勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

俺はトイレの照明だと気がついた出来事と仕事の話

最近になって我が家で発生した、少し困ったことの話。
 
俺は毎回風呂からあがった後には、そのまま放置しておくと湿気が高くカビが生えやすいのでいつも換気扇をつけて出るようにしているのだが、突然ある日から、いくらスイッチを押しても換気扇が動作しなくなった。
 
これは困った、なんとかしなくては風呂がカビだらけになってしまって、そんな汚い風呂には入りたくない、と、入浴を拒否した俺まで汚くなっていってしまう、そんな将来を恐れたが、俺には修理をする能力はないし、管理会社に電話してわざわざ修理の日取りをすり合わせて、修理職人に依頼をするのもこれまためんどくさいなぁ、と、放置してしまっていた。
するとどうだろう、換気できず湿気にまみれた風呂では、予想に反して、カビの発生速度は換気扇の故障前とそれほど変わらなかったのである。
これはよかった、安心した俺は換気扇の故障を完全に無視、不自由の一切ない風呂ライフを送っていた。
 
しばらくして、妙なことに気がついた。
 
便所から出た俺はそのまま風呂に入ったろ、と服を脱ごうとしたら、どういうわけか、風呂の換気扇が動いていたのである。
理由はわからない。
試しに換気扇のスイッチを押してみても、換気扇は停止することなく換気を続けている。
どういうことか知らんがこいつはもう俺のコントロール下ではなくなってしまった、動かしたいときに動かすこともできないし、止めることもできない、ただ換気扇は換気扇の意思で動いたり止まったりするだけなのだ。
そう思っていたら、便所の照明の電気が点いたままになっていたことに気がつき、電力のムダづかいはダメなので照明を消したところ、便所が暗くなったのと同時に風呂の換気扇も停止したのである。
 
これはどういうことか。
俺は便所の照明をもう一度点灯させてみたところ、便所が明るくなったのと同時にやはり風呂の換気扇も動き出した。
何度かかちゃかちゃやってみても同じことの繰り返し。
どうやら便所の照明と換気扇は連動しているようだ。
思わぬ発見だったが、どうして一見何の脈絡もないこのふたつが関係しているのだろうか。
考察してみると実はそこまで荒唐無稽な話でもなさそうで、というのは、便所の照明を点灯させるのはすなわち便所を使用するということであって、便所を使用すると当然悪臭が発生するので、わざわざ換気扇の動かそうとしなくても自動的に一定の時間、換気扇が動作するようになっている。
設計者のよい心意気といえよう。
実際、俺の家の便所には、換気扇のスイッチが存在しない。
照明のスイッチのみで、これが換気扇のスイッチを兼ねている。
そして、我が家では多くの家がそういう構造を取っているのと同様に、便所と風呂が隣接していて、実際に見ていないからわからないがおそらく、換気扇の先の通気孔はつながっている。
つまり、便所の照明と便所の換気扇が、便所の換気扇と風呂の換気扇がそれぞれ同時に作動するように設計されていて、結果、便所の照明と風呂の換気扇が連動しているのだ。
 
いざ風呂の換気扇を動かすことができるとわかると、さっきまで故障を完全に無視していた俺は翻って、習慣的に、風呂上がりに換気扇を動かすようになった。
トイレの照明をつけることで。
 
よかったよかった、これにて一件落着。
と言った直後、あることに気がついた俺は、気持ちが暗くなってしまった。
 
俺は風呂の換気扇を動かすために便所の照明をつけるようになってしまったわけだが、これは少し考えれば、少々気の毒なことである。
気の毒というのは、便所の照明に対して、である。
 
この家のオーナーである俺、オーナーと言っても賃貸なのでかりそめの、であるが、そうはいってもオーナーはオーナー、そんな俺にとって便所の照明も風呂の換気扇も意のままに利用できる相手であり、言うなれば部下のようなものである。
このふたつは俺に利用される立場である点で共通しているが、便所の照明と風呂の換気扇の間には、上下関係もなければ利害関係もない。
しかし、今回の発見によって、俺は風呂の換気扇を動かすために、本来点ける必要のない便所の照明を点灯させることになった、つまり、「便所の照明君、悪いが風呂の換気扇君に仕事をしてもらうために、君に仕事をしてもらうよ。君自体の業務ではないんだけど」ということをやっているのである。
便所の照明の立場からすれば、「知らんがな。なんでそんな自分で動くこともできないやつのために誰もいない便所を照らさないといけないのか」という気持ちである。
 
ここで、「家における俺」を俺の会社の上司、「便所の照明」を俺、「風呂の換気扇」を俺の職場の後輩に置き換えれば、俺がいま職場で置かれている状況と同じになる。
つまり、「知らんがな」「直接やってくれよ」ばかり言っている。
言わされている。

シーツを買いに行ったら革命を知った話

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ある日目を醒ますと、シーツの繊維がすり切れて穴が空いていた。
なぜ?と思ったが、よく見るとそれ以外の部分も布が薄くなっていて、いつ穴が空いてもおかしくない状況で、どうやらずっと使い続けている間にすり減ったようだ。
 
このシーツを買った時のことはよく覚えている。
2015年の春のことだった。
なぜ覚えているかというと、俺はその時、結婚していたにも関わらず家出をして独り暮らしをするためにワンルームの賃貸契約を締結、ベッドその他家財一式を購入したからであって、しかも同時に10年以上勤めた会社をから転職活動中、そんな人生激動の最中だったから余計に印象に残っているのだ。
いわば、このシーツは俺が第2の人生を歩み始めたころからずっと使用しており、盟友と言っても過言ではない。
そんなシーツがついに寿命を迎えてしまったのだ。
しかし、悲しみに打ちひしがれている暇はない。
なぜなら我が家のシーツは二交代制で、残ったシーツの負荷が高まってしまう。
 
俺は6年前にシーツを購入した店を訪れた。
すると、なんということだろうか。
俺が必要としているシングルサイズのボックスシーツは販売していなかった。
ダブルサイズはあるが、シングルサイズは取り扱いを終了しているらしい。
ただでさえ単身者は昨今、社会的に形見が狭くなっているというのに、こんなところでも虐げられなければならないのか、俺は絶望してしまった。
 
しかし、落胆している暇はない。
家で相方を失ったシーツが待っているのだ。
俺は新宿にある、ビックカメラユニクロが合併した商業施設「ビックロ」に向かった。
 
なぜビックロなのか、そうお思いの方もいらっしゃるかもしれない。
しかし、俺は知っている。
ビックカメラには何でも売っているのだ。
 
見込みどおり、ビックロビックカメラ部分には寝具コーナーがあって、シーツがたくさん並んでいた。
当たり前のことだが、シングルサイズもあった。
いや、当たり前と思ってはいけないのかもしれない。
当たり前の生活を享受できている俺は幸せなのだ。
 
シーツは色と素材で分類されており、ほぼ全部綿100%なのだが、同じ綿でも種類や縫い方などで質感に違いがるようで、それは価格にもダイレクトに反映され、3000円から7000円くらいの幅でいくつか選択肢があった。
こういう時俺は、一番安価なものを選べないほどには見栄っ張りで、最も高価なものを選ぶこともできないほどには貧乏性である。
しかし寝具は生活の質にとって非常に重要である。
なぜなら、人生の4分の1くらいの時間をその上で過ごすのだ。
ケチるとこではない、いや、しかしどれもそんなに差はないのでは。
俺は30分くらい悩んだ。
最初は「ご案内いたしますよ」と優しく話しかけてくれた店員さんも、それぞれの特徴を説明したにも関わらずずっと悩んでいる客に愛想をつかしたのか、どこかへ行ってしまった。
そして悩み抜いた結果、穴が空いてしまったものより厚手で長持ちしそうな5000円ほどのシーツを選択。
 
やっとの思いで決めたシーツだったが、ここでまたひとつ問題が浮上した。
家に帰れば穴の空いていない掛け布団カバーと枕カバーがあるのだが、売られているどのシーツとも色が異なるのだ。
色を合わせようと思えば、これから買うシーツと同じ色の掛け布団カバーと枕カバーも買うしかない。
シーツと合わせると1万円を超える。
違う色で我慢するべきか、それとも部屋内の色調の統一感を重視して寝具3点セットの色は統一するべきか。
ここでまた30分ほど悩み抜いて、俺はシーツに加えて掛け布団カバーと枕カバーも購入した。
 
1時間悩み続けた俺は這々の体になりながらビックロを退出しようとして、ビックカメラ階の下にあるユニクロ階を通り抜けようとしたら、ユニクロにもシーツが売っているのを発見した。
1980円、エアリズムシーツ。
もう必要なくなっちゃったけど、触ってみるといい感じ。
そういえばエアリズムってマスクもあったよな、ユニクロってやっぱすごいな、革命的だよな。
そう思いながら、さっき買った3点セットの重みを右手に感じつつ帰宅、うるる。

 

俺史上No.1のタクシー運転手さんの話

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タクシーの運転手さんとの雑談が苦手だ。

 

なぜなら、その内容といえばだいたい「タクシー運転手になる前は、メーカーで人事の仕事をしていたんですよ」といった自分語りか、「奥さんと子供に捨てられましてね」といった不幸自慢に限られる。

もしくは「芸能人のまるまるを乗せたことがあるんですよ」系のエピソード。

タクシーの運転手さんとの雑談テーマの99%はこの3種類のうちのどれかに当てはまることが、俺の独自調査によって判明している。

いずれも「知らんがな」と言いたくなるし無視したいが、そんなことをしたら2人しかいない密室の雰囲気が最悪になってしまうからそれも許されず、「ああそうですね」とちゃんと聞いていることの表示を強いられる。

まさに八方塞がりなのが、タクシーであり運転手との雑談なのである。

 

「だったらお前から話題を振ればいいではないか」という意見もあるだろう。

まさにその通りである。

物事がうまく行かないのならば、受け身に終止するのではなく自分から能動的積極的に動けばいいのであって、それをやらずに「話題がしょうもないから苦手だ」などというのは、自分勝手も甚だしい。

しかし、俺はタクシーの中においては客、自分勝手で何が悪い。

雑談をするためにタクシー乗っているわけではなく、あくまで目的地にたどり着くためのもの、しかもタクシーに乗る時なんてだいたい深夜であるからとても疲れていて、できることなら話しかけられることなくゆっくりたいのが本音なのだ。

 

そんな俺でも、これまでに「この雑談をもっと続けたい。目的地なんて来なけりゃいいのに」とまで思ったことが、一度だけあった。

 

 

たしか2011年の9月ころだったろうか。

その日は残業を終え、深夜2時ころ会社のある赤坂でタクシーを拾い、当時代々木上原にあった自宅までの帰路につこうとしていた。

東京の人ならば分かっていただけるだろうが、赤坂から代々木上原までは車で15分程度の距離である。

 

そんな短時間でも睡眠がを取りたいほど疲れ切っていた俺は、車が赤坂通りを滑り始めたことを確認して目を閉じたのだが、そんなことはつゆ知らず、運転手さんが話しかけてきた。

「お客さん、何の仕事してるの?」

「え。まあ、広告です」

「へぇー、じゃあたくさん芸能人とか見てきたんでしょう?」

「僕はその手の案件をほとんどやったことがなくて、見たことないんですよ」

「そうなの?私はね、何人か芸能人を乗せたことあるんだけど、その中で一番大物といえばやっぱり何といってもあれだよ、あの・・・」

 

ああ、またこのパターンか。

俺は落胆して、気のない相槌を続けながら、早く家に着いて欲しい、そう思っていた。

 

しかしここから、運転手さんの話題は、何の脈絡もないこの一言から、思いもよらぬ方向に急展開する。

「そういえば、今年の3月に東日本大震災があったでしょ。あれってアメリカによる人工地震だったって知ってますか?」

 

そんなトンデモ説を「日本人の3割しか知らないこと」みたいなノリで切り出されても困る。

もちろん知っているわけがない俺の眠気は一瞬にして醒めた。

 

「いやいや、アメリカがそんなことをするわけがないじゃないですか」

「そう思うでしょう。でもそう考えると全て辻褄が合うんですよ。証拠も沢山ありますし」

「どう辻褄合うんですか?」

 

俺がそう発して以降、車の中は運転手の独演会と化した。

「まずアメリカは、経済の衰退を止めるために日本経済に打撃を与える必要があったんです。それと日本に早くTPPに批准させたいって思いもあった。だからアメリカは日本と日本の原発を攻撃したんです」

福島県沖の海底に原爆を埋めこんで爆発させれば、日本にものすごく大きな地震が起こるのに加えて、原発まで津波が届く。原爆を爆発させれば放射能反応が出てしまって原爆の存在がばれてしまうんですが、原発が損傷して放射性物質を垂れ流してしまえば、原爆の放射能と区別がつかなくなるから、原爆の証拠がなくなってしまう。だから原発を狙ったんですよ」

「しかもこのアメリカの計画を、日本の菅(かん)内閣は事前に知っていたんです。両国は結託して、震災で危機的状況に陥った日本へアメリカが手を差し伸べることで、日本人のアメリカに対する好感度を上げてTPP参加への世論の抵抗を弱める、そんなシナリオまで全て出来上がっていたんです。だからわざとお粗末な事故対応をした。なんたって放射性物質を漏らさないと証拠が隠滅できないですから。まあ売国ですよ」

「原爆を埋めて地震を起こすほどまで海底の深いところに穴を掘れる機械は、日本に2つしかないんです。そのうちの1つが、震災直前に名古屋から福島に移動していたという記録が残っています」

 

俺はこの運転手の話す内容を信じていたわけではなかったが、これまでまったく聞いたこともない言説の連続にすっかり興奮してしまい、アメリカと日本の政府が企てた陰謀の全貌を知りたいと心の底から思った。

 

しかし、である。

 

「お客さんこの辺ですかね?」

 

この時ほど「家近いなあ」と思ったことはない。 

主張する内容はさておき、これほど道中を楽しませてくれた運転手は以降まだ出会っていない。

性格診断テストの野郎は俺のことを完璧に見透かして、しかもそのことを俺に言ってこないから恐ろしい

最近、インターネットで誰でも無料でできる性格診断テストをやってみた。

そして気がついたのだが、俺はこの手のテストが得意ではない。

いままで40年弱生きてきて何度も性格診断テストをしてきたが、今回初めて気がついたのは、そこに

「たとえその答えが自分で気に入らなくても、正直に答えてください」

と書かれていたからである。

 

またこの手のテストはよく

「なるべく短時間で、考え込まず、その時の印象で答えてください」

とも指示される。

これは、第一印象こそが最も正しく、時間をかけて考えれば考えるほど、「今はこんなだけど、昔はもっとこうだった」とか「本当の自分はAだけど、社会通念上Bのほうが優れているとされている気がするからBを選ぼう」とか「本当は俺はCなんだろうけど、自分は他の人からDであると思われたい」などと思いを巡らせてしまい、その結果、実態からかけ離れてしまうといったことが、経験から、もしくは統計から、判明しているからであろう。

 

上の指示に従い、俺も各設問5秒以内で答えようとするのだが、それでもやはり「俺は社会的交流が苦手だ」とか「でも得意になりたい」とか「得意な方が色々人生うまくいくに違いないってことは分かっている」とか、挙げ句の果てには「もともと苦手なのはわかってるけど、俺も最近は努力して後輩に『やあ』などと声をかけるようになった結果、得意であると言ってしまっても過言ではないはず」などと、たった5秒の中でも様々な思考が生まれてしまう。

結果、「俺はこうである」よりも「俺はこうありたい」「俺はこんな人だと思われたい」方の選択肢を選んでしまうことも稀ではない。

 

そんなことをやっているとどうなるか。

実態とは異なる選択肢を選べば、もちろん実態とは異なる結果が導き出される。

究極的には、実際は官僚タイプの人間なのにも関わらず、「あなたは芸術家タイプの人間です」なんて結果が出てしまうことだってある。

 

俺のこの手の性格診断テストをが苦手な理由は主に2つある。

ひとつは、たった5秒の間にすら自分の中に生まれる葛藤が、自分が自分自身に対して持っている印象と理想像の間にあるいくつもの乖離を可視化してしまうこと。

そしてもうひとつは、「あるタイプの人間は、性格診断テストで、実態ではなく自分が望ましいと思う選択肢を選びがちである」といったデータを、テストを作っている人たちが既に持っているのではないか、という疑心暗鬼(というかほぼ確信している)から来る。

テストの鬼畜野郎は、俺が正直に答えていないことを見透かして、でも気づいていないふりをして普通に診断結果を出しているに違いない。

そう思うのである。

精神と肉体の衰えを止めるために無理やりにでもあと92回は引っ越さなければならない

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18歳のときに上京してから、37の現在に至るまでに8回引っ越しをした。

東京で最初に住んだ国分寺を含めると、東京で9箇所に住んだことになる。

国分寺から大学までは電車で40分もかかる距離で、中央線での電車移動の大変さを知った今では国分寺を選ぶことはないが、当時は東京の電車事情を知らずその移動の大変さを過小評価していたからこその失敗だった。

借りたアパートは私営の学生寮で、どこの大学の学生だろうが関係なく、安い家賃で住むことができたし三度の食事まで用意されていた。

しかしそんなことも物件を決めるまでは知らず、住み始めてから初めて知ったことだった。

周りは全員大学生なのにも関わらず近所付き合いなど一切ないし食堂での会話も全くない、つまらない学生寮だったが、一人暮らしをしたいとずっと思っていた俺にとっては、それでもとても快適な環境であった。

印象的だったのは、何度「新聞は要りません」と言ってもしつこく勧誘して来て、しまいには、いつまでたっても俺を加入させられない罰を上司から受けたのだろうか、目の上に青タンを作ってきた新聞勧誘の人が何度も俺の家を訪問してきたことだった。

 

この初めて住んだ学生寮を含めて、俺は一度も契約を更新したことがなかった。

現在の日本の賃貸住宅事情では2年ごとの契約更新が一般的であり、つまり、俺は同じ家に2年以上住み続けたことがなかったことになる。

別に必ずしも住んでいた家に不満があったわけではなかったのだが、だいたいどの家も3ヶ月も住んでいれば慣れてくるし、その「慣れ」「飽き」に変わってくるのにも、2年という時間は十分すぎる長さであった。

 

ところが2020年になって俺は、このままでは初めて更新契約をすることになる。

いまの家には十分に「慣れ」、そして「飽き」ているにも関わらず、である。

それはこのコロナ禍において引っ越しが容易ではないことも要因のひとつではあるが、それ以上に大きいのは、「引っ越しが面倒である」という感情だ。

 

無論これまでも引っ越しは面倒であった。

やったことがある人は理解してくれるだろうが、あれはものすごく大変な作業である。

何回やっても、毎回うんざりするほどだ。

その大変さに屈してしまった俺は、過去に引越し業者に多大なる迷惑をかけてきた。

24歳のある日には、引っ越し前日の夜から荷造りをしようとしていたのだが、友人から麻雀に誘われ、「今日は引っ越しの準備があるから電車で帰るよ」と言っていたにも関わらず、負けが混みだすと自分から延長を切り出し、結局、当日の朝まで麻雀をした結果、引越し業者が家に到着したにも関わらずダンボール一箱たりとも荷造りができていなかった、なんということもあった。

そこまで苦労しても、2年おきの転居を欠かしたことはなかった。

 

しかし今回は、引っ越しをせず契約を更新。

 

「人は自分自身のことが一番わからないものだ」とよく言われるが、それでも精一杯の自己分析によれば、「飽き」から来る不快さを引っ越しの面倒さが上回ってしまったということであろう。

ここに俺は自分の加齢とそれに伴う衰えを感じずにはいられない。

 

 

現代は「寿命」ではなく健康寿命の時代」だと言われる。

これはどういうことか。

つまり、医療の発達で人間の平均寿命がどんどん延長されている。

しかしせっかく引き延ばされた寿命も、病院のベッドで寝ている時間が長くなるだけでは意味がない。

健康に過ごす寿命を獲得しよう、という考え方であり、数字上の加齢は止められぬがそれでも精神および肉体的な老いには抗おう、という発想である。

俺もこの意見に賛同する者の一人ではあるが、たったいま衰えを感じてしまったところでもある。

どうすればよいのだろうか。

 

答えを導くことは簡単である。

引っ越しをしなかったことが衰えにつながっているわけであるから、衰えを止めようと思うのならば無理矢理にでも引っ越しをすればいいだけの話である。

最近はアンチエイジングのために引越し情報サイトばかりを見ている。

 

あの江戸川乱歩は、生涯で46回も引っ越しをしたらしい。だからこそあれほどにまで多彩な名作を生み出すことができ、晩年にも数々の新しい才能を発掘することができたのであろう。

あれほどの才能を持ってさらにその上に46回の転居という凄まじい努力。

俺も見習ってもっと頻繁に引っ越さなければならない。

乱歩が46回なら、俺は100回か。

 

今月スマートフォンの画面を割ってしまった時に気づいた「俺は勝負師ではない」

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2カ月ほど前に、スマートフォンが従来の厚さの1.5倍くらいまでに膨れ上がったことがあった。
充電すると経験したことのないくらい発熱があったことから、おそらく電池の酷使による膨張であると推測、このままだともっとパンパンギュンギュンに膨張して破裂するか、はたまた電池が使用不能になるか、いずれにしてもスマートフォンが使えなくなると考えた俺は、インターネットで、スマートフォンの中から電池を取り出して新しい電池と交換してくれる店舗を検索、有償の電池交換サービスを受けることにした。
 
行ってスマートフォンをぱかっと開けてみると、やっぱり電池が膨れあがっており、新品と交換してもらう対価として1万円を支払った。
 
さあ帰ろうかと思っていると、電池を交換してくれた店員が
「今なら月700円で端末に補償をつけられるよ。次に修理に来たらタダでやるよ。どうする?」
と言ってくる。
俺はここで
「たしかに月にたった700円を負担するだけで次回の修理代金がかからないのは、とても経済的で魅力的、つまり採用するのが合理的に思える」
と一度は考えるも、ここで得意の算数を発揮し
「しかし月700円ということは、年間では12を掛けて8400円。今回の修理に1万円もかかったが、一方で俺はいままで10年ほどスマートフォンを使用してきて一度たりとも画面を割ったこともないしそれ以外の修理を必要としたこともない。つまり次に何かしら修理する機会があったとしてもしばらく先のことだろう。ならばこれから払う保険金が修理代金を上回る可能性が高いし、もしかしたら保険金だけ払い続けて修理をしないことも十分考えられる。従ってこの店員の言うことを真に受けて保険に加入するのは愚。危ねぇ危ねぇ」
と考え、
「結構です」
とだけ答えて店を出た。
 
翌月、俺はスマートフォンを道に落とし、生まれてはじめて画面を割ってしまった。
 
少々の亀裂ならそのまま使えるのだろうが、俺のスマートフォンの画面は全面に細かいヒビが入りまくるほどパッキパキに割れており、ツムツムができないどころか、電話をするメッセージを送信するなどの本質的な用途にも支障をきたすほどであったため、仕方ないから修理に行くことにした。
 
その端末の正規修理店はそれほど多くなく、今回行ったのは前に電池を交換したところとは別店舗だが、同じチェーン、すなわち系列の店であった。
つまり、もし俺が先月に電池交換をした際に、店員の提案を受け入れて補償プランに加入していれば、700円の負担で修理できたのだが、俺はそれを拒否したため修理代金として18,000円を支払う羽目となってしまった。
「なぜ入らなかったのか」、俺は過去の俺自身の決断を呪ったが、今さら悔やんでも仕方がない。
そんな俺の心中を知ってか知らずか、店員はまたこのタイミングで再び保険への加入を勧めてくるが、俺は
「もうさすがにスマートフォンを潰さないだろう。なぜなら10年ほどの間になかったことが1カ月の間に2度もあったのだから、これから20年は修理を必要としないというのが統計学の考え方だ。もし俺が保険に入るべき瞬間があったとすれば、それは前の電池交換の時だ」
と心の中でつぶやき、
「結構です」
とだけ答えて店を後にした。
 
 
ところで、俺は競馬をやるのだが、先週は散々だった。
俺の馬券の買い方としては、その日に行われるレースのうちだいたい3~4レースほどを選ぶのだが、買ったレースはすべて外れ、買おうかどうか迷って結局あまり自信がないからやめておいたレースはすべて当たっていた、という、ことごとく裏目に出た内容だった。
 
なぜ俺は競馬といいスマートフォンの補償プランといい、裏目を引いてしまうのか、家でひとり己の運の無さを嘆いた。
しかし思い返してみれば、これまで一度も修理を必要としなかったことはすばらしいことだし、競馬だって判断がぴたりはまってうまくいったことも何度もあった。
しかし裏目を引いたときのことの方が強く印象に残っているのだ。
憂うべきは運の無さではなく、そういうマイナスなことばかりに目が行ってしまう思考なのかもしれない。
 
名作の麻雀漫画「天牌」に登場する「麻雀職人」黒沢の台詞に
「勝負の世界なんて常に51対49にすぎない。
 俺も49も負けるが
 この2の差があるから麻雀で食っていける」
という言葉がある。
 
麻雀の達人である黒沢でも49は負けてしまう、それくらい勝負の世界は紙一重だということを表しているのだが、何をとっても凡才である俺は51どころか80負けても仕方ない。
勝負師であればそれは致命的だが、あいにく俺は勝負師ではなく会社員、勝負ごとが本職ではない。
80の負けをいつまでも悔いるのではなく、20の勝ちを喜べるようになることが、幸福感をあげることに繋がるのかもしれない。
 

蔦屋家電を見て感じた、かつて俺がぶち壊したのは俺の何だったのか

新卒で入った会社の初期配属は、その後の社会人キャリアを考える上で大変重要である。

そんな初期配属で俺は、最も行きたくないどころか「ここに配属されたら会社を辞めよう」とすら思っていた営業職に配属され、しかし結局辞める勇気もないまま、やる気もなくずるずると会社に残っていた。

そのような状態や心境では当然仕事ができるようになるわけもなく、悪い先輩と「給料ドロボウズ」というユニットを組んでサボりまくったこと3年間、ついに見かねた偉い人によって部署を変えられ、同時に上司も変わった。

もっとも次の部署も営業であり、「営業だけは死んでもやりたくない」と思っていた俺のモチベーションは当初ほとんど変わらなかったが、常時監視化に置かれ、仕事をサボることができる環境は失われ、「給料ドロボウズ」は自然解消した。

 

新しくついた上司のもとで働き始めて1ヶ月ほど経過したある日、いきなりその上司から、以下3つのうちどれかを選ぶように言われた。

  • 外車のスポーツカーを買う
  • サーフィンを始める
  • キャンプを始める

 

「どれも嫌だ」と言ったが、「どれかひとつはやれ」と返された。

サーフィンやキャンプを一緒にやる友人などいない俺にとってそれらは単独でやるにはハードルが高く、翌週にディーラーに行った俺はその場で車を買った。

Alfa159という名のその車はめちゃめちゃかっこいい車で俺は一目惚れだったが、440万円を即金で支払った俺は翌月の家賃の支払いにすら困る状況がしばらく続いた。

 

なぜこの3つをさせようと考えたのか、後で上司に聞いてみた。

論理的に考えれば、これらはどれもやる必要もないし、やるべきでもない。

車なんて東京で一人暮らしをしていれば必要ないし、サーフィンやキャンプはそんなことを一緒にやってくれる友達もいないし金がかかるし面倒だし寒いしやったところで何か学ぶことがあるわけでもない、家で映画鑑賞や読書をしている方が楽だし何かしら得られるものがある。

冷静に考えるほど今から始めるべきではない理由ばかり思いついてしまうが、それでもやってみる経験をすることで、いざという時に「冷静にかつ論理的に考えればやるべきではないけど、どうしてもやりたい」ことに、意を決して飛び込めるようになるのではないか。

要約するとこんな理由だった。

その割には440万円という出費は大きすぎたのではないか、と、その時は思っていた。

 

ところが、以降、俺の快進撃が始まった。

すなわち、重大に思える決断を、悩むことなくばんばん下した。

結婚したし、家を購入したし、離婚もしたし、35歳にして未経験の職種に転職までした。

440万円の買い物を1分で決断できたのだから、当然のことである。

もっとも、その車ももう手放してしまったが。

外車は維持費が高すぎる。

 

 

先日、初めて二子玉川にある蔦屋家電を訪れた。

蔦屋家電とは何ぞや?」という人のために簡潔に説明すると、それは全く新しいスタイルの家電店で、最先端の技術を駆使した製品やクラシックなスタイルなどを取り揃え、居心地のいい上質な空間までも提案する店舗、らしい。

二子玉川 蔦屋家電 | 蔦屋書店を中核とした生活提案型商業施設

現在俺は、一度買った家を出て7畳のワンルームに住み、料理は一切せず台所には酒のボトルが並ぶのみと、上質とはほど遠い生活を送っており、蔦屋家電で一品でも購入して上質な生活を手に入れてやろうと意気込んでいた。

 

店に並んでいたのは、30万円の電動自転車、7万円の酵素玄米用炊飯器、世界一のバリスタの腕前をAIが再現した11万円のコーヒーメーカー、1人用サイズなのに38万円する冷蔵庫、先から電流が流れるという20万円するブラシ、ワインボトルの形をしたちょっと明るくなる気もするくらいの5万円の卓上照明、家で映画館と同じくらいの迫力ある映像&音を楽しめる70万円くらいのホームシアターなど、それはそれは超上質な品ばかり。

 

あまりの上質さに圧倒され、俺は恐怖すら感じてしまった。

そして何ひとつ購入することもできず、ほうほうの体で店を後にする。

 

 

帰りの電車の中で、蔦屋家電に恐怖を感じた自分自身を分析してみた。

 

上質とは沼である。

つまり、いったん上質なものを味わってしまうと、それが日常となり当たり前となり、二度と低質なものに戻ることはできなくなる。

今日、上質なトースターを買ってしまえば、そのとなりにある冷蔵庫が低質であることに耐えられなくなるのだ。

したがって、一度上質への道を歩むことを決めてしまったら、引き返すことはできない、ただ前進するのみ。

 

しかし、上質なものは高価でもある。

上質への道を進めば進むほど、比例して出費が嵩む。

道の行き着く先の風景は甘美だが、潤沢に金を持ち合わせていない者にとって、その道中は地獄だ。

 

俺はいま会社勤めをして毎月の賃金を受け取っているが、その賃金がいつ下がるかもわからないし、いつ会社を辞めたいと思うかも、もしくは、いつ会社から放逐されるかもわからない。

そう考えると、一方通行である「上質への道」など到底進めるものではない。

 

車を買った12年前に440万円をかけて俺が破壊した自分自身の中の何かは、完全に自然修復してしまったのかもしれない。