勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

電車に乗ってもらえていたギフトがコロナウイルスで失われるんじゃないかという心配

ある日のある始発駅、電車の中で座席に座り出発を待っていると、なぜか血まみれの中年女性が乗ってきて何事もなかったかのように向かいに座った。
またそう遠くない別の日、違う駅で電車が到着するのを待っていたところ、あるスーツ姿の男性がいきなり通過電車に向かって走り出し車体にドロップキックをした。
またまた別の電車では、下校途中の高校生マクドナルドで購入したハンバーガー等を肴に、車両の床に座り込んで宴会をしていた。
そしてつい先日、向かいに座っていた初老の女性は、マスクを口と鼻だけでなく目まで被っていた。
 
 
電車という乗り物は、それに乗らなければおそらく生涯において出会うことのない人と、偶発的、運命的に出会う空間である。
会社や学校、マンションの管理組合にクラブ活動などの、社会生活を営む過程で出会う人たちは、住む地域や年収、趣味嗜好などの社会的背景が一部共通している人が大半である。
それは至極当然のことで、同じくらいの収入だから同じランクの住居を選ぶのだし、学校は公立であれば同じ地域、私立であれば目標とする進路を共有するわけだから、いわばそういった人たちとの出会いは、社会的連続性の先にあるといえよう。
他方電車は、たまたま同じタイミングに同じ方面に向かうが、それ以外に共通点がほとんどない人たちどうしが出会うもので、社会的連続性は断絶されている。
つまり「人生を普通に生きていれば出会わないような人に出会える」のが電車、ということである。
毎日電車で通勤する人は、1日2回、1年240日働くとして、1年で480回、30年働けばこうした運命の出会いをする機会を得るのだ。
 
先に書いた話は、俺がこれまで15年くらい電車で通学・通勤する間に出会った、奇跡のような出来事である。
 
 
コロナウイルスの登場は、副産物的に、これまで会社員には不可能だと思われていた在宅勤務を当たり前のものにした。
同時に、これまで在宅勤務が出来なかった理由は「会社に行かなければ業務が執行できないから」ではなく、単に「みんな毎日出社しているから」でしかなかった、という事実を白日の下に晒した。
そして誰も会社にいなくても、社会が、企業がこれまでどおり問題なく運営可能だと判明した今、人類がコロナウイルスを克服した後も、別に出社する必要はないのだから、在宅勤務、リモートワークは続くと思われる。
もちろん出社しないと業務が遂行できないような仕事内容の人もいるだろうし、そういう人はじゃんじゃん出勤してぐるぐる経済を回せばよいが、行かなくて済むものなら会社になんて行きたくないし、出社する人の数が減れば事務所を縮小することもできるから、企業側も社員がバンバン在宅勤務をすることは歓迎のはずだ。
そして出勤する人の数が減れば、電車の混雑も緩和され、通勤ラッシュに巻き込まれて不快な想いをする人もいなくなる。
 
これで三方良し、言い換えればWin-Win-Winってやつで、まったくもってすばらしい世界がやってきたと言えよう。
 
しかし、である。
在宅勤務をすることによって失われるものがある。
それは電車に乗る機会である。
 
 
先に述べた通り、電車という空間は、社会的に非連続な関係にある人と、遭遇できる媒介である。
それが失われると、人は連続性のある相手としか、つまり「会ってしかるべき人」以外とは出会わない、ということになる。
 
東京に在住するようになって20年弱で、電車で奇跡の遭遇、それはもう「ギフト」と呼んでもいいかもしれない、そんな俺の印象に強く残っている人は、冒頭に述べた4人くらいである。
20年ほぼ毎日電車に乗って4人。
そして今後、電車に乗る頻度は激減する。
俺にはもうギフトは訪れないかもしれない。
しかしそれも変化する時代の要請なのだろう。

「人を傷つけない政治」が実現する日

いまのお笑いに求められていると言われる、「人を傷つけない笑い」

平成終盤までは笑いを取るために普通に行われていたいじり行為も、いまでは「それはもういじめ、誹謗中傷、差別であり、そんな方法で笑いを取ることは、差別を助長するものだから撲滅すべきだよ」「というかもう笑えないんですけど」となっているし、容姿いじりや差別的な笑いなどは即炎上、その後の活動に影響が及ぶほどの避難を浴びる時代になった。

 

いつの時代も笑いは世相を反映するものであるとも言われる。

だとすると、「人を傷つけない笑い」への支持が高まりは、社会全体で多様性を認め合い、誰しもが尊重されるべきだという価値観の広まりを表しているのではないだろうか。

 

ぺこぱのようにツッコまないことをボケとするものや、ティモンディ高岸のような全方位的に褒めたおす芸人は、まだ新しいトレンドであり少数派かもしれないが、近い将来には逆転、褒めるのが当たり前になり、真っ向からツッコミなんてする芸人は淘汰されてしまうかもしれない。

 

 

お笑いは全世代に向けたものであり、したがって若い世代で発生している変化を早いうちに反映しているようだが、人を傷つけないことが当然のこととして求められるようになったにも関わらず、一向にその変転を捉えられていない業界がある。

 

政治である。

 

やつらと来たら人が一生懸命考えて話している内容に対してツッコむどころか全否定、完全にディスってるし、人がマジメにしゃべっている間にあろうことか野次まで飛ばす。

「人を傷つけない」という、もはや常識である価値基準すら守ることができていないのだ。

とはいえ、政治がお笑いと違うのは、政治は若い人を対象としていない。

もちろん厳密にはこれは誤りである。

しかし、お笑い芸人は若者から受け入れられなくなったら、「収入がなくなってしまう」直接的なダメージがあるが、政治家は元々若者からの関心など得られていないからそれを失うこともないし、彼らから直接的に収入を得ているわけではないから相手にしていない、という点で「対象にしていない」。

そしてその無関心をいいことに、未だに古い価値観の蔓延を放置しているのだ。

さらにこの古い価値観が表出して行われる国会でのディスりや人を傷つける発言によって、若者は政治への関心を失ってしまうという、悪循環を生んでいる。

この構造で恐ろしいのは、現役の政治家たちが、若者が今後も政治への関心を持たないよう期待していることである。

なぜなら、若者が関心を持ってしまったら、自分は落選、失職してしまうかもしれないからである。

もしかしたら、意識的に、若者に嫌われてでも古い価値観を堅持しようとしているのかもしれない。

 

しかし、悲観することはない。

時間はかかっても、価値観は必ず入れ替わる。

なぜなら、新しい価値観を持った今の若者が歳を重ね、施政者になる時期が必ず来るからである。

その時は、今のお笑い界のような国会になっているに違いない。

 

「裏金は絶対ダメ…! とは言い切れない…俺ももらってしまうかもしれない」
国債発行ゼロ? やればきっとできる!」

 

第7世代政治家は、その時の若者の支持を集められるだろうか。

 

<追記>
と思っていたら、今井絵理子参院議員が「批判なき選挙、批判なき政治」を掲げて話題になっていたことを思い出した。
これぞまさに「人を傷つけない政治」そのものではないか。
こんな最近の出来事にすら気がつかないなんて、文筆家の端くれとしてはあるまじき能無しの謗りを免れないだろう。
また一からやりなおしたい。

「生活必需品」の定義はどこまでか問題と恐怖体験

最近、夕食難民になっている。

飲食店が軒並み20時に閉店してしまうため、仕事を終えて夕食をとろうとしても、開いている店がなく食べることができない。

コロナウイルスの影響で様々な業態の店舗が休業もしくは時短営業を余儀なくされているが、我々会社員は、リモートワークこそ可能になったものの、時短どころかコロナウイルスへの対策を万全にした上での業務遂行を求められ、その業務量は激増、時短どころか以前にもまして勤務時間は長くなっており、世間とは逆方向へ進んでいる。

世の中が時短化に向かうなら俺の仕事も時短になってほしいのだが、そうはいかず時長になる一方で、それでも24時間営業の店によって俺は不自由ない食生活ライフスタイルを営むことができていたのだが、今では食事の確保にすら苦心するようになってしまった。

会議中に議論が長引いて20時が近づいてしまい、「うわもうすぐ店が全部閉まる、もう飯が食べられない」と思っても、「店が閉まるからいったん会議を休憩して飯を食ってきてもいいですか?」なんてことは言えないのである。

そんな私の強い味方が、食事は20時で終わってしまうがテイクアウトだけは深夜も継続してくれている吉野家と、オリジン弁当と、コンビニエンスストアである。

この3本の柱をローテーションして、なんとかやりすごしている。

ごくまれにUber Eatsなどで食べたことのない店から届けてもらうといった贅沢もするものの、俺ひとりの飯のためにひとりの配達員の方を煩わせるのも気が引けてしまい、それくらいならきのうもオリジン弁当だったけど今日もオリジン弁当でいいや、となるのである。

「飽きないのか?」と問われれば、とうの昔に飽きているが、それしか選択肢がないのだから仕方がない。

権藤、権藤、雨、権藤雨、雨、権藤、雨、権藤の時代に、権藤が「先発ローテーション成立してなくない?」なんてことは思わないのである。

「先発ローテーション」という概念がそもそもなかったのだから。

 

 

緊急事態宣言下の現在の東京では、百貨店などの大型商業施設へ「生活必需品のみの営業再開に留めるように」と要請が出されている。

しかしこの「生活必需品」という曖昧な表現が、「そうは言うけどじゃあどこまでが必需品で、どの売り場は再開してええの?」と各事業者を悩ませてしまっているらしい。

 

上の例にあるとおり、食品は疑いようのない「生活必需品」である。

では服はどうなんだ、観葉植物はどうなんだ、腕時計はどうなんだ、ブランドもののバッグはどうなんだ。

個人的な意見は以下のとおりである。

  • 服は防寒上必要だし、服を着ないで屋外を出歩くと犯罪になってしまうため必需品といえる。じゃあ1枚1000円のTシャツと1着20万円の外套はどちらも必需品なんかい?と尋ねられたら、俺は「いやいや外套なんて3万円もあれば十分立派なものが買えるから、20万円の外套は不要でしょ」と思うが、「じゃあいくらまでが必需品の範疇なの?」という問題は、各々の懐事情や経済観念で千差万別なので一律のルールを設けることなど現実的ではなく、邪魔くさいので服はどんなふざけた服であってもすべて必需品としてしまうのが現実的な落とし所
  • 観葉植物はあくまで目で楽しむものであって見なくても死にはしないし逮捕もされない、社会的な生活が維持できないわけではないので、必需品とはいえない
  • 携帯電話で時間を知ることができる現代で、腕時計などもはや己の金銭的豊かさ経済力を誇示する以外の用途はなく、到底必需品とはいえない
  • ブランドもののバッグも時計と同様

読者の方の多くも賛同してくれるのではないかと思っているが、ある百貨店の「一部のフロア・ショップ・催事・イベントの営業・中止・変更」に関する情報を見ると、なんとすべて今も販売しており、これらはすべて必需品であると判断しているようだ。

 

どうやら俺が思っていた以上に、生活必需品の範囲は広かった。

 

また、百貨店各社も悩んでいるようで、12日から生活必需品の範囲を見直したところもあるらしい。

「こんなの生活していくにあたって別にいらんと思っていましたが、やっぱ無いとダメでしたわ」なんてこともあるのだから、人にとって何が必要で何が不必要かなんて、これ以上ない難問なのだろう。

 

www.nikkei.com

百貨店各社が緊急事態宣言延長後の店舗営業について相次いで方針を決めている。高島屋は10日、東京都内の4店舗で営業を続けていた食品などの売り場に加え、12日から婦人服や紳士服などの売り場も営業を再開することを決めた。東京都は12日以降も引き続き百貨店などに休業要請する。同社は「要請を受け入れて休業するが、生活必需品の範囲を見直した」としている。エイチ・ツー・オーリテイリング(H2O)も大阪府内の5店で営業する売り場を拡大する。
 
高島屋の都内の店舗で12日以降も営業を再開しない売り場はエステやアクセサリー、宝飾品の売り場などになる。大阪府内の3店舗についても、「生活必需品」の範囲を見直し、従来の食料品に加えて化粧品と婦人洋品の売り場も営業をする。京都府内の2店舗は府の要請に基づき、平日は全館営業を再開する。休日は生活必需品売り場のみ営業する。

 

 

3年ほど前に一度だけ合コンで会ったきり女性から、連絡が来た。

「お久しぶりです、覚えてますか?」

飯を食っただけで何もしていないが、初めて会った日に俺の小銭入れを見て「それ素敵な財布ですね、ください」と強奪し、20時半ころには「もう眠いので帰ります」と解散、それっきり連絡が途絶えるという、少々エキセントリックな体験をした相手だったので、記憶には残っていた。

いきなり連絡してきてどうしたのかと尋ねると、「死にそうになってるから、気になる人に声をかけている」のだそうだ。

死にそうになっている。

穏やかではないではないので、その原因を聞くと、「コロナの孤独で死にそう」という返答が返ってきた。

よく「うさぎは孤独で死ぬ」という都市伝説を耳にするが、人間にとって孤独が直接的な死因になるなんてことは聞いたことがない。

やはりどこか奇矯なところがあるなあ。

そう俺は思ったが、ある人にとっては「他人との接触が「生活必需品」になるということだろうか。

そして、もし会えば次はどんな奇抜な行動が見られるか、好奇心がないわけではなかったが、気味悪さが上回ったのでスルーすることにした。

「奇異体験」は若いころこそ「生活必需品」だったが、いまはそうではなくなってしまったのだろうか。

俺はトイレの照明だと気がついた出来事と仕事の話

最近になって我が家で発生した、少し困ったことの話。
 
俺は毎回風呂からあがった後には、そのまま放置しておくと湿気が高くカビが生えやすいのでいつも換気扇をつけて出るようにしているのだが、突然ある日から、いくらスイッチを押しても換気扇が動作しなくなった。
 
これは困った、なんとかしなくては風呂がカビだらけになってしまって、そんな汚い風呂には入りたくない、と、入浴を拒否した俺まで汚くなっていってしまう、そんな将来を恐れたが、俺には修理をする能力はないし、管理会社に電話してわざわざ修理の日取りをすり合わせて、修理職人に依頼をするのもこれまためんどくさいなぁ、と、放置してしまっていた。
するとどうだろう、換気できず湿気にまみれた風呂では、予想に反して、カビの発生速度は換気扇の故障前とそれほど変わらなかったのである。
これはよかった、安心した俺は換気扇の故障を完全に無視、不自由の一切ない風呂ライフを送っていた。
 
しばらくして、妙なことに気がついた。
 
便所から出た俺はそのまま風呂に入ったろ、と服を脱ごうとしたら、どういうわけか、風呂の換気扇が動いていたのである。
理由はわからない。
試しに換気扇のスイッチを押してみても、換気扇は停止することなく換気を続けている。
どういうことか知らんがこいつはもう俺のコントロール下ではなくなってしまった、動かしたいときに動かすこともできないし、止めることもできない、ただ換気扇は換気扇の意思で動いたり止まったりするだけなのだ。
そう思っていたら、便所の照明の電気が点いたままになっていたことに気がつき、電力のムダづかいはダメなので照明を消したところ、便所が暗くなったのと同時に風呂の換気扇も停止したのである。
 
これはどういうことか。
俺は便所の照明をもう一度点灯させてみたところ、便所が明るくなったのと同時にやはり風呂の換気扇も動き出した。
何度かかちゃかちゃやってみても同じことの繰り返し。
どうやら便所の照明と換気扇は連動しているようだ。
思わぬ発見だったが、どうして一見何の脈絡もないこのふたつが関係しているのだろうか。
考察してみると実はそこまで荒唐無稽な話でもなさそうで、というのは、便所の照明を点灯させるのはすなわち便所を使用するということであって、便所を使用すると当然悪臭が発生するので、わざわざ換気扇の動かそうとしなくても自動的に一定の時間、換気扇が動作するようになっている。
設計者のよい心意気といえよう。
実際、俺の家の便所には、換気扇のスイッチが存在しない。
照明のスイッチのみで、これが換気扇のスイッチを兼ねている。
そして、我が家では多くの家がそういう構造を取っているのと同様に、便所と風呂が隣接していて、実際に見ていないからわからないがおそらく、換気扇の先の通気孔はつながっている。
つまり、便所の照明と便所の換気扇が、便所の換気扇と風呂の換気扇がそれぞれ同時に作動するように設計されていて、結果、便所の照明と風呂の換気扇が連動しているのだ。
 
いざ風呂の換気扇を動かすことができるとわかると、さっきまで故障を完全に無視していた俺は翻って、習慣的に、風呂上がりに換気扇を動かすようになった。
トイレの照明をつけることで。
 
よかったよかった、これにて一件落着。
と言った直後、あることに気がついた俺は、気持ちが暗くなってしまった。
 
俺は風呂の換気扇を動かすために便所の照明をつけるようになってしまったわけだが、これは少し考えれば、少々気の毒なことである。
気の毒というのは、便所の照明に対して、である。
 
この家のオーナーである俺、オーナーと言っても賃貸なのでかりそめの、であるが、そうはいってもオーナーはオーナー、そんな俺にとって便所の照明も風呂の換気扇も意のままに利用できる相手であり、言うなれば部下のようなものである。
このふたつは俺に利用される立場である点で共通しているが、便所の照明と風呂の換気扇の間には、上下関係もなければ利害関係もない。
しかし、今回の発見によって、俺は風呂の換気扇を動かすために、本来点ける必要のない便所の照明を点灯させることになった、つまり、「便所の照明君、悪いが風呂の換気扇君に仕事をしてもらうために、君に仕事をしてもらうよ。君自体の業務ではないんだけど」ということをやっているのである。
便所の照明の立場からすれば、「知らんがな。なんでそんな自分で動くこともできないやつのために誰もいない便所を照らさないといけないのか」という気持ちである。
 
ここで、「家における俺」を俺の会社の上司、「便所の照明」を俺、「風呂の換気扇」を俺の職場の後輩に置き換えれば、俺がいま職場で置かれている状況と同じになる。
つまり、「知らんがな」「直接やってくれよ」ばかり言っている。
言わされている。

シーツを買いに行ったら革命を知った話

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ある日目を醒ますと、シーツの繊維がすり切れて穴が空いていた。
なぜ?と思ったが、よく見るとそれ以外の部分も布が薄くなっていて、いつ穴が空いてもおかしくない状況で、どうやらずっと使い続けている間にすり減ったようだ。
 
このシーツを買った時のことはよく覚えている。
2015年の春のことだった。
なぜ覚えているかというと、俺はその時、結婚していたにも関わらず家出をして独り暮らしをするためにワンルームの賃貸契約を締結、ベッドその他家財一式を購入したからであって、しかも同時に10年以上勤めた会社をから転職活動中、そんな人生激動の最中だったから余計に印象に残っているのだ。
いわば、このシーツは俺が第2の人生を歩み始めたころからずっと使用しており、盟友と言っても過言ではない。
そんなシーツがついに寿命を迎えてしまったのだ。
しかし、悲しみに打ちひしがれている暇はない。
なぜなら我が家のシーツは二交代制で、残ったシーツの負荷が高まってしまう。
 
俺は6年前にシーツを購入した店を訪れた。
すると、なんということだろうか。
俺が必要としているシングルサイズのボックスシーツは販売していなかった。
ダブルサイズはあるが、シングルサイズは取り扱いを終了しているらしい。
ただでさえ単身者は昨今、社会的に形見が狭くなっているというのに、こんなところでも虐げられなければならないのか、俺は絶望してしまった。
 
しかし、落胆している暇はない。
家で相方を失ったシーツが待っているのだ。
俺は新宿にある、ビックカメラユニクロが合併した商業施設「ビックロ」に向かった。
 
なぜビックロなのか、そうお思いの方もいらっしゃるかもしれない。
しかし、俺は知っている。
ビックカメラには何でも売っているのだ。
 
見込みどおり、ビックロビックカメラ部分には寝具コーナーがあって、シーツがたくさん並んでいた。
当たり前のことだが、シングルサイズもあった。
いや、当たり前と思ってはいけないのかもしれない。
当たり前の生活を享受できている俺は幸せなのだ。
 
シーツは色と素材で分類されており、ほぼ全部綿100%なのだが、同じ綿でも種類や縫い方などで質感に違いがるようで、それは価格にもダイレクトに反映され、3000円から7000円くらいの幅でいくつか選択肢があった。
こういう時俺は、一番安価なものを選べないほどには見栄っ張りで、最も高価なものを選ぶこともできないほどには貧乏性である。
しかし寝具は生活の質にとって非常に重要である。
なぜなら、人生の4分の1くらいの時間をその上で過ごすのだ。
ケチるとこではない、いや、しかしどれもそんなに差はないのでは。
俺は30分くらい悩んだ。
最初は「ご案内いたしますよ」と優しく話しかけてくれた店員さんも、それぞれの特徴を説明したにも関わらずずっと悩んでいる客に愛想をつかしたのか、どこかへ行ってしまった。
そして悩み抜いた結果、穴が空いてしまったものより厚手で長持ちしそうな5000円ほどのシーツを選択。
 
やっとの思いで決めたシーツだったが、ここでまたひとつ問題が浮上した。
家に帰れば穴の空いていない掛け布団カバーと枕カバーがあるのだが、売られているどのシーツとも色が異なるのだ。
色を合わせようと思えば、これから買うシーツと同じ色の掛け布団カバーと枕カバーも買うしかない。
シーツと合わせると1万円を超える。
違う色で我慢するべきか、それとも部屋内の色調の統一感を重視して寝具3点セットの色は統一するべきか。
ここでまた30分ほど悩み抜いて、俺はシーツに加えて掛け布団カバーと枕カバーも購入した。
 
1時間悩み続けた俺は這々の体になりながらビックロを退出しようとして、ビックカメラ階の下にあるユニクロ階を通り抜けようとしたら、ユニクロにもシーツが売っているのを発見した。
1980円、エアリズムシーツ。
もう必要なくなっちゃったけど、触ってみるといい感じ。
そういえばエアリズムってマスクもあったよな、ユニクロってやっぱすごいな、革命的だよな。
そう思いながら、さっき買った3点セットの重みを右手に感じつつ帰宅、うるる。

 

俺史上No.1のタクシー運転手さんの話

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タクシーの運転手さんとの雑談が苦手だ。

 

なぜなら、その内容といえばだいたい「タクシー運転手になる前は、メーカーで人事の仕事をしていたんですよ」といった自分語りか、「奥さんと子供に捨てられましてね」といった不幸自慢に限られる。

もしくは「芸能人のまるまるを乗せたことがあるんですよ」系のエピソード。

タクシーの運転手さんとの雑談テーマの99%はこの3種類のうちのどれかに当てはまることが、俺の独自調査によって判明している。

いずれも「知らんがな」と言いたくなるし無視したいが、そんなことをしたら2人しかいない密室の雰囲気が最悪になってしまうからそれも許されず、「ああそうですね」とちゃんと聞いていることの表示を強いられる。

まさに八方塞がりなのが、タクシーであり運転手との雑談なのである。

 

「だったらお前から話題を振ればいいではないか」という意見もあるだろう。

まさにその通りである。

物事がうまく行かないのならば、受け身に終止するのではなく自分から能動的積極的に動けばいいのであって、それをやらずに「話題がしょうもないから苦手だ」などというのは、自分勝手も甚だしい。

しかし、俺はタクシーの中においては客、自分勝手で何が悪い。

雑談をするためにタクシー乗っているわけではなく、あくまで目的地にたどり着くためのもの、しかもタクシーに乗る時なんてだいたい深夜であるからとても疲れていて、できることなら話しかけられることなくゆっくりたいのが本音なのだ。

 

そんな俺でも、これまでに「この雑談をもっと続けたい。目的地なんて来なけりゃいいのに」とまで思ったことが、一度だけあった。

 

 

たしか2011年の9月ころだったろうか。

その日は残業を終え、深夜2時ころ会社のある赤坂でタクシーを拾い、当時代々木上原にあった自宅までの帰路につこうとしていた。

東京の人ならば分かっていただけるだろうが、赤坂から代々木上原までは車で15分程度の距離である。

 

そんな短時間でも睡眠がを取りたいほど疲れ切っていた俺は、車が赤坂通りを滑り始めたことを確認して目を閉じたのだが、そんなことはつゆ知らず、運転手さんが話しかけてきた。

「お客さん、何の仕事してるの?」

「え。まあ、広告です」

「へぇー、じゃあたくさん芸能人とか見てきたんでしょう?」

「僕はその手の案件をほとんどやったことがなくて、見たことないんですよ」

「そうなの?私はね、何人か芸能人を乗せたことあるんだけど、その中で一番大物といえばやっぱり何といってもあれだよ、あの・・・」

 

ああ、またこのパターンか。

俺は落胆して、気のない相槌を続けながら、早く家に着いて欲しい、そう思っていた。

 

しかしここから、運転手さんの話題は、何の脈絡もないこの一言から、思いもよらぬ方向に急展開する。

「そういえば、今年の3月に東日本大震災があったでしょ。あれってアメリカによる人工地震だったって知ってますか?」

 

そんなトンデモ説を「日本人の3割しか知らないこと」みたいなノリで切り出されても困る。

もちろん知っているわけがない俺の眠気は一瞬にして醒めた。

 

「いやいや、アメリカがそんなことをするわけがないじゃないですか」

「そう思うでしょう。でもそう考えると全て辻褄が合うんですよ。証拠も沢山ありますし」

「どう辻褄合うんですか?」

 

俺がそう発して以降、車の中は運転手の独演会と化した。

「まずアメリカは、経済の衰退を止めるために日本経済に打撃を与える必要があったんです。それと日本に早くTPPに批准させたいって思いもあった。だからアメリカは日本と日本の原発を攻撃したんです」

福島県沖の海底に原爆を埋めこんで爆発させれば、日本にものすごく大きな地震が起こるのに加えて、原発まで津波が届く。原爆を爆発させれば放射能反応が出てしまって原爆の存在がばれてしまうんですが、原発が損傷して放射性物質を垂れ流してしまえば、原爆の放射能と区別がつかなくなるから、原爆の証拠がなくなってしまう。だから原発を狙ったんですよ」

「しかもこのアメリカの計画を、日本の菅(かん)内閣は事前に知っていたんです。両国は結託して、震災で危機的状況に陥った日本へアメリカが手を差し伸べることで、日本人のアメリカに対する好感度を上げてTPP参加への世論の抵抗を弱める、そんなシナリオまで全て出来上がっていたんです。だからわざとお粗末な事故対応をした。なんたって放射性物質を漏らさないと証拠が隠滅できないですから。まあ売国ですよ」

「原爆を埋めて地震を起こすほどまで海底の深いところに穴を掘れる機械は、日本に2つしかないんです。そのうちの1つが、震災直前に名古屋から福島に移動していたという記録が残っています」

 

俺はこの運転手の話す内容を信じていたわけではなかったが、これまでまったく聞いたこともない言説の連続にすっかり興奮してしまい、アメリカと日本の政府が企てた陰謀の全貌を知りたいと心の底から思った。

 

しかし、である。

 

「お客さんこの辺ですかね?」

 

この時ほど「家近いなあ」と思ったことはない。 

主張する内容はさておき、これほど道中を楽しませてくれた運転手は以降まだ出会っていない。

性格診断テストの野郎は俺のことを完璧に見透かして、しかもそのことを俺に言ってこないから恐ろしい

最近、インターネットで誰でも無料でできる性格診断テストをやってみた。

そして気がついたのだが、俺はこの手のテストが得意ではない。

いままで40年弱生きてきて何度も性格診断テストをしてきたが、今回初めて気がついたのは、そこに

「たとえその答えが自分で気に入らなくても、正直に答えてください」

と書かれていたからである。

 

またこの手のテストはよく

「なるべく短時間で、考え込まず、その時の印象で答えてください」

とも指示される。

これは、第一印象こそが最も正しく、時間をかけて考えれば考えるほど、「今はこんなだけど、昔はもっとこうだった」とか「本当の自分はAだけど、社会通念上Bのほうが優れているとされている気がするからBを選ぼう」とか「本当は俺はCなんだろうけど、自分は他の人からDであると思われたい」などと思いを巡らせてしまい、その結果、実態からかけ離れてしまうといったことが、経験から、もしくは統計から、判明しているからであろう。

 

上の指示に従い、俺も各設問5秒以内で答えようとするのだが、それでもやはり「俺は社会的交流が苦手だ」とか「でも得意になりたい」とか「得意な方が色々人生うまくいくに違いないってことは分かっている」とか、挙げ句の果てには「もともと苦手なのはわかってるけど、俺も最近は努力して後輩に『やあ』などと声をかけるようになった結果、得意であると言ってしまっても過言ではないはず」などと、たった5秒の中でも様々な思考が生まれてしまう。

結果、「俺はこうである」よりも「俺はこうありたい」「俺はこんな人だと思われたい」方の選択肢を選んでしまうことも稀ではない。

 

そんなことをやっているとどうなるか。

実態とは異なる選択肢を選べば、もちろん実態とは異なる結果が導き出される。

究極的には、実際は官僚タイプの人間なのにも関わらず、「あなたは芸術家タイプの人間です」なんて結果が出てしまうことだってある。

 

俺のこの手の性格診断テストをが苦手な理由は主に2つある。

ひとつは、たった5秒の間にすら自分の中に生まれる葛藤が、自分が自分自身に対して持っている印象と理想像の間にあるいくつもの乖離を可視化してしまうこと。

そしてもうひとつは、「あるタイプの人間は、性格診断テストで、実態ではなく自分が望ましいと思う選択肢を選びがちである」といったデータを、テストを作っている人たちが既に持っているのではないか、という疑心暗鬼(というかほぼ確信している)から来る。

テストの鬼畜野郎は、俺が正直に答えていないことを見透かして、でも気づいていないふりをして普通に診断結果を出しているに違いない。

そう思うのである。