「人を傷つけない政治」が実現する日
いまのお笑いに求められていると言われる、「人を傷つけない笑い」。
平成終盤までは笑いを取るために普通に行われていたいじり行為も、いまでは「それはもういじめ、誹謗中傷、差別であり、そんな方法で笑いを取ることは、差別を助長するものだから撲滅すべきだよ」「というかもう笑えないんですけど」となっているし、容姿いじりや差別的な笑いなどは即炎上、その後の活動に影響が及ぶほどの避難を浴びる時代になった。
いつの時代も笑いは世相を反映するものであるとも言われる。
だとすると、「人を傷つけない笑い」への支持が高まりは、社会全体で多様性を認め合い、誰しもが尊重されるべきだという価値観の広まりを表しているのではないだろうか。
ぺこぱのようにツッコまないことをボケとするものや、ティモンディ高岸のような全方位的に褒めたおす芸人は、まだ新しいトレンドであり少数派かもしれないが、近い将来には逆転、褒めるのが当たり前になり、真っ向からツッコミなんてする芸人は淘汰されてしまうかもしれない。
■
お笑いは全世代に向けたものであり、したがって若い世代で発生している変化を早いうちに反映しているようだが、人を傷つけないことが当然のこととして求められるようになったにも関わらず、一向にその変転を捉えられていない業界がある。
政治である。
やつらと来たら人が一生懸命考えて話している内容に対してツッコむどころか全否定、完全にディスってるし、人がマジメにしゃべっている間にあろうことか野次まで飛ばす。
「人を傷つけない」という、もはや常識である価値基準すら守ることができていないのだ。
とはいえ、政治がお笑いと違うのは、政治は若い人を対象としていない。
もちろん厳密にはこれは誤りである。
しかし、お笑い芸人は若者から受け入れられなくなったら、「収入がなくなってしまう」直接的なダメージがあるが、政治家は元々若者からの関心など得られていないからそれを失うこともないし、彼らから直接的に収入を得ているわけではないから相手にしていない、という点で「対象にしていない」。
そしてその無関心をいいことに、未だに古い価値観の蔓延を放置しているのだ。
さらにこの古い価値観が表出して行われる国会でのディスりや人を傷つける発言によって、若者は政治への関心を失ってしまうという、悪循環を生んでいる。
この構造で恐ろしいのは、現役の政治家たちが、若者が今後も政治への関心を持たないよう期待していることである。
なぜなら、若者が関心を持ってしまったら、自分は落選、失職してしまうかもしれないからである。
もしかしたら、意識的に、若者に嫌われてでも古い価値観を堅持しようとしているのかもしれない。
しかし、悲観することはない。
時間はかかっても、価値観は必ず入れ替わる。
なぜなら、新しい価値観を持った今の若者が歳を重ね、施政者になる時期が必ず来るからである。
その時は、今のお笑い界のような国会になっているに違いない。
「裏金は絶対ダメ…! とは言い切れない…俺ももらってしまうかもしれない」
「国債発行ゼロ? やればきっとできる!」
第7世代政治家は、その時の若者の支持を集められるだろうか。
「生活必需品」の定義はどこまでか問題と恐怖体験
最近、夕食難民になっている。
飲食店が軒並み20時に閉店してしまうため、仕事を終えて夕食をとろうとしても、開いている店がなく食べることができない。
コロナウイルスの影響で様々な業態の店舗が休業もしくは時短営業を余儀なくされているが、我々会社員は、リモートワークこそ可能になったものの、時短どころかコロナウイルスへの対策を万全にした上での業務遂行を求められ、その業務量は激増、時短どころか以前にもまして勤務時間は長くなっており、世間とは逆方向へ進んでいる。
世の中が時短化に向かうなら俺の仕事も時短になってほしいのだが、そうはいかず時長になる一方で、それでも24時間営業の店によって俺は不自由ない食生活ライフスタイルを営むことができていたのだが、今では食事の確保にすら苦心するようになってしまった。
会議中に議論が長引いて20時が近づいてしまい、「うわもうすぐ店が全部閉まる、もう飯が食べられない」と思っても、「店が閉まるからいったん会議を休憩して飯を食ってきてもいいですか?」なんてことは言えないのである。
そんな私の強い味方が、食事は20時で終わってしまうがテイクアウトだけは深夜も継続してくれている吉野家と、オリジン弁当と、コンビニエンスストアである。
この3本の柱をローテーションして、なんとかやりすごしている。
ごくまれにUber Eatsなどで食べたことのない店から届けてもらうといった贅沢もするものの、俺ひとりの飯のためにひとりの配達員の方を煩わせるのも気が引けてしまい、それくらいならきのうもオリジン弁当だったけど今日もオリジン弁当でいいや、となるのである。
「飽きないのか?」と問われれば、とうの昔に飽きているが、それしか選択肢がないのだから仕方がない。
「権藤、権藤、雨、権藤、雨、雨、権藤、雨、権藤」の時代に、権藤が「先発ローテーション成立してなくない?」なんてことは思わないのである。
「先発ローテーション」という概念がそもそもなかったのだから。
■
緊急事態宣言下の現在の東京では、百貨店などの大型商業施設へ「生活必需品のみの営業再開に留めるように」と要請が出されている。
しかしこの「生活必需品」という曖昧な表現が、「そうは言うけどじゃあどこまでが必需品で、どの売り場は再開してええの?」と各事業者を悩ませてしまっているらしい。
上の例にあるとおり、食品は疑いようのない「生活必需品」である。
では服はどうなんだ、観葉植物はどうなんだ、腕時計はどうなんだ、ブランドもののバッグはどうなんだ。
個人的な意見は以下のとおりである。
- 服は防寒上必要だし、服を着ないで屋外を出歩くと犯罪になってしまうため必需品といえる。じゃあ1枚1000円のTシャツと1着20万円の外套はどちらも必需品なんかい?と尋ねられたら、俺は「いやいや外套なんて3万円もあれば十分立派なものが買えるから、20万円の外套は不要でしょ」と思うが、「じゃあいくらまでが必需品の範疇なの?」という問題は、各々の懐事情や経済観念で千差万別なので一律のルールを設けることなど現実的ではなく、邪魔くさいので服はどんなふざけた服であってもすべて必需品としてしまうのが現実的な落とし所
- 観葉植物はあくまで目で楽しむものであって見なくても死にはしないし逮捕もされない、社会的な生活が維持できないわけではないので、必需品とはいえない
- 携帯電話で時間を知ることができる現代で、腕時計などもはや己の金銭的豊かさ経済力を誇示する以外の用途はなく、到底必需品とはいえない
- ブランドもののバッグも時計と同様
読者の方の多くも賛同してくれるのではないかと思っているが、ある百貨店の「一部のフロア・ショップ・催事・イベントの営業・中止・変更」に関する情報を見ると、なんとすべて今も販売しており、これらはすべて必需品であると判断しているようだ。
どうやら俺が思っていた以上に、生活必需品の範囲は広かった。
また、百貨店各社も悩んでいるようで、12日から生活必需品の範囲を見直したところもあるらしい。
「こんなの生活していくにあたって別にいらんと思っていましたが、やっぱ無いとダメでしたわ」なんてこともあるのだから、人にとって何が必要で何が不必要かなんて、これ以上ない難問なのだろう。
百貨店各社が緊急事態宣言延長後の店舗営業について相次いで方針を決めている。高島屋は10日、東京都内の4店舗で営業を続けていた食品などの売り場に加え、12日から婦人服や紳士服などの売り場も営業を再開することを決めた。東京都は12日以降も引き続き百貨店などに休業要請する。同社は「要請を受け入れて休業するが、生活必需品の範囲を見直した」としている。エイチ・ツー・オーリテイリング(H2O)も大阪府内の5店で営業する売り場を拡大する。
■
3年ほど前に一度だけ合コンで会ったきり女性から、連絡が来た。
「お久しぶりです、覚えてますか?」
飯を食っただけで何もしていないが、初めて会った日に俺の小銭入れを見て「それ素敵な財布ですね、ください」と強奪し、20時半ころには「もう眠いので帰ります」と解散、それっきり連絡が途絶えるという、少々エキセントリックな体験をした相手だったので、記憶には残っていた。
いきなり連絡してきてどうしたのかと尋ねると、「死にそうになってるから、気になる人に声をかけている」のだそうだ。
死にそうになっている。
穏やかではないではないので、その原因を聞くと、「コロナの孤独で死にそう」という返答が返ってきた。
よく「うさぎは孤独で死ぬ」という都市伝説を耳にするが、人間にとって孤独が直接的な死因になるなんてことは聞いたことがない。
やはりどこか奇矯なところがあるなあ。
そう俺は思ったが、ある人にとっては「他人との接触」が「生活必需品」になるということだろうか。
そして、もし会えば次はどんな奇抜な行動が見られるか、好奇心がないわけではなかったが、気味悪さが上回ったのでスルーすることにした。
「奇異体験」は若いころこそ「生活必需品」だったが、いまはそうではなくなってしまったのだろうか。
俺はトイレの照明だと気がついた出来事と仕事の話
シーツを買いに行ったら革命を知った話
俺史上No.1のタクシー運転手さんの話
タクシーの運転手さんとの雑談が苦手だ。
なぜなら、その内容といえばだいたい「タクシー運転手になる前は、メーカーで人事の仕事をしていたんですよ」といった自分語りか、「奥さんと子供に捨てられましてね」といった不幸自慢に限られる。
もしくは「芸能人のまるまるを乗せたことがあるんですよ」系のエピソード。
タクシーの運転手さんとの雑談テーマの99%はこの3種類のうちのどれかに当てはまることが、俺の独自調査によって判明している。
いずれも「知らんがな」と言いたくなるし無視したいが、そんなことをしたら2人しかいない密室の雰囲気が最悪になってしまうからそれも許されず、「ああそうですね」とちゃんと聞いていることの表示を強いられる。
まさに八方塞がりなのが、タクシーであり運転手との雑談なのである。
「だったらお前から話題を振ればいいではないか」という意見もあるだろう。
まさにその通りである。
物事がうまく行かないのならば、受け身に終止するのではなく自分から能動的積極的に動けばいいのであって、それをやらずに「話題がしょうもないから苦手だ」などというのは、自分勝手も甚だしい。
しかし、俺はタクシーの中においては客、自分勝手で何が悪い。
雑談をするためにタクシー乗っているわけではなく、あくまで目的地にたどり着くためのもの、しかもタクシーに乗る時なんてだいたい深夜であるからとても疲れていて、できることなら話しかけられることなくゆっくりたいのが本音なのだ。
そんな俺でも、これまでに「この雑談をもっと続けたい。目的地なんて来なけりゃいいのに」とまで思ったことが、一度だけあった。
■
たしか2011年の9月ころだったろうか。
その日は残業を終え、深夜2時ころ会社のある赤坂でタクシーを拾い、当時代々木上原にあった自宅までの帰路につこうとしていた。
東京の人ならば分かっていただけるだろうが、赤坂から代々木上原までは車で15分程度の距離である。
そんな短時間でも睡眠がを取りたいほど疲れ切っていた俺は、車が赤坂通りを滑り始めたことを確認して目を閉じたのだが、そんなことはつゆ知らず、運転手さんが話しかけてきた。
「お客さん、何の仕事してるの?」
「え。まあ、広告です」
「へぇー、じゃあたくさん芸能人とか見てきたんでしょう?」
「僕はその手の案件をほとんどやったことがなくて、見たことないんですよ」
「そうなの?私はね、何人か芸能人を乗せたことあるんだけど、その中で一番大物といえばやっぱり何といってもあれだよ、あの・・・」
ああ、またこのパターンか。
俺は落胆して、気のない相槌を続けながら、早く家に着いて欲しい、そう思っていた。
しかしここから、運転手さんの話題は、何の脈絡もないこの一言から、思いもよらぬ方向に急展開する。
「そういえば、今年の3月に東日本大震災があったでしょ。あれってアメリカによる人工地震だったって知ってますか?」
そんなトンデモ説を「日本人の3割しか知らないこと」みたいなノリで切り出されても困る。
もちろん知っているわけがない俺の眠気は一瞬にして醒めた。
「いやいや、アメリカがそんなことをするわけがないじゃないですか」
「そう思うでしょう。でもそう考えると全て辻褄が合うんですよ。証拠も沢山ありますし」
「どう辻褄合うんですか?」
俺がそう発して以降、車の中は運転手の独演会と化した。
「まずアメリカは、経済の衰退を止めるために日本経済に打撃を与える必要があったんです。それと日本に早くTPPに批准させたいって思いもあった。だからアメリカは日本と日本の原発を攻撃したんです」
「福島県沖の海底に原爆を埋めこんで爆発させれば、日本にものすごく大きな地震が起こるのに加えて、原発まで津波が届く。原爆を爆発させれば放射能反応が出てしまって原爆の存在がばれてしまうんですが、原発が損傷して放射性物質を垂れ流してしまえば、原爆の放射能と区別がつかなくなるから、原爆の証拠がなくなってしまう。だから原発を狙ったんですよ」
「しかもこのアメリカの計画を、日本の菅(かん)内閣は事前に知っていたんです。両国は結託して、震災で危機的状況に陥った日本へアメリカが手を差し伸べることで、日本人のアメリカに対する好感度を上げてTPP参加への世論の抵抗を弱める、そんなシナリオまで全て出来上がっていたんです。だからわざとお粗末な事故対応をした。なんたって放射性物質を漏らさないと証拠が隠滅できないですから。まあ売国ですよ」
「原爆を埋めて地震を起こすほどまで海底の深いところに穴を掘れる機械は、日本に2つしかないんです。そのうちの1つが、震災直前に名古屋から福島に移動していたという記録が残っています」
俺はこの運転手の話す内容を信じていたわけではなかったが、これまでまったく聞いたこともない言説の連続にすっかり興奮してしまい、アメリカと日本の政府が企てた陰謀の全貌を知りたいと心の底から思った。
しかし、である。
「お客さんこの辺ですかね?」
この時ほど「家近いなあ」と思ったことはない。
主張する内容はさておき、これほど道中を楽しませてくれた運転手は以降まだ出会っていない。
性格診断テストの野郎は俺のことを完璧に見透かして、しかもそのことを俺に言ってこないから恐ろしい
最近、インターネットで誰でも無料でできる性格診断テストをやってみた。
そして気がついたのだが、俺はこの手のテストが得意ではない。
「たとえその答えが自分で気に入らなくても、正直に答えてください」
またこの手のテストはよく
「なるべく短時間で、考え込まず、その時の印象で答えてください」
とも指示される。
これは、第一印象こそが最も正しく、時間をかけて考えれば考えるほど、「今はこんなだけど、昔はもっとこうだった」とか「本当の自分はAだけど、社会通念上Bのほうが優れているとされている気がするからBを選ぼう」とか「本当は俺はCなんだろうけど、自分は他の人からDであると思われたい」などと思いを巡らせてしまい、その結果、実態からかけ離れてしまうといったことが、経験から、もしくは統計から、判明しているからであろう。
上の指示に従い、俺も各設問5秒以内で答えようとするのだが、それでもやはり「俺は社会的交流が苦手だ」とか「でも得意になりたい」とか「得意な方が色々人生うまくいくに違いないってことは分かっている」とか、挙げ句の果てには「もともと苦手なのはわかってるけど、俺も最近は努力して後輩に『やあ』などと声をかけるようになった結果、得意であると言ってしまっても過言ではないはず」などと、たった5秒の中でも様々な思考が生まれてしまう。
結果、「俺はこうである」よりも「俺はこうありたい」「俺はこんな人だと思われたい」方の選択肢を選んでしまうことも稀ではない。
そんなことをやっているとどうなるか。
実態とは異なる選択肢を選べば、もちろん実態とは異なる結果が導き出される。
究極的には、実際は官僚タイプの人間なのにも関わらず、「あなたは芸術家タイプの人間です」なんて結果が出てしまうことだってある。
俺のこの手の性格診断テストをが苦手な理由は主に2つある。
ひとつは、たった5秒の間にすら自分の中に生まれる葛藤が、自分が自分自身に対して持っている印象と理想像の間にあるいくつもの乖離を可視化してしまうこと。
そしてもうひとつは、「あるタイプの人間は、性格診断テストで、実態ではなく自分が望ましいと思う選択肢を選びがちである」といったデータを、テストを作っている人たちが既に持っているのではないか、という疑心暗鬼(というかほぼ確信している)から来る。
テストの鬼畜野郎は、俺が正直に答えていないことを見透かして、でも気づいていないふりをして普通に診断結果を出しているに違いない。
そう思うのである。