勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

「うらやましい」という感情が面白い

「隣の芝生は青く見える」ということわざがある。最近この言葉を思い出させられる体験が多い。
 
というのも、僕は11年いた会社を辞めて今の会社に転職し、3ヶ月が経ったところなんです。で、「前はどこにいたの?」と会う人会う人から尋ねられる。答えると、「えーえー絶対そっちのほうがよかったじゃん何で辞めたの?」と、希望あふれる新天地の出鼻をくじく言葉を投げかけられることが多いのだ。
 
また、前の会社の人からもありがたいことに食事に誘ってもらえる。すると「華やかな仕事でうらやましい。」と多くの人が口をそろえる。
 
お互いがうらやましいと思い合う不思議な間柄。
 
実際、前職の人は俺の今の仕事を「タレントにたくさん会えて華やか」と思っているようだし、今の同僚の人たちは俺の前職のような業種を「お金の流れを握っており、また現場仕事ではなく指図する側だからスマートで華やか」と見ているようなのだ。
 
いかに「羨望」という感情が相対的であり、また、自分に見える世界の外に対する想像力なんて大したものではないことを表している。
 
当の俺は前職でも、そして今でもうらやましいと思われて当然どころか、不本意に思うことの方が多い。それは職種の話というよりかは俺が仕事がうまくないからだが、それはまた別の話。
 
では俺がうらやましいと思う人はどういう人か。だれも興味ないよね? でも続きます。
 
それは「独特の言語感覚を持っている人」だ。「うまいこと言う」とか「トンチがきく」といったことではない。独特の言い回し、見ただけで誰から発せられたかがわかる、文字が発する匂い。そういうものを持っている人のことだ。
 
三島由紀夫井上陽水古舘伊知郎町田康向井秀徳糸井重里島田紳助福本伸行小沢一敬、竹原ピストル、壇蜜…ほかにもたくさんいる。
 
広告業界ではよく”What to say(何を言うか)”や”How to say(どう言うか)”という表現を使うが、”How to say”で特許を持っているような人たちだ。
 
なぜなのだろうか、考えてみた。
 
まず一点は、仕事にするかは置いておいて何らかの形で、俺は文章を書くことをライフワークにしたいと思っている、のだろう。これは「それ一本で食っていく」ことを必ずしも意味しない。世の中いろいろ面白そうなこと多いしね。
 
そしてもうひとつの理由が「"What to say"は書いているうちに枯渇するが、”How to say”はずっと同じでも低減するどころか定着して魅力が増す」そして「”What to say”はパクれるが、”How to say”はパクれない」ということだ。
 
でもやっぱり、大金持って南国で隠居しながらずっとおっぱい揉んでる生活のほうがいい。
 
みんながうらやましいと思う人は誰ですか?