俺の仕事のひとつのうちに、「トラブルを解決する」というものがある。
先日も、部下がやりとりをしていた取引先が激怒し、俺が「初めまして」と挨拶した流れでそのまま陳謝する、といった出来事があった。
もちろん俺が仕事を仕損じてトラブルになるケースもあれば、このように俺の部下が俺の伺い知らないところでしくじり、何の前触れもなく
「すみません、部長が激怒しています」
「取材先が今にも怒鳴り込みに来る勢いです」
「得意先が怒髪冠を衝いています。その勢いでカツラが浮かび上がってました。あの人カツラだったんですね。え、知ってたんですか?だったら教えてくださいよ」
といった報告を受けたりする場合もある。
これらのケースは俺に過失はなくとも、責任は俺にあるとされる。
これを一般には「監督者責任」と呼び、職場で管理監督する立場にある人間は部下の行動に責任を負うことになる、という仕組みである。
監督というのは、他の人より立派であるからという理由でその役割を与えられるのだろうが、監督だからといって聖人君子ではない。
「なんで俺は悪くないのに謝罪しなければならないのか、やってられねぇ。取引先も部下もぶん殴りてぇ」
と思うことは日常茶飯事である。
多くの企業では、現場で優秀な仕事っぷりを発揮すると、出世して管理職になるようだが、優れた仕事ができるからといって、人格的に優れているとは限らない。
さらには、別に出色した業績を残せない凡人や、並どころかまともに業務遂行が覚束ない盆暗であっても、年齢を重ねるうちに「あいつもさすがにそろそろ課長くらいにはしておいてやらないとかわいそう」などといった温情で出世することだって多々ある。
事実、俺がそうであるように、世の管理職とて多くは人格者ではない。
プロ野球珍プレー好プレーで判定に納得のいかない監督がブチ切れてホームベースを引っこ抜いて退場したシーンは子供のころから何度も繰り返し見たし、映画監督から出演者によるセクハラパワハラの類は枚挙に暇がない。
しばらく前にはスポーツの各競技で監督によるパワハラが次々と発覚し、「次はどの競技か」などともささやかれたりした。
最近はその傾向が強まっているような感覚を持っている。
もっと言えば、「監督、指導者が人格者であることを放棄し始めている」のだ。
米国のトランプ大統領がいい例である。
人格的にはふさわしくないとずっと言われながら、それでも米国人は彼を指導者に選んでいる。
国の指導者に人格を求めていないのだ。
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俺が新卒で就職活動をしていたころ、100人の学生がいれば85人は
「私は一言でいうならば『潤滑油』のような人間です」
と面接で言って、5人は間違えて
「私は『ローション』のような人間です」
と言っていた、と聞く。
大きな仕事や誰もやったことのないような未踏の業績をあげようと思えば、当然、利害関係の衝突があり、そこには摩擦が生まれる。
そんな時にぬるぬる潤滑油人間であれば、あら便利。
彼らは潤滑油だから、摩擦を一切生まない。
自分は悪いとは一切思っていないけど謝罪、インスタント焼き土下座をすれば、謝られたほうは矛を収めるしかなく、再びスムーズにプロジェクトが進行していく。
あれから十余年。
潤滑油人間、もしくはローション人間は、おそらくかなり数を減らしているだろうと思う。
それは、全世界的に「好きなことして生きていく」のがかっこいい、イケてるという価値観が拡がっているからである。
「会社員になったからってなんでやりたくないことをやらんといかんの? 僕は僕の思うがままに生きるよ。出世しようが関係なく、ね」
と、みんなが思い始めるのだ。
国の最高指導者ですらそうなのだから。
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最近はAIの発達に代表される「第四次産業革命」によって、自分の職能は無価値化し仕事を失ってしまうのではないかと、心配している人が多い。
俺もそんなうちのひとりである。
そんな中で価値が高まるのはエンジニアやプログラマーだと言われているが、「今さら一から技術を学ぶことなんてできるわけないだろうが」と絶望するサラリーマンに俺が言いたいのは、「潤滑油人間も価値が高まるよ」っていうことなのだ。
まず、純粋にみんなが好き勝手に生きる世界では、潤滑油人間の絶対数は減少する。
そして、「俺が悪いとは一切思わないけど、とりあえず謝罪する」行為は、AIにはできない。
できたとしても、ひたすら「申し訳ございません」を連発するAIは単純にムカつくから、この仕事はAIに取って代わられることはない。
プログラミングを今から学ぶことができないなーって思っている人には、潤滑油人間に人格を変えることを推奨する。
どちらもできない人は、わからない。
俺がそれで悩んでいるのだから。