では何なのかというと、俺の高校の同級生以外、知る由もない。
いや、同級生であっても、知っているのはそのうちのごく少数であろう。
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高校に進学して数ヶ月くらいが経ったある日、国語の先生から「百人一首のテストを行う」と発表された。
内容は明かされず、「百首すべてを記憶していれば満点が獲れる」との予告。
真面目な生徒であれば、テストの期日までにできる限り覚える努力をするのだろうが、俺はそれを行わなかった。
あまりにも理不尽すぎて、がんばってどうにかなるものだと思えなかったからだ。
「1週間練習して、150km/hの球を投げてください」と言われても、「先生、お狂いですか?」という感想しか出てこないだろう、それと同じである。
きのうの晩に何を食べたかすらもう忘れているのに、31文字×100首=3100文字もの大量の文字、しかも意味がわかるものならまだ取っ掛かりもあるが、呪文のような意味不明な文字記号すべてを暗記するなんて、常軌を逸している。
ところで当時の国語の担当の先生は、なぜか竹刀を片手に授業を行っていた。
不思議である。
傍線Aと書いた筆者の気持ちを答えるのに、明らかに竹刀は不要だ。
ではいったいどういう用途なのか。
それは主に授業中におしゃべりをしている生徒をしばくことに用いられていた。
そしてテストの後には、成績が著しく悪かった生徒をしばくことにも用いられていた。
令和の今ならアウトだろうが、平成が始まってまだそれほど経っていなかった当時では、よく見られる光景だったのかもしれない。
俺は、無理難題に挑戦する無駄な抵抗を避け、あの竹刀でしばかれることを選択した。
どうせみんなしばかれるだろうし。
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テスト当日。
俺が所属していたA組は、その日の国語の授業があるのはD組に続いて2番目だった。
これはもしかしたら超幸運、僥倖かもしれない。
すなわち、D組の誰かから終わったテストの問題用紙を入手し、次のコマまでの10分間に模範解答を作成、暗記すれば、満点には至らずともそこそこの及第点を獲得、ひいては竹刀でしばかれることも回避できる。
問題用紙を見て、俺はにわかに色めき立った。
問題の形式が俺にとって理想に近いものだったからである。
上の句が15首分、その下に同じ数の下の句があってそれぞれにア~ソの記号が割り振られていて、上の句と下の句の組み合わせとして正しいものを記号で回答する。
この大問が2問。
100首のテストなのに、1首分の文字で済むではないか、なんということでしょう。
これが例えば、「この上の句に続く下の句を書きなさい」などといった問題であれば、いかに事前に問題を把握していたとしてもテストが始まるまでに答えを覚えることは現実的ではなく、即座に0点が確定していたところだった。
もちろんD組とA組で問題が異なる可能性もあったが、俺は使いまわしの希望にかけ、残りの5分間、ひたすら唱え続けた。
エコカアサウケセクイソキスシオ クシキオエケセアウスカコソイサ
エコカアサウケセクイソキスシオ クシキオエケセアウスカコソイサ
エコカアサウケセクイソキスシオ クシキオエケセアウスカコソイサ
エコカアサウケセクイソキスシオ クシキオエケセアウスカコソイサ
………
「5分間だけ覚えていられればいいや」
そう思っていたこの無意味な文字列を、20年以上経った今でも記憶しているのだから、不思議なものである。
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先日、仕事で週1回ほど訪れる新橋を歩いていると、ついこの間まで別の店だったような気がするところに立ち食い寿司の店があって、初めて見たしどんなもんか試してみたろ、と、入店した。
寿司に限らず立ち食いの店は、客は長い時間を立っていたくないから回転率が高いだろうし、接客サービスの質を落としてその分の人件費を原価にかけているだろうことから推測して食材のクオリティが高い感じがなんとなくするから、価格の割に美味そうに思えて好きである。
ところで、寿司職人という人たちは、総じてあるものすごい能力を持っている。
それは寿司を握る技術のことではなく、いや、それはもちろんだが、俺がここで言及するのは彼らの記憶力だ。
例えば俺が「えー、小鰭と芽ネギと穴子」と注文して、直後に隣の客が、「私は漬けまぐろと赤貝と昆布締めの鯛を」と言って、またその隣の客が「じゃあ僕は〆鯖と鰹と玉子」と立て続けに発しても、職人はもう一度聞き返すことなく、ちゃんと依頼されたネタを握る。
しかもメモを取ることもせず。
これは驚異的なことである。
いったいどんな修業をすれば、このような資質が備わるのだろうか。
しかし、この立ち食い寿司の職人さんは、俺の注文を握っている途中で必ず忘れ、聞き返してくる。
覚えられないのならメモすればいいじゃん。
俺はそう思うが、この「メモに頼らない」姿勢も、きっと修業で身についた姿勢なのだろう。
トロたくを食べながら、「エコカアサウケセ…」と、俺はつぶやいた。