勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

40にして怒ることができなくなり、その結果、企画ができなくなって困っている

吉田正樹は「怒りの企画術」という著書の中で、「怒り、嫉妬、鬱憤の感情こそが、数々の成果をあげたきっかけになった」と述べていた。
小田嶋隆の著書には、「コラムニストの最も重要な日常業務は『余計なことを言う』ことである」という一文があった。
 
 
人生を開始してもうすぐ40年が経とうとしている。
「十年一昔」という言葉があるが、この10年間で、自分の中から怒りの感情がすっかり失われてしまっていることに気がついて、愕然としている。
 
出前館で注文したものが予定の到着時刻を大幅に過ぎているのに届かないと、昔は「なんぼ待たすんじゃぼけが」と怒鳴り散らしていたが、今では「まあ混み合ってるんだろうし仕方ないよね」、混み合ってなかったとしても「足元が悪いから時間かかるよね」、足元が悪くなくても「まあ配達員さんも気分が乗らん時もあるから仕方ないよね」と思う。
 
店に行って期待したサービスを受けられなかった場合は、かつては「そしたら誰にでもわかるように目立つ場所にデカデカと書いとけやこのカスが」と、店員をその場で呪っていたが、今は「気が付かなかった俺のほうが悪いよね」と思うようになった。
 
仕事で気が狂った上司や部下、取引先から理不尽な言葉を浴びせられても、「狂ってるから仕方ないよね。狂ってしまうような出来事にかつて見舞われたんだろうね」という思いが先にくるようになった。
 
電車を待っていて後ろに並んでいる人から順番を飛ばされると、これまでなら、本人に直接言わないまでも、「おいお前、なに順番抜かしとんねんこらわれ。車両とホームの間に嵌って死ね」と心の中で呪詛的な言葉を繰り返していたが、今や「急ぐ理由があったんだろうな」とか「ドアが開いてからの反応がいいですね」とか思ってしまうようになった。
 
Twitterで、どう見ても社会的に害悪な思想を撒き散らしているアカウントを発見したら、「こんなやつ世の中に必要ない」と思っていたが、今では「必要あるかないかなんて関係なく、この人から見たらこの考え方が世の中のすべてなんだし、そのような考えを持つ原因となった事件があったんだろうから、まあ仕方ないよね」と感じるようになった。
 
ニュースで凄惨な事件を見ても、「こんなやつ許されるわけないだろ何考えてるんだこら」と憤っていたが、「こいつも悪いけど、生まれながらにして悪いやつなんていないし、何かの出来事があってこういうことを起こすようになってしまったのだろうから、こいつだけが悪いわけじゃないよね」という思いが先にくるようになった。
 
そう考えるようにした、というよりか、気がつけば自然とそうなっていた。
 
 
理由は分からないが、怒ることができなくなってしまった俺は、企画ができないし、俺が目指すところのコラムニストに成ることができないではないか。
なんということだ。
この上なく腹立たしい。