えるのは、この「AIとかコンピューターを使って人間をより精密に評価・スコア化し、それによっていろんなことをスムーズにかつより儲かるようにしたい」という流れは確実に存在し、
「いろいろデータ取って分析してみたけど、儲かるようになってないし意味ないね。これまで通りの決め方にしよう」
となるまでは止まらない、ということだ。
だから、遅かれ早かれ、LINEは銀行と組むからには
「こいつ友だちとこんなくだらない会話してるのか。しょうもないやつに違いない」
「こいつLINE既読無視されまくってるくらいだから、人望がない、金を貸すに値しない奴に違いない」
ということをやるだろうし、
「こいつ、携帯の位置情報見たらソープランドばっかり行ってるから金貸す価値なし」
なんてことをやるようになるのである。
さらに進化(悪化?)すれば、「ドラゴンボール」の「スカウター」のように、人にスマホをかざせば(もうそのころにはデバイスはスマホですらないのかもしれないが)、その相手が
・どれくらいの金と社会的地位を持っているか
・どれくらいケンカが強いか
・どれくらい麻雀が強いか
なんてことが一目に、数値でわかるようになる。
いまはLINEでのやりとりの文面やサービスの利用状況くらいかもしれないが、よりITが進化し、かつ監視社会化が進めば、我々の日常行動はすべて監視、解析、データ送信され、大酒飲みでゲロを喉に詰まらせて死ぬリスクが高い人なんて、とんでもない高い金利を設定されるようになる。
そんな未来が近いのではないかと思う。
人々はスコアを上げるために、企業に気に入られるように「いい子ちゃん」にふるまうようになるだろう。
そうでもしないと、金銭的機会的損失が生まれるから。
そしてその反動で、スコアを下げるような行為、つまり「愚行権」をバンバン行使しまくる人の希少性、相対的価値が上がり、ニッチな領域で崇拝を集めるようになるのだろう、と思う。
より狭い世界で純度を高めたカリスマは、やがて、広く社会的に受け入れられている、しかし自分たちだけを受け入れないスコアを根底からひっくり返すために、革命を起こすだろう。
日産ゴーン問題に金の魔力、恐ろしさを見た
消極的挙手と麻雀をしたい2019年
なぜ「高輪ゲートウェイ駅」という名前になったのか
ある人や事物を他の人や事物と区別して表すために付けた呼び方(大辞林)
この地域は、古来より街道が通じ江戸の玄関口として賑わいをみせた地であり、明治時代には地域をつなぐ鉄道が開通した由緒あるエリアという歴史的背景を持っています。 新しい街は、世界中から先進的な企業と人材が集う国際交流拠点の形成を目指しており、新駅はこの地域の歴史を受け継ぎ、今後も交流拠点としての機能を担うことになります。 新しい駅が、過去と未来、日本と世界、そして多くの人々をつなぐ結節点として、街全体の発展に寄与するよう選定しました。
「強制的50歳寿命論」について
「定年制の廃止」は超やばい
すでに多くの人が言っていることだが、近い将来、定年制がなくなるのではないかという予想がある。
予想というか、そうしないと日本社会が維持できないという意見、提言も見られる。
思い返してみれば、これまでさまざまな法律や制度が「こんな法案が成立したら本当にやばい」など、成立前に多くの人に危惧されていた。
しかしそんな声が国会に届くことはなく、いや、届いたのかもしれないが有効な影響力を持つまでには至らず、法案はしれっと成立し、施行されてきた。
さて、その後私たちの生活に大きな問題などあっただろうか?
人によっては、生きづらさを感じたり不満に思うことがあるだろうが、新しい法律の施行によって社会システムが直ちにが破綻したわけではない。
「本当にやばい」と言われてきたものも、そういう意味では「本当にやばい」というほどではなかったのだ。
しかし、今回の「定年制廃止」、これはマジで「本当にやばい」。
「高度プロフェッショナル制度」とは比べ物にならないくらいやばい。
個人的にはあまり政治的な発言をしたくはないのだが、今回はいままで「この法案はやばい」と言われてきた数々の法案とは比べ物にならないほどやばいと思っていて、その割に「やばいでしょ」の声が少ないと感じたので、書くことにした。
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企業勤めをしたことがある人はわかると思うが、会社員は、くだらない愛想を言ったり、馬鹿な顧客や上司の理不尽な命令に従ったり、お門違いの叱責やクレーム、暴力にも反抗せず我慢したりしなければならない。
長年にわたってそんな苦行に耐えるのは超人的な精神を必要とする。
それを支えるのは、「そうしていれば給料が出る」「出世すれば理不尽をされる側からする側に回れる」「長いとはいっても終わりがある(とわかっている)」からだ。
この3つの条件のうち、どれかひとつでも欠けてしまえば、超人的な精神力をもってしても崩壊は免れない。
1つ目と2つ目は当然のことだが、案外、3つ目もとても重要である。
というのも、中に時計があるサウナに入るのと、何もなく時間がわからないサウナに入るのでは、同じ10分間であっても、体感的な時間は全然違うはずで、これは俺に限らず多くの人が実感として持っているのではないだろうか。
マラソンランナーも、42.195kmではなく、「走ってる間にゴールの場所決めます。だいたい40kmくらいかなーと思いますが、その時になってみるまでわかりません」と言われたらよりつらいだろうし、懲役30年よりも「無期懲役と言われていたけど、30年後に『明日出ていいよ』と言われた」人のほうが長く感じるだろう。
マラソンも懲役もやったことないからわからないけど。
会社であれば65歳まで、大卒即入社として40年ちょいの期間。
人生の半分弱、そうとう長い時間だが、暗い暗い洞窟の先にうっすら光が見えているからこそ、人はその光を目指して進むことができるのではないか。
「定年制廃止」は、そんな会社員のささやかな夢を奪い取り完全にぶち壊す、極めて無慈悲な施策といえよう。
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「嫌だったら辞めればいい」と言い放つ人もいる。
しかしわかりきっているように、大半の人は、人が嫌がること、めんどくさいと思っていること、なんでこんなことを俺様がやらなくてはいけないのかお前がやっとけよと思うことを、その人に代わって行うからこそ賃金がもらえるのであって、仕事を辞めて好き放題遊んでいたら瞬く間に無一文になってしまうのは言うまでもない。
「好きなことで生きていく」なんて、よほどの才能か運に恵まれなければ、到底成立しないのだ。
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とはいえ、日本は世界に前例のないほどの超高齢化社会を迎えるし、ただでさえ国際的には競争力が低下している中で、少ない労働力であふれる高齢層を支える構造が破綻するのは明らかで、そうなれば「みんな死ぬまで働くしかないよね」という発想に行き着くのは自然なことだと思う。
「死ぬまで働く」
そんな終わりの見えない地獄をやりすごすことができる強靭な忍耐力を持つ人は問題ではないが、俺のような凡人は、定年を迎えられない時代への対策をいち早く取るべきである。
定年のない社会で働くのを辞めるには、残りの人生で必要な金を貯めるか、死ぬしかない。
そして一部の超高所得者以外、莫大な金をつかむ起爆剤は、もはや仮想通過しか残されていないと思う。
しかし、これだけあれば十分と思える額の金を貯めることができたとしても、長生きしすぎることに対する恐怖は残る。
「残りの人生でいくら必要なのか」は、その計算が狂えば、晩年は悲惨なことになる。
そうするともう、残る答えはひとつしかないように思えてきてしまう。
人生の定年は、自分の手で迎えるしかないのだろうか。